マエススミ3

 分裂により子孫を残してから約四十時間が経った頃。フリンは危機を迎えていた。

 今の彼女は全体的に萎んでいた。個々の細胞が張りを失っているからだ。鞭毛付きの細胞が噴き出す酸素の量も乏しく、速度もあまり出ていない。

 如何にも弱っている。僅か四十時間の間に、何故フリンはこんなにも弱ってしまったのか?

 その理由は、獲物が捕まえられなかったからだ。

 ただし飢餓に喘いでいる訳ではない。マエススミ達の細胞は、祖先種であるホシクモと同じく恒星からの電磁波を吸収し、活動を維持するためのエネルギーを生産している。食べ物がなくとも理論上は長期間、それこそ何億年でも生存する事が可能だ。

 では何故萎んでいるかといえば、それは移動のため大量の酸素を消費している事が原因である。マエススミは捕食者であり、獲物を探して動き回り、時には追い駆けなければならない。しかし移動には酸素の放出が不可欠だ。いくら鞭毛のお陰で効率化されているとはいえ、速度を出すためには常に大量の酸素を放出する必要がある。

 酸素は身体の中の水分を分解する事で得ている。つまり噴射すればするほど、細胞から水分が失われていくのだ。都合の悪い事にマエススミの細胞には飛んできた分子を受け取るための穴が失われており、彗星が近くを通っても水は得られない。このためマエススミはどうしても獲物を絶え間なく捕まえなければならない。

 水が足りないのは生物にとって致命的だ。水は栄養分やエネルギーを『運搬』するために必要であり、これが足りなくなると十分なエネルギーが身体に行き渡らない。またビギニング星系の生物においては、宇宙空間という生活環境故に強力な放射線に晒されている。細胞質の水が少ないと放射線が貫通し、遺伝子などを傷付けてしまう可能性が上がるのだ。身体の大きさや水分量により維持出来る時間は大きく異なるが、一般的には四十~五十時間獲物が取れないと水分不足からマエススミは死に至る。フリンはかなり危険な状態で、何時生命活動が停止してもおかしくない。

 マエススミに脳はないので『必死』になる事はないが、身体の水分量が低下すると酸素に対する感知能力が向上する性質がある。厳密に言うなら、満腹に近いほどたくさんの酸素を検知した時にだけ方向転換を行う。これは酸素が多い、即ち近くにいる獲物だけを襲うようにするための仕組みだ。わざわざ遠くの獲物に向けて進むのは効率が悪いので、余裕がある時は近くにいる獲物だけを狙う。しかし細胞の水分量が減っている状態では、そんな選り好みはしていられない。遠くの酸素にも、僅かな痕跡にも反応し、なんでも良いからと獲物を探す。

 その性質もあって、フリンはほんの僅かな酸素に反応。方向転換を行い、この痕跡を残した微生物の下へと向かう。幸いと言うべきか、微生物はあまり活発には動いておらず、フリンはその微生物との距離を詰める事が出来た。

 出来たが、だが途中でフリンの動きが鈍る。

 理由は。酸素の量は距離だけではなく、もう一つの情報も教えてくれるのだ。

 それは相手の大きさである。大量の酸素があるという事は、相手はそれだけの酸素を生み出せる体躯を有しているという事。勿論噴射の理由次第では(例えば姿勢制御など)僅かな酸素しか出さない時もあるが、それでも身体が大きくなればどうしても噴射量は増加していく。

 フリンが感知した酸素量は、今の彼女にとって非常に『危険』な大きさの生物がいる事を示していた。そしてこの本能的な判断は正しい。

 フリンが迫っていた相手は、体長五十七マイクロメートルにもなる存在だった。

 イモウカビだ。外見がサツマイモに酷似したものであるため私がそう名付けた。マエススミと同じく多細胞生物であり、四十もの細胞で身体を構築している。細胞膜に開いた穴から水分を取り込んで生きる生物であるため、多細胞生物だが口のような構造は持たず、また鞭毛も生えていない。肉体を構成する細胞はどれも同じ構造をしていて、噴射口を持ち合わせていた。

 イモウカビもマエススミと同じくホシクモを祖先に持つが、分類は集合体綱という全く異なるものに属している。集合体綱はその名の通り複数の細胞の集合体で身体を作るグループであり、現時点のビギニング星系において最も多様性・個体数を有する多細胞生物群でもある。所謂成功した存在と言えよう。

 分類云々はさておき、身体の大きさがフリンにとっては問題だ。分裂したばかりのフリンは体長六十五マイクロメートルしかない。イモウカビより一回り大きいものの、圧倒的な有利を取れるほどの体格差ではない。もしも暴れられた場合、『怪我』を負う事もあるだろうし、逃げられてしまう可能性もある。

 考えるような脳はないものの、フリンを形作る細胞の中では化学反応のせめぎ合いが起きる。獲物に向かうべきか、危険を避けるべきか……

 細胞内で優勢になったのは、獲物に向かうための反応だった。それほどまでに今のフリンは飢えている状態なのである。

 鞭毛がまた動き始め、イモウカビに向けてフリンは動く。口を大きく広げた状態で迫り、そしてついにイモウカビに噛み付いた。噛むと言っても歯なんて生えていないので、咥えるという方が正しいだろうが。

 しかし『咥えられた』という情報に反応し、イモウカビは大きくその身体を波立たせる。

 イモウカビやその祖先達は長い歴史の中で、幾度となく捕食者に襲われてきた。その時に身体を構成する細胞を激しく伸縮させ、天敵を振り解いた個体が生き延びてきたのである。この個体もそうした優秀な形質をしっかり受け継いでおり、例え今何が起きているのか理解してなくとも的確な反撃が行えた。

 大きな体格差があれば、この程度の反撃などどうという事もない。しかし今のフリンとイモウカビの体躯は近い。本来であれば、この戦いはかなり拮抗したものとなっただろう。ましてや今のフリンは長く獲物を食べていない飢餓状態。痩せた身体で出せる力は、普段の健康的な時よりも数段劣る。

 だが、フリンが振り解かれる事はない。むしろ少しずつ口を広げ、どんどん丸飲みにしていく。

 イモウカビに『焦り』などという心理状態は存在しないが、飲み込まれるほど細胞で感じる物理的接触は多くなり、それに対する反応である細胞の伸縮も激しくなる。だがやはりフリンは離れない。離れる気配もなかった。

 体格差のある相手を抑え込める理由は、フリン達マエススミの細胞が狩りのため『特殊化』しているため。

 マエススミの細胞膜には穴がなく、彗星などが運んでくる水分子を取り込む事が出来ない。栄養吸収能力を失う事は、ヒトには不適応な変化に思えるかも知れない。だが穴をなくした事で、マエススミの細胞は極めて丈夫なものとなった。強く伸縮しても千切れない、言い換えれば強い力を出しても身体が傷付かなくなったのだ。また他生物の身体から直接タンパク質などを得るため、一部のアミノ酸合成が不要になり消失。機能がなくなった事で浮いたエネルギーを細胞質の強化に用い、強い力を生み出せるよう進化した。

 そして特に重要なのは、マエススミの細胞は『分化』が進んでいる事。

 機動力を生み出すのは身体の末端にある鞭毛だけ。このためマエススミの身体を作る細胞には、推進力を生むための仕組みが一切ない。大きな鞭毛があるため個々の細胞に移動能力は必要なく、退化していた。代わりにあるのは獲物を捕まえた後、逃さないよう馬力を生む仕組みだ。対してイモウカビの細胞はどれも同じ構造をしており、全ての細胞に噴射口が備わっている。このため全ての細胞が同じ作業を行えるものの、一つ一つの能力を見れば『退化』した細胞ほどの力はない。

 体格差が拮抗していようと、栄養状態に差があろうと、イモウカビの力ではマエススミを振り解く事は困難なのだ。

 ――――イモウカビ達集合体綱は成功したグループである。だが、その栄光は『過去』のものだという注釈を付けねばならない。彼女達は極めて古い形質を有した、多細胞生物の祖先種に近い種なのである。勿論古い生物が必ずしも劣っている訳ではなく、環境によっては誰よりも適者となる。だが無尽蔵のエネルギーと食料に溢れた今のビギニング星系では、原始的な仕組みよりも高等化した細胞の方が適者だった。

 そして今正に集合体綱を喰い、その減った分だけ数を増やしているのがマエススミの属する長鞭毛綱である。優れた運動能力を持った捕食者は、原始的な祖先種を次々と食い荒らしていた。それこそ、今のフリンのように。

 とはいえイモウカビの方も、黙って喰われ、衰退している訳ではない。優れた捕食者の出現という強い淘汰圧を受けたイモウカビは、様々な対抗策が急速に進化・発展していた。フリンに咥えられたイモウカビが細胞を伸縮させ、暴れたのも対抗策の一つである。

 他の対策としては、膨張があった。

 フリンが咥えていたイモウカビの細胞は急速に膨れ上がり、体長が二倍近くに膨張した。これは細胞内にある水を分解して酸素と水素を作り出したため。液体が気体になると体積が数百倍以上になるため、質量を変えずに膨れ上がる事が出来るのだ。ちなみに酸素と水素は後で水に戻すため、消費するコストも安い。

 この膨張作戦は姿がぷくぷくと膨らむため一見間抜けにも見えるが、マエススミにとっては極めて厄介な防御形態だ。マエススミの口には歯がなく、捕まえた獲物は丸飲みにしなければならない。大きく膨らむと口に入らず、捕食する事が出来なくなってしまう。いや、食べられないだけならまだ良い。今のフリンのように、ある程度飲み込んだ状態で膨らむと……イモウカビと違って伸縮性がない身体は裂けてしまう。

 フリンの身体も膨張に耐えきれず、裂けそうになる。大抵のマエススミはここで諦めてイモウカビを吐き出すだろうが、しかし脱水で死に掛けているフリンは離れない。身体が裂けようが、ここで獲物を逃がせばどの道死ぬ……等と考える神経はなくとも、飢餓状態の細胞が発する『食欲』の信号が身体を突き動かす。

 フリンの全細胞が力を込めてイモウカビを飲み込もうとする。限界を超えた力により、口回りにある細胞が三つ、細胞膜が破けてしまった。細胞質が宇宙空間に霧散。エネルギーを運ぶ事が出来なくなり、壊れた細胞は機能停止する。細胞が減ればそれだけ出せる力の総量も減り、補うようにもっと力を出せば他の細胞が破裂する。このままでは自壊を待つだけだ。

 だが、フリンは幸運に恵まれた。或いは執念勝ちと言うべきか。

 イモウカビが三つ目の防御策を発動させたのだ。その防御策とは、咥えられた部分を切り離して逃げ出す事。

 即ち自切である。身体の一部を千切るなどヒトから見れば痛々しい所業だろうが、イモウカビの細胞はどれも同じもの。細胞が半分ぐらい失われたところで、生命活動に大きな支障はない。勿論細胞が減った分だけ繁殖が遠退き、小さくなれば天敵に対する防御力が減るなどの問題もあるが、今死ぬよりは遥かにマシだ。

 このまま膨張を続けるだけでもイモウカビはフリンから逃げられただろう。だが知性を持たないイモウカビには、今敵がどんな状態なのか判別する術はない。感じ取れるのは自分が咥えられている事、そして敵が今も離していない事の二つだけ。刺激の総量が一定の閾値を超えた事で、生理的に自切行動を引き起こした。フリンが途中で(意思など持っていないが)諦めていたら、イモウカビはこのような行動は取らなかった。

 咥えられた部分を切り離すと、イモウカビは大量の酸素を噴射。全速力でこの場から離脱する。イモウカビには逃げられたが、フリンの口の中にはその肉片が残っている。少なくともその量は、飢えと消耗を補うには十分。

 今回の狩りは成功したといっても良いだろう。

 尤も、知性などないマエススミは感慨になど浸らない。フリンはすぐに手にした肉片を飲み込み、消化酵素を分泌。細胞を分解し、アミノ酸や水分などの栄養素を取り込んでいく。

 得られた『肉』が多いため、これを全て成長に回せればフリンの身体は八十マイクロメートルほどになっただろう。しかし今回、無理のある力の使い方をした事で負傷した。最終的に五つの細胞が損壊している。また飲み込むために前進しようと激しく振り回したため、鞭毛の劣化も酷い状態だ。

 このまま成長しても、元の運動能力は戻らない。

 そしてそれはフリンの細胞も『理解』していた。勿論神経系すらないため意識などないが、細胞同士を結合するフックから細胞の欠落を感知している。このような時、マエススミはまず身体の修復を優先する性質があるのだ。

 細胞分裂を行い、小さくとも細胞の数を揃える。また鞭毛付きの細胞が『老朽化』している場合、細胞ごと分離して廃棄。その後分裂を行って細胞数を五十五にすると、身体の末端に位置する細胞が変化する。エネルギーと資源を消費し、鞭毛を生やすのだ。これで運動能力も取り戻す。

 身体の形が元に戻った後は、体内のメンテナンスを行う。先程食べたイモウカビの細胞は、大量の水分を含んでいた。彗星などが運ぶ粒子を餌としているイモウカビ達の細胞は、最も豊富な元素である水を多量に含む。エネルギーの運搬や放射線防御のためにも水は必要だが、マエススミ達の細胞はイモウカビほど大量には水を含んでいない。要するに水が余っている状態だった。他には酸素や水素なども余り気味だ。

 不要なものは排泄する。地球生命もしているように、マエススミも排泄行為を行う。といっても肛門はなく、未消化物を口から吐き出すだけだが。

 この時、細胞内に溜まった老廃物……過剰な金属元素やアンモニアなど……もついでに排泄する。これら老廃物はイモウカビのような彗星由来物資を主食とする生物にとっては貴重な炭素・窒素源であり、通常自分の代謝などで生じた分は恒星のエネルギーを利用して変換・再利用している。祖先であるホシクモもそうしていた。一見して、マエススミ達もそうする方が適応的に思えるかも知れない。

 しかしマエススミは獲物から大量の有機物を得られるので、わざわざアンモニアなどをリサイクルするほど窒素には困っていない。正確には、獲物が取れないと窒素不足になる前に水分不足で死ぬため実質的に問題とはならないと言うべきか。そのためアンモニア変換機構などは退化・消失し、より細胞が高い運動性を発揮出来るよう進化していた。こうなると逆にアンモニアは毒素となってしまうため、排泄せざるを得ないのである。

 老廃物を出した頃には、もうフリンの姿は元通り。

 身体の機能が回復したが、フリンはしばし動かず停止する。これは休んでいる訳ではない。神経すら持たないマエススミ達に自発的な行動なんてものはなく、あらゆる行動が内外からの刺激を発端にしている。餌を探しに行くのは、酸素が細胞表面のレセプターにくっついてからの事。

 このため酸素が飛んでこなければ、フリンは死ぬまで動かない。尤も、そのような心配は無用だ。今のビギニング星系には無数の生命が存在し、彗星や排泄物などの刺激に反応して絶え間なく活動を続けている。酸素を用いた推進力も無数の生命が使い、何時でも何処でも噴射されているのだ。

 フリンの下に酸素分子が一個飛んでくるのに、一分と待つ必要はない。

 接触してきた酸素が飛んできた方に向けて、フリンは進み始めた。

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