第20話悪いのは私だ(姫乃視点)

「姫乃。

 無理して笑わなくていいぞ」

「えっ?」


 1年前、幼馴染の親友である彼を認識したのはその頃だった。


 無意識、意識的問わず、クラスで男性に近寄られたときにはそっと何食わぬ顔で私は距離をとっていた。


 どうしてもダメなタイミングなら、ボディタッチのフリして手で距離を取るようにしていた。


 今回も人に押されて少し近づいた恭平くんと距離を取ろうと。


 しかしボディタッチのフリした私の手が触れる前に、恭平くんは自ら私から距離を取って……離れた。


 それは何気ないクラスでの一幕。


 自分なんていなくてもいいんだ。

 そんな思いが常につきまとっていた。


 元々の性格と思春期特有のなにかで、私は限界だったのだと思う。


 恭平くんも私に告げたそんな一言。

 恭平くんもそれが私の心に簡単に突き刺さるなんて思いもしなかっただろう。


 誰より私が思いもしなかった。


 笑顔の仮面を剥がされたときに、素の私が恭平くんの優しい笑みは、脳裏と心に焼きごてを当てられたように消えなくなった。


 単純と笑うなかれ。

 ごめん、こんな愚かしい私をいっそ大笑いして欲しい。


 同時に生まれて初めて湧き起こる激情のような強い感情が、その瞬間から私を私としてこの世に存在させた。


 つまり私、水鳥姫乃という存在は恭平くんが生み出したものだ。





 真幸君と付き合う大元のきっかけは、幼馴染である彼の幼い頃の無邪気な言葉だ。


「姫乃ちゃん!

 大きくなったら僕と結婚して!」


 彼は悪くない。

 悪いのはそれを真に受けた大人たちとそれに抗えなかった私だ。


 両親たちは大いに盛り上がった。

 そして私も幼いときから、そんな空気が読めてしまった。


 決定的な言葉は何一つ言わなかったけれど、ニコニコと笑顔を作って見守った。


 それから両親は事あるごとに幼馴染の世話を焼かせたり、泊まりに行かせたりした。


 真幸君を嫌いではなかった。

 彼自身は素直で優しく、人のことを思いやれる人だ。


 彼は誠実であろうとしただけだ。

 思春期になり、クラスメイトや周りからの盛り上がりを私たちは無視できなかった。


 友人として遊びに行くのも嫌だったわけではない。

 ただ恋にはならなかっただけで。


 両親と心がかみ合わない。

 幼い頃からかみ合わないものを、かみ合う私に塗り替えることで生きてきた。


 あの人たちも悪い人じゃない。

 幼馴染同士とか恋愛とか、その憧れが強過ぎて、子供である私がそれに応えるために自分の心を覆い隠してしまっただけ。


 悪いのは私。


 特に母は親友である真幸君の母親が亡くなったこともあってか、ことあるごとに幼馴染の彼と私が恋愛劇を繰り広げる夢を語って聞かせた。


 それはなにかを強制してとかではなかったけれど、呪いのように私の心に繰り返しもたらされた。


 そうして、それを叶えてあげるべきなのだと、心に刻みつける程度には両親たちのことが好きだった。


 私も本を見て両親が望む物語の幼馴染がどういうものか勉強した。

 昔から本の虫だった私はあらゆる本を読み漁った


 そうして世話焼きで明るい幼馴染を演じれば両親も喜んでくれたから。


 幼い頃からそうしてきたのだ。

 それがどういうことになるか、考えることはできなかった。


 悪いのはやっぱり私だ。


 幼馴染とは言っても真幸君の部屋に入ったりもしないし、2人っきりになるのもできるだけ避けた。


 そういう対象ではなかったから。


 私は明るい性格をでっちあげてはいたが、内心は男の人が苦手なのだと思う。

 その意味で幼馴染の真幸君は確かに例外ではあった。


 幼い頃からの友人だと思っていたので、真幸君が私のそばにいることへの忌避感はなかった。

 それが更なる間違いを生んだとしても。


 私たちが付き合うことになったのは、高校2年の始め。

 クラス内で私と幼馴染の真幸君はおしどり夫婦のような扱いだったし、私も家での延長でそのように振る舞っていた。


 だから教室の中でクラスで盛り上がったノリの中で真幸君が告げた。

「付き合ってみるか?」


 それを周りが聞いていてお祭り騒ぎになった。

 そんなつもりはないのだと、周りどころか真幸君本人にも伝えることは出来なかった。


 そのときはまだ誰かを好きだったわけでもない。


 そもそも私自身は空っぽだった。


 なんで生きているのか、自分は誰なのか、なにがしたいのか、望むもの自体がなにもないほどに……。


 それほどに私は空っぽの存在だった。


 でももしかしたら、彼のことも異性として好きになれるかもしれない。


 いいや、なっていこうと思った。


 どれほど考えても、なにも執着できない空っぽのままの私だったけど。


 真幸君もそんな私の心をそれとなくわかっていたのかもしれない。

 ゆっくりと気持ちが育つのを待つよ、と言ってくれた。


 真幸君は本当にいい人で、客観的に見ても魅力的な人だった。


 私が欠陥品だっただけ。


 その私が生まれて初めて好きになったのが、よりによって真幸君の親友だった。


 同じクラスだけど、真幸君と付き合うまでは接点を持たなかった存在。


 噂ではチャラ男。

 モテるだけあって女にも優しい。

 そして女にだらしない。


 その彼と話すようになって、噂とは違うことを知ってからの唐突な一言。

 それが全てを変えてしまった。


「姫乃。

 無理して笑わなくていいぞ」


 私は自分が無理をして笑っていることに、そのとき初めて気づいてしまった。


 そして恭平くんの優しさが本質的なものだったことを知ったとき、恭平くんと心の距離を取ることに失敗した私は堕とされた。


 正確には……堕とされにいった。


 ギリギリのビルの端っこからスリルを味わうように恭平くんに近づいては触れてみた。


 初めて味わう恋の甘い気配をそこに感じ取って、恋を知らない私はその甘そうな蜜に触れてみたい欲望に駆られて何度も。


 そうして私は泥沼に堕ちた。


 そういう行動を取れば女にだらしないと噂の恭平くんが仕掛けてくるのを気付きながら、誘導した。


 2人っきりになる隙を作り、彼が迂闊な言葉を吐くのを待った。


「女として磨きをかけるのに俺と練習する?」

 それは恭平くんが誰にでも言っているであろうチャラついた戯言ざれごと


 私はそれを利用した。


「……そうだね。

 魅力的になるのも大事、だよね?

 恭平くん、教えてくれる?」


 震えながら。


 そんな間違った誘いも恭平くんはきっと、女に恥をかかせないためという精神で断らない。


 その優しさが恭平くんに親友を裏切らせる行為であったとしても。


 私は初めてを捧げて溺れた。

 肉欲もあった。


 それでも仮初かりそめの自分で生きてきた私のモノクロな世界に、初めて色がついてしまったのだ。


 自分が生きていることを実感する。

 恭平くんの子供が欲しくて彼との欲望に乗ったフリをした。

 その先に破滅しかないことは容易く想像がついた。


 でもそのたびに思う。


 だからどうした。

 彼に触れないまま生きてきた自分が地獄ではなかったのか?


 そのまま他の誰かに手を出されていたのなら、きっと私はその先の人生に意味が持てずにその命を絶ったのだと。

 自信を持ってそう言えてしまう。


 恭平くんが私以外の他の誰かと付き合いだしたら、全部バラして一緒に破滅するのはどうだろう?


 そんな妄想を何度も抱いてゾクゾクした。


 たとえ行く先が地獄であろうと、恭平くんと2人で堕ちていけるなら、それはどれほどの甘美な地獄だと。


 そもそも。


 私は事を起こしてしまう前にケジメをつけて、幼馴染の真幸君だけにでも真実を伝え別れてから、恭平くんにアプローチをかけるべきだった。


 でも私はそれが出来なかった。


 ある重大で致命的な理由。

 それがわかっていたから。


 恭平くんが親友の『元カノ』に手を出すことはないと。

 彼が再び親友を裏切ることはない。


 とても奇妙な逆説だけど、私が恭平くんの『親友の彼女』という立場がなければ、恭平くんは私と2人っきりで会うことは絶対にしないだろう。


 こんな最低な方法でしか、恭平くんが私に触れる可能性はなかったのだ。


 チャラ男の『フリ』して。

 本気になったしまった相手に対して、とことんガードが固い。


 それは恭平くんは本気の恋を避けているからだ。


 チャラ男として女と遊びながら、それはどこまでも遊びで。

 本気で彼に告白した女は例外なくフラれて泣いた。


 真幸君と別れていれば、その時点で私もフラれていたのだと確信がある。


 私は私自身もそうと気づかずに、ただがむしゃらに全身全霊でこの恋を守ろうとしていた。


 他のことを気にする余裕なんかカケラもなかった。


 だってこの世界には恭平くんが私の前に現れるまで、私は存在などしていなかったのだから。


 それが全て。


 浅ましい女が恋に溺れた、ただそれだけの話。


 恭平くんと終わるなら全てが終わる。

 そう思って、どれほど叫んでも現実は変わらない。


 私は……終わったんだ。

 彼が私をいらないなら私も私をいらない。

 あとはもう本当に終わるだけ。


 せめてもと真幸君には全力で謝った。

 彼の家の前で、彼を待ち伏せて即座に全力で土下座で。


 彼を利用したことも、幼い頃から空っぽの自分と一緒にいてくれたことも含めて全力で謝った。

 そうすることしか出来なかったから。


 恋ではなかったが彼は大切な幼馴染ではあった。

 恭平くんに出会わなければ、別れるようなこともなかっただろうなと思う。


 それは恋ではなかったとしても。

 そうすることで永遠に私は私であることを放棄しても。


 そしていつか、『もういいかな』と思ったときに、やっぱり自らの命を絶っていたとしても。


 だけど、いまこの場にいる。


 情けなくて汚くて吐き気がするほどの最低最悪の自分で。


 ……それでも、私は恭平くんが好きです。

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