第8話
あいつの所有していたポルシェが崖下から発見され、その中から焼死体が見つかったとのニュースが流れた。
……が、その死体はあいつじゃないことをオレは確信している。
なんでかっていうと、そもそも自殺なんてするような人間じゃないからだ。あいつには、そんな繊細さも、逃げたりする気の弱さもない。あるのは大胆さと、人を欺く天才的な狡猾さだ。
それでも、その死体はあいつのものだと断定させるようなDNAの痕跡を残しているだろうから、これで一件落着、事件のことをさっさと終わらせたいと思っている、杜撰で無能な警官や鑑識によって、あっさり幕引きがされるかもしれない。それくらい、あいつの存在は日本にとって劇薬なんだ。
まぁおそらく海外に逃げたのだろうから、今頃はオーストリアで芸術鑑賞しているかもしれない。あるいはイギリスで優雅に紅茶を飲みながら、料理が不味いと文句を言っているか。イタリアで観光しつつ、ジェラートに舌鼓を打っているかもしれない。そういえば、豪華客船で世界一周の旅もしたいとか言ってたから、南極クルーズで野生のペンギンでも見に行ってるかもしれない。
それとも故郷で静かに暮らしているか……。
いずれにせよ、目的を達成した今となっては、あいつにとって日本は暮らす意味のない場所だ。それにもう、居場所なんてない。
あいつの生い立ちや経歴について報道されると、一部ではあいつのやってきたことを美化し、擁護する傾向も見られた。
あいつはよく自分のことを、「美しく生まれたことが最大の罪だ」と口にしていた。馬鹿げたことを……と、いつも思っていたが、一連の報道を見ていて、その本当の意味がわかった気がする。表面上の美しさは、その中に隠された恐ろしい本性を覆い隠し、人々の善悪の判断を鈍らせる。あいつはその最たる者だったんだ。だからこそ、あそこまでのことが可能だったのだろうけど。
第8話「溶血」
オレは一時、殺人鬼と過ごしていた。
それも戦後史上最低最悪と呼ばれた超ド級の化け物とだ。あいつより人を殺してるのなんて、あとは戦争と疫病くらいだろう。あいつの前では、そこらの狂ったふりをしただけの殺人鬼なんて、赤子に等しい。あいつは本物の悪魔だ。
ここまで散々言ってしまったが、オレにあいつを非難する資格なんてない。オレは、オレ自身の願いを叶える為に、あいつを利用していたからだ。むしろ共犯者のレッテルを貼られても仕方ないような人間なんだ。
だけど、あいつはオレの罪も全部持っていってしまった。たぶん、地獄の底まで持っていくだろう。
そうなった経緯は、2021年4月に遡る。
オレは当時、高校2年になったばかりだった。その頃、黒い切り裂き魔のニュースが世間を騒がせていて、それが学校の近所で起こったものだから、学校中が少し不穏な空気に包まれていたのを覚えている。大半は他人事と思って面白がっていたような気もする。特に男子生徒は。
七限の英語の授業は、教科書に書かれた文章を、席順に読み上げていくだけのつまらない作業にしか過ぎなかった。あいつも日本の英語の授業はクソだと言って憚らなかったが、そこだけは唯一、オレとあいつが分かり合えた部分だ。オレは終業のチャイムが鳴るとほぼ同時に、教室を出た。
階段を降りている途中で、視界の端に革靴が目に入った。目線をゆっくり上げると、そこに立っていたのは担任の神藤だった。
「早いな、もう帰るのか?」
神藤は生物教師で、まだ30代半ばくらいだろうに、覇気のない表情とどこか虚な目は、若々しさには程遠かった。髪には白髪が混ざり始めていたくらいだ。それでも、毎日スーツを着こなして教壇に立つ姿は、一部の女子からは人気があったみたいだから、女の趣味ってのは理解できない。
「空手辞めてから、なーんもやる気起きなくてさぁ。」
「……残念だったな。」
神藤の何を考えているか分からない表情は、何かに似ていると思っていたが、最近になってようやく分かった。ヴェネツィアの仮面だ。人間の形をしているんだけど、どこか無機物に見える不気味さを宿していて、オレはいつも目を逸らしてしまう。
「いや、いいんっすよ。気にしてないっす。どうせいつかは辞めるときが来るんだし。オレにはそれが早かったってだけで。」
「陸上でもやらないか?陸上部の顧問の先生が、お前の走りを見て感心していた。」
「陸上?それは嫌だ、ダルイ!走らされるのは嫌だ。茶道部か華道部からのお誘いがあれば、考えるかも。」
当然のことながら、神藤はくすりとも笑わなかった。こいつのことを一年の時から知っているが、そんなところは見たことも聞いたこともない。そもそも冗談を冗談とも思っていないのかもしれない。むしろ「いいと思う」なんて言い出しそうだったから、つまらないことを言ってしまったと後悔した。
「……もったいないな。お前ほどの運動神経の持ち主が。」
「買い被りすぎっすよ、先生。」
「
階段の下から、オレを見つけた
「おう。じゃ、先生、お先ーっす。」
ヴェネチア仮面の視線を背中全体に感じながら、オレは階段を降りた。
「神藤、なんて言ってたんだ?」
ロッカーから靴を取り出しながら紫音が聞いてきた。心配しているふうな口ぶりだが、その横顔は明らかにニヤついている。
「陸上でもやらないかってさ。」
「陸上?面白いこと言うな、神藤のやつ!」
「素だぜ、あいつ。冗談言えるようなヤツかよ。」
「はははっ。確かにそうだな。」
取り出したスニーカーを勢いよく地面に落とした。
紫音は幼馴染だった。子供の頃から頭のいいやつで、もっとレベルの高い進学校に行けと言ったのに、なぜかオレと同じ高校がいいと言ってついてきた変人だ。もちろん高校でも成績優秀。それでいて日本人とアメリカ人のハーフで、金髪碧眼の容姿端麗ときたもんだから、ちょっとズルい。これだけ完璧だと、嫉妬する気も起きない。何か別の人間なのだろう。
「お兄ちゃん、咲良くんっ。」
校門の前で待っていたのは、紫音の妹の
「よー、花音。高校はもう慣れたか?」
「うん、友達もできたよっ。」
花音は兄貴とよく似た顔で笑った。
「そーいやお前、部活はどうすんだ?」
「どうすんだ?じゃないでしょー?高校でも空手続けようと思ってたのに、お兄ちゃんも咲良くんもやめちゃってさ!」
「オレは怪我で出来なくなったんだよ。ほら、何もお前まで辞めることなかっただろ?」
「咲良はオレがいないと1人になるだろ?」
「うるせーよ。」
「色々見学も行ったけど、テニス部とか楽しそうなんだよねぇ。ユニフォーム可愛い!」
花音はそう言って、テニスの素振りをしてみせた。
「はー?運動部なんてクソだぞ、やめとけやめとけ。吹奏楽部とかにしろよ。」
「えー?!音楽なんて興味ない!」
「そうだよ、花音。運動部って髪を短くしないといけないんじゃないか?そんなのありえない。ヘアアレンジできる今のロングヘアが1番可愛い。それに屋外のスポーツなんて日焼けするだろ。紫外線は肌の大敵。今は若いからいいかもしれないけど、将来のシミやシワの原因になるんだぞ。お兄ちゃんは認めません。」
「……。」
オレと花音は目を合わせて閉口した。
紫音の妹に対しての熱量が時々ヤバいのは子供の頃からだった。それをいちいち揶揄っていた時期もあったが、さすがにもう飽きてきた。というか、疲れた。
「ね、それより咲良くん。明日、何か予定ある?」
「いや、別にないけど……。」
「ほんと?じゃあ明日、ゲームセンター行かない?!どうしてもゲットして欲しいものがあって……!」
「あー……、別にいいけど。」
「やった!お兄ちゃんも行くでしょ?」
「ん?いや、オレはいいかな?咲良と花音で行っておいで。」
「なんだよ。用事でもあるのか?」
「まぁね。」
その含みを持たせた言い方に、オレはピンときた。
「おい、花音。これは絶対、オンナだぜ。」
「えーーー?!嘘ぉ。お兄ちゃんがぁ?!」
「はははっ、そーゆーのじゃないって。」
「そうだよね。お兄ちゃんみたいな顔しか取り柄がないような男を好きになるなんて、騙されてるもん。」
女のきょうだいは、時としてこういう辛辣なことを平気で言ってきやがる恐ろしい生き物だ。
「あっ、言ったなお前……」
花音はきゃーきゃー言いながら紫音から逃げ回った。
「いい年して何やってんだよお前ら……。」
オレは呆れて2人の背中を見つめていた。2人は、ガキの頃から何も変わらない。
今にして思えば、こんな馬鹿みたいな日常がオレにとって大切なことだった。
オレは、こんな日常を取り戻したくて、その願いが叶うならと、悪魔に魂を売ったんだから。
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