第2話 結界と謎の星

 瀬里奈は小学生の低学年の頃、苛めに遭っていた。瀬里奈自身には、

――どうして苛められなければいけないのか分からない――

 という思いが正直あった。

 ただ、それはある意味、無理のないことであった。低学年の頃、相手を傷つけるようなことを口にして、せっかく仲良くなろうとしてくれた相手に対してその時は気まずい雰囲気だけを残して、お互いにぎこちない状態になった。だが、そのぎこちなさは、相手にとって自分を分からなくさせてしまう原因であり、

――なぜ、自分がこんな中途半端な気持ちにならなければいけないのか?

 と感じ、瀬里奈に対してだけではなく、他の人に対しても、

「あんな人だったかしら?」

 と思わせて、さらに瀬里奈に関係のないところでぎこちない雰囲気を作ってしまうことになる。

 しばらくすると、その人もそんな自分のおかしなぎこちなさが、瀬里奈との間のぎこちなさから来ていることに気付くだろう。そうなると、一気に恨みは瀬里奈に向けられる。

 子供というのは、時として残酷なもので、自分が味わった思いを相手にも味わわせてやろうと思うと、容赦しないものである。あることないこと、瀬里奈の悪口をまわりに吹聴する。

 瀬里奈にとってそんな人がその人だけであれば、吹聴されたところでそんなに問題になることはないのだろうが、一人に対してそんな態度を取ったのであれば、他の人にも同じような態度を取っていないとどうして言えるだろう。瀬里奈に関わろうとした人が同じような思いをして、紋々とした気持ちでいたとすれば、その話を聞いて、同調するのも当たり前というものである。

 そうなると、

「絵里奈包囲網」

 が形成されて、まわりからは無視されたり、苛めの対象になるのも時間の問題であった。

 子供の頃の苛めというのは、えてしてこういうところから始まるのかも知れない。苛めっこにもいじめられっ子にもその意識はない。苛めっこには誰かを苛めているという意識がなく、いじめられっ子には、どうして自分が苛められるのか、その理由が分からない。そのうち苛めている方も苛められている方も感覚がマヒしてくるのか、それが日常になっていくのだろう。

 だが、苛めっ子といじめられっ子、どちらが最初に我に返って、その時の自分の状況に気付くのかというと、いじめられっ子の方ではないだろうか。苛めている方は、苛めの対象になっているいじめられっ子が変わらなければ、決して自分が苛めっ子であるという意識がないだろうからである。

 苛めっ子の方は、一度苛めに目覚めてしまうと、なかなか抜けられないのではないだろうか。きっとまわりは、

「苛めっ子」

 というレッテルをその子に貼ってしまう。

 もちろん、そのことを苛めっ子も分かっていることだろう。だから、苛める相手がいなくなったり、苛める理由がなくなったとしても、別の対象を探し、苛めをやめようとしない。

 苛めっ子は、自分が苛めっ子だという意識はあるのだろう。だから、苛めの対象になっている相手が、どうして苛められるのかという理由は自覚しているはずだからである。

 苛めっ子の正当性を世の中では認めてくれる風潮にないため、

「何を言っても、しょせん自分は苛めっ子なんだ」

 という意識があるから、自分からその正当性を訴えようとはしない。

――ひょっとすると、苛めという行為に対して、一番理不尽さを感じているのは、苛めっ子ではないだろうか――

 いじめられっ子だった瀬里奈が苛められなくなって、苛めっ子というものを考えた時に感じたことだった。

 瀬里奈がどうして自分が苛められなくなったのか、その理由は分からない。自分が苛められる理由は、途中からではあったが分かっていた。分かっていたが、すでに苛められるようになってしまっていたのでは、後の祭りなのだ。

「苛められるから、苛めに遭う理由が分かる。だが、苛められてしまっていては、すでに後の祭りである」

 どうしようもない気持ちがいじめられっ子にはあり、その思いがあるから、もう苛められることはないだろう。

 しかし、苛めっ子の方は、最初から理屈が分かっている。分かっていて苛めという行為を止めることはできない。その人が持って生まれた、いや、ひょっとすると人間というものが潜在的に持っている凶暴性が、苛めという形で表に出るのだとすると、いじめられっ子になった人も、一歩隣の道を通っていれば、苛めっ子になっていたのかも知れない。

「いじめられっ子がいるから苛めっ子がいる。だから苛めはなくならない」

 という当たり前の話をテレビで学者が言っていたが、まさしくその通りで、

「いじめられっ子も、苛めっ子になる素質は十分にあるのだから、どちらになるかは、紙一重だ」

 と言えるのではないだろうか。

 どちらにも加わっていない第三者を装っている傍観者がいる。こちらに対しては、

「第三者を装う傍観者も、苛めっ子と同罪です」

 とその学者は言っていたが、苛めを受けなくなってからの瀬里奈は最初、

「その通りだわ」

 と感じたが、実際にはそうではなかった。

「第三者を装う傍観者の方が、よほど罪深い」

 と感じるようになった。

 自分の気持ちを押し隠して、苛めという行為を傍観している。かといって、自分が苛めているような感覚になっている人は少ないのではないか。どちらかというと気持ちはいじめられっ子に近い、苛められている人を他人事として見ているのだ。

「下手をすると自分がいじめられっ子になっていたかも知れない」

 という思いが、傍観者の気持ちを支配しているのだと、瀬里奈は感じていた。

 いじめられっ子が考えていることに、傍観者は近いのかも知れない。決して苛めっ子の気持ちに立っていじめられっ子を見下げているわけではない。

――あれが自分ではなくてよかった――

 という安堵の気持ちからいじめられっ子を見ているので、いじめられっ子には見下げられているように見えるのだ。

 苛めっ子からすれば、傍観者は目に映っていない。まるで石ころのような存在にしか見えていないのではないだろうか。

 苛めっ子が何を考えているのか、傍観者にも苛められている時の瀬里奈にも分からない。ただ、苛めがなくなって、苛めの対象が自分から他の人に移ってからの瀬里奈には分かる気がした。苛められていた自分への懺悔の気持ちがあるわけでも、苛めをなくそうなどという正義感があるわけでもない。一番近いといえば、苛めを第三者として他人事のように見ている傍観者である。

 傍観者が見ているのは、まるで神様に自分たちが被害に遭わないように「お供えもの」として捧げられる、「生贄」のようなものではないか。

「いじめられっ子だったというだけの傍観者」

 それが、瀬里奈だった。

 そんな瀬里奈が友達をほしいと思うのもおかしなものだったが、やはり自分が苛められた原因である、

「歯にモノを着せぬ言い方」

 をするという性格の人が自分のまわりにいるのであれば、どんな気持ちなのか感じてみたいと思ったのだ。

 だが、衝突は免れない気がした。友達として成立するものではないことも分かっている。だから瀬里奈が友達として探しているのは、そんな瀬里奈の気持ちを分かってくれる人だった。

「そんなに友達として長続きしなくてもいい」

 と思うようになったのは、その時に都合のいい人であれば、それだけでいいと思っているからだった。

――都合のいい相手を友達だなんて思いたくない――

 という思いから

「友達なんかいらない」

 という思いに至ったのは、瀬里奈の中にある素直な気持ちが、そう感じさせたのではないかと思うのだった。

 だが、いじめられっ子だったというのも、ある意味、

「都合がよかった相手」

 という意味で、友達という線引きとは似通ったところにいたのかも知れない。

 これこそ、

「長所と短所は紙一重」

 という考え方に似ているようであり、この言葉があまり人の口から出てこないのは、友達の発想と似ていることから、どちらもタブーなのではないかと感じたからだと思うのは、考えすぎであろうか。

「都合がよかった相手」

 という発想から、またしても思い浮かぶのは、自分たちを生贄として、まるで他人事のように冷たい目で見ている傍観者である。

 実際に生贄を捧げている時代の人たちは、自分たちに降りかかる災難を逃れようと必死であり、供養も半端ではなかっただろう。しかし、苛めの間で傍観している連中は、そんな供養の気持ちなど、これっぽちも持っていない。

「自分さえ被害に遭わなければそれでいい」

 という考えでしかないのだ。

 それでも実際には、傍観者が被害に遭うことはあまりない。それだけ傍観者というのが膨大過ぎるからなのか、

「疑わしきは罰せず」

 という精神の元、傍観者にバチが当たるということはないのだろうか。

 瀬里奈は納得がいかない。いくら自分が苛められなくなろうが、傍観者でいるのは嫌だという思いもあった。

 そういえば、いじめられっ子が苛められなくなると、今度は自分が苛めっ子のグループに入っている人がいて、まわりから、

「苛められている人の気持ちが一番よく分かるはずなのに」

 と言われているにも関わらず、自分から苛めに走る人もいる。

 だが、今の瀬里奈は、

「傍観者になるよりは、まだ苛めっ子になっている方がいいような気がする」

 と思うのだった。

 いじめられっ子が豹変して、まるで

「ミイラ取りがミイラになる」

 というのは、理屈に合っていないような気がしていたが、実際にその立場になってみなければ、その人の気持ちは分からないという意味で、これほど理に適っていることはないのではないだろうか。

 だが、この考えは世間一般では、まったく受け入れられるものではないだろう。瀬里奈が自分で勝手に感じていることであるが、それでも傍観者という存在を考えるならば、よほど瀬里奈の考えていることの方が説明がつくように思うのだった。

 瀬里奈がこんなにいろいろ考えるようになったのは、やはり自分がいじめられっ子だったことと、

「人と同じでは嫌だ」

 という考えの元だったからだ。

 いじめられっ子になった原因の一つに、人と調和できないことがあったのだとすれば、それは人と同じでは嫌だという考え方に基づくものだろう。そんなことは自他ともに認めていることで、人は余計なことは言わないが、きっとそう思っているに違いない。

 だが、親はその余計なことを瀬里奈にいう。

 親とすれば立場的に当然なのだろうが、それが瀬里奈には腹が立って仕方のないことだった。

 特に昔かたぎの父親は、人との調和を重視している。そのくせ新しいものを受け入れようとしない頑固なところもあり、それも昔かたぎから来ていることなのだろうが、瀬里奈には到底容認できることではなかった。

 瀬里奈が父親に対してもっとも嫌に感じるのは、流行にはまったく興味のない自分が、父親に似ているということだった。

――どうせ嫌いなんだから、余計なところが似ているなど、やめてほしいわ――

 と感じていた。

「親子なのだから仕方がない」

 と言えばそれまでだ。

 瀬里奈は、

「仕方がない」

 という言葉をよく口にするが、本当はあまりこの言葉は好きではない。

 同じような意味でも、

「無理もない」

 と言った方が、いくらか救いようがあると思っている。

 仕方がないという言葉には、減算法的な考え方があり、無理もないという言葉には汎用性があるような気がしたからだ。

 減算法というのは、最初が百で、そこからどんどん減算していく考え方で、この場合の最初は決して百ではない。しかも合格ラインギリギリのところから、さらに減算して、許容範囲最低限にまで行ったところでやっと妥協するのだ。仕方のないという言葉は、妥協ラインと見てもいいだろう。

 しかし。無理もないという言葉には減算法ではなく、加算法でもない、許容範囲となるべく広げるところから始まって、広がった許容範囲の中で、自分が納得できるだけのラインを求めようとしているものだと解釈している。

 また、仕方ないという言葉と、無理もないという言葉の対象は、相手によって変わってくるものではないだろうか。瀬里奈は父親に対しては無理もないという言葉は使えないと思っている。すでに許容範囲を広げることのできないところまで来ているからだ。

 そんな父親に対して瀬里奈の中で許せないという思いが強く印象に残っているのが、

「人と同じでは嫌だ」

 という思いだった。

 瀬里奈は中学生の頃までは、

「人と同じでは嫌だ」

 という本来の考え方を持てないでいた。

 つまりは子供だったと言えるのかも知れないが、知ってしまうことで、さらに自分が意固地になってしまうことに気付いていなかった。

 瀬里奈が考えている、

「人と同じでは嫌だ」

 というのは、あくまでも父親への反発から生まれたものだった。

 確かに、生まれ持った性格の中に、その思いがあったのも事実だろう。いくら父親に対しての反動だとはいえ、自分の発想が自分でも想像もしていないところまでやってくることを理解できないでいたからだ。

 理屈っぽくなったのも、そのせいかも知れない。

「あなた変わってるわね」

 と人から言われると、

「ありがとう」

 と素直に返すことだろう。

 きっと相手は、

――皮肉を返された――

 と思うことだろう。

 しかし、瀬里奈には皮肉などなく、素直な気持ちで真正面からそう言っているだけなのだ。だがその思いは余計に相手に嫌な思いを抱かせてしまうようで、瀬里奈がいじめられっ子になった理由はこのあたりから来ているに違いない。

 瀬里奈とすれば、

「無理もない」

 ことであった。

 しかし、まわりからは決して無理もないなどと思われることはない。何しろ、苛められて必然だと思っているからだ。だから、誰も瀬里奈の味方はいない。第三者を装った傍観者は一番罪が重いはずだが、瀬里奈の場合の傍観者は、

「無理もない」

 ことなのかも知れない。

 瀬里奈にとって父親との確執は、母親を板挟みにすることを意味していた。母親は父親を擁護していたが、性格的には瀬里奈に似ていた。細かいところでは父親に似ているところも多かったが、根本的なところは母親似だったのだ。

 だが、瀬里奈は自分の性格は父親から遺伝したと思っている。自覚している性格、それも嫌なところばかりが父親から受け継いでいたからだ。そういう意味では瀬里奈は本当の自分を理解していない。理解していれば、ここまで父親に敵意を抱くこともないし、母親とも、もう少し会話があってしかるべきだったからである。

 学校でもほとんど誰とも話さない。家でも会話がない。いわゆる引きこもりに近い状態であったが、学校を休んだり、完全に引きこもってしまって、部屋から一歩も出てこないようなことはなかった。

 友達は確かに少なかったが、郁美は別として、まったくいないわけでもなかった。ここでいう「友達」というのは、「親友」と位置付けている郁美とは、別次元であることをこの時の瀬里奈は、意識していなかったかも知れない。ただその友達とは、一緒にいるところをあまり人に見せたくないという思いから、ひそかに付き合っていたと言ってもいい。相手は瀬里奈と一緒にいることを人に見られることにこだわりはなかったが、瀬里奈の方がこだわっていた。ちなみに、郁美には彼女の存在は分かっていなかったかも知れないと思っている。

 それは彼女と一緒にいるところを人に見られたくなうという思いからではなく、彼女の気持ちを考えた瀬里奈なりの思いやりだった。

 瀬里奈はまわりに人をあまり寄せ付けないが、近寄ってくる人を遠ざけるようなことはしなかった。

「来るものは拒まず」

 というのは、少し違った表現になるのかも知れないが、歓迎するわけでもなく、ただ、近寄ってくれた相手に対しては、敬意を表していた。

 その思いが相手に伝わっているかは分からない。

 中には瀬里奈を利用しようとして近づいてきた人もいた。どういう意味での利用なのか、この際関係はないが、瀬里奈はそんな下心を持った相手の心情を見抜くことには長けていた。

――この人、怪しいわ――

 と感じると、嫌悪感が露骨になっていく。

 瀬里奈は相手を遠ざけているつもりはないが、自分の中にある不信感が露骨に表に出るのだ。すると、相手は瀬里奈を怖いと思うのか、次第に瀬里奈から去っていく。それもいきなり去っていくわけではなく、徐々に去っていくことになる。

 それは瀬里奈に対して恐怖心を感じているからで、いきなり去ってしまうと、追いかけられて、追いつかれてしまうと、二度と瀬里奈から離れることができなくなってしまうような気がしてくるからだ。瀬里奈が気付いていようが気付いていなかろうが、いきなり去ってしまうことはリスクが大きすぎるということを理解していたのだ。

 瀬里奈は、相手が去ろうとしていることは百も承知、瀬里奈とすれば、

――これでいいんだわ――

 と思っている。

 相手から去ってくれることは、こちらが余計な気を遣わなくて済むからだ。

 瀬里奈にとって、余計なことをするのは、本当は嫌なことだった。人と同じでは嫌だという性格は余計な考えであることは分かっているが、それこそ、自分の中で容認ができないことであり、

「仕方のない」

 ことの一種だった。

 そこには汎用性はなく、人と同じことをするのが嫌だという性格と、余計なこととを天秤に架けると、そこには汎用性という遊びの部分はなく、仕方のないことだという言葉が嵌るのだった。

 瀬里奈は、人に気を遣うことも、人から気を遣われることも嫌いだった。それは、自分の母親を見ていて感じることだった。

 瀬里奈の母親は、瀬里奈から見て父親ほど嫌いな人ではなかったが、ある場面だけは虫唾が走るほど嫌いだった。

 まわりの人に好かれたいと思うのか、やたらと人に気を遣っていて、逆に自分に気を遣わない人に対して、陰では悪口雑言を浴びせている。きっと気が合う友達が相手だったのだろうが、電話で他の人が自分に気を遣っていないことに対して、かなりの不満をぶちまけているのを見たことがあったからだ。

 その時は、瀬里奈が学校から帰ってきているのに気づかなかったので、誰もいないと思って大声で叫んでいるのかと思ったが、実際はそうではなかった。別の日も同じように大声で叫んでいて、まるでデジャブを感じるかのようだった。しかし、前と違ったのは、瀬里奈が母親に気付かれまいとして、忍び足で自分の部屋に向かうため階段を上がっていこうとした時、少し空いていたリビングとの扉から、こちらを見ている母親を見えたのだ。

 その表情は、今から思い出しても気持ち悪さで吐き気しそうなくらいだが、見つかったことを、

「しまった」

 と思うわけでもなく、想像もしていなかった顔を見せたからだ。

 その時の母親はニヤリと笑った。まるで口裂け女でも見たかのようなゾッとした気分になった瀬里奈は、その場に立ちすくみ、どれほどの時間、その場所にいたのか、まるで夢の中の出来事のように、我に返ってから、意識が飛んでいたという気分にさせられたのだった。

 その時の表情があまりにも異常だったので、瀬里奈はその時のことを、

「忘れられない」

 と思う反面、

「夢だったんだ」

 と思うこともできそうな気がした。

 ここまで両極端な思いを同じシチュエーションで感じることができ、そのどちらにも信憑性が感じられるというのも不思議な現象だった。

 瀬里奈は母親と自分が似ているとなるべく思わないようにしようと思ったのは、この時が最初だったのかも知れない。

 露骨に嫌いだという意思を持つことが父親に対してはできるのだが、母親に対しては持つことができない、要するに怖いのだ。

 漠然とした不気味さは、以前から感じていた。ただ、父親に対しての露骨な嫌悪が、母親に対しての思いを打ち消していたのだ。

 だが、後から考えれば、母親に対しての不気味な思いを感じたくなかったことで、余計に父親に対しての露骨な嫌悪が浮き彫りになってきたのではないかと、瀬里奈は思うのだった。

 紗理奈は自分の中に、

「エロとグロ」

 を感じていて、その両方が自分の中で同居していることを不思議には思わなくなっていた。

 それは、エロとグロが同じ土俵だと思っていれば、不思議に感じることもあっただろうが、実際には同じ土俵ではなかった。両親を見比べてみれば分かることで、父親にはグロを感じ、母親にはエロを感じた。

「グロには露骨さがあり、エロには露骨さよりも不気味さが妖艶さを醸し出しているようだ」

 と感じるようになった。

 瀬里奈がそう感じるのも無理もないこと。両親にそれぞれ感じることであって、同時にエロとグロを感じたことがないように、両親は父親と母親、それぞれ比較してみたこともなかった。

 瀬里奈はグロに関しては、本当は嫌悪を感じていた。

「あんなに気持ち悪いもの、どうして好きな人がいるのかしら?」

 と思っていた。

 基本的に怖がりの瀬里奈は、それが親からの遺伝であることを知っていた。

――これだけだわ。親からの遺伝だって自分で認めてもいいのは――

 声に出さずに心で思うことで、ひょっとすると、顔には出ているのではないかと思ったが、実際に間違っていなかったかも知れない。

 今まで声に出さずに心の中で思ったことは、ほとんどと言っていいほど、感じた相手から看破されていたのである。

「どうして分かったの?」

 と聞くと、

「だって、瀬里奈は分かりやすいんだもん」

 と、笑いながら言われると、

「当たり前でしょう」

 と言わんばかりのその表情に、

――自分も同じように分かりやすい表情になっていたんじゃないか――

 と感じ、こちらも苦笑いするしかなかった。

 瀬里奈は、自分の気持ちが顔には出にくいタイプだと思っていた。それは母親を見ているからで、いつも無表情の母親に対し、どう対応していいのか分かりかねている父親を見ると、自分まで戸惑ってしまうことが分かっているからだった。

 父親とは性格の違いから確執があったが、気持ちが分からないわけではない。分かるからこそ、自分との違いがハッキリするのであって、

――嫌なものは嫌だ――

 と感じることができるのだ。

 自分がいじめられっ子だったことを、ずっと両親には黙っていた。苛めっ子の方もうまく立ち回っていたので、きっと先生も知らなかったかも知れない。だから、学校から苛めの話が漏れるはずもなく、瀬里奈から直接両親に感づかれることがない限り、苛めの事実が露呈することはないと思っていた。

 しかし、どこから漏れたのか分からないが、両親は瀬里奈が苛められていたことを知っていた。

 知っていて瀬里奈には黙っていた。結果的には苛めを知られたくないと思っていた瀬里奈には好都合だったが、両親の方としても、

――煩わしいことに関わらなくてよかった――

 と思っていたに違いない。

 瀬里奈が苛めに遭っていたことを両親が知っていた時期がどれくらいのものなのかハッキリと分からないが、黙っていればいいものを、その事実が白日の下に晒されたのは、父親の口からだった。

 父親は本当に瀬里奈には理解できない性格をしていた。あの時もちょっとしたことから言い争いになり、売り言葉に買い言葉、

「だから、お前は苛められたりするんだ」

 と、興奮した父親から罵倒された。

 その時、まわりの空気が止まってしまったような気がした。空気だけではなく、ひょっとすると時間まで止まってしまっていたのかも知れない。まわりに誰もいなかったので、

「その時、時間が止まっていた」

 と言われたとしても、信じたかも知れない。

 父親も、一瞬、

「しまった」

 と思ったかも知れない。

 唇を噛みしめたように見えた瞬間、

「ちっ」

 という舌打ちの音が聞こえたからだ。

 その舌打ちを聞いた瞬間、また空気と時間が流れ始めた。瀬里奈は金縛りから解放されたかのように、その瞬間が別世界の出来事であったかのように思えて、我に返って父親を見ると、父親は憔悴したかのように気だるさが身体から滲み出ていた。

――何という茶番なんだろう?

 瀬里奈は、この別世界の瞬間を、

「茶番」

 だと解釈した。

 なぜなら、我に返ってみると、それまで言い争っていた内容がまるで子供の喧嘩でしかないように思えた。

――どうして、言い争いなんかになったのかしら?

 と感じたが、言い争いになった瞬間が、まるで遠い過去のように思えて、そのきっかけすら忘れてしまっていた。

 言い争いというほどの大した理由ではなかったはずだ。あくまでも売り言葉に買い言葉、子供の喧嘩というのは、そんなものである。

 ただ、我に返った理由が父親の舌打ちだったということが瀬里奈を納得させようとは思えなかった。

――あの時、舌打ちがなかったら、どうなっていたんだろう?

 と思うとゾッとする。

 我に返るために父親がした舌打ち、それは娘にとって衝撃的なことだった。つまり、あの場面で我に返ることができるためには、きっと衝撃的な何かが必要だったということを示している。

 瀬里奈は父親と母親の違いについて考えていた。それはいつも頭の中にあることで、特に両親のうちのどちらかと一緒にいる時には必ずと言っていいほど考えていた。

――そういえば、両親が揃って私と一緒の時って、だいぶなかったような気がするわ――

 瀬里奈の記憶では、小学生の低学年の頃だったように思うが、最後がいつだったのか、そしてその時のシチュエーションがどんなものだったのかなど、まったく覚えていなかった。

 父親と言い争いをして、言いたい放題の応酬をしていた時も頭の中で考えていたような気がする。そして、そんな時だからこそ、思いつくこともあった。

 普段考えている時は、何かを思いついても次の瞬間に、

――やっぱり違うわ――

 と、気持ちを打ち消している自分がいた。

 しかし、その日は記憶が消えることはない。ハッキリと感じた。

――最初から分かっていたことなのに――

 と感じたのは、そんな簡単なことをどうして思えなかったのかということであったが、それ以上に、思いついても忘れてしまうことで、忘れてしまった瞬間、

――このまま忘れてしまったら、もう二度と思いつかないかも知れない――

 という意味があるのかどうか分からないプレッシャーが、瀬里奈に襲い掛かっていたのだ。

 瀬里奈が思いついた、

「最初から分かっていたこと」

 というのは、

「母親はまわりの人に気を遣うことばかり考えているけど、父親はまったく人に気なんか遣わない人だということ」

 であった。

 ただ、これは家族以外(いや瀬里奈以外と言ってもいいかも知れない)を対象としてのことなのだ。

 瀬里奈はそこまで考えてくると、父に対して思い切り言える自分に納得が行った気がした。

 両親を見ていれば、最初から分かっていたはずのこと。いや、自分と両親との関係を考えた時、何度も頭の中で浮かんでは消えていったことであるように思えた。いくら一瞬で消えたとしても、その印象は深く根付いていたと思っているのに、こういうきっかけがなければ理解できない。それはきっと瀬里奈が、

――きっかけは、自分が納得できることを導き出さすことができてこそ、初めてそれがきっかけであると分かるんだわ――

 と感じるからだった。

 それにしても、人に気を遣うことをまったくしないと思っている父が舌打ちをしたって、そんなことを別に気にすることではないと自分に言い聞かせたのだが、なぜ、衝撃的だったのか、言い聞かせた自分に対して衝撃を受けた自分はその理由を返してくれない。

――やっぱり、納得が行っていないんだわ――

 と瀬里奈は感じたが、それが舌打ちをしたという行為に対してなのか、舌打ちをされた自分がどうして衝撃を受けたことなのか、それとも、舌打ちをされたことで、自分が普段考えている両親の違いについて考えていることに納得のいく結論を見つけたことなのか分からない。

 特に最後の納得がいく結論と言っても、分かってしまえば、

「最初から分かっていたこと」

 として考えていたことに対して、拍子抜けもしているのだ。

 瀬里奈は、人に気を遣うということが、たぶん一番毛嫌いしていることだと思っている。その思いは母親に対しての反発からも来ているのだろうが、一番の理由は、

「自分を納得させることができないからだ」

 と感じていることだろう。

 気を遣うということが嫌いになったのは、母親の本心を見抜いたからなのか、母親の本心を見抜いたから、人に気を遣う母親が嫌いになったのか、どちらが先なのか、瀬里奈には分かっていなかった。

「まるでタマゴが先か、ニワトリが先か」

 という理論みたいだわ・

 普通に考えれば、

「矛盾の無限ループ」

 に近いこの言葉とは縁遠いような気がした。

 鏡を前後あるいは左右に置いた時の、

「合わせ鏡」

 に似ているのが、ニワトリとタマゴの理論である。

 永久ループを予感させるものなのだが、瀬里奈には、

――本当に、無限ループなどあるのかしら?

 という疑問があった。

 理論的には可能なことでも、実際には存在しないものがこの世の中にはたくさんある。逆に実際に存在するものでも、理論的に不可能と思われていることもたくさんある。その二つに共通していることは、

「少し頑張れば、それぞれ相手の世界を覗くことができるかも知れない」

 という思いだった。

 矛盾の無限ループは、きっとその先の未知の世界への入り口に正対しているものだと思っている。紙一重の状況なのに、その紙一重をどうしても超えることができないのだ。

 それが、

「人間の中にある納得」

 というものではないだろうか。

 父親と母親、どちらがエロかグロかと言えば、母親の方にグロを感じた。

 グロテスクという言葉は元々芸術から来ているものだということだが、気持ち悪いものと芸術というのも紙一重なのかも知れない。

 だが、そこには結界があり、その結界が壁となって向こう側が見えないのか、それとも、結界がレンズのような役割を持っていて、錯覚によって、近くにあるのに、遠くにあるようにしか見えないのかのどちらかなのかも知れない。

 理屈は合わせ鏡だとして、ある一方だけが肉眼で見えていて認識できるとすれば、写っている被写体は、どんどん小さくなって、次第に消えゆく運命にあるのを感じるかも知れない。

 決して消えることのないはずの被写体が、見えるギリギリまで遠く感じられる距離までくるとすれば、見えていない鏡が、グロテスクと芸術の間に立ちはだかる「結界」なのではないだろうか。

 そんなことを考えていると、結界というものは、世の中にたくさん蔓延っているように思えてきた。

 あらゆるものに存在するのが結界だと考えると、

「自分のすぐそばにあるものでも、その結界のせいで見ることができない世界がこの世には存在する」

 と言えるのではないだろうか。

 そんなことを考えていると、図書館で見た本の中で気になる記事があったのを思い出した。

 あれはミステリー小説に関しての本であったが、ある作家が一つの天体を創造したと書かれていた。

 それは、ブラックホールに似ている発想ではあるが、別に星を吸収するものではないということだった。

「星というのは、自らが光を発するか、光を発する星の影響を受けて、その光を反射させることで、自分が光っているようにまわりに存在を見せている。しかし、宇宙にはみずからで光を発することも、光を反射させることもなく、光を吸収させる天体がある。そのため、まわりの星はそんな星の存在を知ることもないので、近くにあったとしても、その存在を知ることはない。いきなり軌道が狂って、いつこちらと衝突するか分からない。そんな恐ろしい星が、本当に存在しているのだ」

 という発想である。

 結界という発想を思い浮かべた時、この本を思い出すのは、きっと無理もないことだったのだろう。

 このお話を書いたミステリー作家は、

「自分のまわりに自分のことをまったく意識させない、まるで『石ころ』のような存在の人がいます。そして、その人は普段からその状況に染まっているので、いつも何食わぬ顔をして皆に接しています。だから、誰も疑わない。だが、存在があまりにもまわりに特化しているため、味方だとも思わない。普通皆さんは、誰かを意識する時、相手を自分の敵味方で判断しますよね? それはそれで無理もないことだと思います。特に男性は、表に一歩出れば、七人の敵がいると言われるくらいですからね。それも当然のこと。でも、その人に対しては敵味方という意識を持たせない、そんな存在なんです。つまりは特別な存在であるにも関わらず、意識されないという一種の矛盾した存在。それが、この星のような男性なのではないかと思います」

 と、謎解きの時に、探偵に話をさせていた。

「でも、そんな人間がいるというのは怖いことですよね?」

 と誰かがいうと、探偵は初めてその時、この星を創造したという学者の話をする。

「その学者がいうには、そばにまったく光を発しない星が存在しているのに、それにまったく気づかないというのは恐ろしいことですよね。だって、いつ接触するか分からないわけです。少しでも接触すれば、地球自体は壊れなくても、そこに住んでいる人には重大なことです。自然環境はまったく異常をきしてしまい、世界は大混乱、火山の噴火、極地の氷は氷解し、海面の上昇で、陸地のほとんどは海面に沈んでしまう。化学的には氷が解けても水面は上昇しませんが、解ける時に発生する津波などで、想像を絶するような大惨事を招くことになるでしょう」

 と探偵は神妙に話した。

「だから、星なんですね?」

 と一人が言った。

「そうですね。星という単位。つまりは想像できないような巨大な質量だったりエネルギーが発生することで起こる大惨事なんです」

「今回の犯人は、そんな天体に創造された星のようなものだと、私は思い描いていました。神出鬼没で、我々の想像の及ばないようなトリック、そして奇想天外で大胆な犯罪、それはこの星の発想でもなければ到底理解できるものではないからですね」

 と探偵は言った。

 実際のトリックやストーリー展開としては。ここまで大げさなものではなかったが、小説家のこの発想があったからこそ、瀬里奈は内容を覚えていたのだし、この作家に対してのイメージが過大ともいえるほどに膨らんでいた。

 瀬里奈はこの作家の才能を深く評価し、他の小説もほとんど読破した。

 なるほど、他にも興味を引く内容の小説が乱立していたが、これほどの衝撃的な内容のものは他にはなかった。それほどこの星に対してのイメージが強く、その後にも自分の人生に大いなる影響を与えそうな気がしているのだ。

 それは、瀬里奈がその星から感じられる人格を、自分と照らし合わせているからなのかも知れない。

――私も誰からも意識されない、そんな存在になることができるかも知れないわ――

 と感じた。

 いじめられっ子だった頃、特にその思いは強く、ただ苛められているだけでは本当に気が滅入るだけだったのだが、自分が他の人と違うという、自分の目指している人間に近づけるのではないかと思うと、ゾクゾクとした震えのような感覚を覚えたのだ。

 いじめられっ子になった原因の一つに、

「人と同じでは嫌だ」

 という性格があるのだと思っていたが、その思いが今度は苛めの苦しみから救ってくれると感じるのは皮肉なことだった。

 だが、それでも感覚的には同じものだった。嫌だと感じる感覚に相違のないことを感じた瀬里奈は、そう思い続けているうちに、苛めもなくなってくると考えていた。

 これは楽観的な考え方とは少し違っていた。

 楽観的な考え方であれば、きっと苛めに遭う前と苛めに遭っている当事者として考えている、

「人と同じでは嫌だ」

 という考えは違っていたように思う。

 しかも、正反対の考え方だったのではないかと思うのであって、その正反対というのが、主観的な考え方と客観的な考え方による正反対だというのか、それとも鏡を見た時に正対する真正面に見えている自分を見ている時の正反対だというのか、それともまったく発想にない正反対だというのか、結局は分からなかった。実際に苛めがなくなってしまうと、今度は正反対だと感じたことをまるでなかったかのように忘れてしまっていた。自分で気持ちを整理できたわけではないので、自然消滅したと言ってもいいだろう。

 そして、この思いを思い出すことになるのは、成人してからであったが、その頃には明らかに思春期に感じた思いとは違うものだった。

 その時に、

――あの時に感じた正反対という思い、今なら分かる気がする――

 と感じたのだが、思春期だからこそ分からなかったのかどうか、成人してからも分かるものではなかったのだ。

 瀬里奈にとってその小説は自分の中で

「バイブルのようなものだ」

 と、言い聞かせるだけのものとなった。

 それでも人と同じでは嫌だという発想とどこで結び付いたのか、苛められなくなってからは、分からなくなってしまっていた。

 瀬里奈が苛めに遭っていた頃と、苛められなくなってから一番変わったことというと、目の前を歩いてきた人に対しての反応であった。

 苛められている頃というのは、反射的に相手から自分の身体を避けようという意識が働いていた。

 瀬里奈は苛めには遭っていたが、それは精神的な苛めであって、肉体的に何かをされるということはなかった。精神的な苛めの方が、肉体的な苛めよりも数段厳しいとよく言われるが、実際に肉体的な苛めを受けていなかったのだから、瀬里奈にはピンとくるものではなかった。

 肉体的な苛めを受けているわけではない瀬里奈だったのに、近くに迫ってくる人間を反射的に避けようとするのはどうしてなのか、自分でもその反応に疑問を感じていた。

 だが、苛めが次第に少なくなりかかった頃から、瀬里奈はそれまで反射的に避けていた人を避けることはなくなった。その意識はすぐにあり、

――どうして、避けようとしないのかしら?

 と感じていた。

 まだ苛めは続いていたはずであるが、避けようとしないことで、自分の苛めが次第に収束してくることを予期しているように思えたのだ。

 実際にそれからどんどん苛めはなくなっていき、その理由として、

「苛めの対象が他に移ったから」

 というものであるという自覚があることから、どうして苛めが収束に向かっていたのかが分かったのか、自分でも不思議だった。

 苛めというのは、人が考えているよりも、本人は意識が強いものに違いない。しかし、それだけに苛められている自分を客観的に見ることができるようになるのも事実だった。実際に瀬里奈も自分が苛められているところを、まるで夢でも見ているかのように感じていた。

「感覚がマヒしてくるんだわ」

 と、感じたこともあったが、感覚は確かにマヒしていたことだろう。

 だが、マヒしていた感覚は自分を客観的に見ることができたからに他ならない。別に自分いなかったものが備わったわけではなく、元から自分の中にあったものが表に出てきたというだけなのだ。

 苛めがなくなってから他の人に苛めの対象が移ったからと言って、自分が傍観者になったわけではない。前述したように、

「傍観者は一番罪深い」

 と感じていたからだ。

 だが、傍観者にならなかった理由にもう一つあった。それは、

「自分のことを客観的に見ることができたからだ」

 と瀬里奈は思っている。

「客観的に見ることができたのは、苛められた自分の感覚がマヒしたからだ」

 と当初は考えていたが、本当にそうだろうか?

 瀬里奈は自分のことを客観的に見ることで、それまで見えていなかった自分を見ることができるようになった気がした。だから、苛めがなくなったのは、確かに苛めの対象が他に移ったからだというのも一つなのかも知れないが、

「自分を客観的に見ることができるようになったから」

 というのも、重要な理由なのではないかと思うようになっていた。

 ということであれば、苛めに遭っていた時に感覚がマヒしてしまったのは、自分が目の前の悲劇から逃げようとしているという思いだったのだが、そうではなかったと言えるのではないか。苛めがなくなって自分を客観的に見ることができるようになったのも、その「逃げ」という感覚が深く影響しているように感じた。

 しかし、逃げは逃げとして。苛めがなくなったのであれば、感覚がマヒしていたことを意識させないように気持ちが作用したり、客観的に自分を見ることを嫌うような感覚になるような気がした。そうではないということは、感覚がマヒすることと、客観的に自分を見ることができるという事実は、苛めという逃げることのできない現実と密接に関わっていたからではないかと瀬里奈は思うようになった。

 苛めと、この小説家が創造した星との関係は、瀬里奈の思春期の中で大きな役割を果たしていたことは間違いないだろう。

 瀬里奈が苛めと密接に関わっていたと思っている自分を客観的に見る感覚、実はその間にも、

「結界」

 というものが存在しているのではないかと考えていた。

 結界にはなるほど、想像を絶するような壁が立ちはだかり、結界の存在は壁を通して背中合わせになっているということの証明でもあるかのように感じる。ただ、結界も完璧ではない。何かの拍子に壁が開いて、向こうへの通路が見えることがあるだろう。

「自分のことを納得させる」

 という感情が、結界と深く関わっているのではないかと、瀬里奈は感じていた。

 苛めと結界の関係は、これからも瀬里奈の中で、

「消えることのないわだかまり」

 のようなものとして存在していくように感じた。

 自分の中にあると思っている、

「エロとグロ」

 それを瀬里奈は感じながら、結界を想像してみた。

「長所と短所は紙一重」

 という言葉も結界という発想に繋がるものがある。

 世の中には対称のものがたくさんある。

 例えば、

「昼と夜だったり、海と空だったり、男と女だったり」

 それぞれに相手を意識することで、自分も存在できるものではないかと瀬里奈は感じるようになっていた。そこに瀬里奈が考えている「結界」という同じ感覚が潜んでいるかどうか分からない。ひょっとすると一生分からないものなのかも知れない。

 瀬里奈は世の中の、

「相対する両極端なもの」

 を想像して、思いを馳せていた。

 お互いに相手を意識しあうことがそのような感覚になるのかを考えてみると、

「本当に相対する相手を知っているのか?」

 という発想に至った。

 夜と昼とであれば、まったく重なる部分はないが、どこかで夜が昼に、昼が夜に入れ替わる瞬間がある。その間に朝があったり夕方が存在するということであるのかも知れないが、瀬里奈は、

「朝や夕方というのは、昼か夜のどちらかに含まれる」

 と思っている。

 だが、まったく同じ時間に、昼と夜は重なることはない。そのために、朝や夕方という曖昧な時間が存在するという考え方は、粗雑であろうか?

 まったく光を発しない星のように、昼も夜も、それぞれに単独で存在しうる何かを持っているのかも知れない。昼を想像すると、どうしても夜を意識しないわけにはいかないと瀬里奈は思ってきたが、別々に考えることをしなかった今までの自分がおかしかったのかも知れないと感じたりもしていた。

 そんな時瀬里奈は、

「こんな時、皆自分と同じことを感じるのかしら?」

 とふと感じる、

「自分は人と同じでは嫌だ」

 と思っているくせに、ふと人の感じることを意識してしまう自分がいる。

 それを思うと、瀬里奈は自分が怖くなる。

――私って、一つのことに集中すると、たまに我に返るような発想をすることがあるんじゃないかしら?

 と思うからだった。

 我に返るというのは、普段のポリシーに反する考えであり、その思いを予感するから、我に返ってしまうのだろうと、瀬里奈は感じていた。

 瀬里奈は昼や夜などのような相対称的なことに対して、いろいろな思いを抱くようになった。最近では自分が人の顔を覚えられないのが、このことと関係あるのではないかと思うようになっていた。

 どうしてそんなことを感じるようになったのか分からない。気が付けば、左右対称を思い浮かべていることがあるからで、どうして感じるようになったのか分からないのだから、それがいつからなのかも分かるはずがなかった。

 最近であることには違いないと思っている。ただ、最近おことと言っても、それが現実の世界で感じたことなのか、それとも夢の中で感じたことなのかによって違っていることに気付いていた。

 夢を見ていると、実に時間にばらつきがあることに気付かされる。夢の中にはその日一日の出来事のように感じる夢もあれば、子供であった自分が急に大人になっているような夢を見ることもある。

 しかもその時系列はバラバラだった。

 子供だったものが急に大人になったかと思うと、また自分が子供に戻ったかのように思うこともあった。だが、夢が覚めてからゆっくり思い出してみると、

「二回目の子供は自分だと思っていたけど、実際には違う子供だったのかも知れないわ」

 と感じることもあった。

「夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだ」

 と思っているにも関わらず、夢のメカニズムについて考えようとしていると、不思議とその夢の内容を覚えているものである。

 ただその夢に自分の感情をこめてみたり、夢から感情を感じ取ってしまyと、とたんに覚えていたはずの夢を忘れてしまうようだ。その時も、我に返ってみると、

「夢を最初から覚えてはいなかった」

 と、いつもと同じことを感じていた。

 夢とは実に摩訶不思議なものであり、捉えどころのないものだ。それだけに、

「夢であれば何でもありなのではないか?」

 と思えるのだが、実際にはそうではないようだった。

 例えば、空を飛ぶ夢を見た時があったのだが、その夢で空を飛ぶことはできなかった。宙に浮くことまではでき、空気という水中を泳いでいる自分を想像することはできたのだが、それだけだったのだ。

 夢というものは自分が考えているよりも、もっと現実的なものなのかも知れない。普段では、

「こんなことは絶対にできない」

 と思っていることでも、普通なら、

「夢だったら、何でもできるはずだ」

 と思っているはずだと感じているのに、実際には夢の中でもできっこなかった。

 夢の中でも我に返ることはあるようで、いや、夢の中だけらこそ、我に返ると言ってもいいのではないかと、瀬里奈は感じていた。

 だから、

「夢なんだから空も飛べるはずだ」

 と、夢の中で感じた時、その瞬間我に返ったともいえるだろう。

 そう思うと夢の中であっても、絶対に自分でできないと思っていることができるはずはないのであり、それは夢だからこそと言ってもいいだろう。その思いが、夢を一種の、

「矛盾の中の無限ループ」

 へと導いているのかも知れない。

 夢が科学で証明できるものではないということも頷ける。だからこそ、我に返るのだろう。

 夢の中で最近よく覚えているのは、

「相対称的なものを見た」

 という意識である。

 普段の生活でも同じようなものを見ているはずなのに、夢の中でその意識を強く持っていたのは、ひょっとすると、

「夢なら覚めないでほしい」

 という感覚があったからなのかも知れない。

 ということは、怖い夢ではなかったのは間違いない。覚めてほしくない夢を見ていたのだから、覚えていたいという意識が残ったのだ。ただ、

「もっと見ていたい」

 という意識ではなかったような気がする。

 もしそうであれば、

「夢なら覚めないでほしい」

 という感覚よりも、

「もっと見ていたい」

 というよりリアルな感覚に近い思いを抱いたからに違いない。

 その相対称的な夢を見ている時、忘れてしまうことを恐れたから、覚めないでほしいと感じたのだと夢から覚めながら感じていた。

 その夢に鏡が出てきたことは夢から覚めながら分かっていた。きっと、前後に置いた、いわゆる、

「合わせ鏡」

 だということは分かっていた。

 ただ、鏡に写っている自分が、想像しているような合わせ鏡に写っている自分ではなかったような気がした。目の前に写っていた最初の自分の表情は、明らかに自分ではなかったように思えてならなかったからだ。

 その顔はこちらを見つめながら笑っていた。笑顔ではなく、不気味な笑いであり、その顔には何か余裕のようなものが感じられ、まるで、

「私は何でも知っているのよ」

 と言わんばかりに感じられた。

 瀬里奈がそんなに何かに対して自信たっぷりになっているところなど、今までにはなかった。自分のことなのだから、自分が一番よく分かっているはずなのに、そこに写っているのは自分であり、本当の自分ではなかったのだ。

――どうしてあんなに自信たっぷりの顔ができるのかしら?

 何かを言おうとしているように見えたが、その顔は何かを言うよりも自分たっぷりの表情をすることで、相手を威圧することができるということを誰よりも知っているという顔だった。

 瀬里奈は自分に見つめられ、その顔に恐怖を感じた。どうして恐怖を感じたのかすぐには分からなかったが、それも目が覚めるにしたがって分かってきたような気がした。

――そうだわ、あんなに誰かを真正面から見つめたことなど今までになかったからなんだわ――

 ということだった。

 何事に対しても自分で自分を信じることのできない瀬里奈は、いつも顔を背けていたような気がする。それは相手があることであっても同じこと、相手に対してよりも、自分の中にいるもう一人の自分に対してだったように思えてならなかった。

――これが、人の顔を覚えられない理由なのかも知れないわ――

 それだけの理由だとは思わないが、これ以上の理由が他にはなかったように思う。

 ただ、それ以下の理由もありえないような気がしているのは、やはり、理由はそれ以外には考えられないということを示しているようで、矛盾がここにもあるような気がして、「これからも、もっと自分の中にある矛盾に気付いていくのではないか」

 と思うようにもなった。

 瀬里奈はその矛盾の中に、

「人の顔を覚えられないことと、相対称的なものを思い浮かべることが無関係とは思えない」

 と感じるようになった。

 左右対称のものを覚えられないという考えは、人の顔を真正面から見ることができないからではないかと感じてもいた。

 人の顔を真正面から見ることは怖いことである。

 自分も一緒に見つめられるという危険性を孕んでいるのであって、こちらに隙を見せることになるからだ。

「そういえば、前に将棋の好きな人が教えてくれたっけ」

 と急に思い出した。

 あれは、確か学校の授業で、先生が脱線して話してくれたことだった。

 その先生は国語の先生だった。数学でも理科でもない先生の話だったのが、後から思うと不思議な感じがして覚えていたのだ。

「将棋で、一番隙のない布陣というのは、どういうものなのか、皆さんはご存じですか?」

 というものだった。

 皆が、誰も発言せず、顔を見合わせている様子を見て、先生はニコリとほくそ笑むようになり、

「それは、簡単なことだよ」

 と言って、もったいぶった。

「どういうことですか?」

 一人の女生徒が代表して先生に聞いた。

「それはね。最初に並べた布陣なんだよ。一手打つごとにね。そこに隙ができるんだよ。だから将棋の場合は最初が肝心ともいえる。どこを最初に動かすかというのも、ある意味大切なことだろうからね」

 と言った。

「ほー」

 と、皆それなりに納得していたようだが、その度合いは明らかに人それぞれだと思った。

 瀬里奈の場合は驚きはしたが、それほど印象に残らなかった。ただ、

――いつか、急に思い出すかも知れないわ――

 と感じたのも事実で、それが今だったわけだ。

――あの時の感覚は本当だったんだ――

 と感じると、急にその時夢のことを考えている自分も、以前に、

――もう一度、同じ感覚に戻ってくるかも知れないわ――

 と感じたのではないかということを思い出していた。

 その記憶には信憑性があり、まるでデジャブのような感覚に陥っていた。

――以前、どこかで聞いたり見たことがあるような――

 というのがデジャブであるが、その感覚はもっと曖昧なものだったはずだ。

 今回思い出した同じ感覚というのは、ある程度確定的なものだったような気がするのに、それを信憑性と感じたり、デジャブと同じラインで考えたりするというのは、どこか違っているように思えた。

 瀬里奈は今回の夢の中で、自分が打っていたわけではないが、誰かが打っている将棋を後ろから見ていたような気がした。

 将棋を見ながら、まるで自分が打っているような気分がしたのも覚えていて、

「ああ、そこは違う」

 と、声にならない声を出し、打っている人に気付かれて、後ろを振り向いたその人に、睨まれた気がした。

 その人は、まっすぐに瀬里奈の顔を見つめた。その表情に怒りが感じられたわけではないが、瀬里奈はビックリして、それ以上、何も言えなくなった。どうして何も言えなくなったのか、その時は分からなかったが、今思い出してみると、

「真正面から見つめられたからだわ」

 と感じたからだ。

 目を逸らそうとしたにも関わらず、目を逸らすことが瀬里奈にはできなかった。明らかに、

「ヘビに睨まれたカエル」

 状態だった。

 汗が額から流れ落ちていて、臭い匂いを自分に感じた。それは汗の匂いでも体臭でもなく、本当にカエルの臭いだったような気がする。

――そうだわ、ガマガエルの油というのは、こういう臭いなのかも知れないって、あの時に感じた気がする――

 と瀬里奈は思ったのだった。

 相対称というのは、真正面だから感じるもので、瀬里奈はそのことに今になって気が付いたと思っていたが、実は以前から分かっていたような気がした。

 それがどうして分かったのかというと、

「相手が自分を見つめるから分かったと思ったのだが、本当は自分が相手を意識することで気が付いたんじゃないか」

 と感じたからだった。

 相手を意識するあまり、威圧の気分が強すぎて、真正面から見るものは、そのすべてが相対称のように思えてしまうことに疑問を感じたからではないだろうか。

 瀬里奈は、絵を描くことが苦手だった。絵を描くということを最初から、

――私には絶対にできないこと――

 というイメージを持ったからであって、その思いは芸術全般に言えることであった。

 絵画や文芸、そして音楽、そのすべてが瀬里奈は苦手だった。小学生の低学年の段階で、そのすべてが自分にはできないと悟ったのだが、一番最初にできないと感じたのは、絵画だったように思う。

 音楽に関しては明らかにいつからダメだと思ったのか分かっている。音符を見た時から、すでに自分には音楽を遠ざけてしまう感覚があった。それが何年生の頃だったのか、なぜかハッキリとはしないが、ただ、まだその頃には絵画に対して苦手意識があったわけではなかった。それでも絵を描くことに対して違和感があったのは確かで、なぜ違和感があったのか、今それを思い出すことはできない、

 絵画を苦手だと思ったのは、最初こそ漠然としたものだったが、なぜ苦手だと思ったのかというと、自分の中で受け付けるものがなかったからではないかと思えてきた。避けていたわけではないが、受け入れることができない絵画には受け入れられない何かがあるということにどこかで気付いたのだった。

 それに気づかせてくれたのが、合わせ鏡の中の自分に見つめられていることに気付いた時だった。

 それまでにも絵画が苦手な理由の一部は分かっていた。ただ、その理由がすべてであるとは思っていなかった。

 それも苦手な理由の一部も、一つではなかった。一括りにすることはできたが、その一つ一つを納得しながらでないと、本当に苦手な理由にはならない気がした。連鎖的な発想であることから一括りにしてしまいそうだが、本当の理由は連鎖的ではないので、結局は一括りにできないことで、自分でも納得できないことだと感じていた。

 一括りの中で最初に感じたのは、遠近感だった。

 瀬里奈は最初に絵を漠然と全体を見ていたのだが、絵を絵画として意識するようになると、全体を見るというよりも、部分部分を意識して見るようになった。その影響からか、最初に感じたのは、

「遠近感」

 だった。

 遠近感は、立体感に繋がるものである。元々立体である三次元を平面の二次元の中に収めようとするのである。

「次元をまたぐ」

 という意味でも、絵画という言葉で納得させようとすると、どうしても、親近感を抱かせようと考える。

 その思いが改まって考えさせ、かしこまった態度が緊張を誘うからなのかも知れない。

 しかも、

「二次元から三次元」

 というような、広がる感覚ではなく、狭める感覚になることは、瀬里奈の中での感覚を逆行させているようで、余計な緊張を抱かせるのだった。

 遠近感は静的な状態から動的な状態を描き出す。それが

「三次元を二次元で表現する」

 というイメージと矛盾しているように思えたのだ。

 遠近感の次に感じたのは、

「バランス感覚」

 だった。

 これを最初に感じたのは風景画からであった。風景画で海と空、そして水平線との境目を考えていると、自分の中で最近特に感じていることとの感覚に酷似してくるのが分かってきた。

 例えば一つが、海と空という相対称の感覚であった。相対称は鏡の世界とも結びつき、

「矛盾する無限ループ」

 に繋がるものであった。

 さらにバランス感覚は、以前に感じた「サッチャー効果」を想像させた。

 上下でまったく違った表情に見えるというサッチャー効果は、いかにも芸術作品に結び付くものがある。また、鏡の世界で感じた、

「永遠のテーマ」

 として考えている、

「鏡というのは、左右対称に写し出すものであるが、上下が反転することはない」

 という思いがあった。

 どうして左右が対称に見えるのに、どうして上下が反転しないのか、納得のいく説明をできる人はいない。

 人それぞれに言い分はあるようだが、どれも決め手というわけではない。逆に言えば、「そのどれもが、もう少しでも一歩先に進むことができれば、納得できる理由になりそうだ」

 と言えるのではないだろうか。

 そういう意味では、それぞれの考えには力があり、人それぞれの感覚として、そのすべてが間違いではないと言えるのではないだろうか。だから、その答えを無理に求めることもなく、曖昧なままの方が、それはそれで納得のいくということもあるのではないかという汎用的な考え方ができるのであろう。

「遠近感」と「バランス感覚」というのは、まったく違ったものではなく、それぞれに共通している部分は結構あるように思えていた。それこそ、

「継続する納得」

 に通じるものがあるような気がしていた。

「絵画についてここまで考えることができるのに、実際に描くことができないなんて」

 というもどかしい思いが、瀬里奈の中にあった。

 しかし、逆に言えば、

「ここまで分かっているからこそ、描くことができない。いわゆる自覚の問題ということになれば、描くことができない理由を納得することはできる」

 とも言えるのではないだろうか。

 これも一種の矛盾なのだが、納得のいく矛盾であり、もどかしさは残るが、尾を引くものではないと言えるだろう。

 瀬里奈はそんなことを考えながら、次第に自分の発想が横道に逸れてくるのを感じていた。

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