Amanita muscaria
I Remember When
チーズケーキの箱に白い女の影が映る。背後の床が軋む。右側へ向かい、そして窓を開けベランダに出て行こうとする気配。振り返るが誰も居ない。幽霊だったのだと知る。胸に幸福感が満ちていく。ベランダに出て行く、自殺した少女の幽霊。ただわたしを揶揄っているだけの、無邪気な幽霊。涙でカロリーを消費したい。そうしたら泣きながらショートケーキとチョコレートケーキを交互に食べられる。背中が鏡になっているピンク色のうさぎは、虚ろな目をしているものの、基本的には人間に──とりわけ人間の女に対し優しく、親切である。
白い服を着て、煙の中をさまよう若き日の母。若いといっても、現在のわたしの年頃とあまり変わらないくらいだが、黒子の多い白い肌が、今よりも滑らかであるように見えるのは確かである。
良くない類の妄想のダイジェスト版が脳内を横切る。ソフトかつスムースだ……と心の中で言う。明日になったら、日付を跨いだらすべてが別の世界になっていると思っていて。だから今夜はいくつかの、心から愛するものたちを思い浮かべながら眠っていて。両手に持てるだけ。それが次の世界に持っていける、数少ないものだから。僅かな朝露に甘さを感じて……鳥の囀りに耳を澄ませて……。
fata morgana
完全に温まるまでの時間すら待てず、かなりぬるい、しかも上がぬるく、下がややひんやりしているという最悪の状態の牛乳。何故違う生き物の母乳を飲むだなんて恥知らずなことをして、あまつさえこのような歪んだ味を……。
ギターの音が赤ん坊の歌声に聴こえる(赤ん坊は歌うのだろうか?)。今夜は言葉が脱落しない。赤いお腹。真っ赤な丸いお腹。一人で歩いてくる。下はグレーのスウェットを履いている。小走りすると赤いお腹が揺れる。銀色のタイトなワンピースに身を包んだ、見るからに宇宙人といった風情の、三十代前半くらいの女性が現れる。じっとこちらを見ている。不意に女性が、箸のような白くて細長い──三十センチメートルくらいある──2本の棒を、地面と並行にして重ね合わせ、じっとこちらを見つめたまま一方は上へ、他方は下へ、その先端を向ける。二つの距離を徐々に離していくと、黒とシルバーの混ざり合った、見たことのない素材で出来た布が出現し、風にはためいる。思わず手を伸ばしそれに触れようとする。──布だと思っていたものの中には空間があり、そこに闖入したわたしの腕が爆発する。けたたましい破裂音とともに、血と肉片と骨片を全身に浴びる。ああ、こんなに曖昧な……区切りで……。
あなたが歌いながら鼻で息を吸う音が、とてもよく聞こえて来る。右足を出す、右足を戻す、左足を出す、左足を戻す──髭を蓄えたヒッピー風の男。先程から、一人でニヤニヤ笑いながら何か喋っているようだが、歯が数本しか残っていないせいで、何を言っているのか一つも聞き取れない。それに加えてこの享楽的なサウンドと反復恐怖、きちがい踊り。脳味噌の後頭部にある快感を司る部位を直接、柔らかい指先で愛撫されるような音。息を止めないで欲しい。言い淀まないで欲しい。言い掛けた言葉を飲み込まないで欲しい。
今日は気を付けて帰ってね。どうかきつねに化かされないように。
手の揺れに合わせて収縮する血管を感じる。何かたった一つ、どんな些細なことでも構わないから、完璧に理解しないといけない。その意識は命令でも使命でも決意でも無く、忽然と立ち現れた願望としてある。焼けた肉とシクンシの香り、旧世界の赤い花。ずっとわたしの腕を、肘から下を撫でていて欲しい。敬虔な信仰心へと導く銅像の腕を撫でるように。左の肘から下、少し内側に寄った部分を。わたしの脳味噌の内側を海が泳いでいる。また耳の一番柔らかい部分をあなたの指の一番柔らかい部分で触って。キャラメル味の夜。もっと柔らかくなれる。そんな夜。
すべてが始まっていく。指を動かす。遠く離れた硝子瓶の中の水が動く。路傍に寄せた新車の助手席に座っている。フロントガラスから白っぽい光と白っぽい花びらのたわむれが見える。隣から寝息が聞こえる。重なるように深く息を吸う。苦い熱の味。少しずつ息を吐き出す。景色が揺れ、呼吸の中に飲み込まれる。
silver owl
テレビの暗い画面に毛布の影が写る。呼吸するたびに影が膨らんだり縮んだりする。言葉が焚き火の中で燃やされているが、それはこの世の誰もを安心させる例の四文字の言葉だから絶対に燃え尽きることは無い。十年前に見た情景が、全く変わらずそこに在ることを知り深い安堵を覚える。特別懐かしいというのでもないが、それでもわたしはその存在を愛している。慈しみが彼処にあり、手を伸ばして撫で、ああこの感触だと思う。不安から救い出してくれる例の四文字の言葉。いくつもの種類の熱から守ってくれる例の四文字の言葉。世界中の人間が、自分を傷つけるべく存在するのではないかと訝る瞬間。もうここには居ない人が隣に居るように感じる瞬間。遠くの音と近くの音とが全く同じ音量で聞こえる瞬間。
初夏の薄暮の中、草原に寝転がり目を閉じる。次に目を開くと既に夜へと変転しており、わたしはまるでずっと起き続けていたかのようにすっきりと明瞭な思考とともに星空を見上げる。暑くも無く、また寒くも無い。薄く柔らかい衣服を纏っている。体のどこにも痛みを感じない。心のどこにも憂いが存在しない。夜の美しさの中で、かつての愛を回想している。自分を確かに見てくれているように感じた愛を。唇の黒子。性器の横の黒子。夢の中で象が歩いている。ヨーグルトを食べながらそれを見ている。木の椅子に座っている。象は砂埃の中を歩いている。つるつるした象。藍色の象。彼の右腕のタトゥーと同じ形をした象。横で五歳くらいの子供が笛を吹いている。あまり上手では無いが、わたしの好きな吹き方だった。太い眉と大きな目をした子供。きっと綺麗な顔の大人になって、一度も醜い姿にならず、一度も醜い姿を他人に晒すこと無く、綺麗な顔のまま死んでいく。
ちょうど一本分の煙草を吸い終えるのと同じ長さの音楽。見たことも会ったことも無い、どこの国の誰が作ったのかも知らない音楽。それでもわたしの過剰な部分がすっかり削ぎ落とされ、不足する部分が完璧に補われ、完全な形になっていくような気分にさせてくれる音楽。あるいは、そんなことはすべてどうでもよいのだと知らせてくれる音楽。親切心は常に危険を伴い、愛情はほとんど死刑に近い。身を切るような思い。もしこのまま世界が消滅しても、笑っていなくてはならないのだろうか。何が助かるということで、何が救われるということなのだろうか。何度も本当は目を閉じていた気がする。そうすれば聞こえるかも知れないと思ったからだ。誰もが耳にしており、わたしだけが聞こえない重要なサインを。
顳顬の辺りを蛇に噛まれるような感覚がある。ヨーグルトの味の、一番奥にある部分に本当の甘さがある。これが焼けた喉の粘膜を直接舐めて癒していく。誰もがどこかへ行ってしまう。わたしを置いてこの部屋から出て行く。少ない荷物を持って、あの日と同じ服装で。誰とも関わりたくない。春の日差しの中、白くて柔らかい椅子に座り、ふわふわの仔猫を撫でながら、美しい女の歌声を聴くこと以外したくない。そしてその仔猫が、わたしのことを愛してくれていたらよいと思う。彼女は美しい精神病の女で、どこからどう見ても気が狂っているのだが、美しい歌声と容姿とを持っている。ずっとここに居て欲しい。どこにも行かないで欲しい。一人にしないで欲しい。気が狂っていても好きで居て欲しい。
何百枚も連なった硝子が、あなたの手により次々と破られていく。黄色い壁の部屋の中で。暗闇に沈む底無しのビルにある、黄色い壁の部屋の中で。粉々に砕け散る破片が、無限に落下し続ける。あるいは無限に上昇し続ける。いたまれない永遠の中で、孤独に繰り返し続ける。
Kから始まる映画に出てくる少女がこちらを見ている。目には明らかな軽蔑と侮蔑の色が浮かんでいる。わたしが何をしたというのでは無い。生きていること──存在それ自体が蔑みと疎ましさの由来なのだ。浅ましい生き物。生きているだけで罪が増えていく。生きている限り刑が重くなる。誰もが通りすがりにわたしの顔に唾を吐き掛け、突然鉄の棒で全身を叩きのめし、腹を蹴る。平然と、理性的に。
ずっとこの夜が続けばいいのに。いつまでも穏やかに。そう祈っても、ぼんやりとした水色の空とぼんやりとした橙色の街灯の気配の中で、カーテン越しに香る朝の光の中で、「おはよう」と言われる。これからも何度でも何倍も美しい夜が、馬鹿みたいに訪れると約束して欲しい。もう二度と最悪なことは起こらないと思わせて欲しい。優しさはどれも自然な発露では無かった。限定された断続的な思考の中で、やがて少しずつ終わっていく。いくつにも塗り固められた嘘。わたしのベッドの上で、好きな男と知らない女が眠っている。美しい、助かるべき言葉であるというのは理解出来る。愛されているという証拠。世界がたった一枚の薄い膜に包まれている感覚。どこにも行かないで。一人にしないで。たった5mgの錠剤。黄色い壁の部屋で。
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