ヒレナガウチュウサカナ5

 イヴはその後、数多の危機に見舞われた。

 ホソミリュウザカナに襲われた事は一度や二度ではない。大きく成長し、かつての天敵を恐れる必要がなくなれば、また更に恐るべき天敵に襲われた。天敵達は次々と現れ、それぞれが自慢の速さやパワーで彼女を殺そうとしてくる。

 しかしイヴは全ての危険を回避した。種が持つ能力をフル活用し、適者としてこの世界に残り続けたのだ。身体は少しずつ、極めて安定した伸び方で成長していき……

 一千年の歳月が流れた頃になって、ようやく彼女は体長三十三メートルもの巨躯を手にした。


【キュルルリゥゥゥー】


 上げる鳴き声は、以前観察した体長五十センチの時とは全く出力が違う。力強く、生命力に溢れた電磁波だ。

 成長しても身体の基本的なフォルムは幼体とさして変わらない。だが、一千年もの年月を生きてきた表皮は分厚くなり、天敵から受けた攻撃の傷跡も何本か残っている。微生物などによる感染症に蝕まれた事もあり、その痕跡は顔の歪な凹凸として残っていた。

 しかしその身体に不自由はない。彼女は今も思うがまま宇宙を飛べる。


【キュリュリュゥゥー】


 大きな四枚のヒレを動かしながら、悠々と宇宙空間を飛翔するイヴ。その速度は今や秒速十六キロに達しているが、これでも本気の飛翔には程遠い。全力を出せば、倍の速さで宇宙を飛び回れる。

 大きくなっても食性は未だ変わらない。周囲を飛び交う、無数の生命が排泄したアンモニアや水分を表皮で吸収している。生息場所は恒星から一億四千万キロ地点……無数の生命に溢れ、凍結した排泄物があちこちで漂い『靄』を作っている領域だ。これでも十分な餌ではなく、常に飛び回り、回収していかねばならない。

 生物が多ければ天敵も多い。今のイヴは体長三十メートルを超えるまで成長したが、周囲には五十メートルにもなる巨大生物もうようよしている。地球生命のクラゲに似た見た目をしたもの、コイのような見た目をしたもの、ヘビのような見た目をしたもの……全てが敵という訳ではないが、ヒレナガウチュウサカナを平然と食べてしまう猛獣も多い。今でも油断すれば、命は呆気なく失われる。

 決して順風満帆な生涯ではない。今も安寧には程遠い。されど彼女は生き延び、そしてここまで大きくなった。

 いよいよ最後の大仕事――――繁殖の時を迎える。

 とはいえ、身体が繁殖可能になってすぐ産卵を始める訳ではない。原始的な単細胞生物や多細胞生物とは違い、ヒレナガウチュウサカナはただ適当に産めば良い立場ではないのだ。

 具体的には、遺伝的多様性の確保が必要である。それも突然変異以外の方法で。

 勿論今でも突然変異は重要な進化の源である。というより遺伝情報に根本的な変化を起こすには、突然変異がなくてはならない。しかし単細胞生物や原始的な多細胞生物と違い、高等生物であるヒレナガウチュウサカナにとって突然変異頼りの多様性はあまりに心許ない。

 理由は二つある。

 一つは、巨大で高等な彼女達は個体数と繁殖頻度が少ないため。突然変異はランダムかつ偶然に起きるものであり、『よい結果』を生むには試行回数が必要だ。単細胞生物は餌さえあれば数十分に一度分裂が行えるし、多細胞生物も小さなものなら数十~数百時間で繁殖を行う。個体数もコロニー一個だけで数百兆を遥かに超えており、その中の〇・〇〇〇一パーセントだけが突然変異を起こしたとしても、一回の繁殖で数億もの突然変異が生じる計算となる。これだけ突然変異が多ければ、一個ぐらいは適応的なもの、今は無意味でも将来役立つものがあるかも知れない。しかもこれを数十分、数百時間ごとに行うのだ。これなら工夫などせずとも、ただ繁殖するだけで十分多様性は得られるだろう。

 だがヒレナガウチュウサカナは成熟に一千年も必要とする。個体数も、繫栄している現在でさえ三十億体程度だ。これだと滅多な事では有利な変異は生じない。

 もう一つの突然変異に頼れない理由は、起きねばならない場所が限定されているため。

 単細胞生物であれば、細胞が一個しかないため突然変異 = 個体の変化となる。有利不利は兎も角、変異が起きた瞬間新たな形質が生まれるといって良い。多細胞生物であっても、分裂して増えるなら変異は何処でも構わず、マエススミのように突然変異を起こした細胞を別個体として分離する仕組みがあれば尚更問題はない。

 対してヒレナガウチュウサカナは、様々な臓器を持つ高等な種だ。細胞の数は一つではなく、またその細胞の殆どは。生殖細胞に起きた突然変異だけが、次世代に引き継がれる変異となるのだ。体細胞で起きた変異は異常な細胞……がん細胞として排除し、次世代には残らない。

 こうした問題はビギニング星系の生物だけでなく、地球生命にも見られたもの。そして高度に進化した生物――――それこそヒト含めた哺乳綱などは、突然変異以外で多様性を得る方法を会得している。

 方法は二つある。一つは交配、つまり別個体の遺伝情報を交わらせ、新たな形質を生み出す事。所謂有性生殖だ。

 もう一つは交叉。細胞内にある二本の染色体(の中にある遺伝情報)同士を交わらせ、新たな遺伝情報の並びを作り出す事。自主的な遺伝子組み換えと呼べる現象で、生物体の中では珍しい出来事ではない。

 地球生命はこの二つの方法により、遺伝的多様性を確保している。ところがこれらの方法は、ビギニング星系の生物には使えない。

 何故ならビギニング星系の生物は、遺伝情報であるCGI(炭素遺伝情報)が一本しかないからだ。

 地球生命の遺伝情報の構造は一つではないが、ヒトが属する真核生物の場合、細胞内にあるの染色体の中にそれぞれ一本ずつ遺伝情報であるDNAが入っている。つまり染色体一対に付き、DNAが二本あるというのが基本的な構造だ。そしてこの二本のDNAは、これもまた種や個体によって例外はあるが、全く同じものではなく差異が存在する。遺伝子に差があれば当然生じる形質にも差があるが、これは個々の形質が持つ顕性潜性(優性劣性とも言う)の違いにより、基本的に片方のDNAの分だけが発現する。

 違いがある二本のDNAを持つ。これが重要だ。二本あるから、生殖細胞に一本だけ渡し、他個体のDNAと合わせる事で異なる組み合わせを作り出せる。二本あるから、生殖細胞を作り出す際細胞内の染色体を交わらせ、自分が持つものとは違うDNAを生み出せる。

 だがビギニング星系の生物が持つ遺伝情報CGIは、極めて強固なものが一本だけという作りだ。細胞内に複数の遺伝情報は持っていないのである。

 これは『最初の生命』の頃からずっと引き継いできた形質であり、姿形は変われどもこの部分は殆ど変化進化しなかった。恒星からの強力な放射線があるため、半端な遺伝子構造では耐えられず、多様化する余裕がなかったのである。

 このためビギニング星系の生物は、地球生命のような有性生殖や交叉は行えない。ではどうすれば良いのか? 有性生殖や交叉以外で多様性は確保出来るのか?

 その答えは、二つを混ぜた方法を用いる、だ。


【キュルルルリリリリリゥゥー】


 イヴが大きな声で鳴いている、もとい電磁波を放っているのは、『交配』に協力してくれる相手を探すためだ。

 ここでヒレナガウチュウサカナの繁殖の流れについて話そう。

 誰かが電磁波を感知する、または自分が電磁波を聞くと、成体となったヒレナガウチュウサカナはその方向に進む。やがて相手の存在を視認すると、互いに積極的に接近を試みる。

 そして肉薄した両者は身体の特定部位(種によって場所は異なる。ヒレナガウチュウサカナの場合は尻尾)を密着させる事になる。表皮がくっつくと、その部分が僅かに混ざり合う。

 他個体の細胞を体内に取り込むための機能が、密着させた表皮部分には備わっているのだ。得られた細胞はすぐに分解され、中から遺伝子が取り出される。送り込まれる細胞数は、これもまた種によって大きく異なるが、ヒレナガウチュウサカナの場合は一千〜二千個。

 この送り込まれた細胞は、ただちに分解される。必要なのはその中にある遺伝子だからだ。得られた遺伝子もまた解体。それと同時に、自身の生殖細胞でも遺伝子の解体を行う。

 そしてバラバラにした遺伝子同士をくっつけ、一つの遺伝子に再加工する。

 これがビギニング星系生物の行う交叉及び有性生殖だ。彼女達は有性生殖と交叉が一体化しており、区別出来ない状態になっている。

 ちなみに遺伝子の解体・再加工は酵素により行われるが、一つの遺伝子に対し一つの細胞が付きっきりで作業する。遺伝子を何処でバラバラにするかは細胞ごとに(遺伝子とは関係ないランダムな構造的差異により)異なるため、遺伝子の『長さ』を変えないためには一つの細胞だけで全工程を行う必要があるのだ。尤も、ごく稀に別の細胞が間に割り込み、長さの違う遺伝子を作ってしまう事もあるが。しかしこれも結果的に遺伝子が正常に働けば変異の一つであり、進化の原動力である。

 新たな形質を生み出し、変化する環境に適応するためにも、他個体との交配は積極的に行いたい。だからこそヒレナガウチュウサカナは電磁波を強く放出し、繁殖相手を探す。

 ……とはいえ、これは簡単な事ではない。ヒレナガウチュウサカナの生息範囲はビギニング星系全域に及ぶ。広大な宇宙空間に散開している状態だ。個体数は三十億体もいるが、広過ぎる宇宙空間からすれば疎らとすら言えない。いくら大きくなったイヴの身体が放つ電磁波が強力でも、他個体に届く可能性はあまり高くない。

 イヴも繁殖相手探しを三十時間以上続けたが、未だ同種個体がやってくる気配はなく、誰かが放っている電磁波も感じ取れない。

 勿論他個体がいない訳ではないのだから、このまま電磁波の放出を続ければ何時かは仲間と出会えるだろう。しかしそれは何時の事か? 近々会えるという『確信』があればやる価値もあるだろうが、無尽蔵の広さを持つ宇宙空間では相当長い時間が掛かるだろう。寿命で言えば、それを期待しても問題ないぐらいヒレナガウチュウサカナは長命の生物だが……成体になっても、天敵となる生物はいる。何時命を落とすか分からない環境で、悠長に伴侶探しをしている余裕はない。

 このため、ヒレナガウチュウサカナは一定時間相手が見付からないと、繁殖方法を有性から無性生殖に切り替える。

 イヴの体内でも、時間経過により次世代の生成が始まった。卵巣からはホルモンが分泌され、繁殖相手探しの『気分』を減衰させる。繁殖したいという意思はなくとも、身体は勝手に繁殖のための準備を進める。それが適応的な形質だからだ。

 無性生殖が始まると、卵巣内にある細胞の一部が分裂を行い、生殖用細胞となる。この生殖用細胞は卵巣にある『発育管』に付着すると、此処から栄養分を受け取りながら分裂して成長。ある程度大きくなったところで卵殻の形成を行う。

 この卵殻形成期のヒレナガウチュウサカナは、特に食欲旺盛だ。何時もより飛行速度を上げ、表皮に触れる物質量を増やそうとする。卵殻には多くの金属元素が必要なため、大量の餌から金属を集めなければならない。また卵の発育には大量の栄養分が使われるため、有機物を普段以上に確保しなければならないという事情もある。速度を上げるとその分身体的疲労が大きく、天敵に襲われた際逃げるのが困難になるが、次世代を作るための作業故に許容しなければならないリスクだ。

 イヴも無性生殖を始めてからは食事に専念するようになる。卵が十分な発育を完了させるのに必要な時間は凡そ八千五百時間。ヒトが用いる暦に換算すれば、一年近い月日が必要である。

 しかし一千年を生きた今のイヴからすれば、生涯のたった一千分の一だ。決して長い時間ではなく、また苛烈な生存競争を生き延びてきた優秀な個体からすれば、もう一年生き残る事は不可能ではない。

 積極的な採食活動を一年近く続け、卵巣内の卵が成熟したところで、いよいよ産卵の始まりだ。


【キュリュリュリュ……】


 卵が成熟した事を、卵巣が分泌するホルモンにより身体が察知。イヴは本能のまま産卵行動を起こす。

 さて、ここで思い出してほしいのはヒレナガウチュウサカナの卵が何処にあったのか、である。

 それは恒星から七千万キロ地点。今イヴがいる場所から、七千万キロも離れた位置だ。イヴの最高速度である秒速三十三キロで飛翔しても、ヒトの暦に換算して二十四日以上も掛かってしまう。しかもこれは片道であり、帰って来るには同じだけの時間が必要だ。

 今いる場所から恒星に近付くほど、生物の数は減っていき、浮遊する排泄物の量も減っていく。また恒星が放つ光と放射線も強くなり、近付くほどに身体はどんどん劣化していく。エネルギー自体は豊富でも、細胞の修復に必要な物資がなければ細胞分裂回復は行えない。二十四日も旅をすれば、産卵場所に辿り着く頃には躯と化しているだろう。

 では、幼体の時と同じく休眠するのだろうか?

 ウチュウサカナ属の中には、そういった生き方をする種も僅かだがいる。しかしそれは原始的な種のする事であり、極めて非効率である。卵が成熟したのに数十日も産卵が行えないため産卵周期が長くなり、更に休眠のための粘膜生成などで多量の物資・エネルギーを消費してしまう。また決して安全な方法でもない。休眠と言えば聞こえはいいが、要するに意識も身動きも出来ない状態である。自分より大きな天敵どころか、体長数センチの小動物が群がり好き勝手に身体を齧っても、抵抗一つ出来ない。生き物だらけの場所で身動きが取れない状態となるのは、自殺行為といっても過言ではないのだ。

 高度に進化したヒレナガウチュウサカナの成体は、休眠などという非効率かつ危険な移動方法は使わない。

 ならばどうするのか。要は卵が恒星近くに辿り着けば良いのだ。なら、卵を


【キュリュウウウゥゥウウウ】


 唸るようにイヴが身体に力を込めると、下半身の一部が大きく盛り上がる。

 表皮に出来た盛り上がりは徐々に膨らみ……やがてぱくりと裂け、中から直径二十センチ程度の球体が出てきた。

 卵だ。ヒレナガウチュウサカナだけでなく、血骨格獣門の生物には産卵管など、卵を外に出すための通り道がない。卵巣が卵を取り込んだ後、周りの体組織が表皮に向けて押し出していく。一見して身体が傷付く非効率な方法に見えるが、実際には産卵時期は体組織に切れ目が入り簡易的な通り道が出来るため、裂けている訳ではない。また産卵管や産道などの穴があると、これが敵や感染症、寄生虫の侵入口となる。穴は出来るだけ塞いだ方が良い、というのがビギニング星系の生物が選択した進化の道筋だ。

 表皮に出てきた卵は、半分外に露出した状態で止まる。次いでイヴは身体の向きを変えた。卵がある方を、遥か彼方で輝く恒星へと向けたのである。そして身体に力を込めていき……


【キュリュアアァ!】


 一際強く鳴いた、瞬間、尻尾付け根にある噴射口からジェットを最大出力で噴き出す。

 最大級のパワーで加速したイヴは、あっという間に秒速二十キロまで到達。すると身体にまた力を込めた。

 それから卵がある場所の組織をきゅっと絞り、そこにある卵を押し出す。

 卵が完全に身体の外に出た、次の瞬間にはヒレからジェットを噴射して減速。自分は速度を落として停止する。勿論卵は減速する仕組みがないため、慣性の法則に従い秒速二十キロで飛んでいく。

 向かう先は、恒星であるビギニングAとビギニングB。

 こうしてヒレナガウチュウサカナは卵を恒星近くに送り届けるのだ。卵を生育場所へと投げ飛ばす……一見して乱暴で粗雑なやり方に思えるかも知れないが、しかし成体が命懸けの旅路をする事なく卵を目的地まで送れる点は大きな利点だ。また秒速二十キロもの高速で飛んでいく卵を捕まえるような天敵はそう多くない。全ての卵が無事恒星の傍まで行くとは限らないが、成体が途中で死んで卵が全滅するよりはマシであろう。

 それに成体が生き残ればまた産卵は行える。仮に投げ飛ばした卵が全滅したとしても、同じだけの卵をもう一度産めば問題ない。生命にとって重要なのは個々の子の命ではなく、より多くの子孫を残す事である。


【キュゥーリュリュー】


 一個の卵を恒星まで投げ飛ばしたイヴであるが、これで産卵は終わらない。彼女の卵巣にはまだ幾つもの卵が残っている。個体差はあるものの、ヒレナガウチュウサカナは一度に二十~三十個ほどの卵を生み出す。

 三十メートル超えの身体でたった二十センチの卵しか産まないのに、随分少ないと思うかも知れない。しかしこれも生存戦略の一つだ。小さな卵を少量しか作らなければ、与える栄養素も少なくて済む。つまり母体への負担が極めて小さい。それこそ、産卵後すぐに繁殖活動を再開しても問題ないほどだ。長い寿命を持つヒレナガウチュウサカナにとって、一回の産卵をそこまで熱心にする必要はないのである。

 イヴもこの産卵行為を終えたら、再び繁殖相手探しを始める。次は有性生殖で多様な子孫を作り出せるよう、それが叶わずとも次世代をたくさん残せるよう、そう進化してきたがために。

 ……そう。イヴがしている産卵行為は、種としてなんらおかしなものではない。特別な変異も遂げておらず、彼女の母親と全く同じ方法で子孫を残そうとしていた。

 『異常』な事態、そしてこの宇宙の命運が決したのは、この後に起きた。

 二個目の卵を産もうと、イヴが再び秒速二十キロで飛翔する。十分に勢いが付いたところで身体に力を入れ、卵を絞り出す――――

 あと一秒早く産卵行動に入っていれば、その卵は問題なく恒星まで届いただろう。或いはあと一秒遅ければ、卵は産み落とされなかっただろう。

 しかしこのタイミングで、イヴは襲われた。


【ピギャッ!?】


 突如、身体に走る衝撃。体勢が大きく崩れた、丁度その瞬間に卵が出てしまう。狙いが恒星から逸れ、何処か彼方へと飛んでいってしまう。

 一個の子孫が『無駄』になったが、今のイヴにそんな些末事に構っている場合ではない。

 身体に絡み付く何本もの触手。ヒレを押さえ込まれ、身動きが封じられる。更に触手の先には顎があり、これが身体に噛み付いてきた。肉を食い千切り、咀嚼し、飲み込んでいる。

 天敵の襲来だ。

 この天敵の名はヤマタヒドラ。体長七十三メートルにもなる巨大生物であり、極めて獰猛な捕食者だ。外観は地球生命で言うところのクラゲに似たものであり、傘状の胴体下部から八本の触手を生やしている。

 クラゲとの違いを上げるなら、まずは体色だろう。黒を基調としたものに白い点が幾つもあり、それは星が煌めく宇宙空間の中では保護色として働いていた。また生やしている触手は、厳密に言うなら『手』ではなく、八つある頭である。

 見た目は原始的な生物に見えるが、ヤマタヒドラはビギニング星系に生息する生物の中では非常に知能が高い。八つある頭部に小さな脳が一個ずつ、傘の部分にそれら小さな脳を統率する巨大な脳を一つ持っているからだ。脳の構造は未熟なため、ヒトほどの知能はないものの、地球生命における賢い動物の代表格・イヌ以上の賢さはある。

 イヴをこのタイミングで襲ったのは、決して偶然ではない。ヤマタヒドラはヒレナガウチュウサカナの産卵をじっと観察し、産卵行動中は事を理解していた。ヒトが全速力で走っている時すぐには止まれないのと同じである。更に自分の身体が宇宙空間では保護色となり、素早く動かなければ存在がバレにくい事も理解していた。ある程度距離を詰めたところで一気に加速すれば、相手が気付く前に肉薄出来る。

 そしてその作戦は見事成功した。


【ピャ、ピャリャァァアーッ!】


 触手に噛み付かれたイヴは、激しく身体を揺さぶる。ジェットも噴射して振り解こうと暴れる。

 しかしヤマタヒドラにとってこの抵抗は想定内。更に体格でも圧倒的に上回り、またジェットの高熱も少し浴びる程度では火傷にならないほど耐熱性に優れていた。数少ない弱点が機動力の乏しさであり、それを知略で補った事で素早さに勝るイヴを捕獲した以上、最早弱点などない。

 イヴは苦し紛れに発光して怯ませようとしたが、残念ながらヤマタヒドラは赤外線を感知する生き物。可視光線であるヒレナガウチュウサカナの放つ光は全く見えず、眩しさを感じる事はない。

 一千年続いたイヴの命も、ここで終わりだ。長い年月を生き、数多の危機を乗り越えてきた彼女だが、あまりにも呆気ない末路。しかし生物同士の命のやり取りは、一瞬の隙で全てが終わる事もあるものだ。

 それに、イヴの遺伝子はまだ終わっていない。

 ――――イヴが襲われたタイミングで、一個の卵が生み出されている。

 卵が向かう先は、ビギニング星系中心で輝く二つの恒星ではなかった。襲われた拍子にイヴがバランスを崩した結果、全く関係ない方に向けて飛んでいる。そしてこのような卵は、珍しくはあっても皆無ではない。ヒレナガウチュウサカナは何十億も生息していて、産卵のタイミングが一番襲いやすい事を捕食者達は知っているのだ。

 だが、イヴの卵は三つの幸運に恵まれた。

 一つは速度。イヴが襲われたのは丁度生み出す直前で、産卵時の最高速度である秒速二十キロに到達していた。ヒレナガウチュウサカナが本気で飛べば秒速三十三キロは出せるのに、何故その三分の二以下の速さなのか? それはこれ以上速いと、恒星の引力を振り切ってしまうから。丁度七千万キロ地点で恒星の重力に捕まるまで、塵などで減速するよう計算(正確には偶々それが出来た個体が生き延びた)されている。

 しかし襲われ、変な方向に秒速二十キロで飛び出した事で、イヴの卵は塵や排泄物が少ないルートを通った。十分な減速が得られず、恒星であるビギニングAとBの重力を振り切り、星系外に飛び出すだけの勢いを保っているのだ。

 二つ目の幸運は、卵が休眠状態だった事。

 ビギニング星系の中心で輝く二つの恒星は、今活動が不安定になっている。百億年近く燃え続けた事で、内部の水素が枯渇し始めたのだ。時折核融合反応が非常に弱まり、恒星の放つ光も弱くなる。

 恒星の光は、ビギニング星系の生物達にとって重要なエネルギー源。この光の減少はそのままビギニング星系の生命の活性が低下する事を意味する。生命活動が緩やかになれば生存競争や食物連鎖も大人しくなり、その過程で生じる老廃物や排泄物も減ってしまう。

 排泄物などを餌にしているヒレナガウチュウサカナにとって、恒星活動の低下は餌の激減を意味していた。この状況で卵を産んでも、生まれた幼体は餌不足で餓死する可能性が高い。

 そのため恒星の活動が低下している事を感知すると、ヒレナガウチュウサカナは耐久卵を産むようになる。恒星活動が再び活性化する時まで、一万年でも十万年でも眠り、生命の数が増える時まで待つ。理論上は百万年でも休眠可能だ。全ての卵が耐久卵となるのではなく十分の一~三分の一と、一部だけがそうなるのだが、飛んでいった卵は偶々この耐久卵だった。

 そして三つ目の幸運は、飛んでいった先にある恒星が偶々ビギニング星系に近かった事。その恒星はビギニング星系から三十光年の位置にあり、星系離脱時の速度であれば卵が到達するのは五十六万年以上先の事。百万年の休眠期間でどうにか辿り着ける距離であり、あとほんの少し遠ければ、卵は組成が経年劣化により崩壊して死滅していただろう。

 数多の幸運に恵まれ、イヴの卵は新天地へと旅立つ事が出来た。新たな場所で、イヴの子孫は大いに繁栄する。

 それがいずれ宇宙の悪魔になるなど、誰も知らぬままに……

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