第3話 



 羽田空港にドイツからの航空機が降り立った。

 約12時間のフライトを終えた乗客は皆、一様に疲れた顔をしながらも、どこか安堵したような表情を浮かべている。

 到着口から、大きなスーツケースをひいた白人の男が出てきた。青白い顔で神経質そうに眉間に皺を寄せている。しばらく琥珀色の瞳でロビーに目線を左右させていたが、ついには深いため息を吐きながら椅子に座り込んでしまった。彼がそうなるのは、頭を飛び交う理解できない日本語の羅列や、長時間のフライトでの疲労感だけが理由ではなさそうだ。


「こら美優ー、はぐれるわよ。」


「パパもママも遅いー。早く行くよー!」


「ははは、そんなに急いでどこ行くんだー?」


 目の前を、日本人夫婦とその娘が楽しそうに通り過ぎていく。その姿が見えなくなるまで、じっと目で追っていた。

 何か思い出したかのように、内胸ポケットから薄い黒革製の手帳を取り出した。手帳に挟まれた一枚の写真には、1人の少女が映っている。


「クラウディア……」


 僅かに目を細めながらそう呟くと、薄い唇を噛んだ。


「よう、待ってたぜ、オリヴァーさん。」


 肩を叩かれて振り返ると、恰幅のいいスキンヘッドの白人男が、ティアドロップ型のサングラスを掛けたまま笑っていた。


「長旅はどうだった?」


「……良くないね。何なんだ、日本のこの気候は。4月なのに、湿気がひどいな。降り立ってから、ずっと頭痛がする。」


「ふふっ、そうかい。」


 漆黒のBMWにスーツケースを詰め込み、立体駐車場を出るとパタパタと雨が窓を叩きつけていた。日本に降り立ったときから感じていた、不快な湿気の正体だ。灰色の空と、都心のビル群の境界線は曖昧に映る。


「……本当なんだろうな?心臓移植が受けられるというのは。」


 オリヴァーがやや緊張気味に切り出した。


「わざわざ日本に来させといて、今更嘘はないだろう。」


「私は君のことを何も知らない。三ヶ月前、教会で会ったからchurchチャーチと言うこと以外、何も。」


「その何も知らない男にアンタはついて来たんだ。まさに神頼みってやつだな。」


 いかにもアメリカ人らしく、チャーチは豪快に笑った。


「だがここから先は神頼みもクソもない。アンタが今から会いにいくのは、ワガママ、気まぐれ、強欲、性格最低最悪のクソヤローのところだ。」


「……いいところがひとつもないな。」


「あぁそうだ、その通りだ。いいところなんて一つもない。強いていうなら顔が取り柄だ。あとは顔、そして顔だ。それしかない。ヤツはママの胎内に頭のネジを置いてきてしまった人格破綻者。2人のうち、1人は表向きは比較的だが、どちらもサイコ野郎に変わりはない。間違っても深入りするな。だがあの手のクソ人間は、どうも人を惹きつける何かを持ってるから始末が悪い……。」


 チャーチは何か身に覚えがあるのか、肩ををすくめて、苦虫を噛み潰したような顔をした。


「アンタは真面目で文化的なドイツ人様だから大丈夫だと思うが、お行儀と口にだけには気をつけろ。絶対にヤツの機嫌を損ねるな。全てパーだ。前に肝移植だかなんだかでアイツの手術を受けようとしたやつがいたが、何か癪に障ることをしたんだろう。そいつはそのまま臓器を取り出されて、それは別の患者に渡った……まぁ、それはちょっとした事故みたいなものだな。」




  第3話 「ドイツからの訪問者」



 空港から高速道路を車で1時間半ほど走ると、大都会・東京のビル群とは全く異なる風景にどんどん変わっていく。

 人気のない深い森の奥。湖のほとりに、一軒の屋敷が建っていた。その周囲には、満開の桜の木々が風に揺れている。

 砂利が敷かれた庭に車を停車させると、チャーチは改めて忠告する。


「いいか、質問されたことには、か、で答えろ。それくらいがちょうどいい。殺したくなるようなことを言われても一切反論するな。手術を受けたいのならな。」


 オリヴァーは「わかった」と二度、頷く。


 車のエンジン音で気づいたのか、玄関から1人の日本人男性が出てきた。髪をオールバックに纏めて銀縁の眼鏡を掛けた、スーツ姿の壮年男性だ。

 チャーチは「気をつけろよ」と改めて目つきだけで念押しすると、やたらと大袈裟に両手を広げて車外に出た。


「ヘイ、Dr.高橋タカハシ!元気だったか?!」


「お久しぶりです、チャーチさん。」


 出迎えた彼はチャーチとハグをすると、オリヴァーにも「Guten Tag」と、握手を交わしてきた。

 高橋のドイツ語はその一言だけで、あとは英語での会話だった。


「はるばるドイツからようこそ。私も30代の頃、10年ほどドイツで過ごしていたことがありまして……」


 多少、日本語訛りの残る英語だが、それでもオリヴァーには十分に伝わった。


「そうなのですね。ドイツのどの辺りに滞在されていたのですか?」


「ベルリンです。」


「……奇遇ですね。私は生まれはデュッセルドルフですが、20年前からベルリンに住んでいます。会話はドイツ語でも構わないですか?」


「ふふふ、私の話すドイツ語はひどいものですよ?カフェでコーヒーを頼んだのに、ベーコンが出てくればまだマシなほうです。」

 

 高橋は柔和な笑顔で、「どうぞ」と屋敷内へ促した。

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