33.
夕刻が少しずつ迫る店内の数名のお客さんをうろうろと眺めます。通りの忙しい喧騒とはうって変わって静かなものでした。小さくなった外の人の営みの声が、むしろわたしの心に小さなゆとりを作ってくれます。違う場所、違う世界なのかもしれません。厚めの本を両の手で取り出して真ん中のあたりの頁を開きます。当然ですが本は最初から読まれることを想定されており、中途半端な場所を開いても中途半端な内容しか頭に入ってきません。しかしそれ以上にこの本は読解困難であり、人類には手が付けられない技術が使われて綴じられたと推測します。
「なんだ。……薬草学に関する知識の総論のようだ。これが気に召したのか?」
わたしは首を振ります。少なくともこれを全うに楽しめるようになるのに人生を三回は繰り返さなければならないでしょう。
「そうか。……もしかすると、退屈だろうか?」
もちろんこれをわたしは否定します。否定しなければ。ウォーレンさんと一緒にいて退屈だなんて、なんて失礼なことでしょう。とはいえこの場において、手の出し方、戸の開き方のような作法がなければ満足に楽しめないのも事実です。ウォーレンさんも詳しくないとおっしゃっていましたし、手掛かりはわたし自身で見つけなければ。
わたしの現状の知識は、記憶の始まりから辿れば大半が魔法に関連することになります。つまり魔法について記した書籍があればわたしにぴったりなのですが、そんなものがたくさん出回っているわけがないことは簡単な推論から分かります。頭をぐるりと見回しながら、本の背をつらつらと眺めると、出口も分からない迷宮に閉ざされたように視界が本で埋め尽くされてしまいます。全員がわたしの手にある彼の本に嫉妬しており、自分も連れて行けとせがんでいるようでした。圧迫的な態度はむしろたじろいでしまいます。そしてせり出すように近付く本の中に、ひときわ謙虚な一冊を見つけられたのは自然かもしれません。謙虚と言っても本が実際に謙虚に振る舞うわけがなく、しかしその一冊はただ、ただそこに優しく座っていました。気にならないと称せば明らかに嘘です。
指で背をなぞり、引き出し、表面を撫でます。当然ですが書いた人間のことも書かれたタイトルのこともわたしは全く知りません。が、ペラペラと開かずとも、運命の出会いとはそれが出会った瞬間に理解されるものだと思わされます。
「それは……小説か。知識の蒐集よりは娯楽的な意味が強い」
ウォーレンさんも隣にいらして、わたしの手元の本を見ます。
「それがいいのか?」
ウォーレンさんからいただけるならどんなものでも嬉しいのは確かですが、もしも選べるならこの本がいい、そう思わせてもらえます。第一印象というやつです。
「なら、それにしよう」
二冊に増えても、手元に持つ分には特段苦労しません。ページを開いて中身をみるまでもできなくはないですが提げ鞄を持っているとなお良いでしょうか。
「ハーツが使っていない物を持っているかもしれない。なければそれも今度買うとしよう」
次の約束の口実まで生まれた完璧なデートはわたしにとって充分な満足を与えてくれるものでした。お店を出ると喧騒が耳に戻り、日の傾きはいつの間にか大きくなっていました。空の雲に橙が交じり、今日という日が幕を閉じようとしていることを意味しています。
「楽しかっただろうか?」
それはとっても!
「……君のその顔が見れて私も嬉しい。またこうやって二人でゆっくりと見て回るのもいいし、ハーツやアルカを交えて賑やかに回るのもいいだろう」
今日ご一緒しなかったハーツさんやアルカさんのことを思い浮かべます。今の皆さんは自由行動中として、ハーツさんと見るお洋服やアルカさんと回る本屋さんもそれはそれは楽しいことでしょう。想像に難くありません。でも、こうして右手の不安を埋めてくれる隣の方と一緒に、静かに歩くこの街路も、また特別で新鮮です。
ただその右手も、急に遠くなってしまうとそうも行きません。ウォーレンさんが遠ざかったのではありません。どうやらわたしの方でした。傾きのついた影が街路の先へ伸びる帰り道、わたしの視界を唐突に大きく揺り動かしたまた一つの影は、わたしの体を宙に浮かせ、痛みも、酔いもなく大きく飛び上がりました。その一瞬の出来事はあまりにも早く過ぎ去り、その現状を確認するに至る頃には、わたしの体は抱えられたまま赤屋根を飛び回っていました。人、女性。ハーツさんではありません。とんでもない足の速さで、ウォーレンさんといた場所はみるみるうちに遠ざかります。
「喋ると舌噛むよ」
彼女はそう言って、大きく跳躍し、通りをまたいで反対側の屋根へ飛び移り……
ガキッと金属のぶつかる音が鳴って、彼女は急停止します。脳が急に大きく揺れて胃がひっくり返る心地を感じますが、ちょっと我慢して手持ちを落とさぬように気を付け、音の原因を探ります。ナイフを弾いた音のようでした。屋根の対岸、数歩先にいるのは……ハーツさんです。
「逃さないわよっ!その子を離しなさい!」
一瞬で詰め寄るハーツさんは二本目を使って掛かります。ぼんやり受けるわけはなく、しかし反応速度は常軌を逸しわたしをしっかり抱えたまま、切っ先の軌跡を躱します。蹴り、払い、突き刺し、ギリギリ当たらない。身体全身、圧しても応えない水のよう。
「くっ……」
わたしの存在もあるのかハーツさんはやりにくそうです。大きな振り下ろしを見てから、わたしを抱えた彼女は隙を見たとして手元から小袋を取り出すと、ハーツさんの顔に投げつけました。袋は簡単に破れて弾け、中身が散乱します。……黒い灰、煙幕です。
「うっ、しまっ……」
視界を一瞬でも奪い、身じろがせるには十分でした。この騙し討ちはそう対応できるものではありません。
急に身体が軽くなったと思うと、どうやら抱えられたまま屋根から飛び降りていたようです。左腕に抱えた二冊を落とさないように力を強くします。都合が不幸なくらい良く、上からの視界がとても悪い路地でした。着地も見事なもので、大きな負荷が全身にかかった後すぐに水平方向へ動き出しました。急な場面変化を繰り返すわたしの視界に気後れしましたが、深く考えずともこれは明らかな窮地というやつです。声を張り上げればまだ場所に気付いてもらえる距離のはずですが、
「だめ」
喋るなという意味の手が口を塞ぎます。さてしもわたしはこの人の気の変わりようでは地面を擦り付けられながら走られたり、屋根の上から放り投げられたりもできるわけです。状況がわたしに脅迫していました。彼女に従うしかないようです。
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