マエススミ2

 ビギニング星系における多細胞生物の誕生は、ホシクモの繁栄が終わってから二億年後の事だ。そこから更に一億年の進化を経て、個体数はまだ少ないものの、ビギニング星系における多細胞生物の数は増加傾向にある。今回観察するマエススミもここ最近(凡そ三十万年前)現れ、台頭を始めている種の一つだ。

 宇宙空間に浮かぶ無数の生き物達の中を、マエススミの一個体が悠々と泳ぐように進む。体長百二十マイクロメートル。成熟したばかりの若い個体だ。彼女をフリンと呼ぼう。

 フリンの身体を構成するのは、全部で五十五の細胞である。これらの細胞のうち、五十四個の細胞はどれも同じ大きさと構造をしている。丈夫で粘膜を持たない細胞膜に覆われている細胞だ。ただし祖先であるホシクモと違い、細胞膜に小さな穴は開いていない。代わりとばかりに中心に窪みのある……例えるなら小さな火山のような形の……突起物が何十と生えている。膜は分厚く頑丈で、変形するのに不向きな作りだ。全く形が変わらない訳ではないが、ちょっと仰け反るような『姿勢』を作るのが限度。また細胞の集合体である『身体』には筒のような口があるものの、個々の細胞には祖先ホシクモの頃に獲得した口や噴射口は完全に失われていた。

 特異な形をしているのは、身体末端にある鞭毛が生えた細胞だけだ。

 この細胞が持つ鞭毛をくるくると、さながら船のスクリューのように回す。勿論宇宙空間は真空であるため、いくら鞭毛を振り回しても普通ならば推進力とはならない。しかし鞭毛の根元には小さな穴があり、この穴から酸素など老廃物に由来する気体が噴射されていた。噴射された気体は鞭毛の動きにより絡め取られ、回転を加えられた状態で放出される。この時の反作用でマエススミは前進している。

 フリンも鞭毛をくるくると動かし、穴から気体を噴射しながら進んでいた。移動速度は秒速二百マイクロメートル……〇・二ミリと言う方がヒトにとっては分かりやすいだろうか。

 極めて遅いように思えるかも知れないが、マエススミの体長は百二十マイクロメートル。体長の倍近い距離を一秒で渡る速さというのは十分に優れているだろう。またフリンの周りには多数の単細胞生物がいて、祖先であるホシクモと同じように噴射口から直に気体を吐いて動く個体が数多くいたが、いずれもフリンの半分ほどの速さも出せていない。

 これほどフリン達マエススミが速く動けるのは、身体の末端にある鞭毛のお陰だ。

 鞭毛の動きで絡め取られた大気は、回転する動きによって加速し、ただ噴射するよりも速く放出される。放出速度が速ければ速いほど反作用は強くなるため、これを推進力としているマエススミの身体はより素早く動く事が出来るのだ。更に鞭毛の周りに空気を絡める、つまり空気を狭い範囲に束ねる事で拡散を抑え、噴射した際の反作用を進行方向だけに向けさせている。これにより他種よりも少ない噴射でも必要な推進力が得られる、言い換えれば同じ噴射量でより速度を出す事が可能だった。

 そしてこの速さは、彼女達の生存に大いに役立つ。

 フリンの全身がぴくりと震えた。無論、多細胞生物とはいえ神経を持たないフリンは何かを『感じる』という事はない。これは細胞がある刺激に反応し、細胞膜の収縮が起きたからに過ぎない。

 フリンの細胞が反応したのは、酸素。

 マエススミの細胞膜にはレセプターと呼ばれる突起状の『感覚器官』がある。このレセプターに酸素分子が触れると、それを感知した細胞が僅かに動く。この動きが他の細胞に伝達し、最終的に鞭毛を有した細胞の向きを変える。

 これにより酸素と接触した方に進路を変える事が可能だ。フリンも身体を震わせた後に微かながら方向転換を行い、進む向きを変えていた。

 しかし何故向きを変えたのか? その理由は、酸素がだからだ。ホシクモを祖先に持つ単細胞生物達は、噴射口から酸素を吐き出す。祖先と同じく電磁波によって水からエネルギーを得る仕組みを採用していて、その老廃物として大量の酸素が出るからだ。体外に出してしまうのだから、いらないものを利用するのが一番効率的である。

 フリンが向いた先にも単細胞生物が一体浮かんでいた。直径三十マイクロメートルほどの球形をした、オオツブと呼ばれる種である。この辺りの宙域ではよく見られる種の一つで、祖先種であるホシクモと同じく彗星や小惑星が撒き散らした分子を食べて生きている。ホシクモよりもずっと活発な生物であり、微かな水素にも反応して噴出口から大量の酸素を吐き出し、彗星が通る場所を求めて動き回っていた。

 今もオオツブはフリンから離れるような向きで動いている。だがフリンの速さからみれば、オオツブの動きなど子供のよちよち歩きだ。距離を詰めるのは容易。瞬く間にフリンはオオツブと隣接するほどに近付いた。

 続いて、口を大きく開く。

 これは高い酸素濃度を正面から検出した事で、口周りを形成する細胞達が大きく仰け反ったため。開いた口はオオツブを正確に中央に捉え、三十マイクロメートルはある大きさを包み込むのに十分な開き方をしていた。

 オオツブの方もフリンの接近に気付いた(勿論単細胞生物に神経系はないため自意識もない。あくまで比喩表現だ)ようで、更に激しく酸素の噴射。全速力で逃げようとするが、フリンの方がまだまだ速い。フリンはオオツブをあっさりと丸飲みにしてしまう。それでもオオツブは逃げようと酸素を出し続けるが、『体内』から酸素を検知した事でフリンは口を閉じた。これでもうオオツブは逃げられない。

 そして飲み込まれたオオツブに待つのは、消化酵素だ。

 フリンは巨大なオオツブを飲んだ事で、体内から圧力を感じ取る。この圧力を刺激にして、身体を構成する五十四個の細胞から消化酵素が分泌された。タンパク質や炭水化物の分解に特化した酵素で、ビギニング星系の生物を分解するのに向いたものである。細胞膜を溶かされたオオツブは、やがて中身が溢れ出して死に至る。

 こうして獲物を捕食し、フリン達マエススミは成長する。

 マエススミはビギニング星系の生態系における捕食者プレデターなのだ。それもかなり高位に位置する優秀な狩人で、捕食に特化した進化を遂げた種である。祖先であるホシクモ達と違い、彗星などの分子を取り込む仕組みはない。穴が幾つも開いた細胞は脆く、強い運動性を発揮する上では邪魔だからだ。餌は全て他の生き物を襲う事で得ていた。

 ホシクモ達の繁栄に終わりを告げた、捕食者の誕生から三億年……今やビギニング星系には多数の捕食者が生息し、マエススミのような生粋の捕食性多細胞生物も少なくない。そして捕食性ではない、かつてのホシクモのような生き方をする多細胞生物も数多く存在している。

 今やビギニング星系は、多細胞生物の黎明期。新しい種が次々と生まれ、栄える時期に入っていた。総バイオマス量では単細胞生物の方が圧倒的に多いが、この比率も遠からぬうちに変化するだろう。

 多細胞生物達の誕生が起きたのは、ビギニング星系の生存競争や食物連鎖が苛烈になった事が一因である。そして生存競争・食物連鎖の苛烈化は、ホシクモの時代よりも生物数が大きく増加した事で生じた。

 より詳しく説明しよう。

 この時代から二億年前。クモグイの誕生に適応し、ホシクモ達の中から様々な種が誕生してからしばらく経った時から、ビギニング星系では更に生物の総数が増えた。ホシクモ達が全盛期を誇っていた時期よりも、更に五倍近い数まで増加している。またホシクモは彗星など物資の供給がない時期は餓死により個体数が大きく減っていたが、新たに生まれた新種達は彗星がない時期でも殆ど数を減らさず、安定した個体数を維持するようになった。

 生物数が著しく増加した要因の一つは、新たな生物種の身体能力が優れていたため。クモグイという捕食者の出現により、天敵から逃れるため運動能力に優れる個体が生き延びやすくなった。素早く動き回れるのは単に天敵から逃げやすいだけでなく、餌となる彗星などの粒子も素早く摂取に行ける。これにより今まで取りこぼしていた分子が大きく減ったのだ。

 またクモグイのように口で食べ物を接種する種が現れた事で、今まで利用されていなかった資源――――『死骸』も活用出来るようになった。

 ホシクモ達は細胞膜に開いた小さな穴に入る分子しか利用出来ず、飢えて死んだ同種の亡骸という巨大な塊を食べる事は出来ない。このため死骸は手付かずで放置され、恒星の重力に捕まり落ちるか、恒星の重力圏から外れて宇宙の彼方に飛んでいくか……大半は利用可能なところまで分解される前に、ホシクモ達の生息圏から流れ出ていた。

 餌を大きな口で食べる種であれば、死骸を飲み込む事で資源として利用出来る。これにより生息圏の外に死骸が流出する事を防ぎ、彗星などが運んできた物質を生息圏に溜め込む事となった。循環する資源が増え、それを糧とする生物……より正確に言うなら有機物またはバイオマス量……が増えたのである。また餓死した個体を餌とする事で、彗星が来ない時期でも食べ物が得られるようになり、個体数の安定に繋がった。

 生物が増えた事は一見賑やかで良い事に思えるかも知れない。確かに獲物となる生物が増えるのは捕食者にとって好ましいが、同時にライバルとなる生物が増える事も意味する。また獲物達は散々天敵に襲われ、鍛えられている(正しくは捕まらなかったエリートの血統だけが生き延びている)ため簡単には捕まえられない。おまけに仲間の数が増えれば、結局食べ物の取り合いも激しくなる。そして何より、自分が喰う側だとは限らない。敵となる危険な生物も数多くいる事となり、自分が餌として喰われる可能性も高い。生き物が増えても楽園どころか、激しい殺し合い・奪い合いが横行するだけ。

 こうした激しい競争が繰り広げられる中、生き残るために必要なのはどのような形質か?

 戦略は様々であるし、環境により最適解は変わるが……大きくなるのが最も確実な方法だろう。大きな身体は小さな身体よりも馬力に優れる。どんなに非力なヒトでも、地上最強のアリよりはパワーがあるのと同じ事だ。

 最初は、細胞自体が大きくなった。大きな細胞は天敵からふれば飲み込む事が困難であるし、逆に獲物は簡単に飲み込める。噴射する空気の量も多くなるので、速度も出せるのが強みとなった。しかし大きな細胞が成功者となれば、他の細胞も皆大きくなる。大きな細胞を獲物に出来た天敵、大きな細胞から逃れられた獲物が生き残り、次世代を繋ぐがために。

 しかしこの細胞を大きくする方法は、すぐに限界を迎える。個々の細胞が持つ強度などたかが知れていて、あまりに大きくなると細胞自体の形態を維持出来ないからだ。細胞膜を厚くするなど強度を高めれば巨大化も出来、そのような進化を遂げる種もいたが……分厚い細胞膜では柔軟な動きは出来ない。動きが妨げられ、折角の速度が活かせなくなっていく。

 それでも大きくなければ、強くなければ生き残れない環境。様々な変異が生まれ、絶え、また生まれを繰り返し――――

 ついに誕生したのが、分裂したのに細胞がくっついたままという形質だった。

 これがビギニング星系における多細胞生物の起源だ。細胞が二個あれば、単純に二倍大きな力を出せる。天敵を蹴散らすのは簡単であるし、ライバルを押し退けるのも容易い。そして細胞自体が大きくないため、個々の細胞を支える細胞膜は薄くて良い。大きくなっても柔軟な動きが可能だ。

 一度細胞二個の多細胞生物が生まれてしまえば、後の進化は容易だ。くっついている細胞の数が増えれば良い。時代を経るほど、多細胞生物の細胞は多くなり……

 今の時代の最先端をいくマエススミは、五十五個もの細胞を持つようになった。細胞数を増やすのが今の進化の『トレンド』といったところであり、とても細胞数が多いマエススミが繁栄するのは必然と言えよう。

 さて。多細胞生物とマエススミ誕生の経緯を説明したところで、視点をフリンに戻す。

 三十マイクロメートルもある獲物を食べた事で、フリンの身体は大きく成長した。分解された炭水化物などは全ての細胞に均等に割り振られるため、個々の細胞の大きさに差は生じない。全細胞が十分な物資を得て、丸々と太るように膨らむ。今にもはち切れそうな状態であり、実際これ以上物質を取り込んで膨らむのは危険だ。

 そしてここまで大きくなった事で、繁殖の準備は整った。

 フリンの身体を作る五十五の細胞の一つが震える。これは分裂を伝える信号であり、一個の細胞が分裂可能なところまで育つと他の細胞に知らせるのだ。知らせを受けた細胞は、自身の状態がどうであれ分裂の準備を行う。先程述べたように全ての細胞が基本的には同じ大きさまで育っているので、刺激を受けた段階で分裂を開始しても問題はない。

 また分裂の準備が始まると消化酵素の分泌を止め、体内にある異物……今まで食べていた生き物の亡骸も吐き出す。貴重な食べ物を吐き捨てるのは勿体ないように思えるが、繁殖する上で邪魔になるため残しておく訳にはいかない。将来の飢えよりも、今の繁殖を確実に行うのが適応的である。

 邪魔なものを排したところで、フリンの身体を作る細胞はついに分裂を始めた。

 分裂開始の信号を受けてから一斉に準備を始めているため、分裂のタイミングも息を合わせたように一致している。五十五個の細胞全てに切れ目が入り、細胞内に仕切りを作っていく。分裂速度に細胞ごとの違いはほぼないため、分割が終わるタイミングも殆ど一緒だ。

 全ての細胞が分裂を行ったため、フリンの身体は一時的に百十個もの細胞で形作られる。細胞が分裂して増えたため身体の大きさは変わっていないが、これは今のビギニング星系において他の追随を許さない細胞数だ。このまま成長すれば、フリンはビギニング星系において『最強』の生物となるだろう。

 しかしその生き方は困難、というより不可能である。

 何故ならマエススミの生理機能と形態は、五十五個の細胞で運用する作りとなっているからだ。百十個もの細胞で身体を作ると、口が潰れて開かなくなったり、鞭毛の動きが制御出来なくて真っ直ぐ進めなかったり……生きる上で必要な行動が満足に行えない。それでいて百十個分の細胞を賄うための物資が必要になり、今まで以上に大量の獲物が必要となる。細胞数を無暗に増やしても、簡単には強くならないのだ。

 何より繁栄する生命体とは『強い』ものではない。より多くの遺伝子を残せた、『増える』ものである。マエススミが繁栄出来たのも、強いからではなく、増える能力があるからだというのを忘れてはならない。

 フリンはまた一層身体を震わせる。今度は細胞が分かれる事はないが、代わりに『身体』に切れ目が入った。丁度五十五個ずつに分かれている。

 脳も何もないのに細胞数をきっちり分割出来る理由は、細胞の結び付き方に秘密がある。マエススミの細胞には細胞同士を連結する『フック』があるのだが、一ヶ所フックを引っ掛けるのと同時に細胞内にある『カウント器官』という細胞小器官が働く。具体的にはフックとフックが結び付いた時、フック根元から電気信号を放出。これを受けたカウント器官は電気信号を吸収し、内部にある突起を一つ分離する。カウント器官は五十五本の突起を持ち、今の細胞が幾つ連結しているかを正確に数えるのだ。そして五十五個の繋がりが出来たところで、全ての突起が離れる。

 五十五個の分離した突起は、それらが結合して新たなホルモンへと変化。このホルモンを検出した細胞は余っているフックを格納し、これ以上の連結を防ぐ。こうして五十五個の細胞で出来た身体が作られるのだ。

 ……今回のフリンのように、きっちり五十五個分かれる確率は二割ぐらいだが。何分化学反応に依存するため、遅かったり、偶々フックが結合するタイミングが一致したりで、上手くいかない事の方が多い。とはいえ五十五個の細胞で形作る身体というのはマエススミにとって理想ではあるものの、絶対にそうでなければ生きていけないという訳ではない。百十個の細胞を運用・維持する能力はないが、五十六個になった途端保てなくなるものではなく、五十四個で獲物を捕まえられないほど弱体化する事もないのだ。また細胞数が少なくても、ある程度は『対応』する能力がある。

 勿論すんなり分かれてくれれば、それに越した事はない。今回のフリンとその子孫は大きな問題もなく分離。百二十マイクロメートルあった身体は、一時的に大きく育ったものの、今では六十五マイクロメートルまで縮んだ。分裂を終えると、それぞれの個体は自然と離れていく。離れる際は酸素を用いた噴射で加速するが、この酸素に反応して子孫や親を食べようとはしない。分裂直後は抑制ホルモンが分泌され、『食欲』が湧かないのだ。

 尤も、その食欲抑制効果は五分ほどで切れる。

 何処かから飛んでくる酸素を検知すると、フリンは小さな生き物目指して進み始めるのだった。

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