【見過ごせない問題】サキ「二本は無理!! 絶対、無理ッ!!」

 お披露目の翌日から、サキはこの世界の事を本腰を入れて学び始めた。女たちとのお茶飲み話と、ブチのドラゴン目線ではないこの世界の実情を学ぶことに一日の大半を費やすことになったのだ。

 女たちはサキの決意を好意的に受け止め、我先にと言っても過言ではないほど、積極的に協力してくれた。三人の令嬢たちに任せては祖国に有利なかつ敵対国への偏見が強いため、現在下界のどの国にも属していないマイラが教鞭を取ることになった。多忙でもっとも有能なマイラに任せるわけにはと抗議の声もあったらしいけれども、マイラは三人の令嬢たちを中心に自分の仕事を押しつけてまで個人教師の座を譲らなかった。それでも、彼女たちは暇を作ってはサキと机を並べてマイラの授業を受けるなど、彼女たちは楽しんでいた。

 面白くないのは、ブチだ。

 つがい水入らずの時間が減ることに、ブチが不満を抱かないわけがなかった。とはいえ、サキがこの世界を学びたいというのは良いことだし、邪魔するわけにいかない。丸一日悶々とした後で、ブチは小さくなった。

 小さくなったブチは、サキの膝の上や肩の上でマイラの授業を受けることにしたのだ。彼は、マイラに負けじと劣らず良い教師だった。


 この平らな世界の歴史は、大きく三つの時代に分けられる。

 暗黒の旧時代、冬の時代、魔法使いの時代。

 三千年前に異界よりやってきたブチが邪竜を倒す前の暗黒の旧時代。記録はまったく残っていないけれども、確かに人間はすでに存在していた。どんな文明社会があったのかは、まるでわからない。ただ、悪しき邪竜が暴虐を極めていたのだから、ロクな時代ではなかったと推察するのは難しくない。

 ブチが言うには、この邪竜を倒したのは、この世界の生命力が豊富で魅力的だったからだという。人間を助けようとかそんなことまったく考えていなかったらしい。


「ちょうど僕が独り立ちして世界を探していたところだったんだけど、こんな美味しい世界のドラゴンがあんな嫌な奴てのが腹立ったんだ。人間に良い奴と悪い奴がいるように、ドラゴンにも良い奴と悪い奴がいるんだ。ま、僕も若かったから、格上のドラゴンと戦いたくてウズウズしてたし、ちょうどよかったんだ」


 ブチが軽く言った邪竜退治は、七日七晩続いたというのだから当時の人間たちにとってまさに地獄だっただろう。その地獄の先にあったのが、魔法使いが迫害されていた冬の時代。


「偉大な魔法帝ジョージが現れるまで、語り部と呼ばれていた権威が、魔法使いは人間ではないと広く教え説いていたそうです。魔法帝の語り部狩りによって具体的にどのように魔法使いを貶めていたかは知り得ませんが、語り部のせいで迫害されていたことは史実です」


 ブチから簡単に聞いていたけれども、魔法帝がこの世界に存在していた物語を抹殺したことを称賛するマイラに、サキは複雑な気持ちになった。

 語り部が抹殺されたせいか、冬の時代もほとんど記録がない。ただ、神竜様の邪竜退治から始まり魔法帝の世界統一までのおよそ千年続いた冬の時代が、果たして忌まわしい時代と言い切れるのだろうか。魔法帝が崩御してから、今に続くまで下界に平和だった時代があっただろうか。

 完全になくすことは不可能でも戦争を減らしたい。

 彼女がこれほど使命感にかられているのには、わけがあった。


 先日、ようやくブチ専用の鞍が届けられた。早速その日のうちに待ちに待った初デートに浮遊神殿を飛び出した。まずは世界が平らであることを、この目で確かめた。世界を囲むの向こうに突如現れた虚無の壁に打ちつける荒波に、世界の四隅で天穹を支える虹の柱。言葉を失うほどの絶景の中の絶景に自然と涙がこぼれた。

 その帰路で、サキは下界の人々の営みを見てみたいとお願いした。ブチがサキの願いを叶えないわけもなく、サキの肉眼でわかるほど低く飛んだ。前世ではついぞ訪れることがなかった良き欧州のような街並み。連なる赤い屋根に笑みがこぼれる。神竜様がこれほど低く飛ぶことは珍しく、通りから路地という路地ままであっという間に人であふれかえった。中には屋根によじ登る者に、感極まって泣き崩れそうな者も少なくなかった。正直、とても気分がよかった。お披露目の後、サキは注目を集めることの抵抗がなくなった。それが当たり前だとすら今では考えているくらいだ。

 平らな世界の守護者神竜様のつがい、竜妃サキ。それが彼女のあるべき姿だった。

 歓喜に湧く都市を飛び去り、田園風景が広がる長閑な農村が点在する田舎の上空で、サキはまた言葉を失った。

 まだ十にもならないような子供が身の丈に合わない農具を持って働かされているのを見た。もちろん、子供だけではない。神竜様の飛来に思わず手を止め顔を上げた彼らのなんと痛ましいことか。骨と皮とはまさにああいう人たちを指すのだろう。ほんの僅かな間手を止めただけで、飛び去った後方から耳を塞ぎたくなるような罵声が聞こえてきた。振り返ると、ついさっきまで畏敬の念をこめて見上げていた大人が鞭を振り下ろしているのが見えた。呆然としてブチを止めることも引き返すことも考えつかなかった。それは始まりに過ぎなかった。その後も、何度も何度も目を覆いたくなるような光景を見かけた。全裸の男女を獲物した狩りなんて、見たくもなかった。見たくもないものばかりで、返って目が離せなかった。かと言って、今の自分に何ができるのかわからない。これがこの平らな世界の常識なのだとはっきりと理解していたからだ。わかっていたはずだったのに、実際に目にするまでその悲惨さをまるでわかっていなかった。以前、メイに言われて『常識』だと割り切ってきたつもりだった。けれども、何も知らないだけだったと痛感させられた。

 ブチはただサキのお願いを叶えただけだ。すべて下界の人々の営みであり、ドラゴンの彼にはまさに他人事で問題だとはまったく認識していなかった。人間社会に介入しないと決めている彼を責めるのは間違っているとわかっていても、呆然としたまま巣に帰ってきた後で「なぜあんな酷いことが……」と詰ってしまった。涙をこらえる彼女に、ブチはオロオロとひたすら謝るしかなかった。

 前世で基本的人権が根付いた現代日本で培った倫理観では、とても受け入れられない現実。『常識』であっていいはずがない。

 浮遊神殿での何不自由ない暮らしが、下界で家畜以下の扱いを受けている人たちの犠牲によるものだと知って、平然としていられるはずがなかった。


 完全に争いをなくすことは無理だとしても、減らすことはできるはずだ。

 浮遊神殿では協力して神竜様に仕えている三人の令嬢たちとその使用人たちは、下界では敵対関係にあっても和を乱すようなことは決してしない。和を乱す者は追放されるからという理由があるにしても、それはつまり平和の可能性ではないだろうか。仲良くする必要はない。ただ上手く付き合っていくことが、下界でもできるはずだとサキは考えていた。

 とはいえ、前世は政治にほとんど関心のない『一般市民』。平らな世界を知らなくては何も始まらないと勉強に励むしかない。


 転生してから四ヶ月たったその夜、サキはベッドに横になって本を読んでいた。ヴィヴィの祖国で開発が進められている魔法具についての本だ。ヘッドボードにつけてもらった照明も魔法具だ。魔法使いの間でも呪文スペル派と魔法陣マジックサークル派と大きく二つの系統がある。魔法具は後者の派閥の発明品だ。


「……駄目だ。ちっとも頭に入ってこない」


 ポツリと呟いたサキは、本を閉じ仰向けになった。

 眠れそうになかったので、難しい文字の羅列が睡眠導入剤代わりにしようとして失敗した。

 今、彼女はとても個人的な問題で頭を悩ませていた。その問題が解決しない限り、勉強に集中できそうにない。


「気づかなきゃよかった」


 気づかなければいつものようにぐっすり眠れたのに。


「とりあえず、マイラに言っておいたほうがいいかな。でも……」


 転生してから一度も生理が来ていないなんて、どう言えばいいのか。

 四ヶ月気づかなかったのもどうかと思うけれども、気づかなければよかったと切実に思う。けれども、女である以上遅かれ早かれ気づいたはずだろう。病気どころか不調もなく、これまでずっと健康そのものだった。前世では生理が重い女だっただけに、生理は歓迎できるものではない。積極的に解決したいわけではないけれども、生理が来ないというのは体に異常があるのではと考えてしまうのだ。


「別にこのままないならないままでも困らないんだよね」


 人間の男と子作りすることはないだろうから。


(まぁ、前世に引き続き処女っていうのはなんか嫌だけど……)


 ドラゴンのつがいになった以上、それは諦めるしかない。生理が来ないせいかムラムラすることもなくなったし、大丈夫、割り切れる。

 けれども、問題は他にもある。


 目を閉じて大きく息を吐いて、意を決して目を開ける。もぞもぞと体を丸めてネグリジェの裾を引き上げて下着の中に手を入れた。しばらく神妙な顔で下着の中で動かしていた手を止めて、サキは長々とため息をついた。


「うん、たぶんちゃんとしてる。たぶん? ……ううん、絶対、大丈夫」


 もしかしたら、ブチが人体錬成に失敗して生殖器がごっそりない可能性も無きにしもあらずと考えたのだ。うつ伏せになって頭を枕に押しつけた彼女は複雑な気分になる。


「……そういや、ドラゴンってどうやって子供作るんだろう」


 雌のドラゴンはいないから、他種族をつがいに迎えるのだと言っていた。ブチの母はエルフだとか。

 仰向けになって肌身離さず持っているブチの鱗をネグリジェの下から引き出して目の前に掲げる。つがいの証だというそれ。

 つがいなのだから、子作りできるのだろうか。どうやって?


「ブチ、ついてないもんなぁ」


 今でははっきりブチの姿を脳裏に浮かべられる。大きいときも小さいときも、サイズ問わず股間にそれらしきものはぶら下がっていなかった。

 生理が来ないことも合わせて考えると、セックス以外の子作り方法があるのだろうか。


(うーん、いまいちピンとこないけど)


 ブチへの気持ちを自覚していても、性的な関係についてはこれまで一度も考えたことがなかった。考える必要がなかった。


「……こないけど、きっとそういうことだよね」


 つまり、これから先も一生涯処女ということだ。正直、複雑だけれどもいたしかない。ドラゴンにナニがついていないのだから――


「いやいや、ちょっと待って!!」


 ガバっと上体を起こし両手で口元を覆ったサキの顔は真っ青。

 彼女が思い出したのは、前世の義姉だ。

 義姉が布教してきたハードなBLの数々の中には、人外モノも少なくなく、その中に竜人等の爬虫類系も当然あった。


(そういえばあったじゃん!! あの、あのなんて呼ぶのか忘れたけど、あれあったじゃん!! 普段は体の中にあって二本生えてる奴ぅうう!!)


 余計な知識を与えた義姉をこのときほど恨んだことはない。


「無理、絶対に無理ぃいいい」


 結局、サキは一睡もできずに悶々としたまま朝を迎える羽目になった。

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