ヒレナガウチュウサカナ3

 卵から生まれたばかりの彼女を、イヴと名付けよう。

 無事孵化したイヴであるが、一休みしている暇はない。卵の外に出た事で、恒星の光に満ちる宇宙空間に全身を晒している。この場に留まれば強力な光エネルギーと放射線が身体を焼き、誕生して間もない命を脅かす。

 急いで安全な距離まで離れなければならない。この時役立つのが、種族の得意技である飛行能力だ。


【キャピャ!】


 身体に力を込めるための筋収縮、その際に生じた鳴き声電磁波を出しながら、イヴは恒星から離れるように飛び立つ。尾の付け根から噴き出す青いジェットが、宇宙空間に一筋の光を残す。

 卵の中で大きく育ったとはいえ、誕生直後のイヴは体長二十二センチしかない小さな身体だ。三十~四十メートルに達する成体と比べ、ジェットの出力は極めて貧弱である。それでも飛行速度は最高で秒速七キロに達し、引き寄せようとする恒星の重力を悠々と振り切る事が出来た。

 生物としては間違いなく圧倒的なスピードである。この速さで目指す場所は、恒星から一億キロ離れた領域。そこまで離れれば恒星からのエネルギーが程々に弱く、多くの生命体が生息している。ヒレナガウチュウサカナの『餌』も豊富にあり、幼体が大きく育つ事の出来る環境だ。

 とはいえ生物にとって、宇宙はあまりにも広い。

 イヴが生まれた位置が恒星から七千万キロ離れた領域だ。そこから餌の豊富な一億キロ地点まで三千万キロもの距離がある。秒速七キロという飛行速度は、ヒト文明が運用しているロケットに匹敵する速さだが……これでも三千万キロの距離を横断するには一千百九十時間、ヒトの用いる暦に換算して四十九日以上の時間が掛かってしまう。

 大きな卵にはたくさんの栄養があり、生まれたばかりの幼体の身体には十分な脂肪やタンパク質などが蓄えられている。しかしそれでも四十九日も飲まず食わずでは、確実に死んでしまう。また恒星からの光エネルギーも問題だ。遠ざかるほど弱くなるとはいえ、これだけの長時間浴び続けるのは極めて危険である。

 このままではイヴの命も危うい。

 だが問題はない。ヒレナガウチュウサカナにとってこの状況は想定内なのだから。生き残り、安全な場所まで辿り着くための工夫はしっかりとイヴの遺伝子に組み込まれていた。

 ジェット推進でどんどん加速していく中、イヴの頭部にある『速度器官』が働く。これは慣性を利用して加速度の測定を行い、現在の速度を算出するというもの。そして身体が最高速度である秒速七キロに達すると、ある特殊なホルモンの分泌を始める。

 このホルモンの働きにより、体表面の細胞が粘液の分泌を行う。

 粘液と言っても、タンパク質に水分子を絡めたものであり、揮発性が極めて低い。そのため宇宙空間に露出しても、恒星の近くで光を浴びても、粘液が乾燥する事はほぼない。これを身体に纏う事で、身体から水分が蒸発するのを抑える。またこの粘液は恒星からのエネルギーを吸収し、本体まで届かせない働きもあった。

 それと同時に体細胞の活動が低下。代謝を極限まで落とし、更に粘液に混ぜ込む形で身体の水分を抜いていく。水分を抜いた細胞は活性を失う代わりに、殆どエネルギーを使わない。このため長期間、飲まず食わずでも生きていく事が可能だ。水分は化学反応を促す媒質としての働きもあるため、水分を抜けば身体の『劣化』自体を抑えられる。

 これらは休眠の準備だ。イヴ達ヒレナガウチュウサカナの幼体は、眠りに就く事で長旅に備えようとしている。

 休眠により、生存に不適応な時期をやり過ごす。このような生き方は、地球生命を見れば明らかなように決して珍しいものではない。湿地帯や砂漠など、短期間で環境が大きく変わる場所に暮らす生物ではスタンダードな戦略だ。ヒレナガウチュウサカナも生きるのに向いていない時期は寝てしまい、エネルギーの消費を抑える。これならば、四十九日間の旅路もさして苦ではない。

 勿論細胞が働いていないため、推進力であるジェットも止まってしまう。だが速度が落ちてしまう事を心配する必要はない。何故なら此処は宇宙空間。空気抵抗は存在せず、一度出した速度は(実際には僅かな水素や光圧などの影響はあるものの、これらは無視出来るぐらい小さな力しかない)落ちないからだ。

 秒速七キロを維持したまま、イヴは眠り長旅を始める。

 次に彼女が目覚めるのは、旅が終わる四十九日後だ。

 ……………

 ………

 …

 四十九日の長旅の終わりは、イヴの体内で生じる。

 きっかけは恒星からの光。身を守る鎧でもある粘液にはある成分が含まれていて、これは光を浴びると分解が進む。更にこの成分は光の吸収を担う、つまり中にいる幼体を守る働きを持つ。分解するほど光は粘液の奥まで浸透し、やがて休眠するイヴの身体に届く。

 光を浴びたヒレナガウチュウサカナの体内、厳密に言うと体表面では新たなホルモンが形成され細胞が活動を再開。同時に、粘液の吸収を始めた。粘液には水分が含まれているため、これを回収すれば細胞は元の活性を取り戻せる。実際には僅かながら粘液中の水分は蒸発しているが……粘液中に含まれていた、光によって分解された成分は最終的に水とアミノ酸とビタミンに変化する。蒸発分を補うには十分なため、水分不足に陥る心配はない。

 粘液を全て吸収した頃には、幼体の細胞は全て活性を取り戻す。


【キャプププー】


 最後に粘液が吸収・蓄積していた光エネルギーを鳴き声電磁波として放射。これで身体を害するものはなくなった。

 後はもう半日ほど進むだけ。

 実のところ目覚めた位置は、恒星から一億キロ地点よりも少し――――三十万キロ以上手前だ。そのため目的地に到着するにはもう少し、あと十二時間ほど移動を続けなければならない。身体には十分な栄養があるため餓死する心配はないが、何もせずただ移動するだけの時間というのは知的生命体からすると『退屈』に思えるだろう。

 何故目的地のかなり手前で目覚めるのか? それは身を守るためだ。

 恒星から一億キロ地点まであと三十万キロ近くあるが、既にイヴの周りには数多くの生き物が見られるようになっていた。一般的に恒星から一億キロ以上離れている方が、ビギニング星系の生物にとっては好ましい。しかし種によっては光や放射線への耐性があるため、多少恒星に近付いても問題はないのだ。イヴよりも身体が大きな生物の姿も見られるようになり、そしてこれらの生き物の一部は肉食性である。

 例えば、今正にイヴに迫っているソラトビスライムもその一種。

 ソラトビスライムは原始的な多細胞生物の中でも、例外的に巨大化した種である。無数の細胞で出来た巨大で柔らかな肉塊は、伸縮自在のため正確な体長は言えないが……今回イヴに迫る個体は、イヴを包み込むため直径五十センチ以上にまで広がっていた。その分身体は薄くなっていて、ヒトの目には肉で出来た布が飛んできているように見えるだろう。

 肉塊だから動きも鈍い、等と油断してはならない。薄く広がった身体を構成する細胞には、それぞれ酸素放出による推進器官が備わっていた。推力自体は原始的で非常に弱く、長い加速時間は必要であるが、最大速度は秒速二キロに達する。

 休眠中に襲われたなら、イヴは為す術もなく包み込まれ、全身から分泌される消化液により食べられていたに違いない。しかし今のイヴは既に活性を取り戻している。


【キャピーッ】


 イヴはソラトビスライムの動きを『視認』。高い機動力を誇るヒレナガウチュウサカナは動体視力にも優れ、秒速二キロ程度の動きであれば難なく認識可能だ。また目は上下に二つずつあるため、上下左右の全方位視認する事が出来る。宇宙という環境に適応した形態に、不意打ちは通用しない。

 そしてヒレナガウチュウサカナは幼体でも秒速七キロもの速さで飛行可能である。秒速二キロ程度を振り切るなど造作もない。

 迫るソラトビスライムを悠々と躱し、イヴは先へと進む。

 動けなければ食べられていたが、動けてしまえば動きの鈍い天敵など恐れるに足りない。進めば進むほど生物は多くなり、襲い掛かる捕食者の数も増えたが、いずれもヒレナガウチュウサカナの速さには追い付けない。加えて一度加速すれば速度がほぼ落ちない宇宙において、秒速七キロを維持するだけなら体力の消耗はほぼなし。半日近い時間を逃げ続ける事など造作もなかった。

 ――――しばらくしてイヴは無事恒星から一億キロ地点に到達。

 目的地に到達した事を、イヴは身体で浴びる恒星の光の強さから感じ取る。今までただ進むばかりだった彼女も、目的地に達したならばこれ以上進む必要はない。

 それどころかこれ以上先に進むのは好ましくない事だ。何故なら恒星から一億キロ地点は、数値的にはビギニング星系の生物にとって生息可能な環境であるものの、その境界線付近でもあるため決して『快適』ではない。ヒトで例えるなら気温三十~三十二度ぐらいの気候のようなもので、暮らしてはいけるが、油断すると生命に関わる不快さだ。もっと心地よい場所の方があるならそちらの方に集まる。

 このため生物密度が最も高いのは、恒星から一億五千万〜一億七千万キロ地点となっている。生物の数が増えれば、それだけ他の生き物を襲う捕食者の数も多い。逃げ足に優れるとはいえ、絶え間なく襲われれば消耗も激しく、また不意を突かれる可能性も高くなる。更に巨大な生物というのはそれだけで身体能力に優れ、小さな生き物から見れば圧倒的な俊敏さで動く。機動力に優れるヒレナガウチュウサカナであるが、まだまだ小さな幼体では敵の方が素早い事もあり得る。

 生物がいて、尚且つ大型捕食者も少ない環境。それを両立出来るのが、恒星から一億キロ地点なのだ。ヒレナガウチュウサカナは長い進化の中で、幼体が最も生存出来る位置を身に付けていた。イヴも本能に従い、しばしこの領域に留まる……留まるといっても一定範囲内を飛び続ける形だが。延々と飛ぶのは疲れそうにも見えるかも知れないが、宇宙空間は真空のため一度動き出せば止まらずに進み続けられる。むしろ秒速七キロもある速さを減速する方が手間だ。宇宙では、動き回るのが楽なのである。

 この絶え間ない飛行で役立つのが、大きく発達した四枚のヒレだ。

 オールのような形をしたこのヒレは、上下の面に小さな穴が幾つも開いている。穴の数は十〜二十個と個体差が大きい。この穴からは尻尾の付け根にある噴射口と同じく、液体燃料を燃やして得た水が噴き出す作りとなっていた。穴から僅かな ― 状況によっては大量に ― ジェットを噴射し、ヒレの向きを変える事で進む向きをコントロールしている。

 ヒレナガウチュウサカナは明確な縄張りを持たないが、同種がいない一定範囲内での活動を好む。いくら生命に溢れたといっても、宇宙空間は極めて広大だ。仲間がいない場所を探すのに苦労はなく、イヴも半径六百キロほどの範囲を活動範囲に定め、この範囲内を周回するように泳ぎ出す。

 そしていよいよ成長のための行動――――餌探しを始めた。

 さて、ヒレナガウチュウサカナは何を食べるのか? 大きな口がある事から、捕食者であると思うかも知れない。しかしその予想は正しくない。ヒレナガウチュウサカナは極めて大人しい生物で、他の生物を襲うような生態は持ち合わせていないのだ。

 彼女達が食べるのは、周りにいる生物達の『排泄物』である。

 何十億年も掛けて進化した今のビギニング星系の生物の多くには、発達した消化器官が備わっている。食べ物の残渣があれば、それを外に出すための仕組みは備わっていた。また機能に優れた細胞は、多量の物資を消費し、それに見合った量の老廃物を出す。これは排泄しなければ細胞の働きを邪魔するので、やはり迅速に体外へと捨てなければならない。

 無数にいる生物が、どれもこれも排泄を行っている。このため今のビギニング星系には、無数の糞が漂っていた。糞と言ってもアンモニアや水、凍結した二酸化炭素などの単純な化合物である。どれも宇宙空間での放射冷却の結果凍結しており、小さな塊となって浮遊している場合が多い。

 こういった小さな分子の氷を、ヒレナガウチュウサカナは体表面から吸収する。分泌した粘液を吸収出来たのもこの性質を応用しての事。秒速七キロもの猛スピードで迫り、身体を接触させる事こそが彼女達の『摂食』方法だ。この時口は使わない。そもそも今まで口と称していたそれは厳密に言うとでしかなく、この奥に消化器官はないのだが。

 こうして取り込まれた物質は、その直下にある『運搬血管』を流れる血流によって運ばれていく。

 そう、ヒレナガウチュウサカナには血管があり、そして血液も流れていた。彼女達が属する血骨格獣門は、地球生命でいうところの閉鎖血管系を持つ。体液は血管を流れ、体組織の末端まで物資を運んでいくのだ。この方法は血管や心臓ポンプの生成など多くのコストを必要とする反面、身体が大型化しても物質循環が滞らないという絶大な利点を有す。彼女達が大型化出来たのは、この優れた血管系のお陰だ。

 血液の主成分は『ビグロビン』という、ヒト文明未発見の物質である。ビグロビンは水素と酸素の二種に結合し、物質を運んでいく。

 運搬血管は体表面と肝臓にだけ存在する血管だ。此処を流れる血液により運ばれたこれらの物質が最初に向かうのは『肝臓』。勿論ヒト含めた地球生命が持つ肝臓とは、起源も働きも全く異なる。「食べ物から得た物質を処理する場所」程度の意味合いだ。

 肝臓に運ばれた物質は、ここで栄養素として加工される。アンモニアは窒素源として利用され、二酸化炭素は炭素源として活用。この二つと水を用い、アミノ酸を合成する。硫化水素などヒトにとっては危険な物質も、ヒレナガウチュウサカナにとっては貴重な硫黄成分。様々なホルモンの原料として加工されていく。

 これらの加工に必要な結合エネルギーは、主に身体で浴びた光エネルギーが使われる。自由電子や水素イオン源は、水を光エネルギーで分解する事で得る。極めて高度な化学反応であるが、この仕組みの基礎は祖先種であるホシクモの時からあまり変わっていない。精々反応を起こす酵素や細胞小器官が効率化・高機能化した程度だ。

 肝臓で合成されたアミノ酸などの物資は、今度は『体組織血管』を流れる血液によって運ばれていく。体組織血管系は全身に張り巡らされていて、体表面などには毛細血管の形で存在している。

 体組織血管と運搬血管は交わらない。これは運搬血管から取り込んだアンモニアなどの物質はヒレナガウチュウサカナにとっても有害な物質であり、そのまま体内を流れると危険なため。あくまでも彼女達は老廃物を『再利用』する仕組みを備えているだけで、老廃物そのものに耐性はないのだ。このため血管を分ける事で、危険な物質で体内が汚染される事を防ぐ。

 またポンプ機能を担う臓器も異なる。体組織血管は心臓をポンプとしており、対して運搬血管は肝臓がポンプの役割を果たす。血管が交わらないため、別々の臓器で血液を送らねばならないのだ。加えて物資運搬に大量の血液を循環させるため、心臓・肝臓は常に脈動し多くのエネルギーを消費する。酷使すれば劣化もするため、活発な細胞分裂などメンテナンスも必要だ。

 一見して非効率にも見えるが、しかし活動のためのエネルギーは恒星が放つ莫大な光エネルギーがあるため問題はない。彼女達の黒い体表面は、効率的に光エネルギーを吸収するための適応でもある。

 更に死んだ細胞や自身の老廃物は分解されて肝臓に運ばれ、アミノ酸など新たな物資に再合成されるため無駄は出ない。この再利用の仕組みのお陰で、長期間餌である老廃物が摂取出来なくても生命活動を維持出来るのも強みである。

 他種の排泄物を食べるというのは、ヒトから見れば劣った生き方に見えるかも知れない。だがそのための仕組みを完備すれば、極めて効率的で飢えの心配もいらない生き方が出来るのだ。

 ……さて。ヒレナガウチュウサカナの食事については以上だが、恐らく未だ残っている疑問について触れよう。即ち、食事で用いられない口のような器官についてである。口でないのなら、なんのためにあるのかと思う筈だ。

 実のところ、元々は口だった、という表現が正しい。ミズクイウオ目の中でも殆どの種には口があり、これを摂食のための器官として使っている。しかしウチュウサカナ属はミズクイウオ目の中ではかなり新しく、そして排泄物食に特化したグループ。このため身体の色々な場所に口摂食者時代の名残りが残っている。口はそのうちの一つという訳だ。

 ちなみに他に残っている器官として、消化管の存在が挙げられる。最早口と繋がっていないため全く役に立っておらず、消化能力のないただの管でしかない。肛門も塞がっているが、解剖すれば痕跡は確認出来る。どれもいずれは完全に消失する器官だ。

 イヴも口と消化器官は使わない。ただそこを泳ぎ回るだけで、ゆっくりとだが身体は育つ。

 次の生育ステージに上がるまで、彼女は恒星から一億キロ地点をうろうろと飛び回るのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る