analgésique

Ⅰ.

二時間かけて長い息を吐く。お気に入りの音楽を聴きながら。緑色の液体が音楽に合わせて垂れていくのを見ている。フカフカの赤いソファに腰掛けながら。ようやくこの酷い悪臭にも慣れてきた頃だった。

先日黒人の四人の子供が、高架下の、下水の臭いが充満した暗がりでブルースを歌っているのを見掛けた。子供たちはそれぞれ三色が順に並んだ色違いのボーダーのティーシャツを着ていて、横一列に並んだその色の連なりと歌声の呼応が、果てしなく美しく感じられた。わたしは右手に煙草を持ち、左手にハムと卵とレタスだけの簡易なサンドウィッチを持つという間抜けな格好で、少し離れた庇のある建物の前に立ち、その姿を見ていた。コートの襟を少し立てる。風は穏やかだが、寒い初春の朝だった。子供たちは歌い終えるとムスッとした顔でこちらを見つめた。わたしは仕方無く煙草を一人二本ずつと、マッチを一箱やった。一箱と言ってもその時わたしが使っているもので、もう残り十本も残っていなかった。それでも子供たちは嬉しそうに煙草を口に咥え、マッチの火を絶やさぬよう気を付けながら、一本で全員分の煙草の火をつけた。

その姿を見て──健気だとか浅ましいとか──何でも構わないから感じられたら良かったのだが、全く、何も感じなかった。こんな誰も通らないような道で、天使の歌声を響かせる貧しい子供達が、嬉しそうにはしゃぎながら煙草を吸う姿を見ても、全く、何も思わなかった。

わたしはなんだかがっかりしたような、疲れたような気分になり、サンドウィッチの残りの一かけらを口に放り込んでから、その場を離れ突き当たりを右に曲がり、大通りに出た。古着屋、煙草屋、アダルトショップ、バー、ベトナム料理屋、古着屋、人家、バー、精神病院、古本屋、タトゥースタジオ、歯医者、目医者、金券ショップ、キオスク、人家、人家、雑貨屋、バー、レストラン、酒屋、花屋、リサイクルショップ、レコードショップ、ライブハウス、マッサージ屋、カレー屋、人家、バー、床屋、喫茶店、スーパーマーケット、質屋、人家、ドーナツ屋、バー、ハンバーガー屋、不動産屋、薬局、教会、本屋、輸入雑貨屋、レストラン、煙草屋、ガソリンスタンド、バー、古着屋、学習塾、ケーキ屋、文房具屋、八百屋、地下鉄のB1番出口。




Ⅱ.

シトラスの香り。すぐに電池が切れるな……と思いながら、腕時計の豆電池を交換する。ラジオから懐かしい歌が聴こえる。懐かしいといっても、これはわたしが生まれる三十年も前に作られた曲で、二十代の頃、何度も繰り返し観た映画の中で使われていて知ったのだった。

電池を交換した後、指の爪を切りながら、結局十五年前から何も状況は変わらなかったけれど、それでもそれなりに生きているなと思った。なんだかこうして、いくら安アパートであるとはいえ、ある程度の清潔感は保ったまま、たまに上等な服を買ったり、煙草を喫んだりして、狭い2Kの安アパートだけれど、XXの中でも有数の大都会で暮らし、呑気に腕時計の電池交換なんてしている。

そうこうしているうちに湯が沸いた。この湯を沸かす間の暇潰しというか、ちょうど思い出したので腕時計の電池を替えたのだった。綺麗にローストされたコーヒー豆を蒸らし、気が済むまでぼうっとしてから湯をくるくると、ポットの口で円を描くように注ぐ。ぽたぽたと焦茶色の液体が垂れていく映像が見える。なんだかうまく出来すぎている。すべて妄想なのかも知れない。本当はわたしは悪夢のような現実を生きており、それがあまりに悪夢的であるがゆえに、たった少しの間の居眠りで見た、儚い白昼夢がかくも現実性を持って現れているのかも知れない。妄想あるいは嘘のような夢あるいは現実。こんな性質まで──疑り深く、ケチで偏執的な性質まで、特に寛解もせぬまま生きているのに、それにしては非常によい具合の人生なのだ。

コーヒーをテーブルに置き、煙草の葉を紙で巻いて火をつける。愛するペルシャ猫が、わたしの足元に駆け寄ってくる。裸足の小指を舐められる。ざらざらの舌。煙草の煙が脳味噌の中をゆっくり旋回している。コーヒーの香り。男の寝息。最近新しく買ったばかりの、白いマットレスの上で眠っている。すべすべの、少し汗ばんだ額、太い眉毛に朝陽が差している。高い鼻の陰影が、静かな瞼の上に落ちている。ラジオからまた、あの映画で使われていた歌が流れてくる。アル・ジャロウ。猫の鳴き声。知らない男の咳払い。わたしは気持ちよく息を吐きながら、二本目の煙草に火をつける。




Ⅲ.

音の、鉄で出来ている部分がよく分かる。やはり普遍的なものではなくて、人工的なものが自分にはよく合っているのだと思う。存在しない黒人が作った合成樹脂のチョコレート。宇宙人が人間の振りをして歌った英語の歌。嘘の少女の歌。田舎の、大人びた考えと幼い容姿とを持った少女の歌。一本の細い線が、少女の体に沿って描かれている。初夏の田園風景。赤とオレンジのキャミソール──肩の辺りにリボンがついたキャミソールを着て、白いスカートを穿いた少女。つまらない嘘を聞くのに耐えられなくなった。火であぶったパイナップルの香り。浜辺で聴くシャンソン。禿頭のおやじの後ろ姿。

「激しいトルネードがひと箱うごかすとき、カンガルーはタンスひと竿、車輪でやる」

カラスが水たまりのうちで跳ねて遊んでいる。遊んでいるか否か、本当のところは分からないが、こんなに真剣ではない足の動きも、そう無いだろうと思われる。今日は薬がよく効くように感じる。よく、そして長く効いている。唇のぬるぬるとした感触。素晴らしい瞬間。若草の季節。眩しい太陽。草の陰。初夏の息吹。あるいは晩春の微笑。丸い目の女。宇宙人みたいな可愛い女。ブロックが積み重なり、どれも等しく均衡の取れた階段になっている。白いバニーガール。形の良い尻。すっきりとした脹脛、細い足首、真っ白なアキレス腱。女がギターを弾きながら歌を歌っている。シミと穴だらけの、カバーのかかったソファにガニ股で座って、黒いティーシャツを、ブラジャーをつけずに着て、裾の広がったブルーデニムを穿いている。その裏側が真っ黒の、美しい足の甲。少し反り返った親指。黒いペディキュアが剥げかけている。ブルーデニムのギターと、バニーガールのドラム。髪が大きく揺れる。ココナッツとパイナップルとパッションフルーツの果汁で割ったカクテルを飲みながら、それを見ている。甘いサルサ、甘い打楽器の音。赤い照明。豆電球の明かり。蝋燭の香り。二人がけのソファ。二人分の酒。二人分の明かり。二人分の音楽。二人分の夜。合成甘味料の夜。科学的な夜。科学的な愛。昆虫のような交わり。正確な本能。正しく演じ分けられる欲望。合成された夜。合成された愛。一瞬だけ死にそうに甘い。呼吸が続くということ。視界の端をちらちらと走る白い猫。消毒液の香り。前後する状況。もう、これからは何も考えないようにしたい。幸福の内容だけを見つめて、水の流れる音だけを聴いていたい。今まで他者から一度も与えられず、しかし絶えず求め続けてきた態度を、たった一人の人間に強制するという不幸。わたしの愚かさ。温かい湖を泳ぎながら歌う。周りを青々とした木々と、赤い花と、透明のセイレーンの舞いが囲う。水に濡れた髪の毛。新品の水着。少年のような歌声をした女。銀色の小魚が泳いでいる。深緑色の水草が揺れる。囁くような優しく静かな銃声。か弱い女の啜り泣くような銃声。白いうさぎのぬいぐるみ。プラスチック製の、緑色の宝石を二つ隠し持っている。より幸福度の高いほうに?あるいは、より痛みが少ないほうに。よりゆっくりとしたほうに。より温かいほうに。より馨しいほうに。より甘いほうに。より明るいほうに。より薄暗いほうに。より可愛らしいほうに。より静かなほうに。より騒がしいほうに。より光るほうに。より気持ちがよいほうに。より優しいほうに。より柔らかいほうに。

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