第1話
白衣の胸元に入れていた院内PHSが、けたたましく鳴った。
「はい、灯野です。」
2021年春、東京。
都内、某総合病院。
灯野京一は、医局の自テーブルで昼食を摂り終え、休憩もそこそこに担当患者の検査結果に目を通していたところだった。
「灯野先生、木村さんが発熱です。」
電話口の若い看護師が要件を告げる。
「わかりました、すぐに向かいます。」
京一は手短に会話を終えると、席を立った。
第1話 「ローレライ」
利便性と患者の集客を追求して、数年前に新築移転してきたこの病院は、都内という狭い土地の特性上、必然的に縦長の作りとなった。上層階が患者病棟からは東京湾を臨め、晴れた日は富士山が見えるなど、入院患者からの評判は良かった。
エレベーターが11階に着くと、京一の足は真っ直ぐに目的の病室へ向いていた。この階には京一の担当患者が多く入院しているが、その一人一人がどこにいるのか把握しているらしく、その足取りはまったく迷いがない。
1102号の個室病室の前で足を止めると、室内のテレビの音が廊下にまで漏れてきていた。
『被害者は肝臓を摘出されていたとの情報もあり、警察では引き続き犯人の行方を……』
京一は小さく息を吐くと、控えめにノックして入室した。
「……木村さーん?」
ベッドに腰掛ける80歳近い老女はテレビの画面に見入っていて、京一の存在に気づいていない。
「き、む、ら、さん。」
京一が顔を覗き込んでようやく、「あぁ、びっくりした。なんや先生か。」と目を丸くした。
「体調はいかがですか?顔色は悪くないですねぇ。」
「なんともないんやけどなぁ?なんや、看護師さんが熱があるって。大袈裟やわぁ。」
木村は関西訛りの言葉で、皺だらけの顔を更に綻ばせた。
「ふふふ、そうですねぇ。でも木村さんは今、人より白血球がかなり少ない状態なので、ちょっとしたことで感染を起こす可能性があるんですよ。」
「灯野先生、採血はどうします?」
若い看護師がノートパソコンが乗せられたカートをガラガラと押して入室してきた。
「では抗生剤の投与前に、血液培養の採取を1セットお願いします。」
「はぁい。」
そう返事をすると、彼女は備品を取りにナースステーションに戻った。
「せやけど、変な事件ばっかりやなぁ……。」
木村がテレビを見ながらため息をついた。お昼のワイドショーでは、男性司会者が大きなフリップボードの前で事件のことを振り返っている。
『都内では去年から、被害者が殺害された後、臓器を持ち去られるという事件が相次いでいます。そしてその残虐性から『黒い切り裂き魔』と呼ばれているわけですが……、犯人はどんな人物だと思いますか?』
元警視庁の刑事だったというコメンテーターが、眉間に深い皺を寄せて話し始めた。
『非常に狡猾で、用意周到だということですね。警察も全力を挙げて捜査を行なっているのですが、それでも尚、証拠すら掴めていないというのは、かなり知能の高い犯人ではないかと思います。』
『臓器を奪われる……ということですが、いったい犯人の目的とは?』
『まぁ、1番考えられるのは快楽殺人でしょうね。殺害した上で、さらに痛めつけてやろうというサディスティックな欲求に基づいて、臓器を奪い去るんです。あるいは、これは海外で例がありましたが、カニバリズム……つまり、食べている可能性も…』
「……。」
京一がテレビの画面を見つめながら、遠くを見るように目を細めた。
「嫌やわぁ、人を食べるんやって。気色悪いなぁ。人魚の肉と
「え?人魚の肉を食べたら、どうなるんですか?」
「なんや、先生も知らんことあるんかいな?人魚の肉を食ったら、不老不死になれるんやで。
「へぇ、知らなかったな。僕がドイツにいた頃に聞いた人魚の話は、ローレライ伝説といって、その美しい姿と歌声でライン川を渡る船の船員を惑わし、船を沈めて破滅させる魔女のことでした。」
「べっぴんさんが人間を破滅させるって、まるで先生みたいやなぁ?」
「ふふふ……。やだなぁ、木村さん。僕はごく平凡な、真面目な医者ですよ?」
京一は柔らかい笑みを浮かべると、看護師に任せて退出した。
『幼少期に虐待を受けていたような経験があったり、あるいは社会的にも成功した人物の可能性も……』
病室を出たところで再び京一のPHSが鳴った。表示される番号だけ見て、「検査部か」とピンときたようだ。
「はい、内科灯野です。」
「灯野先生、安達さんのヘモグロビン、4.7まで下がってますが、輸血の準備どうされますか?」
「あ、そんなに下がってます?わかりました、今からオーダー入れるので、よろしくお願いします。」
パソコンを借りようとナースステーションを覗くと、看護師たちは忙しそうにパソコンの画面と睨めっこしていた。さすがにそこに割って入る勇気はないようだ。仕方なく医局に戻ろうとエレベーターを待っていると、
「灯野先生。」
と、看護師の木南百合がこっそりと京一に声をかけた。30手前くらいの、気の強さが顔に出ているような女だ。
「お疲れ様です。」
京一が頭だけで軽く会釈する。
「……灯野先生、今夜飲みに行きませんか?」
「僕、車通勤なんです。それに、お酒はほとんど飲めません。」
「えー、じゃあ食事だけでも。」
食い下がる百合に、京一は「うーん」と少し考える素振りをしたあと、目を細めて微笑んだ。
「わかりました。では、僕と木南さんだけの秘密にしておいてくれますか?」
「もちろん。」
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