第2話 


 京一のポルシェ911の車内には、ドイツ語の重苦しいハードロック音楽が大音量で鳴り響いていた。


「僕、常にこうしてないと落ち着かないんです。お気になさらず。」


 そうは言われても、野太いボーカルに負けないような激しいギターのリフやドラム音に、百合は少なからず動揺したようだ。


「い、意外ですね……。もっとクラシックとか聴かれるのかと……」


「あぁ、それよく言われるんですけど、クラシックは苦手なんです。父が好んでよく聞いていたので。」


「お父さんと仲が悪かったんですか?」


「いえ、父のことは尊敬してますよ?ただ、父は僕が4歳の頃から毎日8時間は椅子に縛り付けて勉強させるような人間で……」


「え……。」


「父はヴェートヴェンなどのクラシック音楽を聴きながら、僕を見張ってるんです。だから僕は今でもクラシック音楽を聴くと、その頃のことが蘇って吐きそうになるんです。だけど世の中にはクラシック音楽が溢れてるじゃないですか?だから、できれば耳に入れたくなくて、こうしてるんです。」


「……。」


 当たり前のことのように笑顔で語る京一に、百合はピンクベージュで丁寧に塗られた唇を閉じた。





  第2話 「地下室のメロディー」




 終業後、京一の運転で百合が向かったのは、レストランでも居酒屋でもなく、京一の自宅だった。

 京一の自宅は都内の高級マンション……ではなく、都心から車で一時間も離れた郊外にあった。それも、森の中の湖のほとりにある、まるで吸血鬼の住むような洋館だった。


「広いお家。先生は、ここに1人で……?」


「1人……のときもありますし、2人の時もありますよ?」

 

 含み笑いを浮かべながら「どうぞ」と、両開きの玄関扉を開いた。エントランスホールは赤絨毯が敷かれたクラシカルな内装で、螺旋階段の先を見上げると、ステンドグラスからは月明かりが透けていた。

 ゴシックでやや華美な装飾も、京一が屋敷の主人としてそこに佇んでいるだけで、不思議と大仰なものには感じられない。


 リビングには暖炉や大きなソファとテーブルが置かれていたが、それでも十分すぎる広さだ。壁際の水槽には、カクレクマノミやイエローコリスといった色鮮やかな熱帯魚たちが泳いでいる。


「どうぞ、お掛けになっていてくださいね。」


 スーツの上着を脱ぐと、京一のすらりとした身体の線がよくわかる。百合も同じようにトレンチコートを脱ぐと、ニット素材のノースリーブという、やや肌の露出が多めな服装だった。

 京一は上質そうなワイシャツの裾を腕まで捲り、カウンターキッチンに立つ。冷蔵庫から取り出した食材を手際良く切り分けていく様に、かなり慣れていることが伺える。


「今日は木南さんに、ドイツ料理をご馳走しようと思いまして。」


「ドイツ料理、食べたことないから楽しみ!そういえば、先生はドイツ出身なんでしたっけ?」


「えぇ。17歳まで過ごしていました。」


「いいなぁ、憧れる。」


「ドイツなんて、なにもありませんよ。日本の方がよっぽど魅力的ですね。人は親切で、食べ物は美味しいし。ドイツは、食べ物といえばジャガイモかビールしかないですし。ふふっ……」


 たっぷりの水でジャガイモがぐつぐつと茹でられていく。


「でも先生が料理されるなんて意外。」


「よく言われます。でも料理はオペに似てると思っていて。手指の繊細な感覚が要求されて、ときには失敗しそうになりつつも、なんとか美味しい料理ができるように試行錯誤する過程が。最も、僕は普段は内科医なので、オペなんてしませんが。」


「先生はどうして血液内科のドクターに?そんなに器用なのに。」


「単純に、面白そうと思ったからです。でも本当は外科医になりたかったんですよ?祖父が外科医だったので、憧れて。」


 動かしている手の代わりに、アップライトピアノのほうを顎で指し示した。天板の上に飾られている写真立てには、かなり昔の白黒写真が入っていた。そこに映るスーツ姿の男は、今の京一の年齢とそう変わらなさそうで、髪をオールバックに纏め、印象的な鋭い目つきをしている。日本人とは思えないような西洋的な顔立ちは、まるで絵画の人物のようだった。


「灯野先生のお爺さま?似てますね。親子みたい。」


「ふふふ、そうですか?学生時代、祖父の昔の手術映像を見る機会がありまして。僕はそこで挫折したんです。僕のような凡人には、何百年掛けても到底及ぶことのできない高みに、祖父がいたんです。有名だった祖父の名を汚すのが恥ずかしくて、外科医にはなれませんでした。」


「うーん。でも、勿体無い。」


「そうでもないですよ?こうして、たまにお客さんに料理を振る舞うことができるので。要はハサミも使いようです。」


 京一がテーブルに皿を置いた。茹でてペースト状にされた黄色いジャガイモが、球状になって三つ並んでいる。


「カルトッフェルクネーデルといいます。オーストリアやドイツで食べられています。モチモチしてて美味しいですよ。」


「へぇ……」


「こちらは豚のスネ肉をローストしたもので、シュヴァイネハクセといいます。ミュンヘンあたりの郷土料理です。」


 パリッと皮まで焼き上がった骨付きのスネ肉に、細いナイフが縦に突き刺さったまま皿に載っていた。日本人の感覚では、食べ物に箸などを突き立てることはマナー違反だが、おそらくドイツではこれが流儀なのだろう。

 ソースと肉の香りが混ざり合って鼻腔をくすぐる。


「ドイツ料理に合うものといえば、やはりビールですが、ここはあえて赤ワインでどうぞ。」


 京一が百合のグラスにだけ赤ワインを注いだ。




 静かな室内に、ナイフとフォークの音だけが響く。湖から吹き付ける風が、時折ベランダの窓をカタカタと揺らす。


「美味しい。先生、ほんとに料理上手なんですね。」


「お口にあってよかったです。」


「先生ってモテるでしょ?」


「いえ、そんなことはありませんよ。」


「またまたぁ。じゃあ、先生の好みのタイプって?」


「好み、とは?」


「ほら、美人がいいとか、可愛い系が好きとかー。」


「あぁ、僕、女性の顔はどうでもいいです。自分の顔が整っていますので。」


「……。」


 嫌味や冗談ではなく、客観的意見に基づいた事実に、百合はぐうの音も出ない。

 京一の中に、「謙遜」という2文字は存在しないのだろう。それが個人の性格なのか、海外育ちゆえなのかは分からない。

 

「人間とは、自分にないものを他者に求める傾向がありますよね?例えば僕は、明るくて元気な性格の方に惹かれてしまいます。」


 京一が淡々とナイフで肉を切り分けていく。その手捌きは、食事というよりメスで人間の腹を切り開く作業にも見えた。


「性格というものは、幼少期の環境的な要因も大きいですが、遺伝子にも左右されます。恋愛とは、つまるところ自分とは最も遠く離れた遺伝子を持つ人間を選ぶことです。それは種の保存という概念において、多様性を持たせるために備わった、人間の本能なのでしょうね。」


「へぇー……」


「僕は疑問に思っていることがありまして。僕は自分の性格を、とても自分本位で強欲な人間だと自覚しています。そこで仮に、僕のために死んでくれるような方が現れたら、僕はやはりその方に惹かれてしまうのだろうか……と。」


 ナイフとフォークが控えめな音を立てて皿に置かれた。

 立ち上がった京一は、座っている百合の背後に回り、そっと肩に手を置いた。

    


「え?…あ……、先生……」



 そこに百合も手を重ねて、京一の顔を振り返る。形のいい唇の端を持ち上げていた。

 艶やかで、どこか危うさすら感じさせるその美しさに、目を逸らすことのできる人間がどれほどいるだろうか。男女の区別なんて超えた性別不詳の魅力に、誰しもが呼吸を忘れ、指先すら動かせなくなるだろう。



「……木南さんは、僕のために死んでくれますか?」



 そして、その美しさに惑わされた人間は、ローレライによって水底に引き摺り込まれる。

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