第3話 エアポケット



 ***



「おはよう」

「おはようございます」

「おはようございます。ユウヒお姉さま」

「おはようございます。シエンお姉さま」


 あちらこちらから、ユウヒ達に挨拶がかかる。ユウヒもシエンも、不必要に愛想笑いなどはしない。「おはよう」と手短な挨拶を返すに留めて足早に廊下をゆく。


 揺れる白いプリーツスカート。

 緑、臙脂えんじ、黄色のタイ。

 色分けされたタイムリミット。


 白玉女学院は付属校だから、自分達も彼女等も、その先はほぼエスカレーター式で上の大学に進学する。モラトリアムのさらに手前。ささやかな焦りと自由と不安。そう言ったものが内臓のひとつとして自分達を生かしている。


 乙女たちの朝のざわめきは始業までのささやかなエアポケットだ。きゃあきゃあと頬を染める彼女らの目に映る自分は、自分達は、結局のところ疑似的な憧れの排出先にすぎない。自分はそういった役回りだと、それだけの話しなのだ。


 ふと、視線の先にちらついた鮮やかな黄緑色に目を向けた。


「おはよう」


 アルトの美しい声。すらりとした高身長を黄緑色のパンツスーツに包んだ担任はその長い黒髪を背後でひとつに束ねている。彼女からふわりと漂ったのは柑橘の香だ。


「おはようございます、ヨモツ先生」


 ユウヒが立ち止まり頭を下げると同時に、シエンも脚を止めた。


「おはようございます先生」

「おはよう」


 その柔和な目許を細めつつ、ヨモツはたおやかな仕草で小首をかしげた。

 ユウヒはちらとシエンへ視線を向ける。ヨモツを見るシエンの表情は硬く、また真顔だ。ヨモツはユウヒの担任であると同時に、シエンの部の顧問でもある。剣道の防具は身体に匂いが残りやすい。それでシエンも香水を使うようになった。ヨモツを真似たものだと知っている。


 それが、少しだけユウヒの心をざわめかせる。


 シエンはその凄烈で清らかな心を、無表情の下に隠している。だが、竹刀を振っている間はその激烈な本性を露わにする。彼女の打ち込みを迎え入れ、真っ向から指導するヨモツにしか知り得ないシエンがいる。


 ユウヒが知る事のない、ユウヒに向けられる事のない苛烈な激しさ。それをこの教師だけは知っている。

 きっとそれがこの胸の騒めきの正体なのだろう。


「ちょうど良かったソガさん。文化祭の模擬店に使う造花がさっき届いたのよ。悪いけど運ぶの手伝って」


 ここでいうソガさんは、ユウヒの方だ。


「わかりました」

「部長は今日武道場にちょっと早めにきて。一年の事で話があるから」

「はい」

「いきましょ」


 くるりときびすを返すヨモツは、ユウヒが後からついてくる事をなんら疑いもしない速さで先へと進んでゆく。遅れを取らないように一歩を踏み出したユウヒの手首に、くっと圧がかかった。

 見ればシエンが袖口をつまんでいる。


「どうしたの」


 何かを言いたげに揺れるシエンの瞳の底に、泳いでいたのは不安か。

 苦し気な瞬きのあと、義妹は微かに首を横に振った。


「何もない。ごめん、行って」


 離れた指先、消えた圧。

 ユウヒの中にまた一つ騒めきが生まれる。でもそれはエアポケットの喧噪けんそうまぎれてしまうほどかすかだったから、おいて行かれないように黄緑のスーツの背中を追いかけてしまった。


 シエンの影をその場に残して。




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