【竜妃、誕生 その二】ブチ「僕のつがいが(以下略)」
浮遊神殿で前庭と呼ばれているのは、魔法で拡張された空間らしい。けれども、サキの目には長い長い幅広の白亜階段とそれに続くだだっ広い広場だ。
急に開けた視界の先にある前庭を先日しっかり下見をしてた。そのときは、魔法が作り出す広大で美しい空間に感嘆の声を上げた。けれども今日は、言葉どころか呼吸すら忘れた。十数万人の集団がどういうものか、記録用の魔法具で見せてもらっていたけれども、やはり実際に目の当たりにするのは全然違う。
これほど騒がしい沈黙は初めてだった。目は口ほどなんとかとはよく言うけれども、十数万のざわつく視線が恐ろしい。思わずブチの指にしがみつきたくなる。
痛いくらい騒がしい沈黙を破るように、サキを手に乗せたままブチは口を開く。
「これなる女人が我がつがいサキである」
「……っ」
ただでさえ集中していた視線がさらに集まる。
(他に言うことなかったの?! 胃が痛い)
いきなり好意的に迎えられるとは思っていなかったけれども、ここまで敵意をむき出しにされるとは思わなかった。せいぜい珍獣を見るように物珍しく見えるだろうとばかり。
もちろん、きっぱりと否定し受け入れてくれた女たちとは違って、彼女たちを浮遊神殿に送り込んだ者たちはそうではないだろうと聞かされていた。存在自体がこの世界の不和の種になるなら、なるべく波風立てないようにしたい。
そもそも前世では、目立たない『普通』のどこにでもいる『一般市民』だった。言いたいことはあっても、言ったところで何も変わらない。変わらないどころか、悪くなることもある。それなら、自分の気持ちと現実折り合いをつけて『普通』でいたほうがいい。
間違っても、こんな十数万の恐ろしい視線を集めて平気でいられる女ではなかった。
怖いし、緊張するし、胃が痛い。けれども、顔色を失って体が震えるようなことはなかった。目を背けることなく下界の人間たちを見下ろすことができる。
(ブチがいてくれてよかった)
そのブチがこのヤバい状況を作り出しているのも事実だけれども、ブチがいてくれるなら大丈夫だと心の底からそう思えた。
「我らドラゴンにとって、つがいは唯一、逆鱗、生命そのものだ。何人たりともサキを傷つけることは許さない」
厳かに宣言したブチに、サキは大げさすぎると内心焦った。
(そんなこと言ったら、無視してくれなくなるじゃない)
下界と隔たれた浮遊神殿で生きていくだけなら、この世界の人間たちにとって空気のような存在としてとらえてほしかった。なんなら、ブチの装飾品の一つとでも思ってくれてもいい。人の営みに干渉しないとはいえ絶大な影響力を持つ神竜様を使ってこの世界をどうこうしようとか、サキはまったく考えていなかった。あくまでも平穏を望んでいた。お互い干渉しなければ難しいことではないはずだと、サキは考えていた。最初こそは面白くないだろうけれども、じきに慣れてくれるはずだ。
はっきり言って、サキの考えは甘かった。
「神竜様、つがいにお選びになったそちらの女人は、異界の者だとか」
階の上の方からしわがれた男の声がした。拡声魔法を使い前庭全体に聞こえるように言ったその男は、ルルーの祖父で一国の主だった。祭典で度々神竜に意見する恐れ知らずの王。そう畏怖される彼に、ブチは不愉快そうに目を眇める。
「そうだ。我が異界で見出し連れ帰りつがいとした」
それがどうしたと言わんばかりの傲慢なブチに、恐れ知らずの王はさらに言い募る。
「我々人間ははるか昔の祖先の代より、異界の悪魔たちの脅威にさらされてきました。その異界の女ですぞ。つがいにふさわしくないでしょう」
ブチの足元に控えていたルルーは涙目になった。
(おじいちゃん、やめて)
恐れ知らずの王に同意見だと首を縦に振る男は一人や二人ではなかった。今日ここに集った十数万だけでなく、全人類の代表として命を賭けて苦言を呈しているのだというとんでもない自負が老獪な王を強気にさせていた。
マイラたちに釘を刺されていなかったら、ブチが吐く炎が前庭を蹂躙していたに違いない。
浮遊神殿の女たちの必死の努力がいつまで持つか。神竜様は意外と気が短い。これまでだって、彼女たちの説得が何度もこの世界を救ってきたのだけれども、下界の人間たちはまるでわかっていない。彼らは、神竜様は決して人間を害することはないと思い込んでいる。大きな勘違いだ。
「おそれながら神竜様、今すぐにでもつがいを解消なさるべきでしょう」
「…………」
ブチが黙り込んでいるのは、意見を聞き入れて思案してくれているのだと、下界の人間たちは都合よく勘違いした。
本当は口もききたくなかっただけで、ブチはどうやって早々に前庭の人間たちを追い出すか考えていた。一秒でも早くつがいを巣に連れ帰り、彼らの言葉はさっさと忘れるべきだと教えてやりたい。
魔法帝のときのような失敗をしないために、祭典と称して人間たちを浮遊神殿に招く機会を設けた。けれども、魔法帝の件からもう二千年経つのだから、もう祭典なんて辞めてしまおうか。ここ数百年、人間たちの失礼な言動が目立つことだし。
マイラたちもどうやって祭典を切り上げ人間たちにお帰り願おうかと、必死で考えていた。
これ以上は、百害あって一利なし。いくら想定内だったとはいえ、これほど直截に言ってくるとは思わなかったのだ。
(こんなこと言われたら、神竜様でなくとも機嫌を損ねるだけでしょうが)
やはり、お披露目などやめておくべきだった。
恐れ知らずの王の堂々とした態度と黙り込む神竜様に、あちらこちらからざわざわとし始めた。はっきり聞き取れないけれども、彼の言ったことと同じようなことを小声で言っているのが伝わってくる。
異界の女をつがいにするなど、もってのほか!
神竜様の目を覚まさなければ!
卑劣な異界の悪魔に騙されているだけだ!
などなど。
権力者たちの思惑は抜きにしても、この世界の人間たちにとって異界はすべて魔界で悪そのもの。異界の魔物の脅威にさらされてきた彼らにしてみれば、異界から連れ帰った女というだけで、サキを受け入れがたいのは仕方のないことであった。
この世界の人間たちを見守ってきたブチは、そのことを理解していた。すぐには受け入れられないだろうとわかってはいたのだ。それを承知でお披露目を急いだのは、サキの存在を広く知らしめ、彼女を害することがないよう牽制するという理由もあった。もちろん、それだけではないけれども。
浮遊神殿の女たちがあっさりとサキと親しくなったこともあって、これほど表立って反発まではしないだろうと油断していた。
ちらりと足元のマイラを見やると、彼女は眉間にしわを寄せて肩をすくめ首を縦に振った。
もう強制終了するしかない。この先、下界の人間たちをどうわからせるかという問題は残る。中には、余計な正義感からサキの命を狙おうとする不敬な輩が現れるかもしれない。浮遊神殿の守りを強化しなければならない。
「神竜様のためを思えばこそ。どうか、どうかお考え直しください。つがいが異界の女と知れ渡れば、下界の者どもは神竜様を不審に思う者も現れましょう。くどいようですが、神竜様のためなのです。御身にふさわしいつがいは他に……」
「黙りなさい」
凛と響いた声に、前庭はしんと静まり返る。
恐れ知らずの王の妄言を遮ったのは誰か。誰もすぐに誰だかわからなかった。
「それ以上口を開けば開くだけ、あなたは自分が愚かだと公言することになるわ」
「なっ」
驚くべきことに、声の主は神竜様の手に乗るサキだった。
「あなたの言葉を借りれば、あなた――いえ、あなたたちのためを思えばこそ、黙りなさいと言ったの」
誰よりも、サキが驚いていた。なにもしなくていいと何度も説得されて今日のお披露目を承諾したし、彼女も何も言うことはないと置き物になればいいと何度も何度も言い聞かせてきた。つい先ほども、震える臆病な自分に言い聞かせたばかりではないか。けれども、サキは止まらない。
「というか、あなたたちはわきまえたほうがいい。身の程を知りなさい。わたしは確かに異界の女。この世界のことなんてほとんど知らない。魔法も使えない。……そんなわたしでも、これだけはよくわかる。わたしを含め全人類の生殺与奪権は彼が握っている。そのくらい力の差は圧倒的で絶対。あなたたちは彼に意見する資格なんてないの。なのにあなたたちは彼に言いたい放題、何様のつもりなの」
人間は弱い。だから気を遣わなくてはならない。
(ブチが言っていたことはこういうことだったのね)
人間どころか、世界のすべてを支配するだけの力を持っているからこそ、ドラゴンは恨みを買いやすいのだという。関係のないこと、それこそ急な雨に降られたとかそんな些細で理不尽なことまで、力のあるドラゴンのせいにされやすいのだという。弱いけれども、数は多い。無数にある世界の大元となる世界を支配していたのが人間だったせいか、多くの世界に人間がいるのだと。数が多い分、ちょっとした恨みでもすぐに溜まりに溜まってドラゴンに牙を剥く。寿命のないドラゴンを退治するのは、たいていが人間だ。恐ろしい竜殺しの兵器を開発したり、狡猾な罠を仕掛けたり、稀にいる魔法帝のような人間離れした超人が差し向けられたり。人間は侮ってはならない。ドラゴンの常識だ。
だから気を遣うのだと、ブチは言った。彼が優しいからでは決してない。そもそもブチにとってこの世界は、良質な世界の生命力を接種できる食糧生産所にすぎないのだ。
それを、いつの間にかこの世界の人間たちは都合よく勘違いするようになったのだろうと、まだひと月しか経っていないサキでも推察することができた。
「よく思い出しなさい、彼にどれほど助けられてきたか。わたしはまだこの目で見たわけではないけど、異界の悪魔とかの脅威から守ってもらってきたのでしょう。この世界の人間が束になっても敵わない脅威から。この世界の命運を誰が握っているのかを都合よく忘れてわきまえないから、彼に言いたい放題できたんでしょう。それが愚かだと言わずになんて言うの」
実はサキ、口だけの他力本願で無責任で不平不満文句愚痴ばかりの人間が大嫌いだった。出来ないのは仕方ないにしても、言った責任すら持てないなら口を閉じるべきだ。
そういう生き方をした結果、前世では口をつぐんでばかりだった。上司に対してだったり、景気が良くならない社会に対してだったり、コンビニ店員に身に覚えのない舌打ちをされたことだったり、自分に力がないからと諦める癖がついていた。
現世だって、ブチが責任を取ってつがいにしてくれただけの非力な女だ。けれども、ブチの厚意に甘える微塵もない。ブチや浮遊神殿の女たちが言うように、何もする必要はないのかもしれない。けれども、何もしなかったせいで、迷惑をかけるなんてそんな無責任なことあってたまるか。
「要するに、逆らう力もない人間が彼が決めたことにグチグチ口を挟むな、わきまえろって言ってるの。確かにわたしは大した取り柄もない女で、気に入らない人も大勢いるでしょう。その気に入らない気持ちはわたしも理解できる。でも、彼がわたしをつがいだと言うんだから、わたしが彼のつがいなの。彼自身がわたしを捨てない限り、あなたたちが何を訴えたところで無駄なんだから、賢く口を閉じてなさい」
恐れ知らずの王は馬鹿ではない。孫娘からつがいの座を横取りした忌々しい異界の女は、わきまえろと言ったけれども身の程なら嫌というほどわきまえている。異界の女に言われずとも、人間が束になっても神竜様に逆らう力などない。自分などが何を言っても、神竜様につがい解消する意志が微塵もなかければ、意味がないことくらいわかっていた。それでも、横取りされた腹立たしさから訴えずにいられなかった。何もわかっていない口を開けば不平不満ばかり声高に叫ぶ己の民達の気持ちが嫌でも理解できてしまった。
この形だけのつがいに収まるのをよしとしないだろう竜妃が、果たして何をもたらすのか。災いか、あるいは――
口を閉じた彼は、そろそろ退位しようかなどと考えながら感慨にふける。
賢明な者たちはこれ以上の恥の上塗りを避けて口を閉じたけれども、便乗するようにコソコソと囁きあう声はまだ止みそうにない。けれども、これで面と向かって文句を言ってくるやつはもういないはずだ。
言いたいことを言ってスッキリしたサキは、ハッと我に返ってブチを見上げ手を合わせた。
「ごめん、ブチ。本当にごめん!! わたし、黙っていられなくて……ブチ? ねぇ聞いてる? ねぇ大丈夫? ねぇ、ねぇってば!」
ブチがこれでもかと目を見開き息すらしていないことに気がつき、サキは大いに焦った。
「ねぇ息してよ。ねぇってば!!」
サキにすっかり見惚れて処理落ちしたブチが再起動するまで、まだまだ時間がかかりそうだ。
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