海に溺れる

椿叶

海に溺れる

「この愚図」


 リザお義姉様は、私の顔は殴らない。


「本当に使えない」


 お義母様とアンお義姉様は、出会ってからしばらくは私の顔をよく打っていた。でもお父様に怪しまれてから、顔以外を殴るようになった。だけどリザお義姉様は、顔以外のところでさえ、私に痛みを与えるのを恐れていた。


「どうしてお前なんかが義妹なのかしら」


 リザお義姉様が私を殴る時、あまりの力の弱さに驚く。お義母様なんか私が床に倒れ伏そうが気にも留めなくて、むしろそうであることを望んでいるような表情を浮かべる。その度にお義母様は誰かを痛めつけていないと自分を保っていられないのだと思う。そしてそれは、アンお義姉様も同じ。


「リザ、ちゃんと躾しなさい」


 私が蹲るまで続く暴力は、最後に怒りの矛先がリザお義姉様に向くことで終わる。リザお義姉様はただただ頷いて、ごめんなさいと繰り返して、ぼろぼろになった私を見る。


 リザお義姉様の目は深い海のような色をしている。悲しみを深く捉えたようなそれには表面に薄い水が張られていて、漠然と「ああ、綺麗だな」と思う。しかし私がお義姉様に対して怒りを覚えるわけでもなく、その瞳にただ見惚れているのだと気が付かれると、その海は大きく波立って形を変えてしまうのだ。

 変えないで。変わらないで。そうは思えども、あの瞳はお義姉様のものだ。私のものではない。だけど彼女が最初に私を見るときはいつもその目をしているから、願わなくとも触れることはできた。


「リザお義姉様、ごめんなさい」


 リザお義姉様がはっとしたように私を見つめ、それからすいと目を逸らす。私が彼女だけに謝ったことに対して怒った二人に再び怒鳴られ蹴られている間、彼女の瞳は一度もこちらを見ることはなかった。



 アンお義姉様もお義母様も細いとは言えない。コルセットで誤魔化しているとはいえ、その腹が出ているのを、着替えを手伝わされている私は知っている。だけどリザお義姉様は細くて痩せていて、満足にものを食べられていなかったのだと分かる。


 きっとリザお義姉様は知らないだろうけれど、彼女の背中には痣がある。青色の花弁が貼りついたようなそれは、彼女が私と出会うまでの生活をよく表していた。

 お義姉様はお父様と結婚するまでは、あの二人に痛めつけられる役目はリザお姉様がしていたのだと思う。新しく義妹ができたからといって彼女はその役目からは解放された。代わりに、私を虐めることを強要されている。


 あの二人にとって、他人を虐げるのが向いていない人間が言われるままに義妹を殴っているのは、さぞかし面白い光景なのだろう。実際、リザお義姉様に下手くそに罵られている時に、「それじゃあ躾にならないわよ」とアンお義姉様が割り込んできたことがある。あの時の侮蔑の目は私ではなくてリザお義姉様に向けられていたのだと、はっきりと分かった。


 リザお義姉様は本当は私と同族だ。お義姉様とアンお義姉様という、彼女が逆らえない人間にただ遊ばれて、私の上に立たざるを得なくなっているだけ。だから私を見つめる瞳にあれほどの哀しさと痛みを映しているのだろう。そう思えばお義姉様の背中に落ちている花弁すら綺麗なものに感じられて、誰にもこの存在を教えまいと決めた。


「お前のドレスを破いてやるわ」


 リザお義姉様もそうやって脅されたのだろう。


「お前のぬいぐるみ、捨ててやったわ」


 リザお義姉様の大切なものは、いくつ残っているのだろう。


「お前なんか」


 私を罵る度に彼女の瞳は水で満たされる。それが頬を伝う前にお義姉様はお義母様たちから解放されて、私と二人きりにされる。


「お前、どうして怒らないのよ」


 普段なら何も言わずに部屋から出ていく彼女が、今日は途方に暮れたように私を見ている。その瞳があの美しいもので、私はただそれだけに満たされた。


「だって、リザお義姉様も好きでこんなことしているのではないでしょう」


 迷いなく答えた私に対して、彼女は狼狽えた。


「どうしてよ」


 殴られたら痛いでしょう。怒鳴られたら嫌でしょう、怖いでしょう。リザお義姉様はそう零した。


「私はお前にひどいことをしているのよ。早く嫌いになりなさいよ」


 憎いと言って欲しい。恨んで欲しい。そうすれば、あの二人の言いなりになって義妹を痛めつける罪悪感が少しは減るから。彼女が言いたいのはそういうことだった。


「いいえ、嫌いになんてなれませんわ」


 言われてみれば、好意を向けてくる相手に嫌々暴力を振るうのは相当な罪悪感があるのだろう。ただ私にはお義姉様を想う心はあれども、憎らしく思うものが一つも存在しないのだ。


 彼女に近づいてその手を取ると、彼女は怯えたように肩を震わせた。たまらずに抱きしめると、想像よりも彼女が細くて弱々しかったことに気が付く。


「早くお前に嫌われたいわ」


 そう呟くお義姉様の身体から力が抜けていること、彼女の海から水が溢れていること。その事実に、私は溺れた。



「この役立たず」


 相変わらず、私を殴るお義姉様の力は弱い。私の肌に痣が残ることすらないだろう。いつか私の背中にも痣を残してほしいけれど、それは叶うことはない。


「お前なんか嫌いよ」


 私に傷をつけてほしい。この行為が終わったあとに、また抱きしめて安心させてあげたい。そんな思いで、私は彼女に頬を差し出すのだ。


 彼女の瞳に映る海が、次第に深くなっていく。その様をただただ綺麗だと思った。

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海に溺れる 椿叶 @kanaukanaudream

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