第15話全てを終わりにしよう

 俺たちが2人で話し合う場所はよりによって、以前と同じラブホテルしかなかった。


 そんな笑ってしまえるほどの無茶苦茶な事実だけが、そこにあった。


 カラオケ店とか密室になれるところもあるが、学生たちには人気のバイトだ。

 実際にそういう場所で2人でいるところを、すでに見つかりそうになったこともあった。


 正しくはもう一つだけある。

 我が家だ。


 ただそこはおぞましい不貞を行うために購入された場所である。

 そこに残されたように暮らす俺。


 その場所に彼女を連れ込めば、自らもまたそうだと認めてしまう気がした。


 同時に俺はもう限界だった。

 どこであったとしても、姫乃と2人になった瞬間に俺は彼女に手を出すだろう。

 そして姫乃もそれを拒みはしないだろう。


 そうなれば堕ちるだけ堕ちて、全てを壊してしまうのだとわかっていたから。


 ある種、淫らなことを行うこの場所だけが、そうであるがゆえに俺を理性の方に繋ぎ止めていた。


 どうしようもないほどに、この世で俺と姫乃が2人でいて良い場所はなかったのだ。


 認めたくはないが、きっと俺はもう手遅れなほどに堕ちている。


 もうなにか破滅的なことでも起きない限り、この快楽から抜け出せない。


 可愛い、愛しい、気持ち良い。

 狂おしい姫乃への感情の波が全てを押し流そうとしてくる。

 正直、寝取り浮気の激情を舐めていた。


 これは麻薬と同じだ。

 脳内には興奮を司るアドレナリンなど麻薬と同様の成分がその都度流れるという。

 それを脳内麻薬という。


 それが過剰になれば、麻薬を摂取したのと同じように常態的にそれを求めるようになる。


 パチンコなど賭け事はなにかを摂取したわけでもないのに依存症状となり、人生を狂わせていくのはそれと同じ。


 俺たちにとって、寝取り浮気のこの関係もそれと同じだったのだと思う。

 その奥底に隠れる全てを捧げたいほどの愛しさには俺は目を背けた上で。


 せめて彼女を俺というクズから逃すのだ。


「俺たちのことを伝えるべきだと思う」


 俺はついにその言葉を姫乃に告げた。


 余裕の一切ない目で俺を掴む。

 様々な感情が見えて揺らいでいるのに、その瞳が意味する言葉がなにもわからない。

 言葉を紡ぐことなく姫乃は俺の腕を掴み震える。


 それからなにかに気づいたように目を見開き呟いた。


「あっ、私捨てられたんだ」


 その瞬間、彼女の目から光が消えた。

 目がハイライトになるとか、表情が消えるというか。


 それは小説などにおけるただの感情表現なのだと思っていた。

 現実にそれを見るまでは。


 絶望してなにもかもを諦めたときに、人はこの顔をするのだと。


「それは違う!!!」

 俺は考えるより前に言葉を吐く。

 姫乃を強く抱きしめる。


 いまこの瞬間、彼女を離してはいけない。

 直感がそうはっきりと警告した。


「嫌だ、嫌嫌嫌」

「裏切り行為はいつまでも続けるものじゃない。

 それは終わらせないといけない」


 ただいつかはバレる、もしくは終わらせなければならない。

 それが寝取り浮気の業だ。

 それには永遠に未来は存在しない。


「嫌だ! 恭平くん、……!

 ……!!」

 俺の腕の中でしがみ付きながら、姫乃がなにかを繰り返し叫ぶ。

 溢れる涙ごと絶叫しながら。


「一緒に謝るし、なんでもする。

 だからこの関係は終わらせなくちゃいけない!」


 なんだこれは!

 これでは姫乃は浮気相手に完全に堕ち切っているではないか。


 俺は自分の理解が十分ではなかったことを実感した。

 これは寝取り浮気だ。


 寝取りは完了していたのだ。

 その罪の重さに眩暈めまいすらする。


 この絶望の表情をさせてしまったのが自分なら、そこまで寝取り浮気という地獄に姫乃を突き堕としてしまったのも自分なのだ。


 俺は姫乃が逃げないように抱きしめているように、姫乃も俺が逃げないようにしがみ付いているのだ。


 その腕の中にある姫乃を愛しいと思ってしまう自分勝手さを自覚しながら、もがく姫乃を抱きしめる。


「だったら一緒のお墓に入ってよ!」

「わかった」

 俺は彼女の言葉に即答する。


「恭平くんの子供を産ませてよ!」

「姫乃が他の誰か、良い相手がいなかったときはそうしよう」


「いるわけない!

 私は恭平くんを……って言ってるでしょ!?

 他の誰もいらない!」


「姫乃なら大丈夫だ。

 必ず愛する人と幸せになれるから」

「捨てないでよぉ……」

「捨てない、捨てたりするものか。

 ちゃんといるから」


 隣にはいられなくても。

 他の誰かの隣で笑う姫乃を見ることに、俺はきっと耐えられないだろうとわかっていながら。


「だったらずっとそばにいてよぉ……」


 その言葉に返事は返さずに泣き止むまでずっと抱きしめたまま、姫乃の頭を優しく撫で続けた。


 俺は姫乃が逃げないように抱きしめる。

 その腕の中にある姫乃を愛しいと思ってしまう自分勝手さを自覚しながら。


 どれぐらいこうしていただろう。


 きっと1時間、いや2時間はゆうに超えているかもしれない。

 無限の時間のように思えても、泣き止むまで何日だろうと待とうと思った。

 そうであるように抱きしめ続けた。


 本当はいまこの瞬間からでも、姫乃を押し倒し自分のものにしてしまいたい。

 そう強く思いながら。


 それでも人はずっと泣き続けていられるほど弱くはない。

 やがて姫乃の泣き声が小さくなった。

 そこで俺はささやくように彼女に提案する。


「終わりにするんじゃない、リセットだ」

「リセット?」


「そう、初めからやり直すんだ。

 俺も一緒に謝る。

 謝ってまた0からやり直すんだ」


 全て詭弁きべんだ。

 失ったものは戻らない。

 確かな事実として、一度人を裏切った者は次も容易く裏切れてしまうのだ。


 転生してやり直しをしているはずの俺でさえ、いくつもの戻らないものを通り過ぎていったのだ。


 たとえば前の人生全て、とか。

 それがどういったものだったかは、もう思い出せなくなっている。

 いま腕の中にいる姫乃と同じぐらい愛しい存在がいたのかもしれない。


 いや、いたら童貞ではないからそれはないのか。

 とにかく取り戻せないものをあることを知りながら俺はそう言っているのだ。


 なんてクズなのだろう。


 ……それでも。

 それでも全てを終わらせて、覚悟を持って罪を償う。


 その先にだけ唯一の光が存在する。

 俺にはもうその光が見えなくなっても、きっと姫乃だけは。


 ああ、そう願うことさえ最低なのだとわかっていても。


 きっと俺も姫乃も

 2人で破滅することさえ幸せに思えてしまうほどに。


「いいね、それ……」

 姫乃は俺をそっと突き放し、とても悲しそうな顔で笑う。


「……な人にちゃんと……と言って、それでやり直すんだ……。

 ……な人に……って言えるように」


 ほろほろと涙を流し、それでも姫乃は優しく笑う。

「……って言えるっていいよね」


「悪いのは全部俺だから。

 俺は小説にも出てくるクズのチャラ男だから姫乃は悪くない」


 これも詭弁だ。

 寝取り浮気において、犯罪行為でなければそれはどちらかが悪いではない。


 両方が悪いのだ。


 寝取り浮気をした当人たちに抒情酌量の余地はない。


 俺が誘って誘導して堕とした。

 きっとどうしようもないほどの肉欲で。

 チャラ男らしい自分勝手な理由で。


「だったら子供まで作ってくれれば良かったのに。

 なんてね、そんなわけにいかないもんね」


 それこそ鬼の所業だろうと俺は思う。

 現実にあり得てしまうし、悍ましいことだが、いまもどこかでそんな関係が存在しているし、その証拠が俺だ。


 俺たちはそこに向かって真っ直ぐに堕ちている最中だった。


「……悪いのは私。

 少しだけ待って。

 準備をしたら必ず終わらせるから。

 約束、する」


「……ああ、わかった」

「約束げんまーん、嘘ついたら……子供を作ってもらおうかな」

 そっと自分のお腹に触れる。

 そこに俺たちの子供はいない。


 いたらどうなっていただろう。

 きっとよくある寝取り浮気の関係の末路のように、全てをグチャグチャにして終わるのだろう。


 関わった大切な人を不幸にさせながら。


 姫乃は俺の表情をどう捉えたのか、寂しそうに優しく笑う。


「そんな顔しないで。

 嘘ついたら私が針千本飲みます」

「俺が飲むんだろ?」

「ううん、私が飲むの」

「それはダメだろ」


「ごめん、先に謝っておく。

 これからも恭平くんが受け入れてくれなくても、私はずっと恭平くんのこと……から」


 姫乃は涙を止め、ニコリと笑う。

 その目にはほんの少しだけ光が戻っていた。

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