電子音の魔力

森本 晃次

第1話 顔を覚えられない

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。


 今年から高校生になった藤木瀬里奈は、中学生まで持つことを許されなかったスマホを持つことができて喜んでいた。中学の頃までは学校に持っていけば、授業中は先生に預けなければいけなかったので、それくらいならということで、持ちたいという気持ちにはなれなかった。

 元々、瀬里奈の父親は新しいものが好きにはなれず、いまだにガラケーという、いわゆる「モノクロ人間」と。自分でも言っていた。

 瀬里奈の母親がどちらかというと、新しいものに興味を持つ方だったが、飛びつくというほどのこともなく、近所の奥さん同士の話に合わせられる程度のものだった。

 中学時代から瀬里奈にはあまり友達が多くなかった。

「彼女、変わっているから」

 というのが、まわりの共通の意見だった。

 流行に興味を持つわけではなく、今どきの女の子という雰囲気はまったくなく、むしろ昔に流行ったことなどに興味を持つほどだった。

 学校でも好きな教科も歴史ということだった。

 今では歴史を好きな女子を、

「歴女」

 などという言葉もあるくらいで珍しくもないが、中学生で興味を深く持つのは珍しいのではないだろうか。

 学校で習う教科としての歴史というよりも、本や雑誌で見る歴史に興味を持ち、学校の成績は決していいものではなかった。そのくせ裏話的なことは結構知っていて、女子相手よりも男子生徒との話の方が合うくらいであった。そういう意味でも流行に置いて行かれた紗理奈と、敢えて友達になろうという女子はほとんどいなかった。

 あまり目立つことのない生徒だった瀬里奈だったが、そんな瀬里奈のことを気にしている男子は少なくもなかった。だが、男子としても、

「瀬里奈に興味を持っている」

 ということが分かると、女子の間で、

「変わり者」

 というレッテルが貼られるようで、なるべく人に言えず、一人の紋々とした気持ちになっていた。

 実際に瀬里奈に興味を持っている男子生徒は、彼ら自身「変わり者」だと自覚している人が多かった。

「自他ともに認める」

 という変わり者だったが、似た者同士というわけでもなかった。

 ストーカー予備軍というほどひどい感じの変わり者はいなかったが、男子生徒からも女生徒からも気持ち悪がられている人も多かったのだ。

 そんな連中が瀬里奈のことを気にしているというのは、見ていると分かるようで、そんな連中に気に入られている瀬里奈への視線も、おのずといい視線ではなく、

「彼らと同類」

 とまで思われるほどになっているようだった。

 変わり者だという意識を瀬里奈はよく感じていた。瀬里奈は自分を気にしている男子がいるという意識もあり、彼らが変わり者であることを意識することから始まった。

 瀬里奈は自分がヲタク的なところがあるのを自覚していたのだが、まわりは彼女にヲタクというよりも、男性的なところがあることに興味を持っていた。

 彼女を気にしている男性は、なよなよしたタイプの男性が多く、女性からは、

「気持ち悪いわ」

 と言われている連中が多かった。

 彼らの特徴は、普段はあまり話をしないのだが、自分と同類と思われる人たちと話す時は、やたらと早口でまくし立てるように喋るのだ。普段、内に籠めている性格をこの時とばかりにまくし立てるのだった。

 話の内容も聞いていて、

「いかにもヲタク」

 を思わせる。

 しかも、彼らの特徴としては、恐怖ものを好きなところに共通している。ホラー番組が好きなことを人にいうと引かれてしまうという意識から、話を控えていた。

 別にまわりからいまさら嫌われたからと言って、傷つくわけではないのだが、嫌われれることを意識している。本人たちは自分たちが嫌われているという意識があるくせに嫌われるのを嫌がるというのは不思議な心理ではあるが、

「逆も真なり」

 という発想から来ているものなのかも知れないと感じた。

 瀬里奈は、それまでヲタクというものを特別な存在として、自分とは違うものだという意識を持っていたことで、あまり考えないようにしていたが、自分が変わり者だという意識を持ってから、ヲタクを意識しないわけではいかないように感じた。

 ヲタクを意識するようになると、さらに自分を意識している男性たちが、さらに気持ち悪くなってきて、

「彼らは別の人種なんじゃないか?」

 と思うようになった。

「自分とは違う」

 という意識が前提にあるので、別の人種という発想をどんどん膨らませることができた。

 しかし、まだ自分が当時中学生であり、やっと思春期に差し掛かったくらいであるという思いから、

――まだまだ子供なんだ――

 という思いを強く持っていたことも事実で、膨らませる発想にも限界がある。

 ヲタクに関しては。最近はドラマなどでも取り上げられることもあって、瀬里奈には身近に感じられるものとなった。

――でも、興味を持たなければ、そんな番組も見ないわよね――

 と感じているのも事実で、考えてみれば、最近のドラマがゴールデンタイムというよりも、深夜に放送している番組が多いことからも、ドラマ自体がヲタクであったり、変わり者たちをターゲットにしたものが多いのではないかと思うようになった。

 最近のドラマでは、ネット関係の話であったり、地下アイドル関係の話が多かったりと、若者中心の話なのだが、そんな若者中心の世界に入り込む大人の人を描いたものも増えているのが特徴であろう。

 そういう意味では、若者をターゲットにしているわけではなく、大人にも興味を持たせるものとしての作品も多いのではないだろうか、それを思うと、最近の番組は、

――時代を反映させながら、老若男女それぞれに訴えかけるものが増えているんだな――

 と思うようになった。

 ヲタクを中心とした番組を、実はまわりの大人の人も結構見ているといううことを、何かの雑誌で見たことがあった。どこで調べたのかは分からないが、インタビュー形式だとしても、果たして大人の人がインタビューされたからと言って、本当のことをいうだろうか?

 それを思うと、深夜のドラマ番組というのもあなどれないという気がしてきた。

 瀬里奈は、ドラマに関しては、実は中学時代から造詣が深かった。最初は夕方の帯でやっていた再放送ドラマに興味を持ったからだ。

 最初は本当に漠然と見ていただけだったが、どこかに興味を引くところがあった。それがどこなのかすぐには分からなかったが、分かってみると自分でも納得が行った。

――懐かしさを感じる――

 まだ中学生の瀬里奈が大人のドラマで懐かしさを感じるというのはおかしな話だが、今から思うとその理由も分かる気がする。

――あれは、新鮮さから来ているものだったんだわ――

 というもので、新鮮さは後になって気付いたものだったが、気付いた時だけ、

――最初から分かっていたような気がする――

 と感じさせた。

 そういう意味での懐かしさもあったのかも知れない。そのことが瀬里奈がそれ以降に何かを考える時、

――自分の中で矛盾を感じているような気がする――

 という意識に繋がっていったのだろう。

 矛盾というのは。子供の頃から絶えず考えていた。何が何に矛盾しているのかというのはその時々で違っていたし、矛盾を感じたその時には、どうして矛盾を感じたのかという思いが、すでに過去になってしまい、意識から忘れてしまっているような気がするのだった。

 瀬里奈がヲタクを自分の中に意識するようになったのは、

「自分の中の考え方の矛盾」

 という発想から繋がっているように思った。

――ヲタクって、矛盾を感じないのかしら?

 と思ったが、自分がヲタクを意識するようになると、今度は、

――矛盾を考えていたら、ヲタクなんてやってられないんじゃないかしら?

 と思うようになっていた。

 ヲタクというと、これはあくまでも瀬里奈の偏見になるのだが、エロとグロではないかと思っている。もちろん、エロでもグロでもないヲタクはあるのかも知れないが、瀬里奈の中では、

「ヲタクは、エロかグロのどちらかに含まれる」

 と思っていた。

 エロというのは、エッチ系の話になる。瀬里奈としてはグロよりもエロの方が避けたいものだと思っている。それは自分が女の子だからという意識が強いからで、自分が男性だったら、エロよりもグロの方を避けたいと思うだろうと感じていた。

 だが、いろいろと考えてみると、エロもグロも、どこが違うのかと言いたいほど、突き詰めれば共通点が多いような気がしてきた。

 エロもグロも、どちらも他言してはいけないこととして言われていることである。ただエロの場合は表立って口にしてはいけないと言われていることであり、グロの方が、表立って言うことができないものだと感じている。

 どちらもタブーとされていることではあるが、エロは人間の尊厳の問題だと思えていた。その理由として、

「男女の間には、決して触れてはいけないタブーが存在している」

 という考え方だ。

 それは、聖書の時代から、アダムとイブがこの世に存在した時、裸を恥ずかしいと思うようになった気持ちからではないだろうか。

 旧約聖書の中に描かれている、

「禁断の果実」

 を口にしたことから、恥じらいが始まったとされる。

 禁断の果実とは、

「善悪の知識の木の果実」

 と言われている。

 一般的にはリンゴの果実だと言われているが、宗教の違いや地域の違いによっては、ブドウであったり、トマトやザクロなどと言われているところもある。

 善悪の知識を知ることで、

「裸を恥ずかしい」

 と感じるようになった。

 そして、恥ずかしさから身を隠すため、イチジクの葉を身にまとったとされている。

 つまりは、

「裸=恥ずかしい=悪いこと」

 という発想に至ることから、いわゆるタブーとされることになったのだ。

 いわゆる、

「禁断の果実」

 というのは、

「それを手にすることができないこと、手にすべきではないこと、あるいは欲しいと思っても手にすることが禁じられているということを知ったことにより、却ってその魅力に凌駕され、欲望の対象になってしまう」

 ということを示している。

 つまりは、手に入れることのできないものへの欲求を知ることで、タブーとされることを欲している自分に快感を示しているということになるのだろう。

 時間を要したり、努力することによって手に入れられることであれば、そこにこれほどの興奮を感じることはない。まずは、

「それを欲している」

 という気持ちが最初に来なければ、エロというのは、成立しないものである。

 しかも、そこに禁断の果実という意識があることから、恥じらいを自分が欲しているものと混同する。

 エロティシズムとは、そんな感情が性的な興奮であったり、欲求を自分の中に見たそうとするものである。色気であったり、肉感的なものへの興奮や、想像を掻き立てるような小説であったり戯曲などは、その最たる例だと言えるのではないだろうか。

 ただ、この感情は、

「人間であれば、誰でも持っているもの」

 と言えるのではないだろうか。

 人間というのは、いや、人間に限らず生物は、そのすべてが男と女に別れている。男が女を欲し、女が男を欲するのは当たり前であり、それを人間や動物は、

「本能」

 という言葉で呼ぶのだ。

 性的興奮というと、どうしても毛嫌いされたり、顔をしかめられたりすることが多く、自分の中にエロティシズムを抱えていると思っている人は、そこで自分を閉ざしてしまうことだろう。

 瀬里奈は時々自分の中にエロティシズムを感じていた。それは小学生の頃からだったのだが、それよりも、エロさを隠し持っている人を見つけることに長けていると思うようになった。

 だからなのかも知れない、

――エロティシズムを隠そうとしている人を感じることができるんだ――

 と思うようになった。

 エロティシズムを持っている人は隠そうとしているという意識を持っていない。最初からないと思っているので、気配を感じた瞬間に、無意識に隠そうとするのだろう。

 瀬里奈は、その瞬間を敏感に感じ取ることができるようだ。それを特技と思うべきなのか迷うところであるが、少なくとも長所だとは思っていない。

「無用の長物」

 とは、このことかも知れないと感じていた。

 瀬里奈はエロティシズムを否定する気はない。どちらかというと、エロティシズムを毛嫌いしている人に疑問を感じるほどだった。

 自分がエロティシズムの仲間だとは思いたくはないが、エロティシズムに走る人の気持ちは分かるような気がする。

 ただ同じエロティシズムでもどうしても理解できない感情があった。それはSMの世界である。緊迫やろうそくなどでどうして興奮するのか、瀬里奈には分からなかった。

 瀬里奈にエロティシズムの知識を与えたのは、中学時代の同級生だった。その人は男子生徒で、彼とすれば真面目な瀬里奈にエロティシズムな話をして、彼女が恥ずかしがっている姿を見るのが好きだったようだ。彼は隣の席だったので、授業中に耳打ちすることで瀬里奈の恥じらいをさらに掻き立てることに成功した。その先生の授業は、ただでさえやかましく、ほぼ誰も授業を聞いている人はいない状態だった。

 まさしく無法地帯。そんな状態で瀬里奈はその男子生徒に耳打ちされる状況は、耳打ちする方も、される方も興奮は最高潮になるのではないだろうか。

 この行為自体が、どこかSMチックなところがあり、聞きたくないという思いが前面に出ているくせに、耳を真っ赤にしている自分が、金縛りに逢ったかのような状態になっていることに興奮を覚えていた。その興奮は、

「いきそうでいけない」

 いわゆる寸止めの興奮を味わわせてくれた。

 ここでの金縛りは縄で縛られる緊迫とどこが違うのか、瀬里奈は緊迫の興奮が分からないでいた。

 ただ金縛りというのは、自分が予期していない状態でいきなり襲ってくるもので、緊迫は最初から予感のあるものであった。だが、金縛りも何度か襲ってくるようになると、少し認識に違いがあるのを自覚するようになった。

 金縛りというのは、襲ってくる一瞬前に、予感めいたものがあった。

「ヤバいかも知れない」

 と感じる。

 そのヤバいという思いが却って身体を緊張させる。だが、ヤバいと思わないと、いきなり襲ってくる金縛りに果たして耐えることができるのか、そう思うと、予感めいた前兆というのは、

「無用の長物」

 とは、種類の違うものに違いない。

 金縛りとは別に、足が攣るという現象も増えてきていた。足が攣ると呼吸困難に陥り、声を出すことすらできなくなる。これも前兆のようなものがあり、その予感は金縛りによる予感なのかどうか、すぐには分からない。

 ただ、瀬里奈がエロさを意識するようになってから、金縛りが多くなったのは意識できた。足が攣るのはまた別の要素があるような気がしていたのだが、SMを意識するようになったからではないかと思うようにもなった。

 SMの世界はなるべく触れたくないと思っているくせに、どうしても意識してしまう。自分が入り込むということはないと思っているが、本屋ではビニールが掛かっているので見ることはできないが、図書館に行けば見ることができるのではと思い、休みの日に図書館に出かけた。

 図書館という特殊な場所に立ち寄るのは、嫌いではなかった。

 図書館というのは空気が薄く、耳鳴りを覚えてしまうというイメージが強く、匂いも独特で、体調の悪い時なら、一発で気持ち悪くなってしまうのではないかと思っていた。

 しかし、図書館の独特な雰囲気は病みつきになってしまう。匂いも独特なのだが、別に嫌いな匂いではない。最初、鼻を突く臭いだと思うのだが、すぐに慣れてしまって、襲ってくる耳鳴りに共鳴したのか、それとも嫌なことがうまく作用してお互いを打ち消したのか、嫌な感じが半減しているようだった。

 図書館にいると、別世界の雰囲気を感じる。本に囲まれた空間は、圧迫感を感じる。さらに本棚というのは、これでもかというほど高さがあり、迫ってくる圧迫感を感じるのは、そのせいであろう。

「館内ではお静かに」

 という貼り紙も目にするが、誰も言葉を発しようとしない雰囲気があった。

 だが、声を発しないだけに、自然発生する音が気になってしまう。その音は次第に大きさを感じるようになるのだが、きっと気にしないようにしようと思えば、意識しないで済むのではないかと感じるのだが、果たしてそうだろうか?

「心頭滅却すれば火もまた涼し」

 という言葉があるが、まさしくそうなのかも知れないと思う。

 意識しないで済む人は、それなりに音に対して思い入れのある人ではにないかと思うのだ。

「人というのは、意識しないようにしようとすると、必要以上に意識してしまって、気になると止まらなくなってしまう」

 と瀬里奈は思うのだった。

 瀬里奈が図書館に行く時は、あまり人がいない日が多かった。休みの日に、朝から一番で行くことが多いので、昼前くらいまではほとんど人がいなかった。

 もちろん、学習室に行けばたくさんいるのだから、人が少ないというのは語弊があるが、学習室に人が多いだけに、読書室に人が少ないのは、余計に人が少ないと思わせるのだった。

 本棚に圧迫されながら本を物色していると、時間を忘れる気がしてきた。気が付けば耳鳴りも微妙な匂いも感じなくなっていて、見たい本を見つけて棚から出した時にツンと鼻を突く臭いは、最初に感じる匂いとは微妙に違っていた。

 閲覧席に本を持っていく時に感じる、ずっしりとした重たさは、

「これぞ図書館」

 という、この場所の醍醐味を感じた。

 本を開くといきなり飛び込んできた画像には、一瞬度肝を抜かれた気がした。

「気がした」

 というのは、正直にいうと、目に飛び込んできた画像を、すぐには認識できていなかったからだ。

 真っ暗な画像なので、すぐに画像がどんなシチュエーションなのか、すぐに理解できる人は珍しいだろう。瀬里奈も画像をすぐに理解できなかったのだが、どす黒い雰囲気自体に気持ち悪さを感じたというのが、素直な感想だった。

 目が慣れてくると、少しは画像のシチュエーションを感じられるような気がしたが、思ったよりも時間が掛かり、少しイライラしてくるくらいだった。

 絵の中に決して明るさは感じられなかったが、瀬里奈はそれでもどこかにあるかも知れないと思う明るさを探していた。そう思って探していると見つけることができるのか、中心部分の奥の方に明るさを感じた。

 錯覚なのかも知れないが、明るさを感じると、その明るさの正体が分かってきた気がした。その明かりは瞳の明るさで、こちらをじっと見つめている。

――気持ち悪い――

 と感じたが、そのうちに自分が勘違いしていることに気が付いた。

 目の前に光っている瞳は人間の瞳ではなかった。

――これは猫だわ――

 画僧の中心には猫がいた。

 よく見ると、猫を抱いているのが一人の女性で、その女性の唇が深紅に光っているのも感じることができた。

 その後ろから男性が彼女を抱きしめている。その顔には表情はなく、何を考えているのか分からなかった。自分が抱きしめている女性がカメラ目線であるのに対して、男性はまったくの無表情だ。

――こんな光景のどこがSMチックなんだろう?

 本はSM画像に関する本だった。

 芸術の本なので、カメラ画像だけではなく、絵画もそこにはたくさんあった。ページを捲るうちに、いろいろなイメージが交錯しているように思えた。

 いかにもエロチックなものもあれば、

――これのどこがSMなのかしら?

 と感じさせるものもあった。

 瀬里奈はその画像の続きを想像してみた。

 最初に感じたのは、抱きしめられている女性が微笑む顔だった。その表情は笑顔というよりも妖艶さを含んだもので、同じ女性でも子供の瀬里奈には到底及ばない笑顔に違いなかった。

 それよりも、笑顔の種類が違っているように思えた。何を考えての笑顔なのか、さっぱり想像がつかない。

 後ろから抱きしめている男性も相変わらずの無表情。指は微妙に女性の敏感なところをまさぐっているかのようだったが、女性の表情は、その指の動きに連動しているわけではなかった。

――相手の女性が自分のテクニックに反応していないことを悟ると、男性はさらに攻め立てるのではあるまいか?

 男性経験があるわけではない瀬里奈だったが、なぜかその時、相手の男性の気持ちも、されるがままになっている女性の気持ちも両方分かるような気がした。

 むしろ、今だから分かるのではないかと思うほどで、自分が今画像に魅せられているということを感じていた。

 だが、画像はまったく動かない。想像はできても、そもそも正解などあるわけではない状況に、瀬里奈は次第に冷めた気分になっていくのを感じていた。

 その画像を見ていると、女性の表情を想像することはできたが、気持ちという意味では、まったくの無表情になっている男性の方が、内に秘めた気持ちが分かるような気がしていた。

――私って、やっぱり男性的なところがあるのかしら?

 と感じたが、だから自分は男性から好かれないのだと思った。

 まったくの無表情の男性であったが、よく見ると、体のあちらこちらで汗を掻いているのが分かった。

――きっと私にしか分からないわ――

 と思えるほど、錯覚でしかないようなイメージだった。

 瞬きをした瞬間に、それまで感じていた汗を感じなくなってしまうような気がしたからだ。

 この時の瞬きは、瀬里奈に幻を見せるだけの十分な時間がありそうな気がした。それは夢を見ているのと同じ感覚だと感じたのは、自分が男性に羽交い絞めにされて、後ろから愛撫されている感覚を思い出したからだ。

――あれは夢だったんだわ――

 いつのことだったのか、最近だったような気がするが、この思いは明らかにデジャブである。

 デジャブとは、既視感とも呼ばれ、

「いつどこでだったか分からないが、確かに記憶の中に存在しているもの」

 という意味で使われる。

「人間の感覚から神経を通ってきた信号が、脳内で認識し記憶される段階で、脳内で認識される作業以前に、別ルートを通り記憶として直接脳内に記憶として蓄えられ、脳が認識する段階で、すでに記憶として存在するという事実を再認識することにより起こる現象ではないか」

 という説もあるという。

 さらに注目すべきは、いつどこでなどという具体的なことは覚えておらず、漠然と意識だけが記憶として残っていることから、その部分だけ、強烈な印象として記憶に残るべく意識が作用したのではないかと、瀬里奈は考えていた。

 もちろん、何の知識もなく、そんな発想が生まれるわけではなく、図書館でデジャブに関しての本を読んだことから感じたことであった。

 瀬里奈は、この頃から自分の性格に異常性を感じるようになり、その原因を探求しようと思うようになっていた。その手始めが図書館で心理学の本を読むことであり、さらにエロやグロと言った、他の人が毛嫌いするものを自らで探求しようと思うようになっていたのだ。

 デジャブの話に戻るが、瀬里奈はデジャブと似たような発想として考えられる、夢や記憶喪失と言った現象や病気とは、一線を画したものだと思うようになっていた。

 実際にデジャブというものがどこまで研究が進んでいて、夢や記憶喪失との関係が本当に一線を画すものなのかどうか、本を読んでいるだけでは分かりにくいところがあった。

 何しろ専門用語で書かれているところが多く、中学生や高校生の頭で理解できるものではない。それでも何とか読んでみようと思う努力は少しずつ実を結んでいるような気がしてきたのか、夢に関しては、少し自分なりに理解してきたような気がした。

 夢に関しての著書も多く、ただ厄介なのは、数が多いということに比例して、発想もそれだけ広がっている。うまく頭の中で整理できなければ、理解を深めることは難しいだろう。

 デジャブというものが、今実際に研究されて発砲されたものが、学説として確立されているものなのかどうか、瀬里奈には分からなかった。本を読んで、

「なるほど」

 と思えることもたくさんあったが、瀬里奈の中で独自に考えているものもあるので、それはそれでありだと思っていた。

 デジャブというものは、初めて見たという認識の中で、

「以前にも見たことがあったような気がする」

 という意識が働いたものだった。

 説のほとんどとして、

「以前に見た」

 ということに対して、かなりの信憑性を感じているということを前提に、デジャブという現象を考えている。

 つまりは、実際に見たことがあったのかどうかということよりも、記憶が第一だという発想である。

 瀬里奈もその発想には賛成なのだが、実際に見たことがあったのかどうか、考えてみようと思っていた。

「錯誤ということは考えられないかしら?」

 つまり、記憶の中の印象に残っている映像や画像と、今まさに見ている状況とが記憶の中で錯綜しているという考えである。

「別ルートを通る記憶」

 という発想と似てはいるが、瀬里奈の考えは、あくまでも見たということを前提に考えている。

 ただ、その見た内容が、深く印象に残っていることではあるが、思い出すまでのことはないもの。つまり、

「思い出したくない記憶」

 というものではないかという発想である。

 これは、

「夢の記憶」

 というものとは正反対の発想である。

 瀬里奈は、

「自分が見た夢を覚えていることはまれで、覚えている夢というのは、決まって怖い夢だった」

 と思っている。

 本当であれば、思い出したくもない内容を忘れてしまわずに覚えているというのは、逆の発想で、

「忘れてしまいたくない」

 と思っているからであろう。

 それは、自分の中で正夢や、予知夢を思っているからなのかも知れない。怖い夢ほど、正夢や予知夢ではないかと思うのは、ある意味ネガティブな性格によるものなのだろうから、信憑性には欠けると思っていいかも知れない。それよりも怖い夢を忘れないという意識が、その後に起こるであろう、降りかかってくる災難に対応できるようにするための大切な記憶として意識しているからだ。

 だから、怖い夢というのは、

「覚えているというよりも、忘れられないという感覚ではないだろうか」

 と思っている。

 では、デジャブに関してはどうだろう?

 デジャブは、忘れてしまっていることを思い出させてくれるトリガーのようなものだと考えると、忘れてしまっていたと思っていたことも、本当は忘れてしまったわけではなく、記憶の奥に封印され、何かのキーワードで開く、

「開かずの間」

 のようなものではないだろうか。

 今のところ、怖い夢にしても、デジャブにしても、思い出したことで、自分が災難から逃れられたり、助けられたということはない。あくまでも本人の意識していないところで見えない形で達成されていることなのだろうか? もしそうだとすれば、怖い夢を忘れないことや、デジャブによって思い出すことは、ただ、本人に不思議な現象を植え付けるだけで終わってしまうものになってしまっている。

 瀬里奈は図書館で、エロいものやグロテスクなものを探そうという意識は持っていたが、デジャブや夢の発想を頭に抱くようになってから、心理学についても、思い描くようになっていた。

 最近興味を持ったのは、

「サッチャー効果」

 という発想だった。

 そういう効果があるのは、ウスウス気付いていたような気がしていたが、それが学問として形成されているということは知らなかった。

――名前までついているんだ――

 と考えたが、どうしてこのサッチャー効果に興味を持ったのか、思い返していた。

 元々、そういう現象は無意識の中の意識として残っていたような気がする。街を歩いていると、サッチャー効果を感じさせるものがたまに目に飛び込んでくる。

 もちろん、サッチャー効果などという言葉も知らず、心理学的に研究されていることだなどと思いもしていなかったので、漠然と見ていただけだった。

 サッチャー効果というのは、絵画や何かのデザインなどで、正面から見た印象と、逆さから見た印象でまったく違って見えるということである。

 普通の絵画やデザインは、正面から見た印象だけがすべてであり、逆さから見るなどということは普通は誰もしないだろう。

 しかし、逆さから見てまったく違った印象のものに写るということは、正面から見た印象もどこか違和感があるのではないかと思う。

「芸術作品なのだから、違和感があったとしても、それは作家の先生の感性によるものなので、違和感は違和感とは呼ばない」

 という発想もありだろう。

 しかし、違和感を感じれば、そこには何か確かに違う感覚が潜んでいるのであって、それが和を持って結び付いてくると、

「読んで字のごとし」

 のように感じるのは、瀬里奈だけであろうか。

 元々違和感がある作品を、芸術家の先生は、よく別の角度から見ているのを見かけたことがあった。

――凡人ではない人って、あんな風にしないと、新しい発見ができないのかしら?

 と皮肉を込めて感じたが、本当は、

――私たちにはない発想が羨ましい――

 という嫉妬のようなものを感じていたのだ。

「そうだわ。違和感なんだわ」

 ふと、瀬里奈は何かに閃いた。

 違和感というのは、確かに

「違っているということを感じる時に、和、つまり繋がりを感じさせる何かがあるということなんだわ」

 と感じた。

 この思いは、夢にもデジャブにも言えることである。それぞれに共通点がありそうで、共通点を見つけることは難しいように思えた。それぞれに似た発想から生まれてきているように思えるが、それを共通点という認識から考えると、これほど難しいものはないように思えたからだ。

「違和感こそが共通点」

 と言ってしまうと、語弊があるが、

「違和感が入り口を形成している」

 と思えば、納得が行くような気がする。

 デジャブにしても夢にしても、サッチャー効果にしても、確かに近い発想を感じるのだが、その入り口である、

「発想のきっかけ」

 が、どうしても見つからなかった。

 違和感という言葉もある意味抽象的で、曖昧なものだ。だからこそ、近いと思っているそれぞれを結び付けるには最適なのかも知れない。

 宇宙空間を思い浮かべてみよう。空に見えている星は、それぞれ均等の距離に煌めいているかのように見えるが、実際にはそれぞれに気の遠くなるほどの距離があり、地球からの距離も隣に見えている星でも距離が違うのだ。

 逆に言えば、光年という単位で考えれば、実際に見えている星の光は、数百年前に光ったものだったり、さらには数千年前に光ったものだったりする。

「もうあの星は存在していないのかも知れないわ」

 と、ロマンチックに感じるが、どこか寂しさもあった。

 そんな発想は、

「近くて遠い、違和感を形成するものではないか?」

 と瀬里奈に感じさせた。

 実際のサッチャー効果というのは、

「上下逆さまから見た顔が、実際の表情から判断した性格とは似ても似つかぬ表情になる」

 ということを示唆したものだと言われている。

 いわゆる錯視であり、錯覚がもたらした違和感だと言えるのではないだろうか。

 サッチャー効果というのは、人の顔に対しての正立顔と、倒立顔とで、その特徴の変化の検出が困難なことを言う。

 顔に関しては、人間はその各所の特徴や、配置について、特別な記憶が働いていることから、一度見た顔は忘れないという人が多いのもその特徴である。

 だが、瀬里奈は

「自分が人の顔を覚えるのが苦手である」

 ということを認識していて。

「どうして、そんなに人の顔って覚えられるの?」

 と、人に質問したくなるくらいであった。

 質問された方も、意識して人の顔を覚えられているわけではないので、その質問に対しての回答に苦慮してしまうだろう。

「どうしてあなたは覚えられないの?」

 と逆に質問されても仕方のないことであろう。

 そう思うと、瀬里奈がサッチャー効果を意識してしまうというのも、何か因縁めいたものがあり、ただの偶然とは思えない気がした。

 元々人の顔が覚えられないのは、子供の頃家族で行った遊園地での出来事が由来していた。

 あれは、まだ小学二年生くらいの頃だっただろうか。どうしてそうなったのか覚えてはいないが、瀬里奈は迷子になった。

「お父さん、お母さん」

 と、声を出しながら探し回ったが、その声はまさに虫の鳴くような声であり、賑やかな遊園地では誰も瀬里奈のことを気にする人はいなかった。

 本人は不安がっているはずなのに、その表情に不安げな雰囲気がまったく感じられなかったのも、そのせいではないだろうか。

 不安に思えば思うほど、声が小さくなり、そのくせ、表情がまったくの無表情では、まわりも誰も瀬里奈を気にすることもない。

 その感情を、

――私って、損な性格なんだわ――

 と自覚していた。

 だからと言って、その気持ちを表に出すようなことはしない。気持ちを表に出すことができる性格であれば、そもそも不安な時に無表情になったりしないだろう。

 声だって、もっとハッキリと出すかも知れない。不安を感じ始めるとすべてにおいて、瀬里奈が発するオーラはマイナスにしか作用していないのだ。

 遊園地で迷子になった時、たくさんの人が自分に背を向けて歩き去る姿を見ていると、そこに父親が足早に歩き去る後姿が見て取れた。

 ただ、その横にいるのは母親ではなく、知らないおばさんであり、さらには瀬里奈と同い年くらいの男の子を連れていた。

 おばさんやその子供は横顔を見せてくれたので、どんな顔なのか分かったが、父親に似たその男性は決してこちらを振り向こうとはしなかった。

 しかし、瀬里奈はその男性が父親であると確信していた。最初に見た時に感じた父親だという感情を抑えることができなかったのだ。

 こんな状態で声を掛けるなど、今までの、いや、それからの瀬里奈にもあり得ないことだったが、意を決したのか、瀬里奈は声を掛けた。

「お父さん」

 声を掛けたというよりも、相手の返事を無視して抱きついたと言ってもいいだろう。

 その男性は無言でこちらを振り向き、その顔を見た時、父親とはまったく似ても似つかぬその顔に、ビックリさせられた。

 その男性はやはり無表情で、何も言わない。他の家族は、

「何よ、この子」

 と言わんばかりに上から目線を浴びせている。

 顔が真っ赤になり、どうしていいのか分からない瀬里奈はそのまま一気に走り去った。

「ごめんなさい」

 と言わなければいけないのだろうが、それ以前であった。

 走り去った瀬里奈は恥ずかしさからなのか、自分の中で整理できない思いが、目いっぱいの後悔をもたらした。その思いが瀬里奈が人の顔を覚えられない原因のすべてを作ったとは言わないが、大きな影響を与えたのは間違いのないことだろう。

 瀬里奈が自分のことを、

「気が弱い」

 と思い始めたのはその頃からだった。

 だが、怖いもの見たさからなのか、ホラーやオカルト系の話には興味があった。

 瀬里奈はまわりからも自分が怖がりだということを知られているという意識があるものだから、ホラーやオカルトに興味があるということを知られたくないという思いが強かった。

 人に知られると、間違いなく冷やかされるかバカにされるかのどちらかである。そんな状態に自分の身を置くことに果たして耐えられるかどうか、瀬里奈には分からなかった。

 分からなかったということは、自分の中で、

「耐えられない」

 と感じているということを意味していると思った。

「疑わしくは罰せず」

 という言葉があるが、瀬里奈はそうではなかった。

 それだけ自分に自信がないということの裏返しになるのだろうが、実際にまわりの視線を意識しているのも事実だった。

 だが、ずっと意識しているわけではない。むしろ意識するのは時々であって、意識している時以外は、まったく気にならない。人に言わせると、

「まわりの目を気にしないと」

 と言われることもあったが、まわりのどんな目を意識すればいいというのか、本人に気になるところがないのに、どう意識すればいいのか、瀬里奈には分かりかねることであった。

 ただでさえ、必要以上にまわりの目が気になる時があるのに、そんな時の精神的な摩耗は半端ではないと思っている。そんな感覚が訪れるのは定期的なことであって、自分の中で、

「病気なのではないだろうか?」

 と感じさせるものでもあった。

 もちろん、病気ではないと思っている。

 しかし、そう思っていることが、そもそも病気なのかも知れない。そう思うと頭の中がループしてしまいそうで、考えること自体、無駄なのではないかと思うのだが、考えないわけにはいかなかった。

 だから、まわりから、

「少しはまわりを気にしなさい」

 と言われても、これ以上どうすればいいのかと思うと、考えること自体をやめてしまいたいと思うことも多かった。

 人の気も知らずに、簡単に人をいさめるような言い方をする人の気が知れなかった。おせっかいにもほどがあり、

「人のことなんだから、放っておいてくれればいいのに」

 と、ありがた迷惑を通り越して、憎しみに変わりそうになるのを、堪えている自分も嫌だった。

 そんなおせっかいな人に限って、自分のことに干渉されるのを嫌う人が多い。彼らのおせっかいな進言を、まともに聞いている人は、

「自分がされて嫌なことだから、相手にもできない」

 とでも思うのか、進言した相手に自分の意見を具申することはできない。

「きっと、何倍にもなって返ってくることになるんだわ」

 と感じるからだ。

 ただでさえ相手の言葉に威圧を感じているのに、さらに何倍にもなって説教が返ってくることに、もはや耐えられるはずもない。

「触らぬ神に祟りなし」

 余計なことは言わない方が賢明なのだ。

 そんな人たちと友達になどなれるはずもない。そう思っていたが、彼らには絶えず、

「取り巻き」

 と言えるような連中を従えていた。

 彼らにとって助言してくれたその人は、神のような存在なのかも知れない。一人で思い悩んでいることを、一言の助言で、

「目からうろこが落ちた」

 と感じる人も多いだろう。

 瀬里奈のように、、人の助言を、

「大きなお世話」

 として考える人もいれば、

「溺れる者は藁をも掴む」

 ということわざもあるが、助言の内容がどんな内容であっても、助言してくれるという行為だけで、救われたと感じる人もいるに違いない。

 助言した人すべてが、その気持ちに付け込んでというわけではないのだろうが、取り巻きのようにまわりに従えているのを見るのは、あまり気持ちのいいものではない。

 ただ、そんな連中がいるのを見ていると、

「世の中人それぞれなんだわ」

 と、いまさらながらに考えさせられるというものだ。

 事実、取り巻きのように従っている連中を見ていると、別に嫌がっているわけでもなさそうだ。その人を本当に信じているのか、それとも助けてもらったことでのお礼のつもりなのか詳細までは分からないが、他人がそのことに対してとやかく言う問題ではないのは確かである。

 そう思うと、いよいよ余計な助言をしてくる人には腹が立ってくる。

「人のことなんだから、放っておいてよ」

 と言いたいが、なかなか口にすることができない。

 それは、まわりの取り巻きを見ていて、

――将来、私も一人ではどうすることもできない問題に直面し、目の前にいるこの人たちに助けを乞うことになるかも知れないわ――

 と思うと、むやみに冷たい態度を取ることを躊躇ってしまうのだった。

 人というのは、

「一寸先は闇」

 である。

 どうしても余計なことを考えてしまう自分がいる。余計なことを考えない方がいいのかも知れないが、考えないでいきなり問題に直面してしまい、後悔するのが怖いと思っているのだ。

 だが、余計なことを考えても、闇である先のことを、予見などできるはずもない。そう思うのに、どうしても余計なことを考えてしまうのは、いわゆるネガティブなのだからであろう。

 余計なことというのは、決まって悪いことばかりである。

 今考えなくてもいいことであったり、今下手に考えてしまうと、後ろ向きになってしまうことで、却ってロクなことがないように思えるにも関わらず、どうしても考えてしまう。やはり後悔したくないという思いが一番強いからなのだろうが、何を持って後悔というのか、瀬里奈にはピンとこなかった。

 おせっかいな人を見ていると、急に、

――これは私にも言えることなのかも知れない――

 と感じることもあった。

 誰かに助言したくてたまらなくなることもある。きっと、

――私なら、こうする――

 というのが、頭の中で映像として見えている時なのだろうが、そんな時の自分が、

「冴えている」

 と感じるわけではなかった。

 ただ、口にしなければ気が済まないだけだった。おせっかいな人も最初は同じ気持ちだったのかも知れない。そして思わず口にしてしまったことが、たまたま相手を助けることになったことで、

「自分には、人に助言できる力がある」

 と思い込ませることになったのだろう。

 だが、そんな結果になるというのは、いくかの偶然が重ならなければ成立しないことではないかと思っている。

 相手が助言を望んでいる人であること、そして相手の考えと自分の考えに共通点があるということ、相手の望んでいる回答が曖昧で、回答したことが、その曖昧な状況に嵌ってしまったということ。それらの偶然が重ならなければ、相手が自分を救ってくれたなどと思うことはないだろう。もちろん、これは瀬里奈の思い込みが強いことに違いないだろうが、人を自分の考えに引き込むことが難しいことは分かっている。

 確かに稀に、考え方が酷似している相手と話が合うこともあるだろうが、まったく同じ考えが存在するわけもなく、相手の違った考えが自分の考えを補ってくれると思っているのであればいいのだが、そのうちに自分の考えを否定するものであると考えると、その関係は一瞬にして瓦解するものではないかと瀬里奈は感じていた。

 要するに同じ考えだと思っている人との関係は、薄い膜のようなもので仕切られているだけで、紙一重のところで一触即発を孕んでいるのかも知れない。そこには表があり裏があり、紙一重であればあるほど、その表裏を感じることが多くなるのではないだろうか。

 瀬里奈は、自分の気の弱さにも表裏があるような気がする。

 もっとも、表裏というのは、突き詰めれば誰にでもあるもので、表に裏を出す出さないだけのことではないかと思えた。決して表情を変えないポーカーフェイスの人でも、必ず裏は潜んでいて。その裏は、えてして表と紙一重なのに違いない。

「長所と短所は紙一重」

 と言われるが、ここでの紙一重というのも、同じようなものではないかと、瀬里奈は考えていた。瀬里奈が感じた、

「サッチャー効果」

 ここにも表裏が存在する。

 上下逆さまということ自体が表裏を示しているのではないか。つまりは、

「表が出ている間に裏も一緒に出ているのが、上から見るか下から見るかで印象が違うサッチャー効果を示している」

 と言えるのではないか。

 瀬里奈はそこまで考えた時、

「表裏のある人は、表か裏か、どちらかだけが表に出ていて、決して同時に表に出ることはない。巧みに使い分けることができるかできないかというだけのことなのかも知れない」

 と感じた。

 表裏を考えていると、結び付いてきたのがサッチャー効果だった。

 サッチャー効果を考えていると、思いつくのは、人の顔を覚えることができないということであった。

 この二つを三段論法的に考えるのであれば、

「表裏を考えることが、自分にとっての人の顔を覚えられないことに繋がるのではないか」

 と思えることだった。

 表裏というものが、そもそも何を基準に表なのか裏なのかということも重要な気がした。表裏が紙一重であるとすれば、どこかに基準があって、そこからどちらが表で、どちらが裏かという発想になる。もし、基準点に自分がいるのだとすれば、表がどっちで裏がどっちなのか、見分けがつくであろうか。今自分のいる場所が表だと思っているから、裏と表が見えるのであって、実際にどっちにいるかなど、誰が判断するというのだろう。そう思うと表と裏の発想に歯止めが利かなくなりそうな気がしてきた。

 そういう観点から、サッチャー効果というのを考えてみると、

「果たして上下逆さまに見ているものが、まったく違って見えることで、それを錯覚だと言えるのだろうか?」

 という思いであった。

 上下逆さまに見た時、まったく別の違ったものに見えるという発想と混乱してしまいそうだが、そのどちらも錯覚でないとするならば、

「サッチャー効果を意識した時点で、自分が表と裏の境界線の上に立っているのではないか」

 という考えも生まれてくるような気がする。

 境界線に立って見ると、表なのか裏なのか、どちらを向いているのか分からなくなるという錯覚は、自分の左右、あるいは前後に鏡を置いてみた時に感じる思いに似ているのではないかと思う。

 前に見えている鏡には、後ろから自分を映している鏡を見ることができる。

 この発想は、ロシアの民芸品である、

「マトリョーシカ人形」

 のようであり、人形の中から人形が出てくるという発想は、何かを考えさせるに十分であった。

 最初にマトリョーシカ人形を見た時、怖いという発想もあったのだが、

「限りなくゼロに近づいているはずなのに」

 と思った。

 少しずつ小さくはなっていくが、決してゼロになることはないという思いは、このマトリョーシカ人形にも鏡を前後に置いた時にも感じられる発想であった。

 また鏡について、もう一つ不思議な感覚がある。

「鏡に写った姿は左右逆なのに、どうして上下が逆になっていないんだ?」

 という発想である。

 このことは誰もが考えたことがあるものであろうが、結論は曖昧だ、

 言えることとしては、

「皆、それぞれに結論を持っているが、それを表現できないだけだ」

 という考え方もある。

 実際には、

「上下が反転していないのだから、左右も反転していない」

 という考えも成り立つ。

 人によっては、

「上下逆さまより、左右逆さまの方が主観的だ」

 という考えもあるが、この考えを元にすれば、サッチャー効果は、

「客観的な視線だ」

 と言えるだろう。

 サッチャー効果を考えるようになってから人の顔を覚えられなくなったのか、それとも人の顔を覚えられないことで、サッチャー効果が気になったのか、あるいは、人の顔を覚えられないことがサッチャー効果から来ているということに気付いたのがその時だったのか、瀬里奈には分かりかねていた。

 しかし、サッチャー効果が何らかの影響を与えていることに間違いはないと思い、鏡を思い浮かべることで、

「限りなくゼロに近い」

 という発想が生まれたことは偶然ではないような気がしているのだった。

 確かに自分の気が弱いことが人の顔を覚えられない一番の原因なのであろうが、だからといって、気の弱さが聡い性格を形成している直接の原因だとは言えないだろう。

 瀬里奈はヲタクなところをエロだけではないと思っているが、グロテスクなところにも興味を持っているからだった。

「エロとグロは、表裏一体」

 という言葉を聞いたことがあったが、それはまるで、

「長所と短所」

 のようではないか。

 しかし、エロとグロが、どちらが長所であり、短所であるかなどという発想は、愚の骨頂だと思っている。

 エロもグロも、どちらも長所であり、短所であると思っている。どちらかが表に出ている時はどちらかが裏に隠れている。そう思うと、必ずどちらかが表に出ているということになるが、それをまわりに気付かせないようにしているという意識はない。

 まわりの人が気付いているのに黙っているだけなのか、それとも、誰も本当に気付いていないのか分からない。だが、瀬里奈としては。気付いてくれている方がいいように感じるのはどうしてであろうか?

「自分のことを分かってもらえる人が多い方がいいに決まっている」

 という先入観のようなものがあるからではないだろうか。

――学校での教科で心理学のような授業があれば、きっともっと勉強に集中していたかも知れないわ――

 と瀬里奈は思った。

 好きな科目は今までに歴史以外に感じたことはない。歴史と言っても日本史が好きなのだが、時代的には明治から昭和くらいまでが好きだった。

 日本が世界に出て行ってからのことなので、日本国内だけのことを勉強していても、その時代背景を理解することはできない。おのずと世界史の知識も必要になってくるのだが、敢えて瀬里奈は世界史を深く勉強しようとは思わなかった。時代背景的に最低限必要な世界史の知識レベルくらいの勉強でいいと思っていたのだ。

 明治の日本でも、西南戦争くらいまではあまり興味がなかった。本当はこのあたりからの歴史が面白いのだろうが、どうしても幕末から続く歴史が瀬里奈はあまり興味を持つことができなかった。朝鮮半島に侵攻するあたりの日本からが、瀬里奈の興味を大いに引いた。

 当時の日本は、まだまだ世界的には弱小国で、一歩間違えれば欧米列強の植民地になっていても不思議ではなかった。

 偶然と地理的な面が大いに影響して、何とか植民地を免れたが、砲艦外交によって締結された不平等条約は如何ともしがたく、日本の外交を苦しめることになる。

 列強からの侵略に備えながら、日本が世界と肩を並べるようになるには、「富国強兵策」が必須だった。

 まずは、朝鮮を開国させ、当時の中国であった清王朝からの解放が最低限の必要条件だった。

 当時の朝鮮は、深刻の属国であり、さらに朝鮮は諸外国から鎖国体制を取っていた。宗主国はなかったが、江戸時代の日本のようである。

 日本もアメリカから砲艦外交で、半ば強制的に開国させられた。今度は日本が朝鮮を同じように開国させる番だった。

 ただ、朝鮮は意外としぶとい、それまでにフランスが開国を迫って侵略を計画したが失敗しているという歴史があった。

 日本は、それでも何とか開国させ、朝鮮を独立国として世界に認めさせようと試みる。朝鮮を属国とみなしている清国にとっては、当然容認できることではない。ただ、当時の清国は列強に食い物にされていて、日本といきなりの戦争をするのは難しかった。

 日本は、朝鮮半島にて開国派の連中にクーデターを持ち掛け、クーデターを理由に戦闘を開始し、居留民保護を名目に進駐することで、それを理由に清国との戦闘を開始する口実を作ろうとした。

 それが日清戦争の始まりだった。

 教科書では、このあたりの歴史は数行でしか表していないだろう。ここで書いたことにしても、人名も書いていなければ、その時代の事件を書いたわけでもないのに、これだけの概要が書けるのだ。それを思えば、歴史の深さがどれだけのものなのか、瀬里奈には分かっていた。

――どうして皆、こんなに面白い歴史を勉強しないのかしら?

 と瀬里奈は思っていた。

 歴史というと、どうしても、

「暗記物の科目」

 という印象が深い。

 確かに歴史的な背景は度返しして、入試などの実践的な教科としては、あくまでも暗記物に違いないだろう。だが、最近では、

「教科書では教えない……」

 という趣旨の本もたくさん売られていて、授業では習わない裏話が豊富なのが歴史という教科だった。

「女の子なのに歴史が好きだなんて、変わってるでしょう?」

 というと、

「そんなことはないんじゃない? 最近では歴史番組とかが教養番組というよりも、バラエティとして放送されることも多いわよ。私は歴史という教科は好きにはなれないけど、そんな番組を見るのは好きだわ」

 と、友達に言われた。

「どうしてなの?」

 と聞くと、

「だって、歴史と思うから難しく感じるのであって、旅番組だと思えば楽しいでしょう? いずれその場所を旅行で訪れたいと思うような番組構成になっているから、見ている方もいずれ行ってみたいと思うのよ。例えば、その場所のご当地グルメだったり、温泉だったり、旅番組だと思えば楽しいものよ」

「そういえば、列車の旅として見ることもできるわよね」

「その通り、しかも、ナビゲーターにはアイドルを使ったりしているから、余計に興味を持つ人も多いんじゃないかしら?」

「そんなものなのね」

 と、瀬里奈は最後はぼかしたような言い方をしたが、友達の言い分には、それなりの説得力を感じた。

 実際に瀬里奈は高校に入ってから、彼女と何度も旅行に出かけた。歴史的な場所には、あまり興味を持っていないようだったが、友達も瀬里奈と一緒だというと、親が旅行の許可を出してくれ、お金も出してくれるということで、瀬里奈はうまく利用されていた。

 瀬里奈の方としても、友達と一緒だというと、自分の親も同じようなもので、中学時代まで友達などほとんどいなかった瀬里奈に友達ができたことを喜んでいるくらいだった。変わり者の親だったが、瀬里奈が友達と一緒だというと、別に反対もしない。

――友達というのも悪くはない――

 と瀬里奈にそう思わせた。

 その友達は名前を、佐藤郁美といい、小学校からずっと一緒だった。

 高校は別々になってしまったが、高校に入ってからでも、二人は学校でできた友達よりもお互いに二人を欲するようになっていて、

「別々の学校になったことで、却って仲が良くなったような気がするわね」

 と言って笑いあえるような仲になっていたのだ。

 瀬里奈が自分のこと変わっていて、不思議な発想を持っているということを郁美も分かっていた。

 郁美も似たような考えを持っているようで、特に鏡やサッチャー効果の話などに興味を持っていた。

「人の顔が覚えられないということをそういう風に考えられたら、理屈にも適っているような気がするわ」

 と、郁美は言っていた。

「郁美も人の顔が覚えられないの?」

 と瀬里奈が聞くと、

「そんなことはないわ。でも確かにあなたと言う通り、人に声を掛ける時は、どうしても躊躇してしまうわ。間違ったらどうしようってね。でも、それで声を掛けないことはない。声を掛けなかったことで、後悔したくないからね」

「後悔?」

「ええ。もし相手が自分に気付いていて、それで私が声を掛けなかったとしたら、その人はどう思う? 無視されたって思うんじゃないかしら?」

「確かにそうね」

 それくらいのことは瀬里奈にも分かっているつもりであったが、郁美に言われると、それなりの説得力を感じる。

「でしょう?」

 瀬里奈は、郁美が有頂天になっているのが分かったが、だからと言ってその気持ちを否定はしない。むしろ、気持ちを大切にしたいくらいだった。

 郁美と知り合ったのは、偶然であった。郁美は瀬里奈と家が同じ方向であったが、会ったことはなかった。学校が同じでも、友達グループが違えば、なかなか会うこともないものだと、知り合った時に感じたものだった。

 だから、中学時代までは同じクラスになっても意識することはなかったのだが、高校になってから、偶然同じ電車になったのだ。

 同じ電車になったのも偶然だったのだが、同じ車両で、席がちょうど空いていたところにお互い意識することなく座ったのだ。

 瀬里奈が先に気が付いた。

「ひょっとして、佐藤さんじゃないですか?」

 と言われた郁美はドキッとした様子で瀬里奈を見て、瀬里奈がこれでもかと見開いた目で見つめてきたことにビックリしたのだった。

「え、ええ」

 と圧倒された郁美は答えたが、相手がたじろいでいるのを見て我に返ったのか、自分が威圧していることに気付いた瀬里奈は、それでも引き返せないところに自分がいることを自覚したのか、さらにまくし立てるように話した。

 話をすると、最初は遠慮なのか、躊躇して話をしていたが、まくし立てるようになると、話に夢中になり、時間があっという間だったような気がする。

「こんなに時間があっという間だったことってなかったわ」

 と、瀬里奈がいうと、

「そう、そうなのよ。私も同じことを思ってたの」

 相手に共鳴されることがこれほど嬉しいことだとは思わなかった。

 偶然会った相手と話になって、盛り上がった話の中で、さらに同じことを考えていたなどというと、まるで運命のように感じたとしても不思議ではないだろう。

 話題性などほとんどないと思っていた瀬里奈は、普段から考えていることを自分の中で封印していたことをいまさらながらに、思い知らされた。自分の考えていることは人と話をする内容ではなく、自分に言い聞かせるような、納得させる内容ではにないかと思っていた。

 郁美の方も、

「今まで人と話をすることなかったので、偶然に感謝ですね」

 と言ってくれた。

 郁美が偶然だと思っていることも嬉しかった。お互いに人を避けているわけではないのだが、人と話す機会を持つこともなく、つまりは積極的ではない二人が、絵に描いたような偶然の中で仲良くなるのは必然なのではないかと、瀬里奈は感じたのだ。

 郁美は瀬里奈と違って、あまり細かいことを気にしない方だと思っていた。しかし話をしてみると、鋭いところをついてくる。

 郁美は瀬里奈と歴史の話もしてくれる。元々歴史は好きではなかった郁美だったが、瀬里奈の話に興味を持ってくれたのか、話をしてみると瀬里奈が考えていなかったような話がポンポン出てくることで、瀬里奈にも目からうろこが落ちたような気がした。

「やっぱり、人と話をしないと思いつかないことも多いわね」

 と瀬里奈がいうと、

「それはきっと、あなたの顔が相手に答えを求めているところから、相手が考えるからなんじゃないかって思うんですよ」

「郁美もそうだったの?」

「ええ、そうでしたよ。でも悪い意味なんかじゃなくって、私も普段感じないような発想を思い浮かべられることは嬉しいことです」

 瀬里奈の本心だった。

 瀬里奈が郁美と奇妙な話をし始めたのは、歴史の話が飽和状態になりかかった時だった。瀬里奈の方は怖い話に興味があるようで、瀬里奈の方はオカルトっぽい話は得意でホラーは苦手だったのだが、そんな瀬里奈に話を合わせてくれたようだった。

 しかし、郁美と話をしていると、怖いと思っていたホラーの話も、違った目線から見ることができるようで、さほど怖いとは思えなくなった。

「私は、妖怪やお化け関係でなければ、怖い話でも大丈夫な気がするの」

 と瀬里奈がいうと、

「それは、瀬里奈が怖がっているのは、怖い話が怖いから、怖い話をしたくないんじゃないかなって思うの」

「どういうこと?」

「要するに、本当に怖いと思っていないということなんじゃないかって思うの。本当に怖いと思っているんだったら、お化けや妖怪にこだわることはないって感じたんだけど、それって私だけなのかしら?」

 という郁美に対して、

「私は怖い話をしたくないということをいうと、誰もしてこなくなるので、それ以上を感じたことがないから、よく分からないの。確かに今郁美に言われたように中途半端な怖さを想像したことがなかったような気がするわ」

 というと、

「やっぱり、瀬里奈は素直で真正面を見る性格なのかも知れないわね」

 その言葉を聞いた時、素直に喜んでいいのか迷ったが、相手が郁美であれば、彼女の言葉に少々の皮肉が含まれているとしても、他意はないと思えた。

 郁美から言われた、

「素直な真正面を見る」

 と言われた時、感じた思いは、

「鏡を前後に置いた時の発想」

 であった。

 真正面だけを素直に見ているつもりだが、瞼に写っているものが何なのか、瀬里奈は考えた。

――どんどん小さくなっていく私なのかしら?

 と、話をしていても、発想は結局自分の中でいつも感じている発想に行きつくのだった。

「私ね。以前、瀬里奈と似た人をどこかで見たことがあったような気がするのよ」

 と、ある時郁美に言われてビックリした。

 相手は郁美というわけではなかったが、瀬里奈にも以前に似たような経験をしたことがあった。

「それはいつ頃のことだったの?」

「それがハッキリと思い出せないんだけど、今から思えば、瀬里奈と別々の高校になって、しばらく会っていなかった頃だったように思うの。でも私の意識としてはもっと昔のことだったような気がするのね」

 と郁美は言った。

「でも、そのことを今思い出すというのは、それも不思議なことよね?」

「ええ、あれから瀬里奈と話す機会は確かに何度もあったので、その時に言えばよかったんだって今思うんだけど、瀬里奈と一緒にいると、その話をしようと思っていたことを忘れていたのかも知れないわね」

「ということは、私と一緒にいない時には意識していて、私と一緒にいると、忘れてしまうということになるのかしら?」

「一概にそうだって言えないと思うんだけど、ある程度そんな雰囲気なのかも知れないわね」

「私に似た人って、顔が似ていたということなの?」

「そうじゃないと思うの。実際にはその顔をハッキリと覚えているわけではないんだけど、似ていたという印象はないの。だから、似ていると感じたとすれば、雰囲気だったのかも知れないわ」

「私は人の顔を覚えるのが苦手なので、覚えていないというのは分かる気がするわ。私の場合は覚えていないといけないと思えば思うほど、覚えられないのよ」

 と瀬里奈は言った。

「私は、覚えておかなければいけないという意識を持ったことはないのよ。忘れてしまいようだっていう意識もなかったの。瀬里奈の場合は覚えておかなければいけないと思い込みすぎるんじゃないの?」

 と郁美に言われたが、

「そうかも知れないんだけど、覚えないといけないと思わなかったとしても、きっと覚えていないと思うわ」

 と瀬里奈は答えた。

「瀬里奈の場合は、誰かと間違えたら恥ずかしいという思いがあるのかも知れないわね」

 と言われて、絵里奈はビックリした。

「ええ、その通りなの。実際に子供の頃、相手は大人の人だったんだけど、自分では覚えていると思っていた相手を、まったく別人と勘違いしたことがあったのよ。その人に声を掛けて、相手がキョトンとした表情を見た時、初めて自分のまったく見覚えのない人だって気付いたのよ。言われて初めて気づいたということに恥ずかしさを感じたんじゃないかしら」

 と言ったが、

「それより、そのものズバリ、間違えたことに恥ずかしいと感じたんだって私は思うわ」

 と郁美に言われて、瀬里奈は少しムッとした気分になった。

――人にわざわざ言われるまでもないわ――

 と感じたからである。

 しかし、分かっていることとはいえ、面と向かって指摘されると、自分で考えていたよりも、さらに恥辱を感じるもので、顔が真っ赤になっているのを感じた。

――分かっていたはずなのに――

 と思うが、そう思った自分が相手の言葉に振り回せれテイルと感じると、よけいに腹が立ってくるのであった。

 歯にモノを着せぬ言い方をする郁美のことを、

――自分に近いところがある――

 と思って、親近感を感じていたはずなのに、なぜいまさら腹を立てる必要があるのか、瀬里奈は自分にいら立っていた。腹を立てたのは郁美に対してではなく、自分に対してだったのだ。

 そのものズバリを指摘されることがこれほどきついことだとは思っていなかった瀬里奈だったが、だからと言って、相手を忖度し、言葉を濁すようなことはしたいと思わなかった。

――後で分かったら、さらに怒りが増してくるような気がする――

 と感じているからだった。

 やはり、直接的に言われることは覚悟のいることであるが、それだけに、言われる相手が信頼のおける相手でなければいけない。瀬里奈が友達として選別するとすれば、そんな相手でなければいけないと思っている。

「お互いに思ったことが言える相手」

 それが、瀬里奈の友達に対しての条件だったのだ。

 だから、瀬里奈は友達が少なかった。小学生の頃は、ほとんど友達がいなかった。小学生の頃は、中学に入ってからよりも、たくさんの人が友達になろうとして近寄ってくれた。もちろん相手がどんな人なのか分からないこともあったからなのだろうが、瀬里奈と友達になろうという奇特な人は、そんなにいなかった。

 きっと何を考えているのか分からないというのが一番の理由だったのだろう。瀬里奈も自分のことを棚に上げて、まわりの人と共鳴しようという気持ちにはなれなかった。誰かと友達になろうとするのであれば、正直に自分を表に出して、それでも友達になってくれる人でなければいけないということは分かっていた。

 小学生低学年の頃から、言いたいことは何でも言っていたような気がする。もっともそれくらいの

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