第3話 悠との約束


 それから、悠は何度か保健室にやってきた。


 梅雨も明ければ一気に夏がやってきて、健康な人でも熱中症になりかねない天気。梅雨の間中ガマンしていた太陽が、その不満を解消しようと毎日嫌になるほど照りつける。

 その暑さを更に増させるのが、蝉の大合唱。


 体育の見学なんて、保健室でしかできない。


「ちとせー? いるー?」


「うん。いる」


「偉い偉い」


 外に出慣れてないせいか、私は暑さに弱いようで、最近は家から出られなくなっていた。


 完全に不登校だ。


「今朝は、何とかなった」


 そんな風に答えるけど、本当は今日の時間割のせい。

 体育があれば、悠が保健室に来るから。だから、無理矢理にでも保健室に来たかった。


 まるで悠に片想いをしているような、そんな気持ち。


「私、来週から保健室に来なくて良いんだ」


「えっ?」


「やっとこれとさよならできるよー」


 そう言って、車椅子に代わって持ち歩いていた松葉杖を軽く振る。


「体育の授業に復帰するの」


 悠は笑顔でそう言った。

 悠の晴れやかな笑顔とは対照的なのが、私の心の中。


 もう、保健室に来ない? 会えない?


 悠と仲良くなって、楽しくなった学校が一気に色褪せた。


「そ、そう」


 かろうじて返事ができたのが、これだけ。

 私の喉はカラカラに乾いて、貧血を起こした時のように全身が冷え込んでいく。


「それでさ……ってちとせ? 大丈夫? 顔、真っ白だよ?」


「うん、だ、だいじょうぶ」


「無理したんでしょ。休んじゃえば良かったのに」


 悠に会いたくて、それだけのために来たのに。


 休んじゃえば良かった?


 私は悠に、ここでしか会えない。


「そう、だね」


「ベッドで休んでおきなよー」


 悠に促されるまま、ベッドに横になる。保健室のパイプベッドは正直寝心地は良くないけど、悠と顔を合わせたくなくて、私は布団を頭から被った。


 何でだろう。まるで裏切られたような気分だった。悠も、ここに来るのを楽しみにしてるんだって、勝手にそう思い込んでいたから。


 私をベッドに押し込んで、一人で椅子に座ってるご機嫌な悠が、鼻歌を歌いながら授業が終わるのを待ってる。

 もうここに来なくて良いことが、そんなに嬉しいのかな。悠の鼻歌がイラつく。頭が痛い。早く、教室に戻ってよ。

 


 翌日から、私は保健室登校から、ただの登校拒否へと立場を変えた。


 悠に会えないなら、行く気もなかった。

 色褪せた学校に、行く意味なんてない。

 ただ、借りっぱなしの本だけが、心残りだった。


 夏休み前に、返しにいかなきゃ。


 だけど夏休み前の最後の日にしか、私は学校へと辿り着けなかった。



 終業式の日は、図書室に行くタイミングがはかれない。

 授業の始まりも終わりもなくて、いつどこで誰が歩いてるかわからないから。


 しばらくここで待っていれば良いか。


 他の生徒が帰るまで大人しく保健室で待つことに決めた。急いでやらなきゃいけないことでもないし、急いで帰る用もない。


 保健室から外を見れば、真夏の太陽が輝いていて、見てるだけで目眩を起こしそうだ。


「ちとせ! いた!」


 保健室のドアが突然開いて、悠が私に向かって声をかけた。


「悠? どうしたの?」


 保健室に来なくて良いってあんなに喜んでいたのに。


「ちとせに会いに来たの! 毎日毎日、保健室に顔出してるのに、ずーっと会えないままなんだから」


「調子悪くて、出てこれなくて……」


「知ってる。でも、避けられてるのかなって、そんな気にもなった」


「ご、ごめん」


 謝ってはみたけど、当たってる。避けてたんだ。悠のこと。


「会えたからいい。夏休みになる前でよかった」


「何かあった?」


「夏休み、一緒に遊ぼう? 図書館は? 駅前のドーナツは? 映画もいいね!」


「え? 誰と?」


「私と! 一緒に遊ぼうって言ったじゃん」


 私が悠と? 休みの日に遊ぶ?


「えぇ?! む、無理無理無理」


「何で?! いや? 一応涼しそうな場所選んだんだけど」


「そういうことじゃなくて……」


 場所の問題じゃないよ。誰かと遊びに行ったことなんて、一度もない。どうしたらいいかわかんないよ。


「場所わかんない? 家まで迎えに行こうか? 学校で待ち合わせする?」


 待ち合わせなんて、そんなもの、物語の中の話だ。


 何も答えることができなくて、俯いた私の顔を覗き込んで、悠が笑った。


「ちとせとおしゃべりしたいだけだからさ。場所なんてどこでも良いの。どこが良い?」


 悠がそう言ってくれて、私の周りの景色が突然色づいていく。

 悠の一言に、一喜一憂してる自分のことを、少し気持ち悪いとさえ思う。


「じゃ、じゃあドーナツ」


「うん! 待ち合わせ、学校でいい? それとも、お店にする?」


「お店でいい」


 駅前のドーナツ屋さんなら、私でもわかる。


 初めて、友達との予定で夏休みのスケジュールが埋まった。

 毎年ほとんど白紙のままで捨てられていくスケジュール帳に、ニヤけながら予定を書き込んだ。

 悠の名前じゃなくて、今度は書き込んだ予定を指で辿って心臓が高鳴る。


 その年の夏休みは、悠との予定でスケジュール帳はびっしり埋まって、ドーナツ屋さんを皮切りに、図書館、映画、カフェ……他にも色々なところへ遊びに行った。


  二人きりで遊びに行くのが、まるで恋人同士のデートのようで、前日にはドキドキしながら服を選んで、待ち合わせ場所での悠の笑顔にときめいた。


 悠には、そんなつもりないのにね。




 悠との予定で毎日が楽しかった夏休みももうおしまい。

 来週には始業式だという、最後のデートの日。

 悠が私の手をとって真剣な眼差しで私を見つめた。


「ちとせ、二学期からさ、教室に来ない?」


 悠からの突然の誘いに、私の心臓が縮み上がった。

 その後は体全体が心臓になったかのように、頭の中に鼓動が響く。


「きょうしつ?」


「うん。私、教室でもちとせに会いたい。保健室じゃなくて。授業中に手紙回したり、一緒にお弁当食べたり……そういうこと、したい」


 頭に響いた鼓動は、そのうちに頭痛に変わっていて、ズキズキする頭では悠の言うこともうまく考えられない。


「そんなこと……できない」


「そっかぁ。実はさ、ちとせが学校休んでた間、何度も保健室に行ったんだよね。でも、さすがに全部の休み時間には見に行けなくて……同じクラスなのに、教室ならすぐにおしゃべりできるのにって。それだけ」


 悠の笑顔が少し寂しそうに曇った。


 悠の寂しげな笑顔に、私の心臓が今度は違う意味で締め付けられた。


 悠を悲しませたくない。

 悠の気持ちに応えたい。

 誰かのために――なんて、思ったこともないのに、悠のためには何かしたかった。


 私がすることで、悠を喜ばせることができるなら、何だっていい。


「わたし、いけるかな」


「無理しなくていいよ。私がちとせに会いたいって、わがまま言ってるだけだから」


 悠が私に気を遣わせないように、無理して笑ってるのがわかる。


「教室には私もいるよ。絶対、ちとせを独りになんてさせない」


「うん……」


「無理しなくていいから、考えてみて」


「うん……」


 約束はできなかった。私にとって教室はやっぱりどうしようもなく遠くて。


 ただ、悠に嬉しそうな顔をさせたい気持ちだけが、私の心を突き動かした。



 新学期、私は教室の前にいた。


 いつもよりも早く起きて、早く学校に乗り込むつもりが、途中何度も足がすくんで動けなかった。 

 行きたくない気持ちが、家からの道を遠回りさせる。


 誰もいない通学路に、少しずつ同じ制服を着た生徒が増えていく。その波に押し流されるように、校門をくぐり、やっと教室の前にたどり着いた。

 下駄箱や教室の場所がわからなくて、学校内で迷子になりかけたけど。


 戸惑いながら一歩ずつ進んで、やっとたどり着いた教室の前で、最後の勇気が出せずにいた。


 もう、悠は来てるかな。


 廊下を行き交う生徒や、教室に入っていくクラスメイトが、扉の前で立ちすくんでいる私のことを、変な顔で見てる。

 人から向けられる不審な顔なんて、保健室で慣れっこだ。

 

 扉の奥、何もない教壇を睨みつけて、ようやく一歩踏み出そうとした。


「ちとせ! 来てくれたの?」


「う……うん」


「おはよう!」


 私のことを助けだすかのように、悠が声をかけてくれた。

 

 悠が笑顔を向けてくれる。

 私が見たかった、嬉しそうな顔。

 それを見れただけで、来た意味があった。

 

 悠がいれば、私はここに来られる。

 

 初めて入った教室は、思った以上にすんなりと、私を受け入れた。



 

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