mayilungi
Ⅰ.
赤ん坊ような手で顔を包まれる。
胸から出てくる音の一枚一枚で、いくらでも遊べるような気がする。
あなたはわたし以外の全ての人間から愛されている。あなたに不満を感じさせない為の、優しくもつれなくもない曲を集めたプレイリストを作っている。ぶっ壊れた製氷機。ぶっ壊れた製氷機の前で、金髪の不細工な風俗嬢とファックしてろよ。わたしはその間にこいつを完成させるから。体中の粘膜にこびり付いた愛。何も変わらない愛。綺麗に畳まれたティーシャツ。水色の太くて大きなみみずがわたしの身体を這う。誰も教えてくれなかった。しかし同時に、誰もそのことを責めもしなかった。口から吸って鼻から息を吐く。静かな寝息の中に、いくつもの症状が隠されている。暗い飴色の光、パトカーのサイレン、幸福感だけが絶え間なくシーツの裏側に吸い込まれていく。どうしてこれ以上無いほど湿った夜に、明日の生活を想像するのだろう。何もかもは自分のものだと勘違いした人間に、粉々に砕け散るまで殴り続けられたとしたら、どのくらいそのもの自体を慈しめるだろうかと想像する。偽りの作用の中で眠る。真っ暗な画面が永遠に延期される。一番弱い炎で全身を焼かれる。二つの目が把捉する風景が、現に存在するものであるのか、あるいは過ぎ去ってしまったものであるのかまでを、立ち入って知ることは出来ない。同じような形をした模様の中から、まったく同じ形のものを探す作業。もうどこにも行きたくない。ここで可愛い男の子を産み続けたい。どこからも見えない二階建てのマンションの一室で、カーテンを締め切り、薄明かりの中で、小さな男の子と抱き合っていたい。人肌くらいの温度の水。甘いチョコレートケーキ。汗ばんだ腕、透明の背中、白い唾液。声変わりする前の可愛らしい声で、わたしの名前を呼ぶ。
一番正しい水色。完全であると感じる一本一本の髪の毛。完全であると感じるひとつひとつの肌理。かつてのあなたが口にした感覚と情景は、ここにあるものたちと重なる部分があまりに多く、いつ、どこで、どんな姿勢で、そしてどんな気分でそれらを書いたのか、手に取るように分かり、いつも自分の言葉の中へ戻ってくるのに時間が掛かる。この本には現代性の欠けた、無限の時空間を彷徨う哀れな物語ばかりが収められている。同じ病気で、同じ毒を飲んだのだろう。窓の外で、健康な少女が同情するように歌うのを聴きながら。コーヒーから立ち昇る湯気。キャラメルポップコーンの香り。美しく退色した花の織りなす陰影。眠気と悪寒。すべての声がわたしの耳を塞ぐ。扉を開け、鉄骨の非常階段を急ぎ足で降りていく。落下して死んでしまいそうだ。途中まで確かに存在した安心感が、たった一度のまばたきで消失する。日々起こるいくつかの、いくつもの出来事を少しも覚えていられない。吐く息が見える。
Ⅱ.
スティーヴ・アルビニから「068.部屋から出て散歩をし(出来ればランニング──サイクリングも可)、日光を浴びて鬱病を寛解させよ」と書かれたメモを受け取ったので、まず大きな第一歩としてベランダに出る。コーヒーを飲み煙草を吸う。Sokoの一番好きなアルバムを流す。オレンジ色のバケツに腰を下ろす。太陽の周りを漂う美しいコロナから溶け出す、新種のSSRIを全身に浴びながら目を閉じる。真っ赤な柔らかい炎がすぐ目の前に見える。葉で出来た両手が、“本来あるべきでない”わたしの特質を、優しい手つきで炙っていくのを眺めている。やがて両指をきつく縛る紐も焼き切られ、少しずつ痛みが緩和していくのを感じる──それがたとえ、一時的な対症療法であっても。
骨を突き破る雷鳴にすら誠実さを感じる。縁に綺麗な花の刺繍が施されたタオルで、腕にこびりついたどろどろの液体を拭う。窓の外側から空気が流れ込み、独特の形状の物質が部屋の中を舞っている。心がここと等しい場所に存在している。薄い紫とほとんど消えそうな水色、その影が浸透し合うピラミッドの奥にある部屋。蝋燭の仄かな灯りとモノトーンの花々に囲まれ、透き通った小さな声で歌っている。この世の誰もが不可侵の王国。永遠に巡り続ける華奢な命。アイスグレーの命。いつの世界も、どの時間も、いつでも一番可愛らしい姿で現れる。永遠のうちのどこかの地点で、この苦しみから解放されたらよいと思う。揺蕩う本物の光明の中で、真実の言葉に頭の先まで浸り、全身の血管を循環する液状化した不安、あるいは粒子状のナノの不安が消毒されるとよいと思う。それがあなたの手に拠るものであれば、尚のことよいと思う。流れていく川の中、霞みがかった光が反射する川の中のほとりで、古い苦痛が再演されている。それは既に、わたしの心に何ごとをも映さなかった。何故なら皮膚の外側に、薄い虹色にきらめく、とろとろとした鎧を纏っているから。もう何も怖くない、何も不安では無い。そしてわたしの痛みは消えても、あなたの痛みを慈しみ、理解しようと努めることは出来る。乳白色の湯をかけ、全身を愛撫する。ずっとここにいる。一本の、背の高い葉の横に。
Ⅲ.
あたたかい晩春の風が、窓から吹き込んでくる。ベランダでは洗濯物が揺れている。本棚から半分垂れた、かつて何かを梱包していたと思しき無色透明のビニルに何かが反射して、一部分がピンク色に光っている。その強度は風の動きと関係しており、階段の踊り場から見上げる切れかけの電球の、頼り無げな明滅に少し似ている。浅い眠りが齎す、少し掠れた黄金の歌声。いつまでも大切にするよ。何にも代えないで、その手作りの祭壇の中央で、いつまでも。眠くて仕方が無いが、寝てしまうにはあまりに明るい夜。信号を渡る小さな男の子の後ろ姿。彼は野良猫を見るのにしゃがみ込むが、走って逃げられてしまう。ありもしない思い出が、現実の記憶よりも鮮明に正確に回想される。少しずつ熱を帯びていく鉄の棒を肌に押し当てられる。それでもわたしはありもしない思い出に手を引かれ、春の草原を駆け回る妄想をやめない。どうしてどこにも行かないの?とわたしは訊く。ここが一番安全だからだ──何も悪いことは起こらないし、神様はいつも微笑んでいるのが分かるだろう、とあなたは言う、そう信じるほか無かったというよりは、それ以外の可能性を考えるのが億劫だったからだ。もう帰って来ないの?とあなたは訊く。そうだよ、永遠に。とわたしは応える。一瞬、彼女は悲しいというよりは遥かに恨めしげな、自分を裏切った者に対する憎悪と侮蔑の表情を浮かべたが、間も無く真顔に戻り、新聞に視線を落として「そう」とだけ言った。
複数の景色が絡み合い、混ざり合い、支え合っている。あなたがたの嘯いた親切心は、すべて嘘だった。薄手のワンピースの中身を見られれば、それで終わり。──本当は、見られなくてもそれで終わり。中国茶の香りが肺の中を満たす。憐まれようと飽きられようと、自分に出来ることはこれだけだった。いつも震える両手で煙草を吸いながら、雨に濡れた野花を愛でていた。傾きかけた星の上で、そこに何も記録されていなくとも、すべてが繰り返されているだけだということは手に取るように分かった。確かめる手段が無いだけで、太陽が見開く大きな二つの目に映る何もかもが、均一で同等だった。わたしたちはその中で、何らかの価値あるものを求めて蠕動した。昼夜問わず蠢いていた。わたしが圧倒的に愚かだった。文字通り何も知らなかったし、特別に思えたものすらただの幻覚だった。フワフワしたネオン、フカフカしたネオン、太陽光に照らされた爪。
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