第3話

ヅァニマ院の一日は各々の成長進度によって大きく異なるという。

ほとんど寝たきりのようなものもいる中で、比較的我が強い者は、常に忙しく動き回っているようだ。

僕も院に着いて早々、アンバに教えられながら年長組が井戸から汲んで来てくれた水を部屋の水瓶に移し替えたり、オマルの中の汚物を捨てに行ったりした。

もう少し院に慣れて来たら中庭で運動したりリリヤンの講義を聴きに講堂に行ったりしてもいいそうだ。


基本的に食事は朝と夕の一日二度。自分で食事が摂れる者は食堂のような場所で集まって食べることも出来るらしいが、大抵の者は入院したばかりの者の介助をしながら片手間にパンを齧る程度で済ませると聞いた。

ここのパンは見た目がナンのように平べったい。見た目は手のひらサイズのナンなのに、餅のような食感をしたそのパンは、“ミルガ”と呼ばれているらしい。

ほとんど味がしないこのミルガだが、前世で“母さん”に参加させられた“汚染食物の毒素を洗い流して高次元へアセントする為の土食キャンプ”の食事に比べれば随分食べやすくてありがたい。

ちなみに、天衣領では領内で穀物を作ることが許されていないとアンバは言った。

ミルガも生地をカチコチに乾燥させたものが領外から持ち込まれ、施設ごとに配給されたのち各自の厨房で茹でたり焼いたりして振る舞われるそうだ。

咀嚼が難しい者たちが食べているお粥はミルガをドロドロになるまで茹でたものなのだとアンバが言っていた。


最初の日の夕食時、僕には二枚のミルガが配られた。

食事が一度になってしまう日でも、ミルガは一人に一日二枚配ると決まっているんだそうな。

一枚を食べたのち、もう一枚を持って寝床へ戻ると、隣の寝床の上でイェンが丸くなって啜り泣いていた。

僕はイェンの傍に寄って、驚かせないよう出来るだけ小さな声で囁いた。


「大丈夫?お腹空いてるの?」


ひっくひっくとしゃくり上げていた背中がピクリと震え、おそるおそるこちらを振り返る。


「……シ……シ……………」

「シゼルだよ」

「シゼル………」

「うん。良かったらこのミルガ食べる?そんなに泣いてたら、お腹すくでしょ?」


僕がミルガを差し出すと、イェンはぽかんと口を開けて動きを停止した。


「………………」

「…………………」


しばらく見つめ合ったのち、僕が差し出したミルガと自分の腹を交互に見て、長い睫毛をパチパチと瞬く。


「泣くと、お腹がすくの……?」


相変わらず声は震えていたけれど、今までで一番はっきりと意思の疎通を感じる返しだった。

僕も頷いて返す。


「すくと思うよ。涙はほとんど血と同じものなんだって。だから、泣いた分だけ食べて血を作らなきゃいけないんじゃないかな」

「…………どうしてそんなこと知ってるの」

「え…っと…」


こんな雑学にもならないエセ科学話でも“前世の知識無双”的な効果を発揮してしまうんだろうか。

露呈したのが子供の前で良かった。

大人に僕の記憶が金になると目をつけられたら、売り飛ばされたり担ぎ上げられたりしそうだ。少し気をつけよう。


「僕の育った宮でそんな話をしている人がいたんだよ」

「そ、そうなんだ……シゼルはかしこいね……」

「そんなことないよ」

「………」


まだ何か尋ねたそうな雰囲気に、じっと言葉を待つ。

長い長い沈黙の末、イェンは口を開いた。


「……“かわいい”って、どういう意味?」

「ん……?」

「シゼルはわたしをかわいいと言った。“かわいい”は、どういう意味のことば……?」


気をつけようと誓ったそばから失態が発覚してちょっと呆れてしまう。

イェンが発音したのは、日本語の“カワイイ”だった。つまり、僕はイェンやアンバの前で咄嗟に日本語の形容を口走ってしまっていたのだ。


「あー……“かわいい”は……僕が知ってる人が使ってた言葉で……」


“かわいい”は、愛らしいとか、幼いとか、庇護欲をくすぐるとかだろうか?

どれにしろ、ここの言葉で表現するのは難しい。

イェンが待てを言い渡された仔犬のようにじっとこちらを見ている。

僕はなんとか記憶を捻り出した。なんと発音していたろうか、銀髪のアナエラが僕を通り越して誰かに言った言葉。

確かそう。


「………“愛してる”」


声に出してしまってから、これはさすがに違うなと思い、言い直す。


「“かわいい”は、愛したくなる……愛して守るだけの価値を感じる……というような意味、かな?」


今度こそぽっかりと口を開けて、イェンが固まっている。

僕は動かないイェンにふたたびミルガを差し出した。

視線がミルガに移り、イェンの腹がぐぅと鳴った。


「どうぞ。イェンはかわいいから、ミルガをあげる」

「……かわいいと、ミルガをもらえる?」

「いつでもじゃないけど、そういうこともあるね」


たしか“かわいい”には“可哀そう”という意味もあったはずだ。

ありがたいことにこの体はあまり空腹を感じない。ミルガは今、僕よりもイェンに必要だろう。

僕の手から恐る恐るミルガを受け取ると、イェンははむはむとかぶりついた。


「よく噛んで食べた方が、長くお腹が空かないよ」

「!」


イェンは感心したように何度も頷いて、それからゆっくりと口の中のものを咀嚼した。

よほどお腹が空いていたらしい。


(それにしても……)


間近に見ることで確信した。やっぱり、イェンの顔立ちはほかの天衣アマニエと明らかに違う。

前世の基準から言えば、天衣は誰も彼も皆整った顔立ちをしている。けれどなんというかそれは、人形のような作り物めいた美しさなのだ。

それに比べると、イェンは人間的で安心できる造形だった。目鼻立ちはハッキリしているけれど作り物めいた尖った感じがしない。肌も他のヅアンに比べると健康的な色をしている。

おそらく天衣ではないのか、もしくは天衣と他の種族の混血ではないだろうか。


(ひょっとすると、少食で腹持ちが良いのは天衣の体質で、一日パン二枚の生活はイェンにはかなり辛いんじゃ?)


と、僕が思い悩んでいたところに、配給後の見回りをしていたアンバがやって来ていた。


「おやおや?珍しくイェンが泣いてないね。どうかしたのかい?」

「お腹が空いてたみたいだから、僕のミルガを一枚あげたんです」

「え?それじゃ、シゼルはミルガを一枚しかもらってないことになってしまうよ?」

「一枚でお腹いっぱいなので」


僕は当然のようにそう返したが、アンバはふるふると首を振った。


「だめだめ。そういう時はね、少しちぎって残りをあげるんだ。そうすれば、どんなに量が少しでもちゃんとシゼルが二枚もらったことになるだろう?」

「……?一日二枚もらうということが大事なんですか?」

「そうだよ。王は二枚のミルガを与えたもうて、天衣は千年の王国を王に約束したからね」

「はぁ……」


そういう文化なのだと言われたら従う他ない。

僕とイェンはお互い顔を見合わせると、イェンの齧りかけから少しちぎって僕も食べた。

それを見たアンバも満足そうに頷く。


「よしよし。それにしても、イェンにも二枚配ったのにどうしてお腹が空いたんだい?イェンも誰かにあげてしまったとか?」


純粋に不思議そうなアンバに、イェンは首をすくめてこちらを見た。


「足りなかったみたいですよ。たぶん、イェンはたくさん食べないとお腹いっぱいにならないんだと思います」

「……? 二枚配ったのに、足りないのですか?」


急に敬語になって首を傾げたアンバに、僕の方こそ困惑する。

なにか話が噛み合わない。

アンバにとって大事なのは、腹にたまる量ではなく“一日二枚”という慣習の方なのだろうか。


「ええと、イェンには大きめのミルガがいいんじゃないかと思います」

「へぇ、大きさかぁ!大きいのは食べるのに時間がかかるから新入りの部屋にはあまり回さないんだけど、イェンは本当に大きいのが良いのかい?」


問われて、イェンは遠慮がちに頷いた。

アンバは感心したように息を吐いている。


「わかった!明日は大きいのを選んであげよう!」

「お願いします。だってさ、良かったねイェン」

「う、ん…!」


僕のあげたミルガの残りを大事そうに両手で包んで、イェンは頬を赤らめた。

円滑に事が運んだのは良かったけれど、僕はアンバの反応が引っかかっていた。

まるで腹が減るからミルガを受け取るのではなく、ミルガを受け取っていない状態を便宜上“腹が減る”と呼んでいるような……

一日にたったのパン二枚という食料事情のわりに配給の際も我先にという雰囲気が一切なかったのは、たんにお行儀が良いという話でもなさそうだ。

やはりこの体が特別少食なのではなく、天衣という種族の特性として異常に燃費が良いらしい。

あと、これは僕の体感でしかないのだけど、この体は体積に対して体重が軽すぎる気がする。

最初はこの惑星の重力が軽いのかと思ったけれど、水瓶などが軽々運べるということはなかったし、よく分からない。

天使の抜け殻を自称したくなるだけあって、天衣の体は色々と特殊なのかもしれない。

苦い記憶のある僕としては、別の世界の知識があるような言動は出来るだけ控えていきたいところだが、生き物としての感覚にあまりズレがあると、色々とボロを出しそうだ。

どうやらイェンは純血の天衣ではないようなので、今後大人の前で天衣の感覚としておかしな事を言ってしまった時はイェンがそんな様子だったとでも言っておこう。


イェン、ごめん。と心の中で謝っておいた。

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