第27話 史上二人目の白人、初めての日本。
私が妻と息子を初めて日本の実家に連れて行ったのは、1980年代後半だった。その頃の私の生まれ育った町は、いまだに平成の大合併前で、私の実家の住所は「郡」だった(大合併後の今は「市」である)。私の卒業した小学校は、全ての学年が複式で、全校生徒数は二十数人ほどになっていたと聞いた。それ以上に時代を感じたのは、私の小学校時代の1、2、6年の担任の女性の先生が校長先生だったことと、もっと驚いたのは、父が町の教育委員長をしていたことだった。
まだ、成田空港で手荷物爆発事件があった後で、テロに警戒して、空港へ踏み入れるのに、厳しい監査があった時期だった。イリノイ州に住んでいた私たちは、サンフランシスコまで飛び、スタンフォード大学へ通っていた友人の家で5日ほどお世話になった後、日本へ飛び立った。飛行機内の乾燥した空気はカリフォルニアの空気と変わらなかったが、日本に着いて、飛行機の扉が開けられると、急に湿度が上がったのを覚えている。私に取って、これは、いつも日本へ帰ってきたと思わせてくれる現象である。空港には弟が迎えにきてくれた。弟は、両親が部屋を借りてくれてい東京ステーションホテルへ、連れて行ってくれた。チェック心した後、夕食を一緒に取った後、弟は翌朝、新幹線で私たちが広島へ旅立つのを見送りに来てくれると言って、自分の住んでいた都内のマンションへ帰って行った。そこまでは、弟が全て払ってくれて、まだ、日本円は使っていなかった。
翌朝、時差ぼけで、三人とも早く目が覚めた。窓から皇居が見え、息子が聞いてきたので、そこが天皇一家の住む城(キャッスル)だと伝えると、息子は、天皇陛下に会ってお話がしたいので、電話番号を調べると言い出して、妻と私は笑ってしまった。家族三人で、ホテル内にあるレストランへ朝食を食べに行った。そこで、日本円の感覚が戻っていない私と、全くその感覚のない妻と息子が、西洋風のブレックファストを楽しんだ。米国では飲み放題か、一杯が一ドルもしないはずのオレンジジュースを息子と妻がお代わり五杯くらいしてしまった。そのジュースのコップも、日本の物は米国に比べるとかなり小さかった。朝食に3万円ちょっとくらい使ってしまったが、まあそういうものなのかと思い、それほど気にせず払って部屋へ戻った。部屋で、改めてドルと円の換算して、初めて$200ドル以上払ってしまったことに気がついた。そのころ、同じものを食べても、$25ドルは超えなかったような朝食に$200ドル以上も払ってしまったことに、私と妻は驚いた。ちなみに、帰りの際の東京で食べた最後の朝食はどこかのキャフェで、コーヒーに付いてきたトースト等のモーニンが、一人当たり500円程度だったと思う(全額で、日本初朝食の1/10ほどしなかった)。私は小倉トーストは気に入っていたが、妻は好きになれなかった。
そして、新幹線乗り場に行く途中、弟が「タイムマシーンに乗せてやる。」と妻と息子に言った。これを二人は新幹線があまりにも速く、相対性理論によって時間がずれるというジョークなのかと思ったらしい(二人の勘違いを物理専攻だった私は誇りに思った)。しかし、弟は、私の実家近辺が東京よりも〜20年前の古い日本のままだったので、新幹線がタイムマシーンの役割をするという意味で言ったのだった。新幹線を降りて、車で実家に向かうと、妻は、どんな山奥に連れて行かれるのは心配し始めた。実は、父の車で、実家へ戻った道は、祖祖父が生まれたばかりの祖母を連れて、米国から船で尾道まで来国した後、運び屋を多数雇ってたくさんの荷物を担いで、歩いて帰ってきた道のりとほぼ同じだった。
実家は本当に田舎で、隣は、分家が一軒しかなかった。川の向こうには二軒ほど家があった。これは私が小学校の頃からと同じ光景だった。我が家は集落と集落の間にある川沿いの細い谷になった部分にあったので、お隣さんがいなかった。以前は、この辺りにも、もっと家はあったらしいが、皆都会へ出て行っていた。そのうち数軒は米国へ移住したまま帰ってこなかった。そんな田舎に10年ぶりくらいに帰ってくると、親戚だけでなく、近所(といっても1−2キロ離れた)の人たちも会いにきてくれた。この集落に住んでいて、何かの行事があれば、いつも顔を会わす機会のあった人たちだった。母の友人達がやってきて、息子の顔を見て可愛いすぎると泣き出した時には、妻が心配していた。そして翌日の午後、家族で散歩していると、小学生が集団下校しているのに出会い、妻が小学生達からサインを求められた。これにも妻は驚いた。翌日から、時々、集団下校の生徒達がうちの裏山から出てきて、我が家の納屋と本宅の間を、「かえりました。」と言いながら歩いて行くのを見ても驚いていた。
実家へ滞在中は、天気が良いと、小学校のプールまで歩いて行って、泳いでいた。すると、それがまた近所の話題となり、小学校の近くに住む住民からは、妻の水着姿を見て、私が彼女と結婚した理由がよくわかったと言う話が広まっていると、知り合いが来て言っていた(私は性欲で妻を選んだと思われていたらしい)。近所の人たちから異様な注目を詰める妻だったが、そんな中で、祖母が、妻は我が家の前に立った史上二人目の白人であると言い出した。戦後、1946年くらいに、一人の進駐軍の兵隊(GI)が自転車でこの辺りを走っていて、道に迷って、我が家の前で、水を提供したのが史上初だったらしい。それ以来、40年ほど、この迷子のGIのことを、年寄り達は、いまだに覚えていたようだった。祖母の話を妻に訳すと、そんなに白人がインパクトがあるのかと驚いていた。まあ、妻にとっては驚きの連続という(義)実家滞在だった。小学校であった地元の盆踊りでは、私を懐かしがる人達と、妻と息子に会いたがって集まる人で、大きな人だかりできた。(この10年くらい後、日本に引っ越していた時には、妻は太鼓を習い始め、盆踊りの櫓に登って太鼓を叩いていた。)
日本にいたのは一ヶ月ほどで、三人とも楽しい時間となった。プールが大好きな妻と息子は、かなり日に焼けていた。プールに行かない日は、家の前の川で泳いだりもしていた。私が川に潜って魚を手掴みで魚を獲って見せたりもしたが、蛇が出てからは、妻は、川には行かなくなった。
ある日、妻が、実家の各部屋で変わるスリッパー生活にアキが来てしまい、庭へ裸足で出てしまった。縁側、木製のフロアのリビング、トイレ等、普通の日本の家と同じく、我が家にも多くのスリッパーがあった。いちいち履き替えるのが面倒だったので、庭も裸足で歩くことにしたらしい。すると、妻の後ろを、サンダルを持った祖母が、「スリッパー、スリッパー」と言いながら追っかけていた。これだけで、妻はワイルドな嫁というレッテルを貼られかけた。
ある日、隣のおばあちゃんが、草刈りをしていて、カブトムシを見つけたので、子供は喜ぶであろうと。息子のために持ってきてくれた。玄関の扉をあけて、息子の名前を呼んでくれたので、息子は、嬉しそうに飛び出して行った。以前お菓子とかもらった経験もあったので。しかし、カブトムシを見せられた息子は、驚いて大きな声を上げてしまった。それを聞いた妻が様子を見に行き、ブトムシを見ると、もっと大きな声で叫んでしまった。私に向けて、大型のツノがあるゴキブリだと言い残して、家の奥へ駆けて行った。それを見たおばあちゃんは、ポカンと口を開けてしまっていた。私は、米国にはカブトムシはいないので、初めて見て驚いたと告げ、息子と妻の行動を謝った。これを見た父は、自分の孫の不甲斐なさに文句を言っていたが、数日後、息子が、私が以前使っていた魚を獲るためのヤスを使って蛇を取ってきて、妻を怖がらせていたのを見て、機嫌をよくした。
ある朝、私が足長蜂の巣を見つけ、まだ蜂が飛べない早朝のつゆが降りている間に、巣を取って、中の幼虫を煎って食べて見せたのにも、妻は閉口していた。あんなウジムシみたいなものを食べた後なので、その日はキスしてくれなかった。
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