マエススミ5

 フリンは幸運に恵まれた個体だった。

 カブミベンモウに襲われた後、小さな身体になってしまったフリンだったが、餓死する前に獲物を見付ける事が出来た。天敵に襲われる事も数度あったが、いずれも深手を負う事なく逃げ出す事に成功。成長を続けている。

 今では体長八十マイクロメートルまで大きくなった。このまま成長していけば、いずれ分裂も行える。

 ……優れた捕食能力と運動能力。飢餓に対応する仕組み。天敵への対処法。

 これまで見てきたように、マエススミは単純な多細胞生物ながら様々な能力を有した生物だ。四億年前に栄えた祖先種・ホシクモよりも遥かに高等な進化を遂げた存在である事は、ここまでの観察からも分かるだろう。

 だが、どんな生物でも永遠の繁栄はない。

 マエススミは現在順調に数を増やしている種族だが、同時に陰りの兆候も見え始めていた。例えば以前狩りの時に逃がした、ヒメタマ属の繁栄もその一つ。獲物として捕まえ難い生物が少しずつ数を増やしている。今は逃げる能力のない生物ばかりだが、いずれは捕まえられない種が多数派となり、飢えて死んでいくマエススミが急増するだろう。またカブミベンモウのような危険な捕食者の躍進も無視出来ない。マエススミが栄えるほど捕食者も数を増やし、その繁栄を妨げる。祖先であるホシクモが捕食者の出現により急速に衰退したように、マエススミの個体数もいずれ急減する。

 喰うか喰われるかの食物連鎖が始まってまだたったの四億年。未熟な生物達は、だからこそ些細な進化……毛を身体の周りに生やすぐらいの進化で、優秀な捕食者から簡単に逃げられるぐらいの大躍進を遂げ、その影響で捕食者の多くが絶滅していく。

 マエススミも今のままでは衰退・絶滅は免れない。変化し続ける生態系において、『古い』形質はいずれ生き残れなくなるのだ。フリンも今は子孫を残せているが、何十世代も後になれば生み出す子孫よりも失われる子孫の方が多くなる。このまま成長・分裂しても未来は明るくない。

 では、どうすれば生き残れるのか?

 それは変化する事だ。変化する環境に合わせ、少しずつ自らの遺伝子も変えていく。これこそが存続する生命の基本である。厳密には様々な変異を生み出した結果、偶々環境に合ったものが生き延びていくというべきだが。

 結局のところ進化するしかない。そしてこの進化を生み出す原動力は、細胞内の遺伝子が損傷などで変化する突然変異である。例えばホシクモからクモグイが誕生したのも、そこから様々な種が誕生したのも、ヒメタマという優れた逃走能力を持つ種が生まれたのも、全て無数に生じた突然変異の賜物だ。

 しかし突然変異だけに頼る進化は、多細胞生物では効率が悪い。

 単細胞生物であれば、突然変異=進化だった。何故なら細胞が一つしかないため、一個の細胞で起きた変異はそのまま『全身』の変異となったからである。不利なものだろうが有利なものだろうが、今はなんの役にも立たない変異だとしても、全身の変異であるがために次世代に間違いなく引き継がれる。環境の変化や変異の積み重ねにより、これらはいずれ大きな進化の原動力となるのだ。

 だが多細胞生物の身体は複数の細胞で出来ている。ここで細胞一個だけが変異しても、それは『全身』の変異とはならない。遺伝子はあくまで一個の細胞が持つ情報であり、突然変異が起きたとしても特殊な事情を除けば周りに伝播しないのだから。マエススミはまだ単純な多細胞生物なので、生殖細胞を持つような『高等生物』に比べれば幾分影響が次世代まで残りやすい(分裂までにその細胞が生き残れば良い。有利な形質があれば少しずつ増えていき、最後は全身を形成する可能性が高い)が……途轍もなく有利な突然変異を起こしたとしても、体細胞の数十分の一しかその働きを持たないのでは、大した効力は発揮しないだろう。

 勿論数十分の一でも有利な形質の細胞があれば、生存率は僅かでも上がるため適応的だ。長い目で見れば個体数を増やしていく。しかし自切するための激しい運動性など、他の細胞と協力しなければ発現しない形質は生き残りやすくないため、形質が広まるかは運試しになってしまう。自然淘汰による進化はどうしても運の要素があるものの、可能ならば運要素は小さくする方が適応的である。

 マエススミの身体には、運に頼らないための機能が備わっていた。

 仕組みが発動する切っ掛けは、ある細胞に突然変異が起きる事。今のフリンの身体を構成する細胞も、一個だけ突然変異が起きていた。以前カブミベンモウに襲われ、逃げ出した後に行った細胞分裂の際に遺伝子のコピーミスがあったのだ。緊急の細胞分裂では遺伝子修復が『雑』になりがちのため、突然変異が残りやすい。

 そして全身を構成する五十五の細胞の遺伝子を、マエススミの細胞達は常に『確認』している。

 厳密には細胞同士を結び付けるフックの傍に、遺伝子情報に応じた『鍵』と『鍵穴』がある。鍵と言ってもただの凹凸でしかなく、これは細胞同士が結び付いた後に生成される。鍵は遺伝情報の最小単位であるコドン(地球生命の場合三つの塩基で一つのアミノ酸を示している。ビギニング星系の生物では三つの炭素の共有結合数の組み合わせで一つのアミノ酸を指定する)を構成する炭素数、このコドンが集まって出来ている一個のタンパク質の設計図(コーディング領域と呼ぶ)により凹凸の『高さ』が決まる仕組みだ。同じ高さになる組み合わせは幾つかあるものの、大抵はコドンまたはコーディング領域の内容が変化すれば鍵の凹凸も変化する。このため突然変異により遺伝子が変化すれば、鍵と鍵穴は合わない。

 鍵穴が不一致でも、生存上の不利益は特にない。基本的にはこれまで通りの生活を送り、鍵が合わない……突然変異を起こした細胞と一緒に、多細胞生物として生きていく。

 しかし細胞内では小さいながら変化が起きていた。

 それはある種のホルモンが分泌される事。このホルモンの働きにより、身体の栄養がある程度蓄積すると通常の『繁殖』とは異なる経過が生じる。

 具体的に何が起きるかと言えば、獲物を食べた時の栄養分配が変化する。

 今、フリンが体長六十マイクロメートルもある多細胞生物・ヒゲムシを捕らえた。ヒゲムシは細長い体躯と無数の鞭毛を持ちながら、彗星由来物質を摂取して育つ大人しい生物。逃げ足こそ速いが、捕まえてしまえば大した抵抗は出来ない。大きな口でヒゲムシを丸飲みにし、フリンの身体に大量の栄養が取り込まれた。

 得られた栄養は、まず全身の細胞に行き渡る。これまでの活動で消費した水分、代謝で失われたタンパク質などの補給……生命活動を行う上で必要な分の配分だ。これをしなければ、今後の活動が出来ない。

 ホルモンの影響により変化が生じるのはこの後。

 通常であれば、そのまま残りの栄養も均等に分配される。全身の細胞が同時に分裂する事で増えるマエススミにとって、この方法が最も合理的だ。ところが突然変異を起こした細胞があると、この突然変異細胞に残りの栄養が一気に流れ込む。

 栄養を受け取れば、その分細胞は育つ。突然変異を起こした細胞も急速に成長。そしてある程度大きくなったところで、細胞は分裂を始める。

 本来なら分裂が始まった時は増殖のタイミングであるため、分裂した細胞はそのまま分離する。しかし突然変異を起こした細胞が分裂しても、増えた細胞が身体から離れる事はない。そのままフリンの身体に留まっていた。

 ヒゲムシから得られた栄養分は、分裂一回分では済まない。一個の細胞に大量に注がれた事でもう二個新たな細胞が生まれたが、やはりこれらの細胞もフリンから離れず。

 最終的に三個も細胞が増えた。マエススミの身体は基本的に五十五個の細胞で形作られているため、この三個は体型を形作る上では余分なもの。そのため身体に出来た突起物、イボと呼べるような肉塊となる。多少なりと知能があれば、身体に生えたイボを気にするかも知れない。だがフリン達マエススミに知性などなく、生えたイボをどうこうするつもりはない。

 食べたものの消化・吸収が終われば、フリンは次の獲物を探す。

 イボが生えた身体は、一見してバランスが悪く、動きを妨げるように見えるかも知れない。実際重心のズレや体重の増加もあり、運動能力はイボが生えていない時よりもやや低下している。

 しかし彼女達が暮らしているのは、空気がない宇宙空間。このため空気抵抗は存在せず、気流の乱れなど動きを妨げるものも生じない。重心のズレなどの影響は僅かなものであり、進もうとした方角が大きく変わる事はないのだ。

 イボが生えていても、フリンの機動力は然程衰えない。大した時間も経たないうちに手頃な獲物の存在を感知し、一直線に向かい、また捕まえて丸飲みに。その栄養はすぐ全身に分配。残った分は変異細胞に集められ、新たな分裂を促す。

 これを何度かしばらく繰り返せば、イボは大きく膨らんだ……直径五十マイクロメートル以上ある塊まで育つ。

 ここまで大きくなると、流石に動きの邪魔となる。フリンは自分の動きがコントロール出来ず、狩りに失敗するようになった。自我もないため、原因など理解しようもないが、しかし獲物が取れなければ体細胞は痩せていく。

 イボが直径四十マイクロメートル以上まで育ち、尚且つ獲物がしばらくの間取れないと、今度はイボこと変異細胞の集まりが独自にホルモンを分泌。

 イボを構成する変異細胞自身が、フリンとの結合を切って離れる。

 離れた変異細胞は分裂を開始。細胞の数を増やしながら形も変えていき……ついにフリンと瓜二つの、新たなマエススミとなった。

 繁殖したのだ。マエススミはこのようにして、突然変異が起きた細胞を『新個体』として生み出す。直径四十マイクロメートル以上まで大きく育てるのは、『独り立ち』に必要な身体の大きさの最低値がこの大きさのため。それでいて大きく育てるほど生存率が高くなるため、狩りに支障が出る大きさになるまではイボ状のまま抱えておくのだ。

 突然変異した形質の多くは、生きる上で不利な事が多い。一般的には『今』生きている個体の形質が最も適応的な筈(そうでなければ生き延びている可能性は低い)であり、それと異なる形質がより適したものである確率は高くないのだ。わざわざ大事に育て、生み出しても、大半は生き残る事が出来ないだろう。

 しかし体細胞として特別なケアなしでも生きられる細胞なら、その形質は致命的なものではないと言える。多少不利な程度、或いは特に優劣がない形質であれば、運が良ければしばらく生き延びる可能性はある。優劣がなければ、広まる事だってあり得るだろう。そして生き延びた時の環境が、今と変化していれば……新たな形質が有利になる事だって、可能性としてはゼロではない。

 積極的に新たな遺伝子を有した個体を生み出す――――環境が安定していて、何億年経とうと殆ど変化しない世界であれば極めて不利な形質だ。最適解が変わらない環境では、同じ遺伝子を生み出す方が子孫を残せる可能性が高く、加えてどうせ死ぬ子孫を作り出すのは資源の無駄遣いでしかないのだから。されど変化する環境であれば、積極的にその変化に適応しなければ生き残れない。変化する世界に適応出来る形質を持つ方が、遥かに生存上有利となる。

 『今』この時代で、繁栄しているマエススミ……フリンは、新たな遺伝子を生み出すための形質が備わっている。

 フリンは今後も、自身の細胞になんらかの変異が生じる度に新個体として生み出す。それは大半が死んでいくだけの、無駄な子孫かも知れない。だがほんの一握りの、環境に合った形質さえ生まれれば、自分が生きていけない環境でも、自分の遺伝子は続いていく。

 変化するようになったビギニング星系で、マエススミはやがて滅びる。しかしマエススミの血は未来に繋がり、生き延び、栄えていく。

 そしていずれ宇宙の悪魔を生み出す要因となるのだが……これはまた、次の時代の成功者を観察しながら話していくとしよう。

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