第36話壁ドンから我慢できずに

 俺たちは散々イチャイチャしてしまった後。

 無言のまま、その教室を出た。


 だけど、渡り廊下に差し掛かったところで。

 なにかを決意したように姫乃が突如、声をあげる。


「恭平くん!!!」


 ドンっと姫乃が腕を突きだし、俺はなぜか姫乃と壁の間に挟まれた。


 拝啓、みなさま。

 最近自分でも忘れがちですが、俺は30歳童貞のチャラ男に転生した恭平です。


 現在、寝取ってしまった親友の元カノに壁ドンされています。

 なお彼女は先程、俺の彼女になりました。


 ちなみにさっきまで激しいキスを交わしていたことは忘れてください。

 自分でやっておいて理解が及んでません。


 いえ、責任を取るのは望むべきことですが、とりあえず今はそれは置いておいてください。


 その彼女である姫乃と人気のない渡り廊下。

 その壁際に追い込まれています。


「な、なにかな?」

「恭平くん!!」


 姫乃は再度、俺の名を呼ぶ。

 それから壁ドンした右腕を曲げ、ズズイッと俺に接近する。


 姫乃の整った顔と艶やかな唇に思わずごくりと息を呑む。

 もしもその唇に触れてしまえば、脳みそが溶けるほどの甘さを感じてしまうことを知っている。


 あの甘美な味を脳が想い出し、ゴクリとのどがなってしまう。


 姫乃の家のシャンプーの匂いらしき、ほのかな花の香りと彼女自身の混ざった甘い匂いが俺を刺激する。


 とりあえずこの唇を奪っていいだろうか。

 いやいや、一体、なにを言われるのか。


 ここは廊下なので、その先の角から突然誰か通りかかることは十分にあり得る。

 教室の中よりもずっと人目につきやすいのだ。


 だが、転生者である俺にはわかっている。

 こういうのはお約束というやつだ。


 とてもくだらないことを頼まれて俺が肩透かしを喰らいつつ、しょうがないなと姫乃の言うことを聞いてしまうやつである。


 姫乃は吐息がかかるぐらい俺に接近し、ついに告げる。


「キスしたい」

「あ、うん、わかっ……うぇ!?」

 惰性で返事をしようとしたが、ものすごく直接的なことを言われた。


 即座に姫乃の艶やかな唇が俺に迫る。

 迫るその甘美な唇に、いますぐむしゃぶり付きたくなるのを必死に我慢しながら動けずに。


 僅かに身体が傾くだけで重なる距離にまで近づき、互いの荒い息はすでに混ざり合い、呼気として姫乃と俺の身体の中を巡り合う。


 俺の脳みそは甘美で柔らかな吐息がもたらされ、熱量となって沸騰状態。


 いいや、興奮状態。


 もはや口付けをしていると思えるほどに脳髄のうずいは刺激を受けている。

 それは決して俺だけではない。


 姫乃の目が興奮状態で見開かれて俺を強く見つめる。


 俺自身での体感による記憶はないが、俺の頭の中の記憶だけはそのみだらな彼女の姿を記憶している。


 寝取り浮気という裏切りの記憶。

 俺は確かに過去に姫乃を抱いたのだ。

 その際にも先ほども、幾度も口付けを交わしている。


 だが姫乃はそれ以上踏み込まずに止まり、なにかをこらえるようにグッと一度口を閉じてから再度口を開き、なにかを言った。


 いま起きていることを何一つ理解することができなかった。


 そうして、俺がなにも状況を理解することなく、未遂のまま姫乃は顔を離した。


 現実はときに想像をも遥かに超える。


 激しい動悸を手で押さえようと俺は自身の胸に手を置く。

 バクバクと激しい音がしている。


 そんな俺の様子を見ながら、姫乃はそっと手を繋ぐことを促すようにその手を伸ばしてきた。


「……帰ろ?」

 初めて、2人並んで手を繋ぎ帰路につこう、彼女はそう促したのだ。


 俺は軽く繋いだ手を引き、姫乃を呼び止める。

「姫乃」

「うん?」


 遊歩道の中、人目を気にしながら。

 それでもそのまま手で引き寄せ、抱き寄せた姫乃の唇を奪った。


 唇を離し、一言。

「キスしたかったから」

 姫乃は廊下でのキスを我慢したけれど、俺は我慢できなかったのだ。


「……ズルい」

 真っ赤な顔で俺を見上げる姫乃の唇にもう一度、触れるだけのキスを落とした。

 すると、今度は姫乃からも数回、唇が重なる音を鳴らしながらキスを返してきた。


 そうして、今度こそ2人で歩き出した。


 学校の廊下だったが、誰にも見られなくて良かったとつくづく思った。





 帰り道で姫乃はこんな話をした。


「主人公は別に好きな人がいて、その人にいつも好きと言いながら、隙をついてキスをしたりしてるの。

 それでね。

 その主人公はあるとき、別のかっこいい男の子に手を握られて顔を赤く染めるの。

 ライバルキャラってやつね。

 物語を盛り上げるには必須の存在。

 でも私は思ったの。

 ……ああ、この主人公の好きって『その程度の気持ち』だったんだって」


 姫乃が読んでいる恋愛物のお話。

 どういう意図で話しているのかはまだわからない。

 特に意図などないのかもしれないが。


「もちろん、それが浮気だとか、気が多いとかいうことじゃないよ。

 これから主人公が誰に対して気持ちを育てるのか、それも見どころなんだと思う。

 ただ、ね?

 手を握られて顔が赤くなるのは、その人の遺伝子をその身体に受けても良いと身体が反応しているということ。

 当たり前なのかもしれないけれど。

 この主人公にとって結ばれる相手は、主人公が好意を寄せている相手である必要はないのよね」


 そこで姫乃は一旦、言葉を止める。

 それから足も止めてじっと俺の目を見つめる。


 遊歩道を備えた公園の中。


 公園内には散歩する人をちらほら見かけるが、俺たちがいる木々の間に位置する遊歩道には人は来ていない。


「……だけど私はそんな余裕はない。

 他の人を見ている余裕なんて一切ない。

 この身体、この心に遺伝子を注ぐのは恭平くんだけ。

 選択肢なんてない。

 恭平くんが選んでくれるかくれないか、それだけが全て。

 私はこの命全てを賭けて恭平くんに私を選ばせたい」


 目を一切逸らすことなく伝えられる言葉はそこに嘘の色は一つもない。


「……てる」

 姫乃は一言だけ、なにかを俺に言った。


「重いってことはなぁんとなくわかってる、つもり」


 なんとなくなうえに、つもりらしい。

 ハッと姫乃は自分の言動に気づく。


「……な、なんとなくじゃないね。

 やっぱり重いね、あははは」


 乾いた笑みを浮かべたあと、笑わない目で何かを告げる。

「……よ、恭平くん」


 首にしがみ付くように腕を回して、吐息が掛かるまで口を近づけ、そこでなにかを待つようにとろけた目で俺をまっすぐ見つめる。


 問いかけはしなかった。

 万が一に断る隙を与えたくなかったから。


 俺は姫乃の唇を奪う。


「……てる、恭平くん」

 うわごとのように荒い息と共に姫乃がなにかを呟く。


 やめてなのか、待ってなのか、そういうつもりじゃないなのか、それら一切を聞かず唇を重ねた。

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