第4話:蛙化現象
六日間ぶっ通しで雨が降っていた。
え。本当に?
いくらなんでも降りすぎじゃない? 本当にいつ止むのこれ。天気予報では今日止むとされていたのに、結局退勤する時になっても雨は止んでいなかった。
というか今日も残業だった。完全にスケジュールが詰まってる。
せめて定時に上がれれば洗濯機を回す気くらいは出るのだけど。日が落ちてからではそれも億劫だ。
雨の中、洗濯物を抱えてコインランドリーまで行くのも大変だし。
アイリに頼んで、昼間にやってもらうという手も考えたけど。彼女が素直に了承するとも思えないし、ヤル気になってくれたとしても、私の服を任せるのはそれはそれで不安がある。
モヤモヤするし、ジメジメする。頭の中にカビが生えそうだ。
残業が続いて、肉体的にも精神的にも疲労がたまっているのだ。こういう時は、頭で平気だと思っていても何処かしら不具合が起きる。感情のコントロールが上手くいかなくて、不必要にネガティブになったり、逆に興奮してしまいがちだ。
……と。そんな風に。考える。ことにして。なんとか保とうとしていたのだけど。
「おかえり。どうだった?」
「オアアアアア!!!!」
部屋で待っていたアイリの顔を見た瞬間。なんか全部が無理になってしまった。
いいや。アイリの顔のせいではない。タレ目が相変わらず眠そうだが問題はそこじゃない。
問題は部屋の壁。その西側。天井付近から斜めに大きな亀裂が走っていて、壁紙が大きく裂けている。はがれている。
「……最初からこうだったぜ?」
そんなわけないだろ。
その言い訳が通用するのは小学生までだ。
私はその場で鞄を放り出し、手を洗うことも忘れ、アイリに向かってドロップキックを仕掛けた。
しかしアイリはこれを半歩踏み込んで躱す……と見せて思い直し、空中で私の体を捕らえると、くるりと受け止めて、そのまま私を静かに床に下ろした。
「今のキックは危ない。オレが躱してたら、ユウの方が床に叩きつけられて怪我してたぞ」
「知らない! 人が残業で疲れてるのに何してるのよあんたは! 留守番もできないの!?」
「だからこれにはワケがあって……」
「何をどうしたらこんなに壁が裂けたりするのよ!」
もちろんそんなことで私の怒りが収まるハズも無い。
というよりむしろ、アイリの落ち着いた口調や丁寧な対応が余計に気持ちを苛立たせてくる。私の気持ちが無視されているような気分になってくる。
ああ違う。そうじゃない。そうであってはいけないのに。
アイリは。私の母親ではないし。恋人でもないし。友達ですらない。
ただいきなり現れて、居候してきた、ただのフーテンだ。
何かを期待してはいけないのに。理解を求めてはいけないのに。そんな筋合いなんてどこにもないのに。
「……もういい」
その後もアイリは何か言っていた気がするが、私は無視した。
イライラしていた。
とりあえず考えてはいけない。問題から離れなければいけない。
だから私は玄関の傘を取り、帰ってき早々にアパートを飛び出すハメになってしまった。
「うう……」
悪いのはアイリの方だ。何をしたかはわからないが、確実に何かした。
一方で私は、そのアイリのせいで少しおかしくなっているのを感じる。プライベートな空間に他人を置いている状況そのものが、ストレスになっているのだ。
だったら、最初から泊めたりしなければ良かったのだけど。
それなら、おかしくなっていたのは最初からなのか。
「ダメだダメだ……これはダメ……」
違うし。そういうのじゃないし。
ずぶ濡れになって訪ねてきたかつての知人を、追い返す方が心苦しかったのだ。アイリは自分からは何も話はしないが、それでも何らかの事情があるのは見て取れる。
犯罪とかに巻き込まれていたら困るけど。
あいつなら。居候くらいはさせてやってもいい。それくらいは、常識の範囲内であるはずだった。
「……よし」
とりあえず、疲れてお腹が減っているのが良くない。
今晩は家の冷凍食品を食べようかと思っていたが、予定を変えよう。コンビニにでも行って、弁当とかお菓子とかお酒を買い込もう。
コンビニなら、歩いても五分の距離にある。傘で片手は塞がっているが、片手でもなんとかぶら下げて帰ってみせようじゃないか。
街灯の明かりが煙る夜道を、そそくさと歩く。
雨は。霧雨になっていたが、まだまだ止んでいない。
もうじき夏だというのに、半袖では肌寒いくらいに空気が冷えて、湿っている。こういうのもいい加減、うんざりする。
だから。煌々と光る緑色の看板を見つけると、自分でも不思議なくらいほっとした気持ちになった。
何日も雨が降り続けても、あくまでコンビニはコンビニだったのだから。
自動ドアに迎えられて、私は店内へ足を踏み入れる。
他の人がどうなのかは知らないが、私は買う物を決めてからお店に入るタイプだ。
コンビニは都市生活のオアシスではあるが、同時に資本主義の傀儡である。一歩店内に踏み入れた瞬間、店内放送から陳列棚から液晶画面から、ありとあらゆる広告が私の視覚聴覚嗅覚にぶつかってくる。
これほどに煌く情報の渦に飲まれてしまっては、人は度々『自分が何をしに来たのか』すら忘れてしまう。そしてそうなったが最期、資本主義の下僕として我々は後悔に満ちた消費を強いられるのだ。
気をしっかり持たなくてはいけない。
私はただお腹が空いていて、お菓子も食べたくて、そして少しのお酒があればいいのだ。
……あ、でも新作スナックある。買っておこう。
というわけで、まあ、一周二周と店内を廻って、カゴいっぱいに商品を詰めて。しかし流石に買い過ぎだと思い直していくつかを戻して、私はレジを待つ列に並ぶ。
カゴの中には、野菜弁当と、スナック菓子と、ビールが数本。
アイリはあまり食べ物を食べない。鍛錬なのか何なのかは知らないが、特に夜は何も食べない。あのスタイルや筋肉を維持するのにも、彼女なりの食事管理が必要なのだろう。
その代わり。酒は好んで良く飲むけど。もしかして、酒のカロリーで生きているのだろうか。
――次の方どうぞ。
店員に呼ばれて、自分の番が来たことを知った。
レジの前に進んで、商品を店員に出そうとして。
息を飲んだ。
「……え?」
店員の顔が。カエルだった。
ああ、違う。厳密に言うとカエルではない。
右手と左手の指を組んで『カエル』を作ったことはあるだろうか?
薬指の爪が瞳になり、中指がまぶた。人差し指が上あごになり、親指が下あごになることで作れる、指のカエル。
それだ。
レジの向こうにいる店員の顔が、それになっている。
バカな。
周りを見て、しかしさらに混乱は深まった。
店にいる他の客も。雑誌を読んでる中年男性も、スイーツコーナー物色する女性も、食玩コーナーで吟味している青年も……他の客も皆、頭が『指のカエル』になっていた。
――商品をどうぞ。
店員が促してくるが、私は動けない。
だってそれは人間の顔ではない。カエルの頭でもない。ただの指で、しかし人間の頭を作れるほどの大きな手は人間に生えてくるわけがない。
喋ったり、見えたり、考えたりするわけがないのだ。
ヘビに睨まれたカエルのように。
私は。動けなくて。
「……失礼。こっちも同じ会計でお願いします」
ことん。
私の背後から手が伸ばされて。
レジの上に、ウイスキーのボトルが一本置かれた。
「お預かりしまぁす」
はっと我に帰ると、レジにいる店員は人間の顔をしていた。眼鏡をかけた男性だ。
ウイスキーのラベルにあるバーコードを、手慣れた手つきで拾っている。
私も、手にしていたカゴをレジの上に置いた。
「ビールは飽きたから、ウイスキーがいいな。せっかくだからラスティネイルを作りたいんだ」
「アイリ……」
振り返って、見上げる。
首が痛くなる角度。
シャツと、スカート履いた。まあ薄着ではあるけど、流石に全裸ではないアイリがそこにいた。
そして勿論。アイリも、店内の他の客も。頭がカエルになってたりなんかしなかった。
その後は、アイスクリームも買わせてもらって。
アイリに傘と荷物を任せて、アイスを舐めながらアパートに帰った。
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