Diamorphine

Ⅰ.

あなたの吐き出したすべての白い仔うさぎたちが、こちらによちよちやって来て多幸感を一つずつ分け与えてくれる。そろそろ届く、優しい返答が、アイボリーの封筒に包まれて。ずっと待っている。毎晩、明日こそは届くだろうと言い聞かせて眠りに就く。二十七年間経った。それでも消えかけの朦朧とした煙の中で待ち続けている。何がどんなふうでも無い。思いもよらない祝いの言葉かも知れない。それでもよかった。わたしはただ待っている。待ち続けている。夕方と夜に響かせる音の違い。重なりながらずれていく黒人のダンス。なめらかに水のように、内側と外側を交差する白人のダンス。その他の人々。大勢の在る人々。大勢の或る人々。響きに耳を傾ける。愛する人が淹れた紅茶を飲む。不安を取り除く味。脳みそを真っ白のスプレーで塗り潰していく。迫り来る津波よりも、今ここでわたしと夢見ることを優先させて。スケート靴を履いて金色の輪の中を永遠に巡る。何も起こらない。ただ互いに背中を追い続ける。あるいはそこで起こったすべての出来事を忘れる……楽しかったことも、悲しかったことも。

最後と最初のパーティーが同時に催される。わたしは会場の隅で煙草を吸っている。音楽に合わせて踊る人々。愛を交わし合う人々。微笑み合う人々。そのどれとも関わらず、ただ煙草を吸っている。

七分間の素晴らしい眠り。短いけれど強烈な夢。湖底で鳴り響くノイズ。人間には聴き取れない醜いノイズ。不安を煽り続けるノイズ。どこも治癒してくれないノイズ。陣痛に悩まされるノイズ。眠りたくない。眠ったらこの素晴らしい夢が終わってしまうから。やがてあらゆるものが優しいような気がして来る。そんな自分を情け無く思う。手の中には大量の虚偽と罪、消えない罰の跡。



Ⅱ.

白地の柔らかいタオルケットの中で、興味深いような気がする本を読みながら、眠りに落ちる姿を予感していた。そのとき友人、あるいは仕事仲間とも呼べる関係の者たちは、みな実刑判決を食らって高い塀に囲まれた檻の中に居た。残るは自分だけだったが、何もかもから現実性が失われていた。少しでも気が緩むと、脳がぼんやりとした音を立てつつ、何か重要なものをわたしから切り離そうとした。それは魂とも呼ぶべきものかも知れなかったが、今となっては分からない。ぼんやりしている割に明確な恐怖を植え付けてくる体験だった。読書はそれを誤魔化すためにも丁度良かった。誰もが誰もを傷付け、盗み、裏切っていた。黴臭いマットレスの上で、体の重心を少し右にかたむける。今日も明日もまったく同じ時間が繰り返される。どこからどこまでが夢で、どこからどこまでが現実なのか分からないまま、酒を飲み薬を飲む。スウェーデン人の陰鬱な歌を聴く。早朝から仔犬が鳴いている。何となくシーズーだろうと想像する。昨日スーパーマーケットに行く途中、ひたすら何もかもに吠え続け、手当たり次第脱糞する半分狂ったシーズーを見掛けたからそんな気がするのだろう。気弱そうな飼い主はまるで大型犬を連れているかのように、必死にリードを引っ張っていたが、犬は気にも留めず通行人を睨めつけキャンキャンとけたたましく吠え続けていた。小型犬を飼うとしたらチワワがいい。チワワは悪魔に似ている。わたしのチワワが世界中のペットショップに火をつける。そしてその中に居る他の犬や猫──あと何が居るのか分からないが──、全員を車の荷台に乗せてどこか広大な草原に放つ。命を金で買う。血統書付きなら値段は跳ね上がり、何やら立派な英名が名付けられている。狂犬病のチワワに噛まれて死ぬ。愛すべき悪魔。わたしの首を絞める。ペットショップを燃やした廉か、仲間たちを於いてのうのうと読書しながら眠気を待つ廉か。いずれにしても頭の中は何も変わらない。状況がどんなに変化しようとも。



Ⅲ.

愛は持ったか?とくだんのオーストリアの医者が観客に問う。かえって、きみたちは歌う。誰も知らない言葉で。再び問い返す。街の明かり、月の明かり、星の明かり、そのモザイク。あなたは大きな音を立てる。他の観客たちはそれでひと先ずがっかりする。脚の痙攣が止まらない!といった具合に。“We love each other so much”.空白の置き方にはどうか気を付けて。それさえ済めば、夢の旅へ。ワクワクするような展開は一つも無いけれど、もうがっかりすることには慣れきっているだろう?あなたが産まれた時、世界中から溜息が漏れた。それだけでこの件に関する証明は終わりだ。あといくつも残っていない。夜の光が落下していく。煙草の光が落下していく。どうしてそれを求めた?よりによって、記憶と天秤にかけて、それを求めただなんて。きっときみのお母さんが知ったらさぞや──わたしたちも声を合わせて──がっかりするだろう。わたしの言葉はもうすべて彼の頭のうちに託してきた。『主観性と客観性、個体性、あるいは実存的な悲鳴』と題して。むしろきみたちは歌う。知っている、こうだろう──つまり、愛を込めて。続きはいつやって来る?もう来ないと散々言っただろう。これはきみと息子の会話だ。どうして知っているかって?何度もビデオ・テープで観たからね。

親愛なるA。あなたはこの世で最も赤い、血のようなクロスを敷いたテーブルに肘をついて座っている。壁にはいくつも小さな絵が掛かっていて──首から上がペニスになっている紳士、乳房の形と色をしたクロッシュ、虫の翅を生やした銀のスプーンとフォーク──、わたしは思わず「まるでコロヴァ・ミルク・バーみたいですね!」と言う。Aは微笑んでいる。「こんな素敵な雑貨、どこの雑貨屋で買うんです?」と訊ねる。Aは茶目っ気のある顔をする。「雑貨屋?そんなところは行ったことが無い。“Top of the shop”と呼んでくれ」。親愛なるA。わたしが知っているかぎり、彼はいつもセンチメンタルな人間だった。

他人の誂えた天国より、きみの作った地獄に居たい。神は、わたしからわたしに関する一切を奪う。わたしが地獄に持って行けるのは、きみの名前とシガレットだけだ。だから永遠の時間を掛けてきみの名前を呼び、口から煙を漏らすだろう。果物の皮で蓋をされた地獄の中で。わたしが最も憎むもの、それはきみと同じ──きみ自身だ(これを耳にしたくだんの医者は「Das ist großartig!」と大粒の涙をこぼしながら、座席から立ち上がり何度も拍手するだろう)。

きみはある意味で、いくつかあるうちの一つの真実を、あるいは同じことだが、たった一つしか無い真実の一部を、その手に握りしめている。他方わたしは、誰かも知れぬ者からの「クレイジー」という言葉に、まるでティーンエイジャーかのごとく、ひどく傷ついている。見失ったものはもう取り戻せない。わたしが誤魔化した数々の不幸。どんなに殴られても、理性は再びリングに立つ。覆った布の隙間から漏れる臭気のように。でも屈辱が犯したのは殺人では無い。自殺幇助だ。どうするべきか?何を為すべきか?または何を為さないべきか?空はしだいに明るんでいく。わたしは寧ろ、無意識に現実へと縛り付けられている。鏡に映るのはただすべてが反転した現在だ。誤字脱字、迷信、陰謀、悪しざまに打ち遣られた句読点。罵倒の言葉ならところ構わず吐き捨てる。この惑星は病んでいる。人間だけでは無い。木も、土も、水も、時間も。すべてが連関を欠いてばらばらに崩れ落ちていっている。人間を愛しているか?それには答えられない。きっと死ぬまで。明らかであることといえば、この魂があといくつの肉体を勝ち得るのかということだけだ。わたしは待っている。もうここには居なくなってしまった人類を。もしかしたらその時に理解するのかも知れない──「同胞意識」というやつを。この運動に於いて、停滞はあったとしても終わりは無い。わたしはきみの名前とシガレットを持って、あなたがたの帰りを待っている。

悠然たる理性?必然的な産出、あるいは形成?いずれにしても、与えられた時間は一定だ。意識は逃げも隠れもしない。血液が身体中を循環するかのように、隈なく張り巡らされている。わたしたちはただ、コンパスの針が示す方角に向かって走ればいい。新しい玩具を与えられた仔猫のように。ふしだらな野生動物のように。辿り着いた先にある湖に全身を浸す。木の葉のそよぐ音。花と妖精たちのひそひそ話。澄んだ湖面。おのおのが思い描いたとおりの空。よく知っている。季節も、時間も、光景も、あらゆるすべてを知悉している。従順であることに慣れきっていたから?そう、わたしは何も殺しはしなかった。それだけは間違い無い。しかしまた一方で、殺されゆく人々を助けることもしなかった。わたしはごく平均的な、二十一世紀を生きる哀れな一般庶民だ。断じて悪しき行為に手を染めはしないけれど、善なる仕事を所持しているわけでも無い。あなたなら何を守るだろう?群れからはぐれた狼、血統書付きの猫、はなればなれになった家族、一生遊んで暮らせるだけの富、尊敬の視線、名誉ある肩書、それなりに堅実な将来の展望、ささやかな感受性、豊かだと信じきっている知性、かつての友人、胸の大きい恋人、前戯に時間をかけたがるセックスフレンド、思いやりのある他人、その他諸々。「好きな本は?」「さあ、分かりません」。

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