第18話たった1つの電話が全てを変える

 夢から目覚めた。

「なんの夢を見たか思い出せねぇ……」


 心臓がバドッドッドと早鐘を打つと同時に冷たい血が身体中に巡っていく。

 認めたくない絶望を現実だと見せつけられた、そんな夢。


 それでもとても重要な忘れてはいけないいましめのような夢だった気がする。

 寝汗をかいたらしく服がドボドボだ。


 転生前の30年の人生の中でもこの感覚は初めて……だと思う。

 チャラ男の俺の記憶なら、ばあちゃんが亡くなったときか。


 チャラ男18歳の俺の方が30歳の俺より経験豊富な気がする。

 そんな経験ばかりで嫌だけど。


 30歳ブラック企業勤めのはずの俺が、転生してから未経験のことばかりだった。


 寝取り浮気とか最悪の経験はしたくなかったけどな!


 さらに昨日のことを思い出す。

 引導を渡されたと言っていいだろうか。


 真幸へもう一度電話した。


 ヒノからも話は聞いた、と真幸は言った。

 俺は謝ることしかできなかった。


 真幸はもっと早く言ってくれたらよかったのにと、そう言った。


 それだけだ。


 怒りをぶつけてくれたら良かったのに、真幸はただ俺たちの謝罪を受け入れる言葉を返した。


 こんな人もいるのだ。


 恨みを復讐だけで返すのではなく受け入れる強さ。

 自分もそんな人でありたかった。


 そうありたかった。


 そう思うと俺の愚かさと申し訳なさで泣いてしまうのを堪えながら謝った。


 寝取り浮気をするような精神性。

 その愚かさと弱さを乗り越えたいと強く思った。


 また直接会ってでも頭を下げたかったが、真幸は。

「さすがにいまは時間が欲しいなぁ」

 そう言った。


 どんなことでもする。

 俺が言えたのはそれだけだった。

 真幸はわかったとだけ。


 おそらくこれで姫乃との関係が終わったのだと思うと、いま見たなにかの夢すらどうでも良くなった。


 とにかく姫乃への感情が辛かった。


 30歳までブラック企業で勤めていると、感情の殺し方などお手のものになる。


 それと同様、恋ごときの柔らかい感情など、容易く惨殺してしまえるし、何度も消すことができた。


 死ね死ね死ね、お前なんか嫌いだと心の中で恋で盲目となった自分を刺し殺すのだ。

 何度も、何度も。


 そうすると、あるときからその恋に浮かれる感情は死んでくれる。

 気分は晴れやか。

 俺はもうその浮ついた気持ちをその誰かに抱くこともなく、解放された心持ちになれるのだ。


 ……だというのに。


「なんでコレは消えねぇんだ?」


 ふわっとした感情ではなく、身体の内部、心臓の奥底。

 姫乃を愛しいと思う気持ちが死んでくれない。

 心の中というものに一体化してしまっている気すらしている。


 ……もう後は。


「そういえばなにもないな……」


 今も心が痛むとかいうレベルではない。

 無意味なのはわかっているが、俺は俺自身の身体に呼びかける。


「……おいおい、恭平さぁーん。

 身体が動かないんですけどぉ?

 まあ、動けない理由はよくわかってるんですけど」


 以前の俺がなぜ寝取り浮気という罪を重ね、それでも関係を続けたのかよくわかった。


 とても単純な話。

 姫乃を手放したくなかったからだ。


 俺たちの関係は始まりから寝取り浮気だから成り立っていた。


 もしも姫乃が親友の彼女でなければ、チャラ男の俺は彼女に近寄っていないだろう。

 彼女もチャラいクズ男に近寄りはしなかっただろう。


 親友の彼女と彼氏の親友という免罪符が俺たちの心を、限界を超えて近づけさせてしまった。


 いずれ飽きて姫乃を捨てる気があったかどうかはわからないが、少なくとも今この瞬間に至るまでチャラ男の俺も姫乃に深く溺れていたのだ。


 もっと早くに清算しておけば。

 そう思わなくはないが、それがいまだったのだ。


 もしも転生した俺がただの1度でも姫乃を抱いてしまえば、俺もチャラ男の俺と同様に抜け出せない寝取り浮気の泥沼から抜け出せなくなったことは間違いない。


 それほど身体に宿る感覚というのは馬鹿にできない。


 ごっそりと身体の中身が持っていかれた感覚。

 俺は深く大きくため息をつく。


 締め付けと空洞が広がり、息を吸うだけの存在に成り果てる。

 ついに水滴がその頬を流れたときはバカバカしさに笑った。


「おいおい、なんだよこれ……」


 失ったのだという喪失感。

 自らで手放しておきながら覚悟がなかったというまいな?


 そう、覚悟ならあった。

 だが姫乃がこのチャラ男の全てだったとか、想像するのは不可能だ。


 だからこれも一時的なものだ。

 都合の良い身体をもてあそぶことができなくなった喪失感を感じているだけだ。


 30歳童貞の俺には、この喪失の経験などないから予想外のことで身体が反応しているに過ぎない。

 そうでないとおかしい。


 それでも。


「これ……、キッツイなぁ……」

 この喪失を知っているのなら、浮気者どもでも別れることに慎重になるのもおかしくない。


 浮気をしておいて別れたくないとほざくヤツがカケラも理解出来なかったが、それはこの喪失を恐れるからかもしれない。


 それとも……この喪失感が恐れ多くも俺が姫乃をそれほど欲していたためだとでも言うのだろうか。


「あー、はいはい、そうです。

 そうですよ!」


 半ば焼け気味に誰もいない部屋にそう答える。

 誰にというより自分自身に。


 寝取り浮気は当人たちよりも周りにこそ不幸を撒き散らす。

 なによりも幸せを約束されたはずの姫乃をその裏切りに巻き込んだ俺が。

 この原因のわからない喪失感で苦しむ程度。

 当然の罰なのだ。


 言い換えてみれば今後の贖罪は別にして、これで姫乃と表立って付き合うことも可能なのだろう。

 姫乃がそれを望むのかは別にして。


 だがその未来は当然の如く暗いものになる。

 1度は裏切った者同士の関係は上手くいくものではない。

 当たり前だが、1度裏切った者は何度でも裏切れるのだ。


 転生令嬢モノの漫画や小説に多いパターンで婚約者を奪われました〜、などというものは哀しいかな、現実でも起こっている。

 なぜ気づかないのかわからないが、その先の未来は暗い。


 男は数年後にまた別の誰かと同じように浮気をするし、女もまたどちらが先かは別にして寂しくなり、新しい温もりを求める。


 その繰り返しだ。

 せめてその繰り返しの地獄だけはここで絶たないといけない。


 俺がどれほど姫乃と生涯を共にしたいと願おうと。


 俺は嗚咽混じりになったことで息苦しさを覚えながら、無理矢理に吐き捨てる。

「バカバカしい……。

 俺はクズで最低なチャラ男だ。

 そんなヤツには地獄がお似合いだ」


 そもそも俺こそがその地獄の連鎖に姫乃を巻き込んだのだ。

 俺の中にある不貞の血に逆らえずに。


 このクズの血に。


 丸一日、ぐったりとした身体は眠らせてくれない。

 俺は自分がすっかり憔悴し切っているのを感じる。


 手は無意識にスマホの中にある秘蔵写真を開く。

 心なしか匂いすらも思い出す。


 うん、我ながらキモい!


 ところで。

 とても今更だが一人暮らしというのは独り言が増える。

 マジで増える。


 そのために自分の中の第3者を作り精神の安定を図るためかもしれない。

 ゆえに、こんな感じのことも脳内で繰り広げられる。


 そこに真幸から電話がかかってきた。

「ヒノ、そっち行ってないか?」


 俺はこの電話で真幸に返しきれないほどの恩をもらうことになる。


 もしも真幸が寝取り浮気して別れた彼女を、どうなろうと知ったことではないと思う普通の男ならば。


 俺たちの人生はきっとここで終わっていただろう。


 もう俺たちの心が現実とさよならをしていたことだろう。

 そう思えるような分岐点がここだった。

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