第3話 月夜の白狼
ここは『星の右手』、小指の辺りだと地図で読み取れる。地上からその瓦礫の山を見ていると、すぐそこが上空からでは小指に見える、というのがどうにも信じられない。
お父さん達が目指したのはこの上、遙か遠くにある『天界』。このすぐ上にあるらしい。地上からではどんなに晴れていても見えない、不思議な所だけれど。
すっかり暗くなってしまったので、私達は手頃な所でキャンプを開いたのだった。ミリルさんが持って来た魔導具によって灯りは万全。夜でもそれなりに見通せるくらいに明るい。
「ほら、スープが出来た。その、ロップにも飲ませたまえ」
「有り難う御座います。ミリルさん」
カップを受け取ると暖かさが手に伝わってくる…?まったく熱くない。不思議に思っているとミリルさんが私の様子を見て笑い出した。
「あはははは!いい反応をするねぇレストくんは。湯気が出てるのに全然熱くないだろう?」
「はい。確かに熱そうなのに…」
これも古代技術…なのだろうか。あの暖かさも、それはそれでいいものなんだけどな。という失礼な事を考えながら、息を吹きかけて冷ます。
空には満月が昇り、崩れ落ちた塔を明るく照らしている。じっと見つめているとペスケが気付いたようで話しかけて来た。
「あれはいにしえに空を突き抜けて伸びていたらしい。星の外、つまり宇宙だな」
「宇宙…。話だけでしか聞かないから、よく分からないな」
お父さんから話を聞いた事がある。この星の外には宇宙という物が広がっていて、そこにはここにまで光は届かないけれど無数の星があるらしい。
自分で見た事がないから、どうにも信じられない。私の悪い所だ、私はそれを見たいと思っている。冒険の話を聞く度に思う。私も、見てみたい。お父さんは宇宙に行った訳じゃないんだけど、本当にあるのなら見たい。きっと、そんな所があるからベクルも冒険の話をしてくれないんだろう。
「それを専門にした研究施設も発見されている。私の持論ではだな…同じ様な星が他にも存在している!」
「なにそれ。こういう星がこの外にもあるっていうの?」
「そうだ!調べれば調べるほど面白いぞー!そこには条件が違う気候、天体、生命…!資料を置いてきたのが惜しいくらいに証拠があるんだ!」
「まともに相手しない方がいいよレスティ。分かってると思うけどこいつ頭がさ…」
ベクルは自分の頭を指差してぐりぐりと動かした。話としては面白い、からいくらでも聞きたい所ではある。
「ノーエルくんが認めている様に私も君の事は…まぁ認めてる部分もあるのだが、未確定の情報を吐き出しても…」
「いやいや!私からしたら確定と言っても差し支えないよ!月が二つある星、どこまで行っても常夏の星、そして何より竜のいる星!」
竜に関してはお伽噺として読んだ事はある。『カントリーヒル』の南西に大きな山として『霊峰ドラゴニア』が存在する。あそこには幾つもの竜に関する話があるけれど未だにその存在は確認されていない。現れたらこの星が滅ぶ、みたいな話も幾つかあるくらいだからいないほうがいい、っていうのは私の意見だ。
「話を聞くだけならいいんじゃない?夜が明けるまでの時間つぶしにはなるよ」
「レスト!話の分かる女だな!ベック~?お前もちょっとは人の話を聞いた方がいい!」
「…呼び方にムカついたのとお前が言うなっていうので二つムカついた」
ベクルはすっくと立ち上がると『フラムベルク』に手をかけた。慌てて目の前に立って制止する。必死に笑顔を作って無言でたしなめると、溜息を一つ吐いたあとに座り直した。
「あはは!悪かったな。私にはそんな呼び方させてくれなかったからちょっとしたヤキモチだ!たまには可愛げのある所もあるだろ?」
「ぜんっぜん。強いて言うなら一言も発さないでいてくれると可愛いかな」
二人の間に流れる空気は余りにも険悪だ。本当に前に組んでたのか疑問になるくらい。でも喧嘩するほど仲が良い、っていう事もあるかもしれない。私には見せない表情をいくつも見せてるし、そういう意味ではいい友達なんだろう。
「そうだ!なら『勇気』についてもうちょっと話して貰えないかな?ミリルさんの見解も聞きたいし」
ペスケはちょっと考えた後にミリルさんに視線を移した。余り詳しくないのだろうか。ミリルさんも少し考えた後に絞り出すように声を出した。
「…申し訳ないんだが、余りにも参考になる記録がないんだ。本当にそういう『現象』が存在するらしい、それまでしか…」
「そもそも『勇気』を受けた相手っていうのはことごとく死んじまってる。何せその相手は大概『魔王』だ。そしたら『勇気』について受けた感想なんて聞けますか?っていう話だよ。私からしたら勇者を美化する為に作家が作ったでっち上げじゃないかって思ってる」
おかしくはない話だ。そんな力があれば誰もが勇者に憧れる。全てを止める力、それがあればどんな『魔王』にだって勝ててしまう。そこにどれだけの実力差があろうとも。
創作だとしたら分かりやすい話だ。弱かった名も無き勇者が、何故か世界を滅ぼす魔王を決戦で倒してしまう。そういう『現象』があれば強くなる過程もいらない。
「私は確かに見たよ。あれはきっと『勇気』だ。レスティの力だよ」
「見る事が出来るのなら納得するさ。ベクルがそう信じる事のようにな。その『現象』には間違いなく力がある」
ただの薬草摘みの女が、勇者になれる。本当に存在するのなら…。私としては信じたいのだろうか。
信じれば旅立てる。信じなければこのままだ。私は、旅立てるのなら旅立ちたい。この星は死に行く定めらしい、それなら、この星を隅々まで見て知りたい、この星がどれだけ素晴らしい命を持っていたのかを。私の世界は『カントリーヒル』の中だけだ。あの小さな家と薬草摘みの草原だけ。もっと他に、この星にはいっぱいあるんだ。皆が知ってるから、私も知りたい。
肩に乗ったロップが顔を突き出す。そういえばスープは冷めただろうか、まだほんのりと湯気を出している。静かに口を付けると熱さが唇を刺激する。まだこの子には早いみたいだ。
「そういえばリオンさんは?辺りを見張ってくれてるんだよね?」
女だらけで居づらさを感じてしまったのか、少し離れた所で魔物が近づかないか見張っているはずだったのだが、夜陰の中に呑まれたのか見当たらない。一人でも大丈夫な人ではあるけれど、ちょっと心配になった。
ミリルさんは鞄から双眼鏡のような魔導具を取り出すと、覗き込んで辺りを見回した。
「彼ならあそこだ。どうやら塔を見ているらしい」
指差した先にはほんの少しだけ明かりが見えた。『星の右手』の小指、その瓦礫の上にいるみたいだ。
「あぁ、軌道エレベーターね」
「ペスケ。その呼び方で通じるのあんただけだよ」
「私、ちょっと行ってこようかな」
幸いにも近くの瓦礫から足をかければ小指の上に乗れそうだ。彼は一人だし、満月の明かりの下とはいえ寂しいに違いない。一歩踏み出そうとすると私の手をベクルが掴んだ。
「一人だと危ないわ。私も行く、ミリルさん。これ借りても?」
「ああ、構わないさ」
煌々と光りを発するカンテラの様な魔導具を片手に、ベクルが後をついてくれる事になった。でも、このままだと。
「…うん?私とペスケくんの二人になるのか!?」
「あぁ~っ。えぇ~っと。ロップ。一緒にいてあげて」
ベクルが空いた片手でロップを持ち上げるとミリルさんに渡した。両手で大事そうに小さなロップを抱えている。小動物みたいで可愛い。
「…その兎。気になるな…。なんで時計を巻かれて嫌がってないんだ?」
「言っとくけど。酷い事したら刺すからね」
「おぉ怖い。『心眼の剣聖』サマの刺す宣言は本気だな?分かった分かった。観察だけにしておくよ」
「な、なるべく!早く帰ってきてくれ…!」
不安を与えないよう笑顔でその場を後にするとゆっくりと瓦礫の山を登り始めた。
金属だらけの瓦礫の山は意外と安定感があり、足を滑らせるような事が無かった。小指の腹まで登りつめると月がほんの少しだけ大きく見えたような気がした。そこから明かりへ向かって歩を進めると、途中で気付いたのかその明かりはこちらに近づいてきた。
お互いの顔が見えるくらいに近くなるとリオンは驚いた表情で早足になった。私が来るとは思ってなかったみたいだ。
「レストさん!どうしてこんな所に…」
「一人じゃ寂しいでしょ?ほら、これ」
私はまだ持っていたスープを差し出した。不思議だが、まだ湯気が立ち上っている。ここまでは計算の内だ、暖かい物を飲めば寂しさも紛れる。頑張っているリオンに少しでも何かしてあげたかった。
「え?いいんですか。貰えるのなら貰いますけど…」
「レスティ…。優しいのはいいんだけど、その。さ…」
ベクルは何か言い淀んでいた。まずい事をしただろうか、少なくとも味は大丈夫なはず。受け取ったリオンは息を何回か吹きかけると静かに口を付けた。
「おぉ…、暖かい。美味しいですね!」
「良かった!一杯だけしか渡せないのが残念だけど…」
「いえいえ、僕にはこの一杯で十分です!」
何故かベクルはそっぽを向いてしまった。それとも後ろを見張ってくれているのだろうか。
「私は言わないからね。何か認めた感じになるから」
「…何を?え?僕、飲んだら駄目だったんでしょうか…?」
強いて言うのなら、私が飲んだものを出したのがまずかったかもしれない。他人が口を付けたものを嫌がる人もいるだろう。そういう事を考えていなかった私の短慮だ。でもベクルはそういう事を気にしてなかったはずだけど。普段家で過ごしている時は気にしてなかったし…。
小指の腹に腰掛けて、私は空を見上げた。さっきのペスケの話からするとこの星空のどこかに同じ様な星があるらしい。だとしたら、同じ星空を見ているのだろうか。
「私ね…。こんな弱く生まれちゃったから、もしそうじゃなかったら、って考える事があるの」
もしそうじゃなかったら。兄さんのように強かったら。…それほどじゃなくっても。剣を振るい、魔法を操り、誰も見た事がない場所に足を運べるのだとしたら。何度も考えた。大袈裟に勇者じゃなくったっていい、一人の冒険者になれたのなら、私はいいな、って思った。
「リオンさんはどう思う?もし自分が弱かったら、って」
困った様に視線を落とした。いじわるな質問だったかもしれない、でも聞きたかった。兄さんには絶対、こんな事聞けなかったから。
「そう、ですね…。僕は…僕はそれでも、魔法を極めようとしてたと思います」
「へぇ。そんな求道者みたいに見えなかったけど」
「ベクルさんや他の人からはそうでしょう。でも、惹かれる物があったからこそこの道にいるんです」
「その惹かれる物は、才能があったから。じゃなくって?」
自分はこれでなら輝けるから、誰かにすごいと褒められたから、それは立派な才能だ。まず、その下地がないとその道には入らない。きっとリオンもそうだったはずだ。魔法を使って、誰かに認められて、だからこれが輝いてるって思った。皆そうやって自分の才能を伸ばしていく。私がそうだったから。
私が褒められたのは名も無き花を見つけたから。それは他人からしたら才能じゃないって言われるかもしれない。それでも、それしか。それしかなかったから。私にはそれしかなかったから薬草摘みをしていた。ずっと大好きな花に囲まれて、ずっと褒められた事をしていた。
「う…えっと…。そう、かもしれないです…」
「その才能すらなかったら、どうしてたんだろう」
私があの時、見つけてなかったら。それすらもなかったら。皆にあって私には無い物が多すぎて、そんな事ばかり考えてしまう。悪い癖だ、そう思う。でも気になってしまった。たったそれだけ。
「…一つ言えるのは、それでも、僕はレストさんを好きになってましたよ」
ハッとした。まるで今考えてる事を見透かされたみたいで、びっくりした。
「運命とか…そういう言葉で片付けるのもよくないかもしれませんが。とにかく!僕はあなたに惹かれたんです!こう…重力…違うな…」
「もし自分が弱かったら、の話だろ。なに勝手に口説き始めてんの」
「あっ!そうでした!うぅ…なんかおかしいな…」
でも嬉しかった。きっともし、私に何にも無い村娘でも追いかけてくれる気がして。良い人だ。本当に、私には勿体ない。
「ううん。嬉しかったから、別にいいよ。私もリオンさんの事好きだよ」
「ぶえへぇ!?あっ、あえいっ?あっ、あー…。いあ…」
顔を真っ赤にして狼狽える。可愛い人だ、思わず足を滑らせて落ちそうになるくらい動揺している。
「本気にするなよー。レスティは誰にでもそういう事言うんだから」
「そうかな?確かにベックにも何回も言ったけど」
「いえ!一回でも言って貰った事に意味があるんです!!」
ふと、風が流れた。空に浮かぶ雲が月を隠して辺りが暗くなる。なんだろう、何かを感じて空を見上げてしまった。その先には確か、何かがあるから。
『天界』だ。一瞬だけ、見えた気がする。このうえ遙か上空に存在すると言われている人工の島。その島の緑がほんの一瞬だけ見えた。
「えっ…?」
思わず零れた声にベクルとリオンも同じ方角を見る。そうすると、同じ様な声が聞こえた。
「うそ…」
「えっ?あれって…?」
『天界』の観測は直接その上空に行く事でしか果たされていなかったはずだ。地上から見えた事は一度だってない。何故そうなっているのかはそうだから、としか言い様が無い。仕組みがあるのはわかっているけれど、その仕組みはわからないのだ。
その『天界』が地上から見えた。これが何を意味するのかはわからない。何故見えているのか、さっきまで見えなかった。この一瞬だけだとしても何か意味があるはずだ。汗が頬をつたるのが分かる。怖い、恐怖心を感じている。何故なのかは分からない。分からないから怖いのだ、今、何が起きているのか分からない。
月に照らされた、星が一つ、落ちてくる。目の中に入っている、私の瞳の内に入ってくる。
あれは、なんだ?
強い衝撃が私を襲う。何かが落ちてきた。まるでもう一つの月みたいな、何かが。ベクルが『フラムベルク』を抜いて、私を庇うようにして立っていた。鳴き声が聞こえる、獣の声。まさか、そんな。
なんとか目を開けると、そこには真っ白な体毛の三つの尾を持つ獣がいた。その尾の一つ一つが刃のように鋭い、見ただけで分かる、魔物だ。
「リオン!あんたはレスティを守って!」
「え?あっ、はい!!『結界式』!!」
私の周りに薄い魔力の壁が現れる。魔物は姿勢を低くしてこちらを睨んでいる。威嚇しているだけなのか、こちらの隙を窺っているのか。ベクルは既に構えている。
動いた、と分かった時には火花が散っていた。ベクルが相手の尻尾を弾いたらしい。あの尻尾は伸縮するものらしく、弾かれたあと縮んで行くのが見えた。
そうだ、『勇気』。今ここで試さなくてどうするんだ。私は『天光斬月』に手をかけた。
駄目、怖い。目の前の魔物の存在が分からなくて怖い。今までの魔物とは何かが違う。格が違う、私とははっきりと。そんなのは分かっている。今まで魔物と録に戦った事なんてないんだ。どんなに弱いと言われている魔物でも私はいつも勝てる気がしなかった。しかし、こいつは違う。それよりも圧倒的に上なんだ。結界越しの空気でもそれを感じ取れるくらいに。
ベクルが一歩、踏み込んだ。私には見えないけど一合、打ち合っている。まだ彼女も相手の力量を探っている。それほどの相手なんだ。
「こいつ…!まさかとは思うけど『天界』から降って来たのか!?」
「魔物がいなかった…。とは言われてません。とにかく注意してください!」
あの超高高度から落ちてきて無傷な事も驚きだが、何よりベクルと打ち合える相手なのが脅威だ。そんな相手はそうそういない。
空を見上げた。何かが見えたから。空には星が降っていた。
まさか。そう思った。だって、今日は流星群の日でも、なんでもなくって。もしかして、って。
思わず膝から崩れ落ちると、リオンがそれに気付いたようで空を見上げた。私と同じ様に顔を青ざめた。
「なっ…!嘘だ…!そんな事って…!」
「目の前の一体を仕留める!!」
ベクルが二歩、踏み込んだ。その間に火花が一つ二つ三つ、弾けた。そこまで近づけばもう、彼女の距離だ。
「『インビシブル・ワン』!!」
彼女が真っ直ぐに突きだした剣は、明らかに届いていないのに魔物の頭を正確に突き刺した。血飛沫も飛ばないくらいに一瞬に、その刀身に一切の血痕を残さずに突き飛ばした。その技一つで『剣聖』の名を得たといわれるくらい見事な技だ。
魔物は一度、頭を動かした後に力尽きて倒れた。しばらくしてからようやく血が流れていく。確実に倒せたようだ。
「ふぅ…。違ったらどうしようと思ったけど、頭で正解だったみたい」
「いやいや!どうしますか!?こんなのがいっぱい…!」
「焦らないで。私とノーエルがいれば対処可能よ、リオンでも時間を稼ぐくらいは出来るでしょ」
逆に言えば、時間稼ぎにしかならない、という事だろうか。だとしたら、置いてきたミリルさん達は…。
ハッとしてさっきまでのキャンプ地に眼を移す。もう灯りがない、移動を始めているのだろうか。何かが駆け寄って来る足音が聞こえる。
「ベクルー!こっちこっち!!」
ペスケが走りながら手を振っている。ミリルさんも泣きそうになりながらロップを抱え走っている。
その時、瓦礫の突起に躓いてミリルさんが転んだ。
瞬間、影が覆った。三つの尾を持つ、魔物の影。
――「ガキィン!」
『デスサイズ』が三つの尾の同時攻撃を一身に引き受けている。大斧であるからこそ、でなければ一本でもその攻撃を避けていたのならペスケの体は切り裂かれていただろう。
「私じゃ楽に倒せないからさー!何とかしてくれよ!」
ベクルは頭に手を当てて溜息を吐いた。余裕ぶっているがペスケも楽じゃないはずだ。
一歩、動いただけでその魔物は瞬時に身を引いた。近くにいる死体を見て、実力を察したのだろうか。ベクルが構えたのをはっきりと見てから動いた気がした。
「あんたはもうちょっと強い敵と戦うって事しないと強くなれないよ」
「え?やだよ。全力で戦うなんて疲れるし」
自分が狙われなくなったのを察すると、ペスケは『デスサイズ』を背負ってさり気なく後退した。ミリルさんを助けおこしているのは良い事だけれど、一緒に戦う、という事はもう頭にないようだ。
「狼…、三尾白狼というとこか。確か古代の記録にもあったな!絶滅したと記録されていたが…!」
「知ってるんですか?ミリルさん」
「気を付けろ!確かそいつは…!」
その言葉よりも早く、魔物が動いた。まさか先に攻めてくるなんて、でもベクルなら。そう思った。
一合、打ち合う音が聞こえるとベクルがよろめいた。見えなかった、何があった?
ベクルの服、腕の部分に切り裂かれた痕があった。仄かに血が滲んでいる、軽症のようだけど、一太刀浴びせるなんて。
「滑った…。打ち合ったとき、あいつの尻尾が…」
どうやら打ち合った瞬間、尾を滑らせて伸ばしたらしい。深手になる前にはじき返したようだ。
「やつは水の魔力を得意とする。『天界』の水場に棲息していたとされる魔物だ!」
ぽとり、とベクルの剣から水滴が垂れる。暗闇でハッキリとは見えないが相手の尻尾は濡れているようだ。また打ち合うと明らかに不利だ。
「分かった。なら、こうすればいい」
ベクルは駆け出した、距離を詰めるのは不利だ、そう思ったけど彼女の考えは違うみたいだ。
魔物の尾が動く、一本、動いたように見えたがそれは気付いた瞬間に宙に浮かんでいた。見えなかったけど突き飛ばした?
もう一本、動いた。ベクルが剣を持って無い方向から、また突き飛ばすには距離がある。体を回転させながら『フラムベルク』で受け流すと、もう彼女の距離だ。
受け流す最中に彼女の構えは完成していた。滑らせて差し込む前にベクルの突きが魔物の頭を貫いた。
今度はぱたりと倒れて動かなくなった。
「…ふぅ。まだ動けるね、これなら何とかなるかも」
汗を拭うと『フラムベルク』を収めた。どうやら近くにはもういない、と判断したらしい。
「なるほど…。打ち合うよりも早く斬り飛ばせばいいと!『剣聖』サマじゃないと考えつかない荒業だな!」
「ベック、大丈夫?怪我してる…」
思わず近寄った。深手ではない事は見て分かるのだが心配だ、彼女が怪我する所を初めて…いや、見るのは二回目だった。
私は鞄の中にある薬草を取り出した。いつも、自分の為に持っている物だけど他人の為に使う時が来た。簡単だけど、これで処置しないと。
「あはは。そんな心配しないでレスティ。こんなの傷の内に入らないよ」
「それにしても、一体なんなんでしょう?突然、空から魔物が降ってくるなんて」
リオンはまだ辺りを見回している。あの様子からすると、降って来たのは一体や二体じゃない。もっといっぱい、いるはずだ。何の目的かも分からないが、警戒しておくに越した事は無い。
「何かの前触れ…としか言い様がないな。それこそ、予言書に記されていた…」
「永遠の黄昏が訪れて星が死ぬ?うーん…黄昏、ってのが比喩だとすると魔物で星が満たされる事を予言した?」
ペスケはどうも納得がいってないようだ。自分で言って自分で納得してないみたい。
「だとすると、『天界』に滅びを止める鍵があるのに繋がるな。あいつらは『天界』から降って来た」
「いやいや、予言書には『天界』に行け程度にしか書かれてないだろ?だったらなんだ、そこで魔物退治するのが私らの仕事か?」
「そうなるな。いや、それだと星が死ぬ…の表現が大袈裟に感じる。魔物は星の魔力から生まれたという説もあるから、星の魔力を吸い尽くして…」
「おいおい。自然はまだ枯れちゃいない。前兆として大地が死んでないとおかしい。不作の報告はまだどこからも来てないし…」
「うむ。これから来る可能性もありうる、だた一つ確定したのは『天界』に何かがあり、何かが起こった事は確実だ」
二人は真剣な表情で議論している。ついさっきまで怯えていたのに専門の話になるとミリルさんも饒舌だ。背筋を伸ばしてしっかりとペスケと向き合っている。見た目は幼いのにこういう所に年長者としての風格を感じさせる。
転んだ拍子に投げ出されたのか、ロップがいつの間にか足元にいた。持ち上げて、いつもの肩に乗せてあげるとお腹が空いているのか顔を近づけてすり寄せようとしてくる。お前は呑気だなぁ。
鞄から更に薬草を取り出して目の前に持っていくと威勢良く食べだした。そういえばスープも飲ませてなかったな。せめてお水だけでもあげられたら良かったけど。
ベクルは自分の腕にしっかりと薬草を染み込ませた布を巻くと議論している二人の元へ歩み寄った。
「『セントラル』の範囲に収まってくれるといいけれど、『カントリーヒル』まで来たらまずい。ノーエルにも教えないといけないし、ここは一度帰りましょう」
「『救世主』サマなら気付いてんじゃないのぉ?先に十体くらい始末してそ」
「彼らがこの次、どう行動するかは分からないが『カントリーヒル』に戦力を集めるのは賛成だ。『ガーランド』と『エーワンス』共同で防衛にあたるよう私から言っておこう」
「国を挙げるのかよ。ざっと見繕った数だと十数体…、『剣聖』サマと『救世主』サマでなんとかなりそうだけどなぁ」
「何にせよ異常事態だ。防備を固めるに越した事はない、追加で降ってくる可能性だってあるだろう?」
はいはい、と言った様子で両手を上げるとペスケは押し黙った。議論は終わったらしい、ベクルは私に近づくと心配そうに声を出した。
「レスティ、大丈夫だった?」
「…え?何が…?」
「その…震えてた。やっぱり、『勇気』なんて無かったんだよ」
そうだ。私は震えてた。きっと崩れ落ちた所も見られてたのだろう。私に、私に勇気なんてなかった。
「私が変に意固地になって、あるって証明させようとしたから…。怖い目に合わせてごめんね」
ベクルは私を抱き寄せた。柔らかい、その強さからは信じられないほど柔らかくて暖かい。彼女はそういう人だ。だから好きになった。
「ううん。謝る事じゃないよ、私が…」
私が、弱いのがいけないんだ。そう言葉に出すと、また謝られてしまう。だから言うのはやめた。心の中だけで言う事にした。
きっと強かったら、『勇気』を証明出来た。そんな都合の良い力なんて存在しないんだ。自分の中で諦めをつける事にした。
「帰りましょう。『カントリーヒル』に」
帰ろう。薬草摘みの日々に。私にはそこにしか、輝けるものがないから。
『カントリーヒル』北部は高い城壁に囲まれている。そこに『ガーランド』の城がある。対魔物に特化した作りになっていて、僅かな隙間から入り込んでこないように丁寧に積まれた石レンガで出来ている。昔々には人と人が戦ったりもしたらしいが、この星にはそんな事が出来るほど人はいない。
もちろん、最近作られたものであるのですぐに壊れてしまう。ずっと壊れた端から直していて、それがみんなの仕事になっていたりする。『セントラル』に行く途中に見上げた事はあるけれど、城の中に入るのは初めてだ。
城の内部はとても荘厳で、しっかり足を踏みしめてもびくともしない。聞いた話では残された絵画からこう作るんだろう、という予測を立ててその時の技術者が寝ずに設計して建てられたという話だ。近代技術の結晶、なんて言われたりするがそれも納得できるくらいに頑丈に出来ている。
玉座の間まで歩いていくと、一番大きな椅子に座った人が正面に見えた。あれが王様。話には聞いていたけれど、見た事がなかった。
皆がさっと跪く。私は慌てて皆と同じ姿勢をとった。敬わないといけないんだ、覚えておこう。
「陛下。ご報告があります。先の夜、『天界』より魔物が…」
「聞いている。既にノーエルが交戦した、という話もな」
一番最初にミリルさんが話し出した。年長者でもあるし、『大魔導士』という地位はこの星ではすごいものであったりする。
「ほらな、言った通りだろ?」
「ミリルさんが話してる最中。静かに!」
ペスケの予想通り、兄さんが既に戦っていた。あの人が負けるはずはないけれど、この場に姿が見えないのが気になる。
「彼には『カントリーヒル』中央に待機して貰っている。いつでも前線に赴けるようにな」
「魔物の総数も、何故ここに降り立ったのかも分かりません。最大限の戦力を城に固め、迎え撃つ準備をするべきかと」
「…。普段、見ない顔がいるな、確か…」
顔を上げて視線を追った。私だ、私を見ている。えっと、なんて言えばいいのだろう。思わずついてきてしまったけれど、私はただの薬草摘みだ。外で待っていればよかった。
「『フォーアス』の娘だな?こんなに大きくなったか…。私だ、エミンだよ」
「…えっ?あっ…えっと…」
正直言って、まったく覚えていない。初めて見る顔だ、名前だって知らなかった。
「知らなくとも無理はない。まだ君が赤ん坊の頃だったからな」
「ライトは産まれた子供の自慢をしに、わざわざこの城まで来ていたのさ。ノーエルくんも例外ではないよ」
知らなかった。お母さんも、お父さんもそんな事したなんて聞いてなかった。あれほどの人ならば王様に会うのも気軽に出来るんだろう。
「改めて、自己紹介をしよう。エミン・ガーランド、人の国を形作る為に担ぎ上げられた哀れな傀儡さ」
「傀儡など…!ご自身をそのように卑下なさるな」
「私達がやっているのはごっこ遊びに過ぎない。過去にこうすれば人は生きられる、国という形で繁栄する事が出来るというだけで真似ている」
私にはどうして国という形があるのか、知る事はなかった。生まれた時にはあったから、その法にしたがっていたしその中で暮らしていた。
「星が死ぬ、という予言に対して君たちに任せっきりなのがその答えさ。私にはこれ以上、どうすべきかを他人に委ねるしかない」
「あんたは責任を取る為にいるだけに過ぎない。私達が失敗した時の為のな」
「ペスケ!あんた…!」
エミンは手でベクルを制した。
「その言葉の通りだ。私はその為に生まれたとさえ思っているよ」
「陛下…。こいつの狂言癖は知っているでしょう。真に受けるのは…」
「人はみな、何かしらの役割を持って生まれると私は思っている」
その言葉は、どこかで聞いた事がある。お父さんも、同じ事を言っていた気がする。
聞いた事がないはずなのに、覚えのある言葉。私がもっと、ずっと小さい時に。
「ライトがよく言っていたよ。俺の子供にはどんな役割があるのだろう、と」
私の、役割…。この人は私が薬草摘みである事を知っているのだろうか。私にはこんな、こんな事しか出来ないのに。
「君も『フォーアス』の娘なら、君にしか出来ない事があるはずだ」
ベクルが思わず立ち上がった。何をしようとしているのか、察してしまったから思わず腕を掴んだ。
「…!彼女は…。彼女は…ただの薬草摘みです…」
エミンは驚いた顔で私を見つめた。当然だ、お父さんを知っているのなら、同じ冒険者である事を予想していたに違いない。形見である『天光斬月』を持っているのも見えているはずだ。お父さんが肌身離さず持っていたんだから。
落胆されただろうか。失望されただろうか。お父さんをよく知っている人ほどそうさせてしまう。私がよく知っているから。
「はは。ライトが言った通りになったな。最初に出来すぎた子供が産まれたから次は駄目かもしれないと」
最初…。それが指してるのは兄さんだ。皆が認める勇者であり『救世主』。お父さんの予想通り、私は駄目になってしまった。
「…取り消して下さい。いくら陛下といえども、彼女を傷つけるのは…」
「まぁ待て、話には続きがある」
椅子から立ち上がると私の傍までゆっくりと歩み寄ってきた。怖くて、顔を見る事が出来ない。怒っているだろうか、不出来な私に対して。
勇気を振り絞って、顔を上げると、その顔は優しかった。まるでお父さんが私を見るときのように。
「例え一つでも、何かが出来れば全力で褒めてやろう。そう言っていたよ。だから君も薬草摘みになったのだろう?」
そうだ。私はだから薬草摘みになった。それしか出来ないから、でも、それすらお父さんは見越していたんだ。
「君は『何かを為す』。それはノーエルだって同じだ、物事の大小ではない。出来る事が重要なんだ」
出来る事。私に、出来る事…。
「ノーエルの奴は、逆に気負い過ぎてる所がある。君は君の出来る事をしていればいい。それこそ、あいつの為に歌でも歌ったらどうだ?」
――歌。夢の中で見た。あの言葉。
「陛下、彼女は薬草摘みです。詩人ではありません」
「それしか出来ないと決めつけるのも早計だろう。彼女は『フォーアス』の娘だぞ?出来る範囲で試せばいい。何、責任は私が取る」
肩に手を置いて、優しく笑いかけてくれた。まるでお父さんのように大きな手。
「君が笑われるのなら私の名前を出せばいい。臆して何もしない事の方がライトが傷付く。胸を張れ、前を向け、あいつはずっとそうしていた」
私に期待してくれている。でもその期待は、兄さんの様になれって事じゃない。それだけでいいんだ、って思った。胸を張って、前を向け。私には今まで、中々出来なかった事だ。
お父さんの娘だって、自信を持った日なんて一日たりともなかった。兄さんはそうしていた。ずっと、お父さんの名前を出して。常に、超えるんだってその上へ行こうとしていた。
「…それだけで、いいんですか?」
「ああ、そうだ!あいつと酒を飲んでた時にやってた勝負がある。やってみるか?」
勝負、私には無縁な言葉だ。誰かと何かを競った事はなかった、だって何をやっても負けてしまうから。兄さんがいるから、やる前からそう諦めてた。あの人より上手に出来る事なんて何一つないから。挑まれても逃げて来た、絶対に比べられるから。
「どっちがいい顔で笑えるか、だ!俺の子供は絶対強いぞと豪語してたからな!」
そう言ってくれたエミンさんの顔は、とびっきりの笑顔で溢れていた。
勝てないよ、そう思ったのと同時に、なんだか私まで可笑しくなったような気がして。
「お、いい顔をしてるじゃないか。ノーエルの奴は全然、笑わないからな!」
気付けば頬を緩めていた。勝負する気なんて微塵もなかったのに、すごい人だ、そう思った。いや、やっぱりすごいのはお父さんかな。こんな人と勝負できるなんて。
ミリルさんが困ったような顔でこちらを見ていた。そうだ、いつの間にか私が話の中心にいたけれど、本当は違う話をここにしに来たんだ。
「陛下…。その…。自分の娘のように可愛い、というのは理解できますが」
「あぁ、悪い。あいつは自慢ばかりするのに連れて来る事が少なかったからなぁ」
お父さんと一緒にいる時間は、確かに少なかった。お母さんは私達の世話だけで必死だったし、城まで連れて来るのもお父さんと一緒でないとまずい、というのもあっただろう。お母さんはただの一般人だ、兄さんのご飯を作るだけでも大変とよく零していた。
「陛下。ノーエル様が…」
駆け寄ってきた兵士が呟くように報告した。兄さんは街で待機しているはずだ、なのにここへ来たというのは。
「彼が来る、という事は何か重要な情報を抱えてきたのだろう。通せ」
頭を下げた兵士は奥へと引っ込んでいった。そのすぐ後、兵士の姿が消えるのと同じくらい同時にノーエルの姿が見えた。
「陛下、失礼…します」
こちらを見てから一回、言葉を詰まらせた。まだここにいることを予想していなかったのだろう。
「ウチの船長が降下してきた魔物の数を計測していました。その数二十四、そしてその内の十四を討伐済みです…。そっちは?」
視線がペスケに向いた。ペスケは無言で指を二本立てた。
「なら残りは八体。奴らはある程度、群れる習性があるようなので注意深く外を監視した方がいいでしょう」
「こっちはバラバラだったよー?専門家の意見もなしに早計じゃないかな?」
「…いや、仲間を認識している可能性はあった。着地点は近かったし、仲間の死体を見て戦い方を変えたようだったし」
ミリルさんが指摘するとノーエルは顎に手を当てて考え始めた。
「戦って分かった。奴らは何かに怯えていた、恐らく地上に生息域を求めたのでしょう。だから集団で降下した」
ペスケはちょっと考えたあと、指で足を叩きながら宙へ視線を移した。
「…ふーん。まぁ筋は通った話だ、ついでに聞きたい。その魔物の死骸は?」
「研究用に使うだろうと思って集めてある。腐る前に済ませておけ」
「そりゃ良かった!そいじゃ先に失礼させて貰うよ」
挨拶もそこそこに、こちらを見もしないでペスケは去って行った。
ノーエルは無言で頭を下げた。
「申し訳ありません。ペスケの奴が色々と無礼を…」
「構わないよ!彼女には私も期待しているから…っとそうだ。急いで頼みたい事がある」
何故か視線が私に向いた。次にノーエルに、何をしようとしているのか、うっすらと分かった気がする。
「東の城壁が崩れかけててね…良かったら見張ってくれないか?」
「…俺が、ですか?他にも適任は…」
「レスト、君も行ってくれ。フォーアスの子供が向かうと聞けば士気もあがるだろう」
私の肩に手が置かれた。やっぱり、ついさっきそういう話をしたばかりだもんね。でも、どうしよう。兄さんと二人っきりになるなんて久しぶりだ。何を話せばいいかなんて分からない。
「…分かりました。レスト、行くぞ」
「私も…!私も行きます!」
「ベクル、君は貴重な戦力だ。良かったらミリルと共に会議に参加して貰いたい」
「え…。し、しかし!」
ミリルさんはベクルの手を取ると静かに首を振った。ベクルは心配そうな目で私を見てくる。大丈夫、という意味を込めて首を縦に振った。
きっと、兄さんも何かあるって分かってて受けただろう。だとしたら尚更、どう切り出せばいいだろう。一生懸命考えながら歩くけれど、不思議と兄さんの足が止まる事は無かった。
東の見張り台の上、城壁すらも見下ろす高さに思わず息を呑んでしまう。高い所は得意ではない、けど兄さんは涼しい顔をしている。だから、私も怯えた顔はしないようにしないと。そう思って前を見た。
城壁の外はどこまでも続きそうな草原が広がっている。その先には何も無い。人が住んでいるのはこの辺りまでで、その先には人の手が加えられていない自然だけがある。私には知らない景色だ。見下ろしているだけで何時間でも過ごせる。
でも、そんな訳にはいかない。兄さんと話をしないと。でも、何をしよう。今更、私なんかが、そう思った。兄さんの足を引っ張る訳にはいかない。…そうだ。
「…倒した、って言ってたけど。兄さんが倒したの?その…十四…」
顔色を窺うようにして話しかけると、兄さんは自分の左手を見つめながら答えた。
「…あぁ。中々に強い魔物だった。他の奴には任せられないと判断したから全て引き受けた」
銀色に輝く篭手はお父さんから引き継いだ装備だ。私には付けられないから兄さんに半ば無理矢理渡した。その篭手には無数の傷が付いている。
「兄さんは…変わらないね。無茶してばっかりで」
「傷付くのは俺だけでいい。お前こそ、大丈夫だったか。怪我は?」
「何言ってるの。私は大丈夫だよ、ベックもペスケも…リオンさんもいたし」
エミンさんの言う通り、背負い過ぎるのがこの人の短所だ。一番たちの悪いのが期待を背負って尚、それに応えられてしまうからより重くなってしまう。『救世主』なんて大層な称号が付けられたのが何よりの証拠だ。この星を救う正確な手段さえ分からないのに、この人一人いれば皆、星が救われると思ってる。お父さんは『勇者』で止まったのに、可笑しなものだ。
「そうか…そうだな。あいつらなら、と任せたのだからな」
「うん…。それでね…えっと…」
言うべきか、迷った。『勇気』を使えなかった事。剣を抜く事ですら容易く出来なかった事。私が、『勇気』を使えれば。そうすれば兄さんの負担だって少しは減るのに。私はあなたの助けになれなかったよ。口に出すのがとても恐ろしかった。
体は震えてない、震えているとしたら、唇。心では言うべきだって思ってるのに体がついてこない。そんなだから、私には勇気がないんだ。拳をぎゅっと握ると、肩に乗せたロップが顔を突き出してきた。
「…『勇気』。証明できたか?」
兄さんが話しかけてきた。私が言いたかった事を先に言える。だからこの人は『救世主』なのだ。人の機微に敏感で、私が傷付かない様に、先に自分から聞きに行った。そうすれば、皆から批難されるから。私から言い出せば傷付くのは私だけで済んだ。それが出来ないから、私は勇者にはなれないんだ。
「…ううん。出来なかった」
私の目を見ることなく、遠くを見つめたまま兄さんは答えた。
「そうか」
諦めだとか、失望だとか。そういう感情はその言葉に篭っていなかった。あるとしたら、希望。まだ諦めてない、そんな気がした。
「…でもね。私にも出来る事がある…って教えて貰ったの」
鞄から薬草を取り出して、ロップの傍に近づけた。美味しそうに齧り付くロップをそのままにして、見張り台の端に立って兄さんに向き直った。ぴしっと姿勢を良くすると、喉をならして準備をした。
「兄さんはいつもいつも険しい顔。偶には笑って欲しくって」
精一杯の笑顔を向けると、兄さんは困った様に顔を背けた。
「俺は…俺はいい。笑うのは全て終わってからで」
「そんな事ない!兄さんだって一人の人間なんだから」
私に出来る事、勇気を出して、やってみせるんだ。頭の中に必死に歌詞を巡らせて、音符をイメージして、声に出した。
「この星に浮かぶ数々のアストロイド…燃える星の、中で揺らめくインフェルノ」
精一杯、思い出して言葉を紡ぐ。あの時に見た思い、調律、確かこうだったはずだ…。真似するのが限界の私だけれど、少しでも暖かい気持ちになってほしくって。
「消えゆく炎の跡で、一筋の爆ぜる名を呼ぶ声ー」
「…………」
兄さんは目を閉じて聞いてくれている。周りの兵がこちらを見始めている。こんな所で歌うのは私くらいなものだ。
「消えゆく銀河の中で呼び続けるよ…スターラストインフェルノ…」
言葉に出せるのはここまで。私にはそんな才能なんて無いし、練習した事もない。音も合っていたか自信がないし歌詞の意味も分かっていない。想いだけは、想いだけはしっかりと込めたはずだ。出来る限りの笑顔を向けると、兄さんは目を閉じたままだった。
「…お前の作った歌じゃないな」
やっぱり、兄さんには敵わない。頬を掻いて力なく笑うと、兄さんは目を開いて私の頭に手を置いた。
「上手くはなかった。練習すれば、また違うかもしれないな」
「そう?頑張ったんだけどな…」
「お前は早く諦め過ぎる。…もう少し、あがいてみろ」
兄さんは、私の歌から何かを見抜いたのだろうか。頭に置かれた右手は暖かいのに、その言葉は冷たいはずなのに、心の中にほんのちょっとだけ火が付いたような気がした。
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