【仕事帰りの神竜様】メイ「もう相思相愛じゃない」

 入り組んで複雑な構造の浮遊神殿の全容をサキはまだ把握していない。

 そんな彼女が真っ先に覚えたのは、浮遊神殿の中心部にあるドラゴンの巣に至る道だった。三人の女たちに仕える使用人や、万が一の侵入者に向けた惑わしの魔法は、もちろんサキには無効だ。

 女たちには、彼女が恋する乙女に見えてしかたないサキ。けれども、もし直接言われたら彼女は即否定する。同じ異世界から来たもの同士、話が合うだけだと続けることだろう。


(話が合うかぁ。わたし、ずいぶんリアルで他愛もないおしゃべりとかできる相手がいなかったな)


 東雲咲の人生は無味乾燥というほどではなかったはずだ。家と職場の往復ばかりで惰性で人生を消化していたとはいえ、まだギリギリ二十代でそのうち転機が訪れるだろうと楽観できるくらいには余裕があった。リアルでおしゃべりする親しい人が身近にいなくても、SNSがあったし、動画配信サービスに漫画配信アプリなどなど、暇つぶしの娯楽にはことかかなかった。

 ただ、充実した人生ではなかったと、サキになってから気がつかされた。

 人間ですらないドラゴンと喋っているだけで、前の人生よりマシに思えてしまうのは、きっとそれだけ喋り相手に飢えていたのだろうと、サキは自分に呆れてしまう。――それにしては、足取りがずいぶん軽いけれども。


(魔法とかドラゴンとか魔界のモンスターとかファンタジーな世界なのに、おとぎ話すらないんじゃね)


 いくら同世代の同性とはいえ、他の女たちと打ち解けるほうがよほどハードルが高かった。こうして、ブチが帰って来る度に肩の力が抜けるのを実感している。それだけまだ彼女たちに気疲れしている証拠だ。

 やはりどういう形であれ、ブチに対する好意が芽生えているのは疑いようのない事実である。


「おかえり、ブチ……どうしたの?!」


 今まで怖がらせないようにと、ブチは人間サイズになっていたのに、今日は巣の七割を占める大きさのままだ。その上、こころなしかグッタリしているではないか。

 心配するつがいの声に、ブチは燃える目をすがめる。


「おはよう、サキ。ちょっと疲れただけだよ。もう少ししたら、小さくなれるから、ちょっと我慢してね」

「ううん、ブチこそ無理しないでよ。そのほうが楽ならそのほうがいいよ」

「ありがとう。じゃあ、そうさせてもらおうかな」


 ゆうに家三軒分はある巨体では、フゥーと息をつくだけで岩壁がゴロゴロと揺れる。


「わたしもいないほうがいいなら……」

「サキはいて。いないほうがいいなんて、絶対にありえないから。サキが側にいないと、僕死んじゃうから」


 責任感からつがいにしてくれたにしては重すぎる発言も、サキはまるで気づかない。


「今朝は、世界のほころびが五ヶ所もあったんだ。さすがにそれだけ修復するのは、疲れるんだ」


 そう言って、ブチは揃えた両手の上に頭をのせた。

 ブチには神竜としての仕事があった。成熟していない世界によくあることで、世界が脆弱で異界からの侵略されやすい。ほころびは見つけ次第修復するに限る。世界の点検修復、それから異界からの侵略者を退治するのが、ブチの仕事だった。ドラゴンが人間と共生していくために必要なことだと、ブチは言っていた。独り立ちしたドラゴンがまずするのは、親元を離れ無数にある世界の中から自分が住む世界を探すことだ。ドラゴンが好むのは成熟していない若い世界だ。不安定ではあるけれども、ドラゴンが食事をしない代わりに取り込んでいる世界の生命力が溢れているらしい。

 この世界の生命力を主に放出しているのは、世界の中心にある大火山だ。なので、疲れたら火口に飛び込むのが一番手っ取り早い疲労回復方法だった。けれども、今の浮遊神殿にはサキがいる。寄り道などもってのほかだ。


「……お疲れ様。なにか、わたしにできることはないの?」

「側にいて、話をしてくれるだけで充分だよ」

「わかった」


 それなら、お安い御用だし、サキもそのために来たのだから、何も問題ない。

 初対面のときのよりもずっとクッションのきいた立派な椅子に腰を下ろした彼女は、早速尋ねる。


「この世界の人間って、みんなまだ地表が平らだって信じているの?」

「信じるも何も、実際、この世界の大地は平らだよ」

「へ?」


 想定外の回答に素っ頓狂な声を上げた彼女に、ブチは目を細めて笑った。


「サキのいた地球とは違う世界なんだから、形も違うよ。球体とは限らないんだ。ちなみに、ボクが生まれ育った世界は大きな樹だったよ」

「……そう、なんだ?」


 無数の世界を渡るドラゴンが言うのだから、真実なのだろう。けれども、すぐには受け入れられない。


「サキにも、この世界を早く見せてあげたいな」


 それは、早くサキを乗せて飛び回りたいという意味だ。

 一昨日、子馬サイズになったブチが彼女を背中に乗せようと試していた。けれどもというか、やはりというか、人と乗せた経験がない上に、ブチの体は人を乗せられるような作りになってなかった。ラグを巻き付けて鱗に直接当たらないようにしてみたものの、翼を広げる前から座り心地は最悪で、サキがブチの首に思いっきりしがみついてなんとかという有り様だった。ブチはとても凹んだ。これではサキに申し訳ないと、マイラたちを介して下界の人間たちに鞍を作ってもらうことになった。


「ドラゴン、魔法、空を飛ぶ島、魔界のモンスター、平らな世界……これだけファンタジー要素が溢れかえっているのに、おとぎ話一つないなんて……」


 サキは信じられないと大仰に嘆いた。


「前はあったんだよ」

「じゃあ、なんで今はないの?」

「ジョージのせいだね」

「ジョージ? あ、魔法帝とか言う人?」

「そ、そのジョージ。語り部はみんな処刑したし、物語が書かれている本とか巻き物は全部燃やしたよ。もちろん、物語ることを禁じたし、書き記すことも禁じた。徹底的にやってたからね、百年もすればすっかり忘れ去られたよ」


 魔法帝ジョージといえば、この世界を早く知ろうと借りた歴史書の最初の方に出てきた名前だ。


(前って、千年も前の大昔のことじゃない)


 千年も、ドラゴンにとっては大した時ではないのだろう。

 地上の唯一大陸全土を統一した唯一の男は、偉大な魔法使いだと称賛ばかり書きつられてあったというのに、なんてことだ。


「とんでもない暴君じゃない」

「そんな悪いやつじゃなかったよ、ジョージは。まぁ、いいやつでもなかったけど。あいつのことはよく覚えているんだ。色々あったからね」


 いつか、ジョージとの色々を話して聞かせてあげよう。偉大な魔法帝がドラゴン殺しに挑んできた話は、きっとサキは気に入ってくれるはず。


「ジョージが物語を禁止したのも、わからないでもないんだ。だって、彼が統一する前は語り部って王に頭を下げさせるくらい権威があったんだけど、魔法使いを迫害してたんだよ」

「復讐ってこと?」

「簡単に言えば、そんな感じじゃないかな。復讐、支配、迫害、戦争……そんなのばかりだよ、この世界の歴史は。でも、ジョージのおかげでサキが憧れる魔法が当たり前のようにあるのも事実なんだよ」

「当たり前だけど、単純じゃないね」


 この世界でうまくやっていけるだろうか。不安は拭い去れない。


「大丈夫だよ、サキ。ボクがいるし、来月には君を認めさせるから」

「……ねぇ、やっぱりお披露目は早いんじゃないかな」


 昨夜、マイラたちから簡単にと聞かされただけだけれども、下界の人間たちが一斉に押し寄せる祭典でサキを神竜のつがいと公表するということに不安を覚えずにいられなかった。

 この五日間ではっきりと理解していることが一つだけある。ブチが神竜様としてどれほど崇められているかということだ。この世界の人間と共生していくための毎朝の世界の見回りと異界からの侵略者の撃退。人間と共生していくためにやっていることは、ブチが崇められるには充分だった。


(もしかして、この世界ってブチがいなかったら相当やばいんじゃないかな)


 だとしてら、それはもう共生とは呼べないのでは。ドラゴンなしで存続が怪しくなる世界では、人間とドラゴンは対等ではない。


(神竜様のつがいになればよくしていくれるっていうのはそういうことだったのね)


 ドラゴンにおもねる人間たちは、サキをしかない。


「サキは、なにが不安なの?」

「そりゃあ不安しかないよ。わたしみたいなのがブチのつがいだなんて、きっとこの世界の人間たちには面白くないはずだから」


 頭では理解していても、気持ちまでは納得させられないだろう。

 不満を抱えながら頭を下げなければならないことなんて、前世では日常茶飯事だった。けれども、これは規模が違うと思うのだ。突然、異界から連れ帰った女をつがいだと言われても、面白くないし納得できないのが当然だと、人間であるサキは思うのだ。


「もし、この世界の人間たちがサキを不快にさせるなら、僕はサキを連れて引っ越しをすればいいだけだからね」

「それって、この世界を見捨てるってことだよね」

「うん、そうだよ」


 薄々感じていたことだけれども、ブチは人間臭いところはあるけれども、根本にある思考などは人間のそれではない。ブチはあくまでもドラゴンなのだ。


(野獣を愛したベルって本当にすごかったんだな)


 いや、責任感からつがいにしてくれただけのブチは、愛なんて求めていないかもしれない。返って迷惑になるのでは。


(だいたい、ドラゴンが恋愛対象なんて考えたことなかったし)


 ブチが人間だったら……。

 いや、そもそもドラゴンのつがいを人間の夫婦と同様に捉えることが間違いではないだろうか。


「やっぱり、早すぎるよ」

「じゃあ、いつになったらいいの?」

「それは……」


 返事に詰まった彼女に、ブチは鼻先を近づける。


「ねぇサキ、先延ばしにする利点なんて何もないこと、わかってるよね」

「まぁね」


 ブチの言う通りだ。先延ばしにしても、決して不安はなくならない。むしろ、膨れ上がるだけだろう。心の準備は、いくら時間をかけても無駄だ。


「……わたし、何もできないよ」

「うん、何もしなくていい。僕の隣にいてくれるだけで充分だよ。安心して、ね」


 本当は裸足で逃げ出したいほど嫌だ。

 ブチが崇められる存在だとしても、そのつがいはただの女だ。魔法も使えない。

 けれども、このまま浮遊神殿で生産性のない生活を続けるのもどうかと思うのだ。


(わたし、穀潰しじゃん)


 お披露目は、この世界で生きていくために必要なステップなのだと言い聞かせるしかないのだろう。


「わかった。……わたし、本当にひと言も喋らないから」

「ありがとう、サキ。ごめんね、無理強いさせちゃって」

「ううん、わたしこそわがまま言ってごめん。わたしのために気を遣ってくれてありがとう。…………本当に嬉しい」


 最後のひと言は、気恥ずかしくてほとんど声にならなかった。誰かに大事にされることが、こんなにも幸せだなんて日本では気づけなかった。

 不意に、通夜の光景が脳裏に浮かんだ。あんなに大勢の人が悼んでくれるなんて、夢にも思わなかった。気づかなかっただけで、日本でも大事にされていたということだろう。


(パパ、ママ、みんな、元気にしてるかな)


 忘れてほしいわけではないけれども、こんな親不孝者のためにいつまでも悲しんでいてほしくない。

 感傷にひたっているサキは、ブチがカッと目を見開いたまま彫像のように硬直していることにまったく気づかなかった。


(嬉しい? 嬉しいって言った! サキが、サキが、嬉しいって!!)


 腹の中の炎が激しくうねるほどの歓喜。

 ブチがつがいに与えてしまった第一印象はこれ以上ないほど最悪だった。そのせいで四千年以上生きているくせに恋愛経験がゼロのドラゴンは、つがいのちょっとした言動で激しく一喜一憂するほどのポンコツになりさがっている。


「なんか、暑い?」


 もちろん、サキは気づいていない。気づく気配すら、ない。

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