或る患者の記録



 あれは一年前の2021年、東京にも桜が咲く頃でした。


 私は都内の区役所職員です。妻と娘が1人います。部署内の異動やらで仕事が繁忙期を迎えていたその頃、どこかにぶつけた覚えもないのに、私の手足に紫色の痣のようなものが現れはじめていました。特に気にも留めていなかったのですが、妻が繰り返し「おかしい」と言うので、煩わしさを感じながらも近くのクリニックに罹ってみたところ、血小板の数値が異常に低いと指摘されました。

 他に自覚症状もなかったのでピンとこなかったのですが、「このままだと転んで頭を打っただけで死ぬかもしれない」と、クリニックの医師に半ば脅される形で、私はその日のうちに都内の総合病院を紹介されました。


 病院に着いた頃には午後を回っていましたので、待合にいる患者はそれほど多くありませんでした。建物自体はとても綺麗でしたが、座っているのは顔色のよくない老人ばかりで、陰気臭い場所だなんてその時は思っていました。今思えば私は、そのときになってもまだ、病気なんてどこか他人事だったのです。


 しばらくして待合のモニターに番号が表示され、診察室に入ると若い男の医者が座っていました。

 ……散々、顔写真が出ているので皆さんもご存知だと思いますが、実物の彼は「イケメン」だとか、そんな流行りの言葉では片付けられないほどの造形をしていました。どんなに美しい宝石も、彼の前では霞んでしまうのではないかと思え、息が止まりそうになりました。

 やや三白眼気味な眼光は鋭く、一見すると、とっつき難い印象を与えましたが、自己紹介する声や表情は、柔和なものでした。

 そんな彼から、私はどうやら免疫系に異常があり、血小板が減ってしまう難病の疑いがあるということが告げられました。身体中の紫斑もその為だったようです。


 病気を告げられ1番初めに思ったことが、仕事のこと、家族のことでした。

 これから、どうなってしまうのだろか。

 仕事は続けられるのだろうか……。

 思わず不安を口にしてしまったら、彼は

「大丈夫ですよ。お仕事を続けながら治療されている方もたくさんいらっしゃいます。」

と、柔らかい口調で言ってくれました。


 彼はまだ若いながらも知識が豊富で(上から目線のようになって申し訳ないのですが)、それでいてまったく偉そうではなく、診断までのプロセス、治療方針などを、素人の私にでもわかるようにしっかりと話してくれました。そしてこちらが話している時は、電子カルテにキーボードで入力する手を止め、じっとこちらの目を見て、頷いてくれるのです。

 丁寧な口調と、柔らかい笑顔。その頃にはもう、私はすっかり彼のことを信頼していました。


 血液疾患の診断のためには骨髄穿刺をするのですが、これは腸骨といって、腰のあたりの骨に針を刺して骨髄液を採取します。診察台にうつ伏せにされ、腰に触れられたときの、やたらとひやりとした彼の指の感触に、なぜかぞわりとしたのを今でも覚えています。


 それから1週間ほどで診断がつき、本格的な治療が始まりました。投薬の為に月に何度か通う日が続き、夏になる頃には紫斑もすっかり消え、血小板の値も落ち着いてきました。もちろん仕事も続けられています。


 その頃には、診察の合間に仕事や家族のことなんかについて彼と雑談するようになっていました。

 彼は、上品な男でした。いつも高価そうな腕時計をして、白衣の下にはブランド物と思われるワイシャツとネクタイを身につけているのですが、不思議と嫌味には映らないのは、彼の品の良さに依る所が大きかったのだと思います。

 両親の仕事の関係でドイツで生まれ、17歳までドイツで過ごしていたらしく、

「だから今でも日本語が下手なんです」と笑っていました。……勿論、そんなふうに感じたことは一度もありませんでしたが。


 そんな中で特に印象的だったのは、


「僕は祖父と両親も医者だったんです。生まれる前から医師になるのが決まっていたような、つまらない人生だと思いませんか?」


 と話していたことです。

 謙遜か冗談か計りかねましたが、彼が本気でそう思っていたとしても、きっと誰にも同意を得られないでしょう。

 なぜなら、私から見れば彼は素晴らしい経歴と完璧な容姿を持ち、だけどそれを決して驕ることなく他人を思いやる優しさもありました。若く、才気に溢れていて、この先も医師として成功していたことでしょう。

 それは誰もが羨むもので、彼の語る「つまらない人生」とは程遠いものです。



 そんな彼がどうして今、戦後史上最悪の連続猟奇殺人鬼なんて呼ばれているのでしょうか?



 「頭を殴られたような衝撃」とはよく言ったもので、報道でそのことを知った時の私がまさにそうでした。そしてなぜか、涙が溢れて止まりませんでした。悲しいのではありません。裏切られて悔しいという思いでもありません。そんなわけがない。あるはずがない。悪い夢だと、何かの間違いだと、何度も思いました。

 ですが、毎朝目が覚めて、ニュースに映し出される写真は、確かによく知った先生のものなのです。


『被害者は100人超か。超エリート医師の裏の顔はシリアルキラー』  


『「黒い切り裂き魔」の正体か?違法な移植手術に関与の疑い。』 


『祖父は外科医、父は研究医。華麗なる家系に隠された闇』


『Dr.メフィストフェレスの再臨』


 新聞や週刊誌はセンセーショナルに書き立てています。日々報道される内容と、私が知っている彼のイメージでは、あまりにも乖離しすぎて眩暈さえしてきます。


 あの優しい笑顔の下に、残虐な本性を隠していたというのでしょうか?


 それとも、彼の中に別の何かが宿っているとでもいうのでしょうか?



 ……いえ、そんなことあり得るはずがありません。



 私は彼の患者の1人として、今でも何かの間違いであると信じています。


 

 灯野先生。

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