第4話 

 


 リビングに案内されたオリヴァーは、ピンと背筋を伸ばしたままソファに腰掛け、何もない机の上あたりをじっと見つめている。だが、時折落ち着かない様子で、キッチンで紅茶を淹れている高橋に視線を向けている。

 チャーチなんかは慣れた様子でコーヒー片手にベランダに立ち、湖を見つめている。今にもバーベキューでも始めようなどと言い出しそうな勢いだった。


「……Dr.高橋、」


 そう口を開きかけたオリヴァーの視界の端に、さらりとした長い黒髪が映り込んだ。

 官能的なホワイトムスクの香水の香りに釣られるように顔を上げると、ワイン色の医療用スクラブを着た女の後ろ姿があった。

 女はどかっとオリヴァーの正面に腰掛けると、ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま足を組んだ。視線を女の顔の方に這わせると、造形が美しいながらも、やや三白眼気味の目つきは、どこか爬虫類を彷彿とさせた。手元や耳元はカルティエの高級ジュエリーで纏められている。

 刺すような女の視線に、オリヴァーは居心地が悪そうにしていると、ベランダからチャーチの声が飛んできた。


「君の担当医、Dr.ヨーコだ。」


「え……?」


 オリヴァーは若干、戸惑った様子で高橋のほうを見るも、カウンターキッチンの中から高橋も頷いた。

 てっきり高橋が主治医と思い込んでいたところに、高橋とは親子ほど歳の差がありそうな……せいぜい20代後半くらいの女が現れたのだ。


「チャーチ……。アンタが連れてくる患者はだいたいややこしいから嫌なんだよね。それでもあたしが引き受ける理由は分かる?」


 高橋に比べるとかなり流暢な英語を話すが、不機嫌そうな低い声だ。いや、実際に不機嫌なのだろう。嫌味なほど整った顔立ちは、不機嫌さに歪められていても、それでも十分に美しかった。


「ふふふ……、金だろ。」


 チャーチがジュラルミンケースをどかっとテーブルに乗せ、中身を開けてみせた。


「200万ユーロある。」


 だが、ケースいっぱいの札束を見せられても、ヨーコの形のいい片眉は吊り上げられたままだった。


「……ふん、200万ユーロなんて日本円にしたら、たったの3億円じゃない。この前の中東の客は、700万ユーロ払ったけどね。不景気ってやつ?それとも中抜きがひどいのかしら?」


 あからさまなため息をついたヨーコは、偉そうに「高橋」と呼びつけると、高橋がグラスと、ボトルに入った赤ワインを運んできた。ヨーコはグラスに赤ワインを並々と注ぐと、ミネラルウォーターでも飲み干すような勢いで喉に流し込んだ。まだ、日の明るい昼間のうちだ。オリヴァーは唖然とせずにはいられなかった。古今東西、こんなにあからさまに患者の前で酒を飲む医者なんて、存在しない。


「この女が本当にドクターなのか……?」


 思わずドイツ語で口走ってしまった。

 それは無意識なのと、おそらくドイツ語が理解できないと思っていたのだろう。

 だが、


「Wenn du ein Problem hast, dann hau ab.」(文句があるなら出ていけば?)


 ヨーコの唇から、日本人とは思えないような流暢なドイツ語が出てきたので、オリヴァーの色素の薄い瞳が見開かれた。


「日本人の女だからってご不満?ドイツ人って、77年前から進歩しない差別主義者よね。その差別から起きた過去の歴史を、1人に責任押し付けて被害者ヅラしてるけど、国民自らの手で合法的に選択した結果ってことを分かってる?」


「おいヨーコ、イギリス人もびっくりな皮肉はそのへんでやめておけ。」


 チャーチが咎める。


「皮肉じゃなくて歴史的事実を述べているだけでしょ。最初に言っておくけど、あたしは欧州やアジアの言語ならだいたい理解できるわよ。悪口が言いたいなら、ヘヴライ語ででも話すことね。まぁその前に、ここから出て行く方が早いだろーけど。」


 親指でくいっと出口の方を指した。

 最初から良くはなかった場の空気が、氷点下30度くらいまで下がったのは誰の目にも明白だった。

 女王の城では、何人たりとも逆らう権利などない。


「いや……気を悪くしたのなら、申し訳ない。若い女性だったので、少し驚いただけだ。」


 交渉決裂かと思われたが、オリヴァーが殊勝な態度にでると、ヨーコはそれ以上は追及しなかった。つまり、いくらかは大人なようだ。


「……高橋、カルテを。」


 ヨーコは分厚いカルテの束を高橋から手渡されると、目を這わせていった。瞬きのたびに長いまつ毛が揺れ、灰色の瞳が左右に動く。

 

「重度の拡張型心筋症ね。ふん……?投薬治療もいよいよ効果切れ、か。これじゃあ確かに、心臓移植しか治るすべがないわね。」


 赤く塗られた唇から発せられる、そのまったく澱みのないドイツ語は、ドイツ語話者のオリヴァーが聞いても全く違和感がない。


「職業、Der Arzt医師。へぇ、アンタも医者なんだ?何科の医者?」



「……精神科医だ。」



 さすがにこれには口を開くことを許されたようだ。ヨーコがふーん、と鼻の奥を鳴らした。


「ドイツは、日本よりは臓器移植が盛んな国だけど、それでも心臓のドナーが見つかるのは難しい。それで遠路はるばる、あたしを頼ってきたってわけね?」


「……私には、死ねない理由があるんだ……。」


 絞り出すような声だった。

 ヨーコはそんなオリヴァーの顔を再び一瞥すると、「gutいいわ」とカルテを閉じた。


「手術は1週間後。ホテルに待機しておいて。滞在中、何か体調に変化があれば高橋に連絡を。」


「Dr.ヨーコ、質問しても?」


 どうぞ、と促したヨーコは、二杯目のワインを注いでいるところだった。顔色はまったく変わらない。


「君が引き受けてくれたということは、ドナーが存在するということだが、提供者はどのような方だったんだ?」


「……なぜ、そんなことを、知りたいの?」


 グラスの中身を揺らしながら、僅かに小首を傾げた。


「レシピエントの私がドナーのことを知ろうとするのは本来、タブーだということはわかっている。だがその方は、私が生きる代わりに神のもとに召されるんだ。私は今後一生、毎日その方のために祈りを捧げるつもりだ。」


「分かるわ、Dr.オリヴァー……。あなたはとても敬虔で、模範的なクリスチャンなのね。」


 そう諭すヨーコの口調は、今までとは打って変わって柔らかいものだった。そして自身の胸元に光る、小さな十字架のネックレスを細い指に絡めた。


「でも命が助かりたいのなら、神への信仰心、人としての良心……、そして医師としての倫理観は、今は全て捨てることね。生きることは、綺麗事じゃないから。」


 ヨーコがはじめて歯を見せて笑った。

 だがその笑顔は、安堵感を与えるものでは決してない。例えるなら、新しい玩具を与えられた子供と同じだ。そこにはもちろん、子供ほどの無邪気さはない。

 まっさらな狂気。

 その一方で、神経質なくらいに白く美しく並んだ歯は、紛れもなくこの女に知性と教養が備わっている証拠でもあった。






「では1週間後……。」


 ルームミラー越しに、高橋が車に向かってお辞儀しているのが見えた。


「……あの女性は、本当に日本人なのか?あんなに自然なドイツ語が話せるものだろうか。」


「あいつの中国語を聞いた中国人が、アンタと同じようなことを言ってたし、オレから言わせりゃアイツの英語はイギリス人のアクセントがある。何にせよ、あまり深く追求するな。あいつは国籍も年齢も一切不明。なんだったら正規のライセンスを持ってるかどうかも怪しい。わかってるのは、数カ国語を話せる化け物ってことと、金さえ払えば移植手術を請け負ってくれるってこと。そしてクソ人格だが、アンタみたいにあいつの手術を受けたい人間が後を絶たないってことだ。」


「Dr.高橋は、君の話していた印象と、随分違っていたな。」


 チャーチが「あぁ、違う違う」と笑った。


「オレが言ったのは、今日は姿を見せなかったが、もう1人、あの女の弟がいてね。かなり若い頃のアラン・ドロンに日本人要素を混ぜたような色男だが、常にニヤけたようなツラで、何を考えているか分からない薄気味悪い野郎さ。大人しそうな癖に、一年のうち364は爆音でハードロックやメタルを聴いている狂人だ。」


「聞いている音楽で人を判断するのはよくない。」


「……自分の爺さんの葬式でもだぞ?これはDr.高橋が言っていた。」


「……。」


 オリヴァーが何かを察したかのように、固く目を瞑った。


「そうそう、その爺さんの話で思い出したが、あんた、ドイツ人なら第二次世界大戦中は日本と同盟国だったんだろ。Dr.メフィストフェレスの話を知ってるか?」


「ゲーテだろう。Dr.はファウストのはずだが。」


「そうだな、アンタならそっちのほうが馴染みが深いよな。だがDr.メフィストフェレスっていうのは、ある日本人医師のあだ名だ。大戦中、アメリカ人の捕虜相手に人体実験を繰り返していたっていう医者さ。」 


「……耳が痛いね。そういう話ならナチスドイツにも腐るほどあるが……。それがどうしたんだ?」


「ナチスだの、メンゲレ博士だの、そんなチャチなもんじゃねぇ。オレは当時の裁判記録を見たことがあるが、興味本位で調べた自分を心底呪ったね。あんなことができるのは本物の悪魔だ。」



 チャーチがサングラスの奥の目を細める。



「あの姉弟は、その男の孫だって噂だ。」

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