Dr.メフィストフェレス

序章

1948年



 かつて日本に、灯野陽一トウノヨウイチという男がいた。 



 陽一は西暦1921年、長崎県長崎市に生まれた。灯野家は代々医師の家系で、そのルーツは出島で蘭方医学を学んだ江戸時代にまで遡るという。そして陽一もまた、自然と医師になる道を選んだ。

 陽一が医学生の頃、太平洋戦争が勃発。

 医大卒業後には地元大学病院に外科医として勤務。陽一はそこで、当時は不可能だと言われた数々の難手術に成功し、20代という若さで頭角を現しはじめていた。その天才的な腕の噂は、当時の同盟国であったナチスドイツの医師にまで知れたと言う。

 1945年8月9日。アメリカによる長崎への原爆投下が行われる。が、陽一は福岡で行われた学会に参加していて難を逃れた。そのことを後に振り返った陽一は、「嫌な予感がして、長崎に帰るのを一日遅らせた。それがなければ、私の命はなかった。私が助かったのは、神のお陰だと思った。」


……陽一は敬虔なクリスチャンでもあった。


「だけど、生まれ育った故郷の荒れ果てた姿、そして世話になった教授や、つい1週間前まで馬鹿な話をしていた同僚たち、診ていた患者、教えていた学生の死体を見た時、神は存在しないと思った。」と語ったという。



 そして日本は、ほどなくして終戦を迎える。





       「1948年」





終戦から3年後、西暦1948年。


極東国際軍事裁判 横浜軍事法廷。

法廷の両側の報道席には、日米の報道官がぎっしりと並ぶ。傍聴人席には、どこか祈るような前のめりの格好で裁判の行方を見守ろうとする者もいた。

 終戦を迎えて3度目の夏。灼熱の太陽。じりじりと鳴く蝉の声。額にじわりと滲む汗。日本の敗戦を知ったあの夏のことを、この場にいる日本人なら誰もが頭をよぎったことだろう。

 ギィ、という音を立ててオーク材の扉が開いた。腰に銃を携えた2人のアメリカ人憲兵に伴われて姿を現したのは、灯野陽一だった。

 陽一が入廷してくると、その空気は一気に重さを含んだものになり、裁判所内の誰しもが息を呑んだ。アメリカ人判事たちまでもだ。

 陽一は当時の日本人には珍しく、すらりとした高身長で、悪魔的に整った顔は、まるで絵画の中から出てきた人物のようだった。表情は柔和で、きちんとスーツを着こなす姿は、紳士そのものだ。だがよく見ると、その瞳の奥は案外鋭く、ぞくりとするような狂気を孕んでいるのを、この場にいる誰しもが本能的に感じ取った。

 それでも、ふと目が合った婦人の中には、俯いて顔を赤らめる者すらいた。灯野陽一という男は、そうやって人を惹きつける何かを持っている男でもあった。


 証言台に陽一が立つと、正面の軍事委員席に座るアメリカ人判事が、判決文を読み上げた。



The accused 被告人 ヨウイチ トウノ」



 一瞬の空白。

 蝉の鳴き声が、より一層激しさを増したように思えた。




Death by hanging絞首刑



「……。」



 自身に下された判決を聞いた陽一は、取り乱すこともなく、ただ、軽く一礼をした。


 第二次世界大戦中に灯野陽一が行ったとされる戦争犯罪。それは、米軍捕虜に対する生体実験。

 判決に先立ち行われた裁判で、その理由を問われた陽一は、


「私が行ったことはすべて、捕虜を救うための手術です。」


そう答えたのみだったという。


 陽一が行ったことが戦後、日本国内でも報道されると、その凄惨さに同じ日本人までもが恐怖のどん底に叩き落とされたという。

 しかし、その当事者であるはずの彼は、自身の行いに「死」という結果を突きつけられても、こうして口元に薄ら笑いを浮かべているだけだった。


 この時のアメリカ人判事と陽一とのやり取りの記録が、今も残っている。


「何を笑っているのか?」


 アメリカ人判事が問いかけると、陽一は流暢な英語で答えたという。


「あなた方アメリカは、大勢の日本国民を殺しました。それなのに、まるで神にでもなったかのように、こうして私に審判を下す姿に、私には些か滑稽に映ったのです。私を罪人とするのは結構です。ですが、あなた方の罪は一体誰に裁かれるというのでしょうか?」


「Dr.ヨウイチ。日本は戦争に負けたんだ。それ以上でも、それ以下でもない。そして我々は、誰にも裁かれることなどない。」


「……では、いずれ私が報いを受けさせて差し上げましょう。神に代わって。」



 陽一は、天才的な手術の腕を持つ医師だった一方で、その悪魔的な所業から、ナチスドイツのみならず、アメリカをはじめとする連合国側から、こう呼ばれて恐れられていた。




 Dr.メフィストフェレス



 それはドイツのゲーテ著『ファウスト』の中に現れる、ファウスト博士を誘惑する悪魔の名前。


 その悪魔の口から出た「報い」という言葉に当時の関係者が、えも言われぬ恐怖心を抱いたことは想像に難くない。それと同時に、陽一が処刑台に送られることにどこか安堵していたであろうことも。



 だが、陽一はこの2年後、恩赦を受けて釈放されることとなる。

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