第39話部屋にて

 唇を重ねるだけにとどまらず、舌も重ね合う。

 洗面台の前で姫乃と互いにしがみつくようにしながら。


「姫乃、舌出してみて」

「こう?」

 言われるがままに素直に姫乃が綺麗なピンクの舌を見せてくれる。

 その舌にゆっくりと自らの舌で触れ重ねる。


「んっ……」

 深い刺激にビクッと肩を震わせる姫乃を抱きしめて、そのまま唇も深く重ねる。


 帰りに姫乃を家に連れ込んだ……というよりも半分以上、姫乃から押しかけてきたような感じだった。


 いや、やっぱり俺から連れ込んだのかもしれない。

「……溺れてるな」

「溺れてるかな……、うん、溺れてるね」

 そう言った姫乃を抱きしめ、もう一度口付けを交わす。


 今日は学校が長引いたので、それほど長い時間は一緒にはいられない。

 それでも少しでも2人きりになりたくてここまで連れてきてしまった。


 帰宅する間、2人して赤い顔で恋人繋ぎをして無言でまっすぐ帰ってきたから、お互いがと言ってしまえばそれまでなのだけど。


 少なくとも、俺から言葉を吐けば狂ったように愛の言葉しか出てこないはずだ。


 家に姫乃をあげて、2人共ほとんど会話せずに身振り手振りで手洗いうがいをした後。


 示し合わせたように洗面台の前で俺は姫乃を抱きしめ、姫乃は俺の首の後ろに腕を回してしがみ付くようにしながら。


 口を重ねた。


 どうしてそうしてしまったかという理由だとか、意味だとか考えることはできなかった。


 たとえば恋の熱病は激しく人の思考力を奪う。

 もしくは激しい欲情もまた人から思考力を奪い、人をただの獣に戻す。


 寝取り浮気が発生するメカニズムも似たようなものかもしれない。

 過度な快楽が人から、快楽の行き着く先にある地獄を想像させる余地を奪うのだ。


 それにより人は容易く大切な愛を見失うのだ。

 それほど人は快楽に弱い。


 だからこそ。


 だからこそ、その儚い愛という存在を守り合った関係で重ねる唇は、そのあらゆる快楽を凌駕りょうがする。


 俺と姫乃はときどき発する吐息の音以外、声を発することなく唇を重ね、舌で互いの粘液を混ぜ合わせた。


 触れ合うたびに快楽と同時に愛しさが胸いっぱいに溢れ、粘膜の接触が愛した人と繋がっているという絶望的なまでの幸福感をもたらす。


 知識としての記憶でしかなかった姫乃との過去が感覚と共に蘇る。

 確かに過去、俺は姫乃と幾度も口を重ね合わせたのだと。


 なるほど、溺れるわけだ。

 少なくとも姫乃は俺以外とこうしたことはない。

 おそらく……俺自身も姫乃以外とは。


 それがどうしようもない独占欲と執着を生み出す。

 愛しい存在が自分だけのものだと。

 自分という存在の全てが彼女と共にあるのだと。


 背徳感による浮気や寝取りというものは、たしかに圧倒的な快楽を生み出すだろう。


 だが、その裏切りの快楽は、ただ1人の愛しい人を愛するという、この絶望的なまでの幸福感を永遠に失うことを意味する。


 この存在の全てを重ねた快楽の前に、一時的な享楽である浮気や寝取りなどなんの価値もない。

 だからこそ知ってしまう。

 いや、思い出してしまう。


「ごめんな。

 俺はもう姫乃を逃せてやれない」


 口を離し、互いのそれで汚れてしまった姫乃の口元を指で優しく拭う。

 姫乃はされるがままに拭われながら、むっとして可愛く頬を膨らませる。


「別れるとか、ヤダから」

 俺は謝罪の意味を込めて、今度は触れるようなキスを姫乃の唇に落とす。


 そして姫乃もまた俺と同じ答えに至ってしまったのだ。


 部屋に入ったところで、机の上に転がっていた本に姫乃が目を止めた。

「あ、これ。

 私が貸した本」


「ん?」


 それは何度も読んだ寝取り浮気の原罪。

 姫乃だったのか。


「返さないとな」

「ううん、どうせもうじき共有のものになるからいいよ」


 それはどういう……ああ、そういう意味だよな。

 俺たちはその話をそのままに再度口を重ねる。


 随分、長い時間そうして口を重ねてたなぁと今更に気づく。


「これ、無理だぁ……。

 私も絶対に離れらんない……、最初からだけど」

 こてんと俺の肩に頭を乗せて、そのまま甘えるようにぐりぐりと顔を擦り付ける。


 まだ口を重ねていたかったが、これ以上は時間もなければ忍耐も限界にきていた。

 姫乃を家に返してやることができなくなってしまう。


「送るよ」

「……うん」

 それがわかって、姫乃もごねたりすることなく大人しく俺の言葉に頷く。


 結局、俺の家に何しに来たかといえば、キスをしに来ただけになってしまった姫乃だが不満の色は見えない。


 姫乃に惚れている俺の都合のいい考えではあるが、もしかすると本当にキスをするために寄ったのだろうかと思えてくる。


 玄関口で靴を履き。

「あ、そうだ」

 なにかを思い出したように姫乃は振り向くと、無言で手を伸ばし……。


 その意図を理解できたというよりも、半ばただの本能で俺は姫乃を抱きしめ唇を重ねる。


「……んっ」

 姫乃もそれが正解とでも言うようにそれを受け入れる。


 少し長めに唇の感触を確かめあっていたが、どちらともなく少し口を開き互いの液体を味わったところで欲張って舌を少し出し合っていたら、どちらかあるいは両方が我慢できずにその舌を舌で絡め取ってしまった。


 そうして玄関口でもしばらくの間、また俺と姫乃は口を重ね合ってしまった。


 口を離したときには、お互いに気恥ずかしさもあって顔を赤くしていた。

「……終わらないね」

「……好きな子とのキスだからな。

 俺からは止めれない」


 姫乃は俺の言葉に目を丸くさせて、それからわかりやすく頬を膨らませた。

「むう、ずるい。

 私も恭平くんを……てるのに、そっちは伝わって私からは伝わらないのずるい」


「……ごめん」

 反射的に謝ってしまった。


 姫乃がなにを言ったかはわからないけれど、それがとても大切ななにかだとだけはわかったから。


「いまはいいよ。

 その代わり別れたりしないからね?

 恭平くんの子供は私が産むし、恭平くんの妻になるのは私だし、一緒のお墓に入るのも私だから。

 それだけ約束して」


「……約束する」

 小指を絡ませる。


「指切りげ〜んまん。

 嘘ついたら……泣くどころじゃ済まないなぁ〜……」


 約束の証にちゅっと触れるだけのキスを姫乃の小指にして、それを離した。


 赤い顔をさらに赤くして姫乃は俺の肩で顔を隠す。

 恥ずかしさが限界を超えたらしい。

 そのまま顔を隠しながら姫乃は唸る。


「……うん、うん、私たちってそうだよね。

 お互い……過ぎてこうなるってわかってなかったりとか。

 そんで恭平くんも私も馬鹿みたいに不器用で、ああ、もう……!

 ……てる!」


 そこからパッと顔をあげ俺を見る。

 そんでもってまた顔を隠す。


「ダメ……、何言っても恥ずかしすぎる……」

 本人は無意識だろうが色気さえまとったその言い方に彼女をぎゅっと抱きしめてしまう。


「帰したくねぇな……」

 それに姫乃は答えない。

 答えれば自分がどうなるか、どうするかわかっているから。


 それでも姫乃は答えた。

「……いいよ」


 ……良くはない。

 ほぼ1人暮らしの俺に対して、姫乃には帰らないといけない家がある。


 脳が焼け付くような感覚を乗り越えて理性を働かせる。

 再度、姫乃の唇に唇で触れ。

「今度こそ送るよ」


 見つめ合う目に力がこもればこもるほど、俺たちが堕ちる速度は加速する。

 だから姫乃のトロけるような瞳を柔らかく受け止めて告げる。


「……ちゃんと挨拶して迎えに来る」

「うん、待ってる。

 来ないなら押しかけるからね?」


「あははは。

 あー、溺れすぎ……。

 捨てないでよね、恭平くん?」


 相手を裏切らないという確かな信用は捨て去るには一瞬でも、育むには長い時間でしか証明できない。


「一方的に惚れてるのは俺のはずなんだけどな?」

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