C11H15NO2

何も間違えていない。嘘では無い。記憶が剥がれ落ちた音楽。そこには何が残っていた?分からない、チカチカと点滅する否定。身構えた言葉たち。消えていかない。暗い森の中で光源を探す。わたしを照らす光がわたし自身となり、朝となり、昼となる。あなたと手を取る。積乱雲の中で眠り続ける。ゆっくりとした呼吸、鼓動、最も安全なジェットコースター。神様の名前を貰う。それをあなたのうなじに記す。なるべく優しい午後の風であるように。同じ境位で遊ぶ。心臓に讃美歌がこだまする。ホームレス同然のジャンキーが作った、最も崇高な形式をとる芸術。世界の広がりの果てしなさに戸惑う赤ん坊をあやす音楽。君は本当の幸せも本当の悲しみも本当の寂しさも本当の満足感も知らない。それらはゆっくりと揺蕩う波のごとく訪れるものだから。わたしだって知らない。だから確かめ合う──ここがどこなのか?あとどれくらいで辿り着けそうなのか?優しい秒針が何度も何度も、丁寧に、正確に時間を刻んでいく。水が落ちて馴染んでいく。地表に広がる波紋。類となった生体系が揺れる。あなたのその物怖じしない美しさが好き。誰にも気を遣わない美しさが好き。そもそも他の存在のことなど思い及ぶほどのものでは無いと、生まれながらに知っているその美しさが好き。漏れ出てくる光をおさえて。両瞼を必死でおさえて。わたしの手が在る理由。単純性に宿ると信じられている強度にすべてを握らせる。

あなたを産んだわたしをあなたは赦した。おもちゃのピアノの拙い演奏とともに回想される、画素数の低い幼少期の記憶。金髪の子供が三輪車に乗って笑っている。母であるわたしは手を振りながらあなたの名前を呼ぶ。砂糖、砂糖、砂糖のように甘いあなた。三輪車に乗ったわたしを母がビデオカメラで録画している。自然のすべてが水となって溢れ出している公園。あなたへの愛は使わずとっておいてある。そんなに素晴らしいものじゃないけれど、わたしが出来ること、やり残したことなんてそれくらいしか無い。崩れかけたパンのかけらのようなこの体を、余すこと無くナイフで薄くスライスして人々に分け与える。わたしのこの渇いた体が、あなたの命を一瞬でも延ばしたのであればそれでいい。厚い雲の隙間から漏れた星の光だけがこの夜を照らす。これでいい、それでいい。すべての愛を両手に込める。あらゆる個別性を失った暗闇の中で、ただひたむきな愛だけがある。感覚的であろうとすればするほど失われていく感覚的なもの。額にしるしをつける。今日優しかった子ひとりひとりに。他のすべての日を悪魔として過ごしてもいいから、たったひとり、たった一日だけその人の天使になるように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る