第3話:左手
五日間ぶっ通しで雨が降っていた。
相変わらず仕事は残業で、帰宅は日没の後。
雨は弱まっているような気がするし、そうでも無い気がする。こうなってくると雨のことを考えるのもイヤになってくる。
そろそろコインランドリーで洗濯物を乾かすことも考えなきゃいけないかもしれない。
「なあ。このギター、弦が一本切れているんだが……」
部屋に帰ってくると、アイリは相変わらずそこにいて。
胡坐をかいて床に座り、エレキギターを膝にのせていた。
と言っても、電源にもアンプにも繋がってはいない。私の部屋には既にそんなものはないし、ギター自体も四弦が切れたままになっている。使い物にはならないだろう。
「そりゃそうでしょ。切れたまま変えていないからね……」
私はいつものように手を洗ってから部屋に上がり、アイリの前に足を流して座る。
アイリは、昨日の注意を少しは聞いてくれたのか、ぱんつは履いてくれた。どこにでもあるような黒のボックスショーツだ。妥当な判断だと思う。
けれど相変わらず上半身は裸だ。不作法にも乳房をギターの胴に乗せている。それはそんな風に使うものではない。
「どうして? 昔は、毎日弾いていたじゃないか」
「あんたと、まだ友達だった頃の話ね……」
あの頃。五年前だったか。
アイリと知り合って、交流があった時期の事だ。アイリは。ある年の冬が終わる前に現れて、そして夏が始まる頃に去っていった。
思い出の中ではずいぶん長い間アイリと話していたような気もするけど、実際には半年にも満たない短い時間だ。
その頃の私は。確かにギターを弾いていた。
ライヴハウスにも出入りしていて、いくつかのバンドで助っ人に入ったりもしていた。人よりちょっと器用で、リズム感があって、自信もあったのだ。
「なんか古い歌とか小説に曲つけて弾き語ってたよな。あれ面白かったのに」
「曲はともかく、歌唱力は全然評価されてなかったけどね……楽しかったからいいんだけどさ」
「楽しかったなら、なんで今はやってないんだ?」
「あー……」
目を逸らす。
アイリから。ではなくて、自分自身から目を逸らす。普段は見ないようにしている、思い出さないようにしている失敗と挫折の話だ。
「言い難いなら、言わんでもいいが……」
「ううん。どっちかって言うと、聞いて欲しい。もう済んだことだしね」
意を決して。話を始める。
愉快な話ではないが、だからこそ、アイリには聞いて欲しかった。
事の発端は、アイリが去ってから数か月過ぎた頃。11月の秋の頃だ。
私はいつものようにギターをかついで、自転車で街を走っていた。
その頃は、度々助っ人として参加してるバンドがあって。そのバンドから、今度は正式なメンバーとして参加してくれないかと、誘われていたのだ。
まあ。まあ。そうは言っても。それは単にどこにでもあるようなインディーズバンドの、誰でもいいような勧誘でしかない。とはいえ必要とされ、認められていたことは確かだし、頭では冷静になろうとしていても、心ではどこか浮ついていた部分もあるかもしれない。
こんな自分でも。
居て良い場所があるのだと。
そこは。線路の下を通る小さなトンネルだった。
別にそれ以上のことは無いし、その時期なら毎日通ってるようななんでもない場所だった。
けれど。その日に限って。後ろからトラックが私を追い越してきて。
そして。背中のギターケースが引っかかって。バランスを崩して。
皮肉だったのは、事故の原因でありながら、ギターそのものは無傷だったこと。
自転車は大破して、私の左腕が、潰れてしまったこと。
バランスを崩して転がって、左腕が潰れたのだと説明はされた。けれど、私はその時何も憶えてはいない。
気が付いたら病院のベッドで。
怪我の治療も既に終わっていたのだ。
「治ってるんだよな? 左腕は」
「おかげさまでね。左手は治っている。指の先まで潰れていたって言うのにね」
これも。最先端の医療の賜物。
万能再生薬。オチミズ。
自然界の水にわずかずつ含まれているこの物質は、特に医療分野に革新をもたらした。細かい技術や理屈を抜きにして説明すると、オチミズには『どんな怪我でも元通りに治してしまう』力があることがわかったのだ。
これのおかげで、私の左腕は元通りに治療することができた。
元通りに。なったのだ。
「でもね。なんか違う気がするの。この手……」
私は左手を開いて、閉じて、眺める。
事故に遭う前と全く同じ指。同じ手。同じ腕。そのハズなのに。
「どうしても感覚が違っていてね。ギターを弾こうとしても、どうしても違和感が消えなくて」
強いて言うなら、思い通りに動く『他人の腕』がくっついているような違和感。
動いていて、感覚も確かにあるのに、どこかぼんやりしていて、現実感が無い。
結局私はバンドの誘いを断って、ギターも弾かなくなってしまった。
「トラックもひき逃げしたまま捕まらなくて。搬送された病院が私の医療保険と『違う』ネットワークの病院だったらしくて。治療費もだいぶかかっちゃったしね」
ついていないことは重なるもので、左手が治った後にも、私にはそれなりに多額の借金が残った。
そのせいで貴重なコレクションのいくつかを手放したし、アンプなどの機材も売り払ってしまった。それでも足りない分は、工場で働いて少しずつ返済していたのだ。
やめようと思ってやめたわけではないけど。いざ手放して、いざやめてみると、私は驚くほど素直に順応してしまった。やめてしまっても、平気になってしまっていた。
「ギターは手放すことは無かったけど。なんか、ね……ああ。私の『情熱』ってそんな程度のものだったんだ――って思うと、ほら。弦が切れちゃってね」
四弦を指差す私。
切れたまま、ほったらかしになっている弦。
「クローゼットの奥に突っ込んで、そのまま忘れてたの。アイリが、掘り返してしまったけどね」
「……ふうん」
自嘲気味になってきた私の話に、アイリは曖昧に相槌を打った。
そして沈黙。
二人で向かい合ったまま、なんとなく黙りこくってしまう。
「……そう言えば、さ」
気を取り直して、私は話題を変えることにした。
やおら立ち上がり、ずるずるとクローゼットに向かい、中を漁っていく。
「あんたさ。五年前からウチにヘンなモノ置きっぱなしにしてるでしょう。せっかく来たんだから全部自分で持って帰りなさいよ」
「預けてるつもりはないよ。好きにしてくれて構わない」
「嫌。だってこれ、変な匂いがするんだもん」
そうして出てきたのは、一本の茶色い酒瓶。
ラベルにはドランブイと書かれている。
「度数が高い酒だし、傷んだりはしないよ」
「そうじゃなくて。なんかこれ、おばあちゃんみたいな匂いがするの。好きじゃない」
でん。と。
私はアイリの前に、酒瓶を立てる。
それは。抗議にも似ていて。
「……美味いし、程度もいいやつなんだけどなあ」
「知らない。とにかく置いていかないで。嫌ならウチにいる間に全部飲んじゃってよ」
「かは。
肩を竦めて、ギターを置いて。アイリは、酒瓶を受け取った。
「小鳥遊。たかなしか。かはは」
そうは言っても。この烏丸アイリという女は。底意地が悪い。
こちらの抗議を素直に受け入れるフリをして、心の中では舌を出して笑っている。もっともっとシンプルに言うと、私をナメている。
「なあ。この酒。そうは言っても。だいぶ残っているように見えるが?」
「そりゃそうでしょ。あんたがちょっと飲んだきりで、そのままになってたんだから」
にやにやと。
本当にこういう時は嫌らしく、アイリは金色の瞳を細めて笑いかけてくる。
「なあなあ。小鳥が遊ぶ所には、カラスは居てもいいものなのか?」
「……知らない」
「なあなあなあ。オレに教えてくれよ。小鳥遊ユウ」
「うっさい。知らない。黙れ」
烏丸アイリはとても陰湿でいやらしい女だ。
多分絶対ロクな死に方をしないと思う。
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