第6話
それからは毎日のルーチンに時々リリヤンの講義が加わった。
講義の内容は雑多で、最初の日のような神話紛いの歴史を語るだけの日もあれば、礼儀作法を教える日、暦や天衣にとっての重要な行事を教える日もある。
前後の講義と内容が繋がっているわけではないようなので、僕とイェンは気が向いた時に顔を出す程度に留めている。
ある日の運動の時間、例の電車ごっこだけでは体力を持て余していたイェンの為に、鬼ごっこを提案してみた。
ヅァンたちは走るという動作そのものが未体験の者も多いらしく、僕たちの鬼ごっこを不思議そうに眺めている者はいても、積極的に混ざろうという者はいなかった。
そもそもこの中庭での運動自体、やっと寝たきりから回復したような者がするものであって、遊びの意味合いで勤しんでいるヅァンは皆無と言っていい。
走らせてみて分かったが、イェンはかなり足が速い。僕が遅いのも相まって、遮蔽物もなく大した距離を取れない中庭の中では一瞬で追いつかれてしまう。
「シゼルつーかまーえた!」
「げぶっ」
しかも体重差がある為、イェンのタックルをまともに受けると僕の身体は吹き飛んでしまう。
何度か吹き飛ばされたのち、イェンは僕が吹き飛ばないように地面に抑え込むという技を覚えてくれたわけだが、どちらにしろ食らうダメージは甚大だ。
「ね、ね、シゼル。ボク、上手につかまえたから、かわいい?」
「うん……か、かわいい……かわいいから……ちょっと離れて……」
イェンはかわいい顔をして重戦士系だ。
走るのが速いというより、自重を使って前に倒れているというのが近いかもしれない。
その代わり持久力はないようで、足は遅いけれど体重が軽くて疲れにくい僕との勝敗はフィールドに大きく左右される。
つまり十分な距離さえあれば僕にも勝ち目はあるはずなのだ。たぶん。
仰向けに寝転がって空を見上げた。
こうして切り取れば、空の色も雲の形も前世となんら変わりがないように見える。
「……イェンは盾とか持ったら強そうだよね」
「タテってなに?」
「ええと……守る為の武器、かな」
「ブキってなに?」
「戦う為の道具だよ」
「…………」
急に黙り込んだイェンを不思議に思って半身を起こす。
イェンは膝を抱えたまま、何かを睨むように視線を固定していた。視線の先を追ってみるが、踏み鳴らされた固い地面があるだけだ。
「イェン?どうかした?」
「………ボク」
「うん?」
「ボクは、かわいい、から。次はタテ、もつよ」
「……や、鬼ごっこで盾持って突進されたら死ぬからね?」
イェンに何かを教えると斜め上解釈の末、突っ走られて僕の身が持ちそうにない。
今後は与える情報を吟味すべきなのか。考えたところで無駄だと諦めるべきか。
「……………」
カラリと乾いた暖かな風が吹く。
この国の暦は一年を六つの季節―春、暖かい夏、熱い夏、涼しい夏、秋、冬―に分け、さらにそれを『根』『幹』『枝』という呼び方で三等分して十八ヶ月としているそうで、今日は春の根の十七日にあたるらしい。
今は過ごしやすいが、暦の上からでも夏の長さが見て取れるように、この国は恐らく赤道に近い地域なのだろうと思う。大地が丸ければの話だけれど。
ちなみにひと月は大体二十日だそうなので、一年の長さは地球とほとんど変わらないようだ。
僕はふと気付いて中庭を見回した。
そういえば、手入れなどをしている様子は一度も見たことがないのに、剥き出しの地面には草一本見当たらない。
こんなに温暖な気候なら、普段から踏み固められているような場所はともかく、壁沿いの端のあたりに雑草のひとつくらいは生えていそうなものだ。
意識して探してみると、宿舎から最も遠い外壁の隅に短い草を見つけた。
花も何もない草で、葉の形はスズメカタビラに似ているように思う。
僕は雑草を引き抜いて、髭のような細い根に絡みついた土を手のひらの上でパラパラと弄んでみた。
(スズメカタビラってイネ科だよな……?)
領内への穀物の持ち込みは禁止されていると聞いているが、野生している動植物を食用に採取したりもしていないのだろうか。
院に来た日に乗った牛車を引いていた動物も、どうやらここの家畜というわけではないらしく、あの日以来姿を見ていない。
(ここの人達、本当に水とミルガしか口に入れてる気配ないんだよな……)
けれど何百年もそんな生活が本当に可能なんだろうか?
木から生まれた御使いの子孫だからそういうものだと言われればそれまでだけれど。
「シゼル、何してるの?」
「んー……なにか、ミルガ以外に食べられるものないかなって」
「それ食べられるの……?」
イェンが僕の手元を覗き込んできた。
運動したからか、イェンの髪から少し汗くさい香りがする。
イェン以外のヅアンたちはあまり体臭がしないので、天衣と王国民では新陳代謝にも違いがあるようだ。
「どうかな。毒がないか確かめてからでないと口には入れられないけど、やり方次第で食べられなくはないと思うよ。美味しいかどうかは別として」
「どうやって確かめるの?」
「ええと……例えばこうやって部位ごとに分けて……」
僕が簡易パッチテストをしようと根と葉を分けた時だった。
握り込んだ手の中に何か違和感を感じて広げると、先程の雑草の周囲に蜘蛛の糸のような細くて白いものが絡まっていた。
「え、何これ……?」
「えっえっえっ」
引きちぎった時に断面から粘性の汁か何かが出たのだろうか。
根にも葉にもそれらしい痕跡は見当たらないのに、絡まる糸を取ろうと手の中で転がすたび糸は増えていく。
「……どこから出てるんだ?」
いつの間にか雑草はすっぽりと糸に覆われて、白い繭のようになってしまった。
くりくりと丸い目を大きく見開いて、感心したようにイェンが言う。
「そ、そうして食べるの……?」
「ちがうちがう。こんな風になるなんて僕も思わなく――」
否定しようと首を振った瞬間、ずるりと体が引きずられるような感覚に陥った。
目の前が暗くなり、明るくなり、暗くなった。
動けないまま夜が更けてしまったのだろうか。
やがてまた朝が来たのが分かった。
何も見えず聴こえないのに、体全部で朝の日の光を感じ、水気を含んだ夜の空気が手に取るように身近だった。
何日も何日も経ったと感じた。日が昇り、日が沈む、たったそれだけなのに、とても濃密な時間を過ごしていると思った。
気の遠くなるような長い一瞬、生まれて死ぬまでを追体験するような感覚に襲われた。
ある日それは唐突に終わりを迎える。
痛みも何もないけれど、体が引きちぎられ、日常が終わったのが分かった。
そして、僕は死んだ。
そう思った。
「――ル?シゼル?」
ガクリと体が痙攣し、僕は“シゼル”に戻った。
心配そうに覗き込んでいるイェンの顔がとても懐かしく感じる。けれど幼女らしい顔つきは記憶の中のイェンと寸分変わらない。
「シゼル、だいじょうぶ……?」
「う……ん」
「さっきの、どうしたの?」
「さっき……?」
なんだったか。何日も経ったような感覚のせいで、直前のやり取りが思い出せない。
「手に持ってたの、なくなっちゃったね」
言われて、自分の手へと視線を移した。
けれどそこには何もない。幼児の白くて小さな手があるだけだ。
僕の手はこんな形だったろうか?
もっと大きくて指も長かった気がする。
(目線だってもっと高くて……いや逆だ。もっと低くて、空は高くて、空気は………いやちがう。ちがうちがうちがう)
「僕は、だれだ……?」
この問いかけには、すぐに答えが返ってきた。
「シゼルだよ。君はシゼル」
「……そっか。そうだね。ほんとにそうだ」
思い出してみると、何故混乱していたのか不思議なくらいだった。
そうだ。さっきまで雑草を手にイェンと話していたんだ。
どうにかして食べられないかとか、毒がないか確かめないととか。
あの雑草はどこにいったんだろうか。
ぼうっとしている間に風に飛ばされたのかもしれない。
「……シゼル、へんだよ。さっきの食べちゃったの?“どく”があったの?」
「ん?食べてないよ。毒は分からないけど」
「どく、食べちゃやだよ……」
「うん。気を付けるね。ありがとうイェン」
なんだか異様に疲れを感じて、その日はよく手を洗って寝床に引き籠った。
なんだか一気に老け込んだような、赤ん坊に戻ったような。最初に“シゼル”として目を覚ました日の、自分の肉体への違和感を思い出す。
けれど相変わらず夕方にはきっちりとミルガが配られ、食欲のなかった僕はイェンにちぎったミルガを口に押し込まれつつ眠りについた。
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