【世界樹の下で】櫻花「まったく困った息子ね」

 サキが目を覚ますと水中にいた。当然息が出来ず、ゴボゴボ溢れる肺に残っていた貴重な空気に半狂乱になりそうになった。


「ん? もう目ぇ覚めたのか」


 ほらよっとという声とともにサキを包み込んでいた水球が弾ける。落下する前に五本の指で彼女をうつ伏せに掴んだのは、もちろん青龍セイリュウだった。

 誘拐されたのだと気づき拘束を解こうともがく彼女に、彼は呆れ混じりになだめる。


「ジタバタするなよ。落ちたら死ぬぞ」

「…………」


 誘拐犯の言葉に冷静さを取り戻したサキは、ピタリともがくのをやめた。

 周囲は上も下も前も後ろも右も左も濃い靄。はっきりと視認できるのは、なびく金髪だけだ。すっかり乾いていたのは、髪だけではなく服も体もそうだ。おそらく、水球が弾けたときに、彼女の服や髪、体の余計な水分まで飛ばしてくれたのだろう。

 乳白色の闇に溺れそうなある種の悪夢のような光景。けれども、サキには覚えがあった。世界の外縁、ブチはそう呼んでいた。

 サキが大人しくなると、青龍は軽薄そうに喋りだした。


「頼むから、そのまま大人しくしててくれよ。あんたに怪我でもされたら、俺が困るんだよ」

「いきなり攫っておいて、信用できるとでも思うの?」

「ハハハッ、そりゃそうだ。だが、嘘じゃない。俺は勝てない喧嘩は売らない主義でね、〈最強〉は敵に回したくない」

「その〈最強〉って、もしかしてブチのこと?」

「なんだって? ブチ? お前は奴をそう呼んでいるのか!! 面白い女だな、あんた」

「面白い女なんて初めて言われた。わたしは、なんの取り柄もない女よ」

「いやいや、謙遜するな」

「で、わたしをどこに連れて行く気?」


 本当に危害を加えるつもりは毛頭ないのだと、サキは確信する。


「あんたに会いたいって人がいてな。俺はその人に頼まれただけだ」

「わたしに会いたい人って誰?」

「あんた、さっきから質問ばかりだな。俺ばかり答えるのも面白くないから、俺からも訊かせてくれ。あんた、なんで奴の逆鱗を首飾りなんかにしている?」

「…………ブチに肌身はなさず持っているように言われたから」


 あれが逆鱗だなんて知らなかった。


(というか、ドラゴンに逆鱗なんてあったの? こいつならわかるけど)


 令嬢たちとのお茶会で、青龍というドラゴンがたまにブチに会いに来るというのはちらりと聞いていた。てっきりブチと同じような西洋ドラゴンだと思っていたのに、まるで想定外の姿をしているのはどういうことか。


「肌身はなさず持ってろ? ウケる!! なぁなぁ、あんた、本当に奴のつがいか?」

「そうよ。だから攫ったんじゃないの?」

「それはそうだ。しっかし、奴も何を考えてるのか、さっぱりわからんな。あんた、もしかして知らないのか?」

「なにを? ていうか、わたし、サキって名前があるから」

「名前くらい、当然あるだろうよ。言ったろ、俺は〈最強〉に喧嘩を売る気はないってな。俺らドラゴンにとって、あんたら人間が考えているよりもずっと名前は重要なんだよ」

「やっぱりあんたもドラゴンなの?」

「当たり前だろ。あんた何言ってんだ?」

「姿形がぜんぜん違うじゃない」

「ハハハッ、あんた、やっぱり面白いな。姿形が違うのは当然だろ、雌がいなくなっちまったおかげで異種族とつがうはめになってんだからな。原初の姿なんざ、俺らにももうわからねぇ。頭が二つとか八つとかある奴もいるし、翼がはえた蛇もいるし、虹になっている奴もいる。姿形なんざ、違って当然よ」

「なるほどね」


 そういえば、ブチの父ドラゴンは見事な炎の鬣があったらしいとブチが言っていたのを思い出した。ブチの父ドラゴンはつがいのエルフの世界を存続の危機から救うために、世界の生命力の核と同化したらしい。「ママを連れて他の世界に引っ越せばよかったのに」とさみしげに言ったのは、ブチが卵から孵る前のことだったから。おかげで精神体の父しか知らないのだと。

 ブチには鬣がない。つまり、青龍が言ったように異種族と交わるうちに姿形が変容していくのは道理だ。


「それで、話を戻すけど、わたしがもらったブチの逆鱗の何がそんなにおかしかったの?」

「おかしいに決まってるだろ。おかしすぎて、俺一人で相手にするのがもったいないくらいだ。まぁ焦るな。もうすぐ着く。それまで口を閉じてろ。あんたが喋ると面白くて面白くて、俺としたことがまた奴とやりあいたくなっちまうからな」


 青龍は悪い奴ではなさそうだけれども、さきほどから馬鹿にされてばかりで面白くない。

 そうこうするうちに、靄が途切れる。開けた視界に飛び込んできたのは、巨大な樹のだった。

 青龍が毛虫に見えてしまうほどの巨大さに圧倒されてしまう。


(もしかしてここってまさか、ブチの故郷?)


 枝の上に築き上げられた集落、幹をくり抜いた階層都市を横目に、青龍は下に下に向かっていく。次第に枝がまばらになり、階層都市も途切れがちになっていく。よくここまで光が届くなとどうでもいいことに感心していたサキは、人影がまばらなことに気づいた。


(だから、静かなのか)


 一度崩壊しかけたことと関係があるのだろうか。


「ついたぜ」


 そう言って青龍が降り立ったのは、横に根が広がる上に張り出した板張りの舞台だった。ようやく彼の手から解放されたサキは、正面の幹の巨大なウロの入り口の赤いドラゴンの石像の美しさに目を奪われた。ルビーかなにかで出来ているのだろうか、優しくも強い日差しの中で輝いている石像は、ブチの父ドラゴンに違いない。

 石像に向かう青龍についていくと、石像の前で一人の美しい少女が待っていた。

 十二単衣によく似た淡い色を重ねた衣装が包むのは、透き通るような白い肌。床に渦巻くほど豊かな淡く輝く金髪の奔流。あどけなさを残すふっくらとした頬にエクボを浮かべる美しい顔。長いまつげに縁取られた伏し目がちな夜明けの空の色をした瞳は、十に届くか届かないかという幼子には不釣り合いなほど静謐で思慮深い。息を呑むほどの美少女の小さな額には、金の鎖とルビーの額飾り。小さな口は慎ましく微笑みを刻んでいる。


「おい、連れてきたぜ!!」

「よくやってくれましたね、青嵐セイラン。あなたなら、きっと上手くやってくれると信じてましたよ」


 鈴を転がすような声とは、まさにこのこと。青龍をねぎらうと少女はサキに微笑みかける。


「ようやく会えましたね。わたくしは、櫻花オウカ。息子の火土カヅチがつがいを得たと聞いてから、この日をずっと楽しみにしてましたの」

「は、はぁ……」


 なにがなんだかさっぱりわからない。

 立ち話もなんだからと、少女はウロの中ではなく少し離れたところにある四阿でお茶を用意していると言った。そこでようやくサキは、彼女の耳が尖っていることに気づいく。


(火土なんて聞いたことなかったけど、もしかしてこの人がブチのお母さん……?)


 思っていたエルフとぜんぜん違うことにも、外見が幼すぎることにも、驚いた。

 櫻花が案内してくれた四阿まで、サキは再び水龍の手で運んでもらった。なにしろ、地面は木の根が絡み合っているのだから板張りの舞台を降りて数歩も行かないうちに派手に転びそうになったのだからしかたない。ただでさえ裾を踏みそうな衣装を身に纏っているのに難なく歩く櫻花に、サキは感心してしまった。

 板葺のこぢんまりとした四阿でいただいく緑茶と桜色の干菓子のようなものは、懐かしい味がした。


「名前はなんておっしゃるの?」

「サキです」

「サキ。よい名前ね」

「あの……、ブチのお母さん、ですか?」

「ええ、あなた、火土のことをそう呼んでいるの。素敵なことだわ」


 クスクス笑う櫻花に、サキはずいぶん安直な名前をつけてしまったと恥ずかしくなった。


(今考えるとペット感覚のネーミングだったよね)


 かといって、今さら他にいい呼び名が思いつかない。


「あの子ね、昔から自分の体がまだら模様なのが気に入らなかったのよ」

「え、そうだったんですか」


 だったら、そう言ってくれればよかったのに。と口の中で続けるサキに、櫻花は気にしないでと微笑む。


「それだけ、あなたのことを愛している証拠よ」

「へ? いやそんなことは……」

「おう、俺が冗談でもそう呼んだら、左目だけじゃすまないだろうよ」


 獰猛に笑った青龍は、ところでとサキに向かって言う。


「あんた、なんで逆鱗になってないんだ?」

「え?」

「逆鱗になっていないですって? 火土のつがいではないの?」


 質問の意味がわからないサキに、なぜか青ざめる櫻花。


「えっと、逆鱗ってこれのことですよね?」


 鱗を首から外して櫻花たちに見せる。


「ブチからは、つがいを解消したかったら、これを壊せばいいって聞いているんですけど」

「なんですって!?」

「なんだって!?」


 とんでもないことを聞いたと驚く二人は、身を乗り出してサキにつがいになった経緯を説明させた。

 全部聞き終えても二人は、信じられないような呆れた顔で頭を抱える。


「事故の責任って……」

「んなわけあるかよ」

「いやでも……」

「でもじゃねぇよ」


 何がそんなに腹立たしいのか青龍の髭が逆だっている。


「あんたは、蟻を踏み潰した責任をとって蟻とつがうのか? んなわけないだろ。ドラゴンにとって、あんたの言った事故ってのは、その程度のことだ」

「そんなはずは……」

「あるさ。いちいち人間の生き死になんざに気にかけていられるか」

「ブチは気にかけている!」

「それは奴が寄生してる世界に限ってだ。あんた、ドラゴンを知らなすぎる」

「で、でも……」

「そうね、青嵐の言うとおりだわ」


 櫻花はため息をついて首を横に振った。


「あなたは悪くないのよ、サキさん。悪いのは、きちんと話さなかった息子。ドラゴンのつがいは、逆鱗になるの。わたくしの額にあるのがそう。わたくしの体の一部になっているのが、わかるでしょう?」

「そう、言われてみれば……」


 額飾りだと思っていたルビーは、よく見れば櫻花の額に埋め込まれていた。


「ようするに、俺らドラゴンにとってつがいってのは、一心同体ってことだ。そんな事故の責任をとるなんて馬鹿げた理由でつがうわけがないだろ。だいたい、人体錬成とか卵を産むよりも難しいってのに」

「じゃあ、ブチはなんでわたしを……」

「さぁな、直接聞けばいいだろ」


 そう言って青龍が見上げたはるか上空には、赤く輝くまだら模様のドラゴンがものすごい勢いで迫っていた。

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