マエススミ4

 あれからフリンは大きなトラブルもなく生きていた。

 飢える時もあったが、それでもどうにか獲物にありつく事は出来ている。周りに無数の生き物がいる環境だからというのもあるが、彼女が捕食者として優秀だからというのが一番の要因だろう。

 ただし、全てが順調という訳ではない。

 例えば今行っている狩り。フリンは今回、ヒメタマという単細胞生物の一種を捕食しようとしている。ヒメタマは丸々とした球のような身体をしており、細胞にある切れ目、つまり噴射口から出す酸素で動く。一見してビギニング星系にはよくいる単細胞生物であるが、体長三マイクロメートルと極めて小さいという特徴がある。ヒメタマは単細胞生物としてはごく最近現れた種であり、より少ない餌でも繁殖出来るように進化してきた。ビギニング星系に生息する生物数が多くなり、餌を巡る競争が激しくなった事で、少ないコストで生きる方法も適応的となったのである。

 誕生がごく最近のため数も少なく、フリンにとっては初めて出会う種だった。とはいえ種がなんであるかなど、酸素に反応して動くだけのマエススミは気にも留めない。フリンはヒメタマを飲み込もうと襲い掛かる。

 しかしヒメタマは、フリンが迫ると逃げ出す。

 これによりヒメタマはフリンの攻撃を軽やかに躱した。ヒメタマは丸い細胞の表面に、更に小さな『毛』が無数に生えている。この毛は炭水化物と金属粒子を練り込んだもので、直径は僅か〇・〇〇二マイクロメートルしかない。当然この細さでは神経など通っていないが、しかし炭水化物の間に練り込まれた金属が物理的刺激を受けると電子を放出。この電子が体細胞に伝わると瞬間的に酸素を吐き出し、今の場所から逃げ出すという仕組みになっていた。

 天敵が自分の身体に喰い付く前に回避する。五感を持たない単細胞生物でありながら、天敵を事前に躱す事が出来るヒメタマは成功した種だ。単細胞生物達も数多くの天敵による淘汰を受け、日々食べられ難い形質へと進化している。マエススミのように優れた捕食者であっても、時代を経るほどに獲物を捕まえるのは簡単でなくなっていく。

 今回の狩りは失敗に終わった。マエススミに心はないのでこの結果に如何なる感性も抱かないが、少しでも神経系があれば『ガッカリ』しているところだろう。

 とはいえヒメタマはまだ誕生したばかりの種であり、徐々に増えているとはいえ未だ多数派ではない。似たような能力を持つ近縁種も少なく、この生き物達が多数派を占めるのは

当分先の話だ。しばらくはマエススミにとって、捕まえやすい獲物が豊富な時代が続く。

 フリンもたくさんの獲物を食べており、今はヒメタマ一体を逃がしたところで飢えるほど追い込まれていない。身体の大きさは百マイクロメートルを超え、もう少し育てばまた分裂による繁殖を行える。

 しばらくは飢えもなく、繁殖も出来るだろう。

 ……しかし飢えというのは、マエススミに訪れる危機の一つでしかない。もう一つの危機は、飢餓よりも更に危険で、より命を落とす可能性が高いもの。

 『捕食者』の襲撃だ。

 そして捕食者の接近を感じ取る事は、今のマエススミ、いや、ビギニング星系に生息する大半の生物には困難である。ヒメタマのように特殊な進化を遂げた種を除けば、感覚器すら持っていないのだから。

 多細胞生物になったとはいえ、まだ彼女達は触れた物質に『反応』する事でしか行動が起こせない。影に反応する種はいるが、酸素に反応して獲物を負うマエススミにはこの性質がない。そして宇宙空間には空気がないので、音が伝わってくる事もない。強いて言うなら臭い、つまり物質による検出があるものの、相手はマエススミと同じく酸素を噴射して猛スピードで飛翔する存在。大量の酸素を検知するよりも、相手が突っ込んでくる方がずっと早い。

 フリンに襲い掛かってきた敵も同じだ。フリンが何かを感じ取るよりも前に、フリンに肉薄するまで近付いてきた。

 その生物の体長は五十七マイクロメートル。フリンの半分ほどしかないが、その身体は地球生命で言うところのカブに似た、ずんぐりとしたもの。最も太い部分はフリンの四倍近くあり、体重で見ればフリンよりも圧倒的に上だと分かる。身体の前方にある口はフリンよりも大きく開き、後方には長さ百マイクロメートルほどの鞭毛が三本も生えていた。これだけ大きな身体でありながら細胞は六十一個しかない。個々の細胞が非常に大きいのだ。

 この巨大な生物はカブミベンモウという。マエススミと近縁なグループである鞭毛綱に属する生物であり、多細胞生物の捕食者という生き方も似ている。

 カブミベンモウがフリンに接近してきた理由は、彼女を捕食するためだ。

 近いグループなのにフリンを襲うのか? という疑問を持つかも知れない。しかし近いと言っても綱レベルでの差である。これは地球生命で例えれば、カエルとヒトぐらいの差だ。また近い仲間を襲うべきではないというのは極めて知的で理性的な……言い換えれば『非合理的』な判断である。近かろうがなんだろうが、食物として使えるなら食べる。それが生物にとって合理的な戦略だ。

 そもそもカブミベンモウはフリンの存在を認識していない。フリンが噴出した酸素に反応し、そこに引き寄せられただけである。

 生理的な反応だからこそ、カブミベンモウはフリンを捕食する事に一切の躊躇いはない。そして生命にとって重要なのは「何を思っているか」ではなく、何をしているのか、何をされているのかだ。このまま何もしなければフリンは食べられてしまう。

 危険が迫っている事をフリンは理解出来ないが、この時まで生き延びてきた遺伝子には状況に対応するための形質がある。

 例えば、一気に酸素を噴射する。

 身体に強い圧が掛かると、マエススミは現時点で細胞内に残っている酸素を全て放出する性質があるのだ。これにより高い『瞬発力』を得て、敵の拘束を振り解く。更に大量の酸素を周囲にばら撒く事で、酸素を感知して襲い掛かる敵には煙幕的な働きもする。無論この行動を取った個体に、敵から逃れようという意図はない。ただ敵との接触圧力に反応して逃げ出す方が、酸素を大量消費したとしても適応的だったから残った形質だ。

 咥え方が甘ければ、この行動で逃げられただろう。

 しかし今回、カブミベンモウはフリンを離さなかった。秘密はカブミベンモウの口の先端にある。この生き物の口先端を構成する細胞は、小さな棘のような構造を一本だけ持っていた。この棘には返しも付いておらず、刺さった獲物の細胞に致命傷を与えるほど太くもない。本当に少し刺さるだけの代物だが、自身の横方向に逃げようとする動きを阻害する程度の働きはある。

 つまりこのカブミベンモウは、咥えた獲物を拘束するための『歯』を持っているという事だ。

 身体・鞭毛・歯の三つに細胞が分化した、より高等な進化を遂げているのだ。とはいえこの形質は、元々カブミベンモウに備わっていたものではない。ごく最近、ここ数万年の間に生じた変異の一つである。地球生命が持つ歯と比べれば極めて原始的なものであるが、ビギニング星系の生物の大半にこのような歯はまだない。画期的な進化であり、急速に勢力を拡大している形質の一つだった。

 大量の酸素を消費して得た瞬発力も、付き立てられた歯によって妨げられてしまう。そしてこれはフリンにとって極めて危機的な状況だ。細胞内にあった酸素を使い果たした事で、もう逃げるための推進力を得られない。つまり動けない状態になってしまったのだ。身体の中にはまだ多量の水分があり、この水を分解すれば酸素は得られるが……化学反応にはどうしても時間が掛かる。十分な量の酸素を得る事には、フリンはカブミベンモウに完食されているだろう。

 極めて危機的な状況だ。それを認識する自我を持ち合わせていないフリンであるが、長らく生き延びてきた遺伝子は他の抵抗を試みる。

 鞭毛を振り回したのだ。本来は移動のために使われるこの器官は、武器としても優秀である。速度を生み出すため鞭毛は速く動かす事が出来、また常に酸素との摩擦が生じるため簡単には破損しないよう丈夫な作りをしているからだ。これを勢いよく振れば、ヒトが用いる武器である鞭のように敵を傷付ける。

 自我すらないマエススミは『敵を狙う』という事は出来ないが、適当に振り回せばそのうち何処かに当たる。フリンが繰り出した鞭毛も、カブミベンモウの身体の側面を叩いた。捕食者として優秀な進化を遂げたカブミベンモウであるが、まだ肉体的にはそこまで丈夫ではない。鞭毛の一撃を受けて細胞の一部が破損。細胞質が染み出す。

 だが、カブミベンモウは離れない。

 捕食者にとって獲物が抵抗する事態は珍しくもない。獲物の大きさ次第では、怪我を負う事は十分にあり得る事である。この時獲物を手放すべきか、それとも意地でも喰らうべきかは、生物種の立場や生態によって異なる。

 カブミベンモウにとっては、離さずに喰った方が適応的だった。多細胞生物とはいえ未だ原始的な身体であり、多少身体が欠損したところで再生可能だ。ならば怪我を恐れて手放すよりも、意地でも捕まえて再生のための材料としてしまった方が良い。

 抵抗空しくフリンの身体は少しずつ飲み込まれていく。力の差は歴然であり、カブミベンモウを振り解く事は出来ない。

 それでもフリンは暴れる事を止めない。身体に加わった刺激に反応し、細胞全体を激しく伸縮させてくねらせる。何度も何度も、飲み込まれてより広い面積に刺激を受けるほど大きく身体を動かし――――

 ついに、フリンの身体がぽきりと折れた。

 全身の細胞が生み出した力に耐えきれず、自壊したのだ。半分以上はカブミベンモウに咥えられたままだが、残りは宇宙空間に放り出される。ヒトなどの高等生物から見れば致命的な大怪我だが……しかしフリン達マエススミにとっては想定内で、さしたる大怪我ではない。何しろマエススミの身体はたった五十五個の細胞から出来た身体であり、鞭毛以外に特殊化した『臓器』はない。多細胞生物とはいえ、身体がバラバラになっても致命傷とはならないのだ。またカブミベンモウは今咥えている部分を食べるのに夢中で、離れていった小さな部分に関心など持たない。捕食者は獲物を殺す事ではなく食べる事が大事なので、十分な量を食べられるなら追撃という『無駄』はしないのである。

 カブミベンモウが追ってこなかった事もあり、どうにかフリンは生き延びる事が出来た。

 しかし身体は今、上半身の部分しか残っていない。鞭毛は失われ、推進力さえ満足に得られない状態である。動けなければ当然獲物を追い掛け回す事など出来ず、また細胞の数が少なければ獲物を咥えるための口も作れない。消化液で溶かした獲物も、複数の細胞で囲まなければ外に溢れ出し、摂取する事は出来ない。単純な構造故に身体の多くが喪失しても生きられるとはいえ、たった十数個の細胞ではもう生命活動は維持出来ないのだ。

 十分な活動をするには五十個近い数、最低限の機能を持つには三十五個以上の細胞が必要である。

 自壊した身体に残った細胞は、たったの十六個。機能を回復させるため、フリンの身体は即座に分裂を開始する。とはいえ無から有は作り出せない。十六個の細胞に含まれている栄養分では、五十個どころかあと十九個の細胞を作り出す余力など残っていなかった。

 このような時、マエススミは何時もとは異なる細胞分裂を行う。

 まず細胞同士の連結を行うフック部分からホルモンを分泌し、現在の細胞数が少ない事を全身の細胞に通知する。これを受けて細胞の分裂が始まるが、現在のフリンは細胞数が極端に少ない。すると細胞分裂を促すホルモンが過剰に分泌される。

 細胞の分裂は促進ホルモンだけでは決定されない。分裂を抑制するホルモンもあり、これは細胞内の栄養分がある程度なければ減らないからだ。通常は細胞が大きくなると抑制ホルモンの濃度が低下し、促進ホルモンの効果が強まる事で自然と分裂が始まるが……しかし過剰に分裂促進ホルモンが分泌された場合、抑制ホルモンの効果を上回る。これにより十分な栄養がなくても細胞分裂が起こるのだ。これで細胞の数だけは揃えておく。

 勿論不十分な栄養状態で分裂した細胞は小さく、極めて貧弱だ。今のフリンの体長はたった二十マイクロメートルしかない。獲物に出来る大きさの生物は、精々十マイクロメートル以下だろう。

 多細胞生物が繁栄し、単細胞生物も多くの天敵が襲われるようになった今の時代。どの生物もホシクモが栄えていた時代よりも非常に大きく、体長十マイクロメートル以下の生物はあまり多くない。無理な分裂により細胞は飢餓状態に陥っており、長く獲物が取れなければ飢え死にしてしまうが、体力が少ないため大きな力も出せない。何より周りには今のフリンよりも巨大で、体力も十分な捕食者が数多くいる。

 一見してカブミベンモウから逃げたところで、未来はないように思えるかも知れない。実際、自切後の生存率は高くない。未だ進化の途上にあるマエススミの自切は負担が大きく、決して効果的な方法とは呼べないものだった。

 しかし僅かでも生き残る可能性がある以上、これは適応的な形質である。例え生存率が一パーセント未満だとしても、諦めて食べられるよりはずっと子孫を残せる。そして知能を持たないが故に、マエススミに絶望や諦めといった感情は存在しない。細胞が生み出す生理作用に突き動かされるだけ。

 フリンも種としての本能に従い、恐怖も焦りもせず、獲物探しを始めるのだった。

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