第2話 もう一人の自分
改まって正対してみると、お見合いパーティでの彼とは雰囲気が違っていた。ということは、自分の雰囲気も彼には違って見えているということでもあり、どんな風に相手に見えているのか、少し気になっていた。
目の前に鎮座している慎吾の雰囲気は落ち着いて見えた。確か彼の年齢は紹介カードには三十三歳だと書かれていた。二十六歳の永遠には大人の雰囲気を感じさせる今の彼が新鮮に感じられた。
お見合いパーティでは趣味の話をしたのがよかったのだろうと思っている。お互いに好きなことを話している時というのは、きっといい表情をしているものだと思っている永遠は、彼に一番いい表情を最初に見せることができてよかったと思っている。しかし、それ以上の表情をこれからも見せられるかどうか分からないので、最初に一番いいところを見せてしまったというのが本当にいいことなのか、疑問に感じていた。
お見合いパーティの会場は、結構明るかった。それに比べてこの喫茶店はレトロなうえにシックな雰囲気を醸し出しているので、店内は薄暗くなっていた。
薄暗くても、実際の暗さとは比較できないというのは、暗さが影響しているのではなく、重厚な雰囲気が暗さを演出しているので、決して悪い気はしない。その思いを持つ人が多いことで、この店が常連さんでもっていることはよく分かった。
お見合いパーティの時の雰囲気とは正反対であるにも関わらず、彼に対してのイメージがそんなに変わっていないのは、彼がその場の雰囲気に馴染める素質を持っているからなのかも知れない。まるでカメレオンのように順応でき、その場にいても違和感を一切感じさせないことが彼の一つの特徴だと言えるのではないだろうか。
注文したコーヒーが運ばれてくるまで彼は一言も言葉を発しなかった。
永遠も彼の言葉を待っているだけで自分から話題を向ける気にはならなかった。誘ってきたのは相手なので、まずは相手から話をさせるのが礼儀だと思ったのだ。
「お待たせしました」
思ったよりも早く運ばれてきたコーヒーに、彼はすぐ口をつけた。
「ここのコーヒーは豆から挽くんですが、注文してから運ばれてくるまでが結構早いでしょう? でも実際にはそれなりの時間が経っているんですよ」
と彼は言った。
永遠は彼の言葉の意味がよく分かっていなかった。
「どういうことなの?」
と言いながら時計を見ると、
――なるほど、確かに自分が感じているよりも時間が掛かっているんだわ――
と感じた。
しかし、そのこと自体は別に不思議なことではない。時間の感覚など長く感じる時もあれば短く感じる時もある。それは当然のことなのだが、問題は彼がどうして永遠も自分と同じ感覚でいるかということである。
まるでこの時間が、時間を短く感じさせる空間であるかのように決定的な言い方ができるのかということである。しかも、時間の感覚など人それぞれ、同じシチュエーションでもその人の感じ方で長くも感じたり短くも感じたりするはずなのに、決定的な言い方がどうしてできるのか、そこにどんな自信があるのかを知りたかった。
――相手が私だから?
彼には人間観察に長けたところがあり、相手が感じる時間の感覚を分かる特殊な能力でもあるとすれば、不思議なことではない。
では他の考え方として、永遠と一緒に話をしてきて、自分と同じような感性を持っていて、永遠なら同じようにこの空間のこの時間を短く感じると思ったのかも知れない。
いや、さっきも思った、
「逆も真なり」
という考えでは、永遠は自分とはまったく正反対の感性を持っていて、自分が長く感じるのであれば、永遠が短く感じるのではないかと思い、それを確かめたくて、
「カマをかけてきた」
と言えるのではないだろうか。
慎吾は口に含んだコーヒーをゴクリと音を立てて飲み込むと、
「永遠さんは自分の実年齢と、実際の性格とが、かけ離れていると感じたことはないですか?」
いきなり彼は何を言っているのだろうか?
「どういうことですか? おっしゃっている意味がよく分からないんですが」
慎吾はいきなり問題提起してくるタイプの男性であるということを初めて認識したのはその時だったのだが、なぜか前から知っていたような気がした。
彼とは確かに今日初めて会ったはずなのに、以前から知っていて、彼の性格も分かっているつもりになっているのはどうしてなのだろう?
――今までに知り合った人に似たような人がいたのかな?
といろいろ思い返してみたが、すぐに思いつく人はいなかった。
逆にすぐに思い出せないということは、それだけ信憑性があるような気がして、
――もう少し考えていれば、必ず思い出せるような気がする――
と感じ、思い出そうとするのをやめようとは思わなかった。
実年齢と性格がかけ離れているということは、例えば実年齢が三十歳くらいなのに、精神年齢がまだ小学生だというようなことであろうか?
永遠の中の感覚では、少なくとも実年齢よりも精神年齢が上であるということは考えにくい。実際に生きてきているわけではない世代の性格がいくら他人を観察して人の性格が分かるようになったからと言って分かるはずもない。やはり性格というのは人それぞれだと思うからだ。
人の性格というのは二種類あると思っている。もって生まれたものと、育ってきた環境によるものである。性格は最初から植え付けられているものと、培われたものの二種類。持って生まれたものの中には遺伝性のものもあるだろう。しかし培われたものは遺伝ではない。もし、精神年齢が実年齢よりも上だとするならば、それは遺伝した性格が顔を出しているからではないだろうか。永遠はそのことまでは理解できているつもりなのだが、遺伝してきた性格は自覚できるものではないと思っている。だから、実年齢以上の精神年齢を感じることはできないのだという理屈であった。
どうして遺伝による性格を自覚できないのかという理屈を考えてみたが、人の中には自覚できていない性格というのがあると思っている。時々、
――私がこんなことをするはずもないのに――
と思うことがたまにある。
例えば、仲のいい友達と話をしていて、いきなりイラついてしまい、口論になってしまうこともしばしばあった。自分では穏やかに話しているつもりだったのに、相手にいら立ちを与えてしまったらしく、いきなり相手から、
「どうしてそんな言い方するの?」
と言われ、ギクッとしてしまうことがあった。
戸惑いはあったが、言い訳をするつもりはなく、思わず売り言葉に買い言葉、挑戦的な言葉を発してしまう。その中に戸惑いが見え隠れすることで相手にイラ立ちが募ってくるのだろう。しなくてもいい喧嘩になってしまう。
まるで他人のような性格がどうして自分の中に潜んでいるのか、ずっと分からずにいたが、これが遺伝によるものであると感じたのは、ある日、昔の夢を見たからだった。
その夢というのは怖い夢で、夢で相手をしている人というのは、自分そのものだった。
いら立ちの中に二人はいて、相手の自分が理不尽なことを言っているのに、なぜか許そうとしている自分がいる。だが相手はこちらを許してくれない。まるで自分の意見を聞いていないかのように感じたからだ。それも当然のことで、夢の中の相手が自分と会話をしていると思ったのは間違いで、自分の後ろにもう一人いて、その人と会話をしていたのだ。
つまり相手は自分を認識していない。夢を見ている自分は夢の中で存在しているわけではなかった。
「ただの傍観者」
それが、この夢の主旨だったのだ。
その時、夢を見ている自分が本当の自分ではなく、母親になったかのような意識で夢の中の自分を見つめているように思えた。
――あなたのことは何でも分かっている――
と言いたげだったのだ。
夢はすぐに覚めたのだが、実際には明け方前だった。
「夢というのは、目が覚める前の数秒だけですべてを見るものらしいわよ」
という話を聞いたことがあり、その時は納得したはずだったのだが、実際に目が覚めてからそのことを感じようとした時、
――そんなこと信じられないわ――
と感じるのだった。
どうしても、夢の中の時系列が頭の中に残っていて、すぐに忘れてしまうはずなのに、その時だけは、
――忘れるなんて思えない――
と感じているのだった。
それだけまだ夢心地というのは、目が覚めてからもしばらくは続いているものなのだろう。
目が覚めたと思ってはいるが、半分は夢心地という時間がかなり続く。その長短はその時によって違うが、長ければ長いほど、実際の睡眠に対して夢の長さが短かった時を意味していると永遠は思っていた。
夢の中で、時々出てくる、
「もう一人の自分」
は、夢を見ている自分の存在に気付いていないはずなのに、たまに目が合ってしまうことがあり、ビックリさせられる。
――やはり気付いていない――
と思い、ホッとするのだが、その時感じたドキッとした感覚は夢から覚める時、
「決して忘れてはいけない」
と自分に言い聞かせているにも関わらず、忘れているのだった。
次に思い出すのは、同じシチュエーションの夢を見た時、
――また同じ夢を見た――
と感じるからだ。
その間、どれほどの月日が経過したのか、分かるはずもなかったが、思い出そうとしている自分を感じた。
永遠がそんな過去の夢を思い出している間、慎吾は何も言わなかった。永遠の方を振り向くこともなく、永遠の時間に合わせていた。だから彼がその間何を考えていたのかは永遠にも分からない。
永遠が我に返ったその瞬間を見計らったかのように、
「唐突な質問で申し訳ないです」
と、言った。
――どうして私が我に返ったことが分かったんだろう?
と思うほど永遠は慎吾が自分を意識していなかったことだけは分かっていただけに、不思議に感じたのだ。
「私、今あなたが言った実年齢と精神年齢がかけ離れているという話を聞いて思い出していたのが、時々見る夢のことだったんです」
と永遠がいうと、
「ほう、それは興味深い。僕も夢はたまに見ますが、その内容はほとんど覚えていることはないので、あまり気にしないようにしていたんです」
と慎吾が言った。
「それはわざと意識しないようにしているという意味ですか?」
「そうとも言えますね。覚えていないことをわざわざ思い出そうとするのはしんどいものですよ。忘れるには忘れるなりの理由があると思うと、別に必要以上に思い出そうとしなくてもいいような気がしたからですね」
なるほど、慎吾のいうことにも一理あった。
いや、彼の言っていることの方が正論なのかも知れない。正論というよりも自然な考え方だと思えば納得がいく。何かを考えるというのは、最後に自分を納得させるためだと考えれば、これほど自然なことはないからだ。
「あなたを見ていると、本当に自然体な気がしてきます。私が今まで知り合った人にはいないタイプの人ですわ」
と永遠は思った通りをいうと、
「ありがとうございます。額面通りに受け取ると、とても嬉しいです」
彼以外の人がいうと、皮肉にも聞こえるようなことも、彼に言われると皮肉に聞こえないのは、永遠の思い込みなのだろうか?
彼から、
「額面通り」
と言われ、初めて自分が皮肉を言っていることに気付かされた。
永遠は後になって、
――しまった――
と思うようなことをたまに口にすることがあった。
相手の気持ちを考えながら話をしているつもりでも、時々その思いよりも先に口が動いてしまうことがある。それは言いたいことを先に言ってしまわないと気が済まないというよりも、忘れてしまうという思いが強いからだと思っている。
――人の顔は覚えられない。言いたいと思っていることもすぐに言ってしまわないと、どんどん忘れてしまう――
永遠は、自分が忘れっぽい性格だということを意識し始めたのは、その両方が揃ったからだ。
元々は、言いたいことを忘れてしまうことの方が意識としては強かった。人の顔を覚えられない方が重症なのに、言葉がそれ以上だと思ったのは、人に気を使っているつもりでも心と裏腹に言葉が出てしまうことがあったからに違いない。
「慎吾さんは、なるべく無理をせずに無難な方向を選ぶ方なんですか?」
若い人であれば、少なからず冒険心を持っているものだと思っていた。
特に男性であれば、女性に比べて物欲に強いものだと思っていた。それは禁欲や性欲と違って、形に現れるものという意味で、自分の立場や名誉などと言った、いわゆる「名誉欲」などがその代表的なものではないだろうか。
それなのに、彼と話をしていると、物欲のようなものが感じられない。趣味を実際に実益にしようという意識もないようだし、まだ三十歳代の前半というと、永遠から見れば、まだまだ青年と言ってもいいくらいの年齢だった。
だが、自分の年齢よりも実際には七つも上なのである。どうしても年上という意識で見ているので、落ち着いて感じられるのは当たり前のことだと思っていたが、こうもあからさまに欲が見えてこないと、やはり彼の言うように、実年齢と精神年齢がかけ離れているという感覚はまんざら嘘ではないような気がした。
だが、永遠の考えている精神年齢は、実年齢よりも若いというのが前提なので、彼がどのように自分を感じているのか、聞いてみたい気がした。本当に実年齢よりも年上に感じているのであれば、永遠には分からない感覚である。
これは永遠に限らず、実際に実年齢よりも精神年齢が上だと感じている人にしか分からない感覚に違いない。そう思うと、自分が彼にどうして興味を持ったのかということも分かってくる気がした。
慎吾は永遠の質問に少し考えてから返事をした。
「無理をせずという考えは、僕だけに言えることではないと思うんですよ。無難という言葉で片づけるのではなく、自然な意識として持っていることだと思いたいんですよ」
と答えた。
――自然な意識?
そうだ、永遠が彼に感じた感覚は、この思いに感銘したことから始まったのではなかったか。彼の話を楽しいと思うのは、自然な話を自然に言葉にして話してくれることで分かりやすいという思いが永遠の中にあるからではなかったか。
「自然という言葉、私は癒される気がするんですよ」
と永遠は言った。
「癒されるという言葉、いろいろな発想ができますね」
今まで自分が自然に振る舞ってきたと思っていたことが、後から考えて、どこかわざとらしさを感じてしまうこともしばしばあった。それは人に言われて気付くことも結構あったので、その都度恥ずかしい思いをしたものだ。
――指摘してくれる人はありがたい――
とは思うが、相手も指摘してあげなければ自分では分からないと思っているから、指摘してくれたのだと思うと、さらに恥ずかしさが倍増する。
顔が真っ赤に紅潮し、胸の鼓動が激しくなりそうになってくる。そんなことを思い出している永遠を横目に見ながら慎吾は永遠の言葉を待っている。どう答えていいのか分からずにいたが、分からない時点で、返答に困ることは分かっていた。
――会話というものは、テンポに乗ることができなければ、深みに嵌って、うまく意思の疎通ができない――
と思っていた。
だから、永遠は会話が苦手だと思っていたが、友達との間では間髪入れずに言葉が出てくる。やはり遠慮せずに話ができることが一番自然であって、気を遣っていないつもりで気を遣っていることが一番自然な状況を醸し出しているに違いないだろう。
癒されるということに対して、慎吾がどうしていろいろな発想と言ったのか考えてみたが、考えていると永遠は、別のことを聞いてみたくなった。
「慎吾さんは、自分の性格を持って生まれたものが強いのか、それとも、今まで生きてきて培われたものが強いのか、どちらだと思いますか?」
「そうだね。どちらが強いという発想は、前提として、自分を作っている性格の中に、持って生まれたものと、育ってきた環境の中で培われてきたものとの両方があり、共存しているということですよね?」
「ええ、そうです」
慎吾が自分の話を真剣に聞いてくれていると永遠は思った。
「でも、表に出てくる性格と、裏に隠れている性格の両方があるのだとすれば、それは二重人格ということになりますけど、永遠さんは二重人格をどう思いますか?」
「私は人というのは大なり小なり、二重人格なんだって思っています。裏表のない人なんていないと思うと、理解できる気がするんですよ」
というと、
「逆に言えば、二重人格だから裏表があると言いたいんですか?」
と、彼はまた不思議な問いかけをした。
「ええ、そうです」
質問の意味を分かりかねていたが、感じたままを答えた。
ただその返事に自信があったわけではなく、どちらかというと自信がなかったので、彼の意見を聞いてみたいと思ったのも本音だった。
「僕は本当にそうなのか? って思います。二重人格者以外でも裏表のある人っているんじゃないかって思うんですよ」
その話を聞いて、永遠は少しいら立ちを覚えた。何にいら立っているのかは分からないが、とにかくムカついたというのが本音だった。
「私が思うのは、二重人格者というのは自分のことを卑下していると思っているんですよ。だから、その思いを隠したいと思う。それが余計に力が入ってしまって、まわりに裏表をハッキリ見せてしまうことになるんじゃないかって思うんですよね」
それを聞いて、今度は慎吾に何か感じるものがあったようで、
「それは永遠さんが自分のことを二重人格だと意識しているように聞こえたんですが、失礼でしたら申し訳ないです」
申し訳ないと言いながら、声は上ずっていて、目は挑戦的に見えた。その思いは永遠にも分かったようで、
「ええ、そうですね。私は二重人格だという自覚があります。だからまわりの目が気になってしまって、一歩踏み出せないでいた。お見合いパーティに参加するようになったのも、そんな自分を変えたいという意識があったのだと思っています。今まで出会いがなかったのはそんな私の気持ちを皆看破しているからだって思っていたんですが、今日慎吾さんとお知り合いになれてよかったと思うようになりました」
「そうだったんですね。そんな風に感じていただいているのに、僕の方も少し感情的になってしまっていたようです。悪気はないんです。許してください」
慎吾はそう言って、深々と頭を下げた。
永遠も言い過ぎたと思ったのか、
「いいえ、いいんですよ。こうやって本音をぶつけ合うことができるというのも、相手の気持ちを分かろうとしているからなんじゃないかって思うんです。お話をしていて自分のポリシーと違う発想を感じて、少しいら立ってしまったところもありましたが、本音でお話ができるのはありがたいことだって思っています」
と永遠がいうと、
「そうですよね。僕も実は会社ではまったくの無口で、下手に自分の本音を他人に話したりすると、見透かされてしまうことで、こちらが不利になってしまうことが往々にしてありますからね」
「会社というところはそうなのかも知れませんね。共同で一つのことを成し遂げるというと聞こえはいいですが、その中でも競争は仕方のないことですからね。ましてや競争がなければ成長もありません。そういう意味では仕方のない反面もあると思っています。だからこそ、会社以外での気心が知れた知り合いを持ちたいと思うんでしょうね」
「ええ、それが同性であっても異性であっても同じこと。どこまで自分を出せるかということが重要なんだって思います」
「永遠さんは、自分を二重人格だと自覚していると言いましたが、自覚するということは、二重人格を悪いことだと思っておられるんですか?」
「いい悪いという観点で考えれば、悪い方に入るんだって思います。でも二重人格を最初からいい悪いで判断してしまうと、その本質を見誤ってしまうように思うんですよ。だから自分を二重人格だって思うことは自分という人間を見つめる時の材料にしようと思っているんです。いわゆる前提条件のようなイメージですね」
「なるほど、よく分かります。ただ僕は二重人格のそれぞれの性格が正対しているものだけではないと思うんです。普段は片方が表に出ていて、もう一つが裏に隠れている。自分で自覚している人のほとんどは、いい部分だけを表に出そうと思っていて、それができている人なんじゃないでしょうか? でも稀に自覚している人でもその制御ができない人がいる。それが小説の『ジキルとハイド』のお話を作り出しているんじゃないかって思うんですよ」
「あの話はそうですよね。作者が自分で二重人格を意識していたのかどうかまでは分かりませんが、少なくとも裏の部分の人間は悪い人間として描かれている。そして彼は変身する薬を自ら開発し、自分の中にあるもう一つの性格、道徳からの解放を快楽として望み、その望みをかなえることで、別の人間を作り出すことに成功したけど、最後には悲劇となって大団円を迎えるというお話ですよね。私は悪の性格を悪いことだとは思えない気がしてきたんです」
と永遠は言った。
「どういうことですか? 二重人格のもう一つの性格を悪の性格だって思っているわけではないんですか?」
「私は単純に道徳の解放への快楽を悪いことだとして一刀両断に切り捨てることが嫌だと思っているんです。確かに悪いこととして意識していますが、本当にそうでしょうか? 本当に悪いことというのは、その意識を自分の中に封印し、知らないふりをしてずっと生き続けることではないかって思うんです。ハイド氏は確かにジキル博士の作り出したもう一人の性格の自分です。でも、そのことを知らないままずっと生き続けるということってできるんでしょうか? 一生のうちに必ず気が付く時があるはずです。それがいつになるかによって、その人の一生が決まってくるような気がするんです」
それを聞いた慎吾は少し考えてから、
「じゃあ、永遠さんは人というのは大なり小なり二重人格性を持っているものだとお考えですか?」
「ええ、そうです。しかも、正悪という考えではなく、正対している考えという意味ですね。それこそ裏があって表があるという意味です。だから、二重人格の人が、その性格を両方とも表に出すことってないと思っているんですよ」
「うーん、難しいお話ですね」
慎吾は頭を下げて、考え込んでいるようだった。
「あっ、すみません。せっかくのデートなのに、こんなお話になってしまって。でも、私はこういうお話をするのって実は好きなんです。なかなかできる人もいませんからね。そういう意味でも慎吾さんとお知り合いになれたことはよかったと思います」
「それは僕も同じです。僕の方から話題を振ってしまったのだから、恐縮するのは僕の方ですよ」
お互いにそう言って笑顔を見せた。
「じゃあ、もう少しこのお話を続けましょう」
と慎吾がいうと、
「ええ、お願いします」
と永遠も答えた。
「僕は二重人格だって自覚したのは、中学に入った頃くらいでしたかね。その頃から情緒不安定に陥ってしまって、いわゆる鬱状態のようになってしまったんです。誰にも言えずに一人悶々とした毎日を過ごしていると、一日が中々過ぎてはくれませんでした」
「その気持ちは私も分かります。でも、それって思春期と重なってしまったことで、二重人格とは違うんじゃないですか?」
と永遠がいうと、
「そうなんですが、もし鬱状態に陥ったりしなければ、二重人格だなんて思わなかったと思うんです。しかも一日一日がとても長かったのに、一週間経ってみると、あっという間だったという意識が残ったんです。それで自分が二重人格なんじゃないかって思うようになったんです」
と慎吾が言った。
「そういうことなら分かります。私も時間は日付の単位で、感覚が違うことって往々にしてありますからね。私はいつぃも自覚しています」
「というと?」
慎吾は興味深げに聞いた。
「私の場合は、一日一日がとても長く感じられで一週間があっと馬だったと思っているのは、小学生の頃でした。中学に入ってから高校を卒業するまでは、一日一日があっという間だったのに、一週間だったり一年だったりが、かなりの長さに感じられたんです。それ以降はまた一日一日がかなり長く感じるようになったんですけど、どうやら節目節目で違う人間になったような気がしているんです」
「そのことに気付いたのは?」
と慎吾が聞くと、
「最近だったように思います。何かきっかけがあったわけではないんですが、しいて言うと、結婚を意識するようになってからかも知れませんね」
「じゃあ、永遠さんが自分の中の二重人格性を意識し始めたのは、最近ということになりますね」
「私もそう思います。ただ、それまで二重人格ということを意識していなかったわけではないんですが、自分は違うと思っていて、否定している自分がいたんですよ」
「意識していたというより、興味があったということかも知れませんね。興味があるから他人事のように思えるんですよ」
「どうしてですか?」
「興味を持つということは、意識していなかった証拠であり、しかも自分に関係のないという目線で入り込むことを前提として考えているんだって思います」
と慎吾は言った。
「時間というのは不思議なものですね」
永遠はしんみりと言った。
そのあくまでも漠然とした言葉の意味を噛みしめるかのように慎吾はしばらく考えていたが、
「時間という感覚と空間という感覚を一緒に考えないから難しくなるんじゃないかって考えたことがありました」
慎吾は意味不明な投げかけをした。
「どういう意味ですか?」
「少し難しいお話になりますが、空間という考えと時間という考えを結び付ける発想を、僕は次元の発想だと思うんです。一次元というのはいわゆる『点や線』になりますよね。そして二次元というのは、平面になる。そして自分たちが把握している三次元の世界は『立体』、そしてまだ解明されていない四次元の世界という発想は、それに『時間』という感覚が加わることになりますよね」
「ええ、確かにそうですね。一次元と二次元、三次元は三次元にいる私たちには理解できることが多いですが、四次元は未知の世界であり、解明されていないことがほとんどだと理解しています」
「でも、知っていると思っている一次元、二次元の世界でも、あらたまって考えたことってないでしょう?」
「確かにおっしゃるとおりです」
「僕たちが見ている絵画や写真は平面ですから、二次元の世界になりますよね。でもその世界に入り込むことはできないし、二次元の世界からこちらの世界に入ってくることもできない。唯一平面に自分を写し出すことができるのが鏡の中ということになりますが、ご承知の通り、鏡の中というのは正反対に写し出されるものです。しかも、鏡の中の世界はこちらの行動に忠実に写し出されます。決してそれ以上でもそれ以下でもありません。そういう意味では二次元の世界にとって、三次元の世界は絶対的だと言えるんじゃないでしょうか?」
慎吾のいうことは確かに難しかったが、聞いていると、次第に理解できるような気がしてきた。
「ということは、解明されてはいまぜんが、四次元の世界が存在するとすれば、その四次元の世界は我々三次元の世界から見れば絶対的だということでしょうか?」
「それはすべてという意味で言っているのでありません。たとえば、二次元と三次元の中で『絶対的だ』と言えるものは、鏡の世界だけだって思うんですよ。それ以外は違っていてもいい。そういう意味では鏡の世界というのは、確証はないけれども、ひょっとすると二次元の世界への今の時点で分かっているだけの入り口だと言えるのではないでしょうか?」
「なるほど、そういう意味では四次元の世界への入り口がどこかにあって、それを立証できたとすれば、それは同時に四次元の絶対的な支配に通じるものではないかという考え方ですね?」
「ええ、そう言えると思います」
永遠は、彼のその話を聞いて、また少し考え込んだ。
慎吾は永遠が考えている時間、決してそれを邪魔しようとはしない。それどころか、永遠が考え込んでしまうと、それをじっと見つめているのではなく、自分も何かをさらに考えようとしている。それを思うと永遠は、
――この人に話しかけてよかった――
と思ったのだ。
永遠が我に返ってくるのを察したのか、それを待っていたかのように彼が話しかけた。
「それでですね。僕は写真を撮っていますが、それ以前は絵を描いていた時期があったと言いましたけど、絵を描いていたんですが、さっきの永遠さんと話をした時、その時のことを思い出したんです。それで、今の次元の話をしたんじゃないかって思うんですが、実際には思い付きでお話をしたわけなんですが、それがさっきの話に繋がっていたと思うと僕も少し不思議な感じがしてくるんです」
「私の話?」
「ええ、さっき永遠さんはデッサンをしている時のお話をしてくれましたよね。その時にデッサンをする時には目の前にあるものを忠実に描くのではなく、時には大胆に省略することも必要だって言ってましたよね。僕も絵を描いている時に同じようなことを感じたんですが、永遠さんに言われるまでその感じたということをすっかり忘れていました。感じた時というのは、明らかに衝撃を持って感じたはずなのに、どうして忘れてしまったのか不思議なんです。本当に完全に忘れていましたからね」
「私がそう思ったのは、人の受け売りもあったんです。もちろん、自分でも感じたんですが、まだ油絵を描こうと思っていた時、デッサンをしている人を見かけたことがあったんですが、その人は絵を飛び飛びに描いていたんです」
「飛び飛び?」
「ええ、絵を描く時というのは、どこから描き始めるかは別にして、いったん描き始めると、そこから筆を離れたところに置くことはないものだって思っていたんです。もちろん、中にはところどころ別々の場所から描き始める人はいると思うんですが、少なくとも私の近くにはそんな人はいないんですよ。で、その時にその人に聞いてみたんです。『どうして離して描くんですか?』ってですね」
「それで?」
「その人が言うには、その方が描きやすいって言ったんです。どうしてなのかって聞くと、忠実に描こうとすると、絵をバランス重視に描こうと思ってしまうらしいんです。でも、点で描きながらそれを線にするようにするには、パーツパーツを個別なもののように描くのがいいんだって言ってました。その時に、そんなことをすれば充実に描けないのでは? と聞いてみると、そんなことはないっていうんですよ。目の前に写っていることが本当のことだと誰が言えるかってね。少しでも時間が経てば、微妙に変化が見られる。忠実に描こうとするには、一瞬で描いてしまわないかぎり不可能なことだってですね」
「なるほど」
「それでいろいろと考えを巡らせたうえで辿り着いた結論が、目の前の情景を忠実に描くのではなく、省略できるところは大胆に省略してもいいんだってですね」
「それも一つの考え方ですね。僕もあなたの意見には賛成ですが、僕が大胆な省略を考えたのは少し違っているんです」
「というと?」
「僕がさっき次元の話をしましたよね? それが一つのヒントになったんです」
またしても不思議な言い回しだ。
しかし、さっきの話と結びつけて話すところは彼の一種に話法の特徴なのかも知れない。それを思うと、真面目に聞いてみようと思った。
「さっき、鏡の話をした時、忠実に描き出されているのは、上位の次元に対して絶対的なものだって言いましたよね? それが鏡の世界の宿命だって」
「ええ」
「でもそれはあくまでも鏡の世界だけのことで、絵画や写真の世界では、決してその必要はない。省略して写し出すことは可能なんですよ。自由に描けるのが芸術の基本ですからね」
「ええ、でも絵画はそれができても、写真には無理なんじゃないですか?」
「そんなことはありません。例えば、光の加減で見えているはずのものでも閃光のせいで見ることができないこともある。僕が写真を撮るようになったのは、そういう忠実に写し出すはずのものをいかに省略して写し出すことができるかということなんですよ」
「そうなんですね。でも、それは省略が前提で、違うものを写し出すことを目指しているわけではないんですよね?」
「そうです。ないものをいかにもあるかのように写し出すことは、僕にとっては冒涜だと思っています。だから大胆な省略が写真の醍醐味だと思っています」
「難しいお話ですね」
「そう思います。次元のお話が出たので、こんなお話をしてしまいましたが、先ほどの話を聞いていて、時間の感覚というのが永遠さんの深層心理を抉るかのような何かを捉えているように思えたからですね。僕にも同じような感覚があります。だから、写真や絵のお話に結び付けてみたんです」
慎吾はそう言って、目の前のコーヒーを口に含み、半分くらい飲み干した。
よほど喉が渇いていたのか、今度はコップのお冷に手を掛けて、そのお冷を一気に飲み干した。
「すみません、お冷」
と言って、間髪入れずにウエイトレスの女性に声を掛けた。
永遠は彼のその様子を見て、
――この人は、真面目に話をすることのできる人なんだ――
と感じた。
難しい話を諭すようにまくし立てていると思ったが、いったん落ち着いてみると、思ったよりも冷静に話をしてくれたように感じた。
――この人とは、男女の関係というよりも、お友達としてなら、ずっと仲良くしていきたい人だわ――
と感じた。
好感を持ったのは間違いないが、それ以上の感覚に発展するかどうか、今の段階では微妙なことだと思うのだった。
「僕が絵を描くのをやめて写真を撮るようになったのには、もう一つ理由があるんですよ」
と、今度は少ししみじみと慎吾が話し始めた。
「どういうことですか?」
「あれは、僕が絵を描いている時、ある美術館に行った時のことなんです。絵を描いていると美術館に行きたくなるのも無理のないことでしょう?」
「ええ、そうですね」
美術館の絵と自分の作品を見比べるなどという大それた考えではないが、少しでもプロの絵に近づきたいと思うのは、自分だけではなく、絵を描いている人が皆同じことを考えているのではないかと思った。
「その時、ある絵を見たんですが、その絵に見覚えがあるという気がしたんです」
「どんな絵だったんですか?」
「確か風景画で、手前には大きな川が流れていて、奥には山が見えました。山と言っても小高い丘と言った方がいいくらいのところで、その麓にお城があったんです」
「どんなお城なんですか?」
「お城と言っても日本の城ではなく、西洋の城なんですよ。中央にはまるで大きな鉛筆でも突き立てたかのような城だったんですが、その絵を見ていると、どんどん自分が引き付けられるような気がしてきたんです」
「その絵に見覚えがあった?」
「ええ、でもいつどこで見たものなのかまったく覚えていなかったんです。どこで見たのかということを思い出そうとしていると、次第にその絵に自分が本当に引き込まれていくような気がしてきて、そこからどんどんズームアップしていって、今度はその城を自分が真上から見ているような錯覚に捉われたんです」
「ひょっとして、以前に見たと思ったのは、そのズームアップした絵だったんじゃないですか?」
と永遠がいうと、
「ええ、その通りなんです。城の上から見ている光景を想像していると、これこそ前に見たことのある絵だって思えてきたんです」
「あとから感じる本当のことを、最初に感じてしまったということでしょうか?」
「状況を額面通りに表現すればそういうことなんでしょうけど、僕には少し違うイメージがあったんですね」
「それはどういうイメージですか?」
と永遠が聞くと、
「イメージというよりも、記憶がよみがえってきたというべきなのか、実際に見ている絵は遠くから城を見ている光景でしたからね。だから、よみがえってきた記憶をハッキリさせようという意識の元、ズームアップに繋がったんじゃないかって思うんですよ」
分かるような分からない漠然とした話だった。
慎吾は話を続けた。
「その絵の中に誰かがいたような気がしたんです。小さくて分からなかったんですが、よく見てみると、相手もこっちを見上げていて、目線は最初から合っていたような気がします」
「それで?」
「そこまで来ると、記憶が途切れてしまうんですが、何か後ろから声を掛けられた気がするんです。何て声を掛けられたのか覚えていないんですが、その言葉に振り返ったところで記憶は途切れています」
「それは本当に絵だったんでしょうかね? 夢だったということは?」
と永遠がいうと、
「そうだったのかも知れないんですが、夢だったのだとすれば、記憶がよみがえってきた時に、それが夢の中だったということを意識するものではないかと思うんです。それがないということは……」
「夢ではなかったと?」
「ええ、そういうことです」
永遠は彼が何を言いたいのか、思案していた。
「実は僕、箱庭療法を受けていたんです」
「箱庭療法?」
「ええ、心理療法の一つなんですが、箱庭の中に何を置くかによってその人の深層心理をあぶり出すというものです」
永遠も箱庭療法というものがあるということは知っていたが、詳しくは知るわけではなかった。
「何か病気だったんですか?」
と永遠が聞くと、
「自閉症と診断されたらしいんです。ただ軽いもので、心理的なところを診るのに、箱庭療法が使われたということなんです」
「それはいつ頃のことなんですか?」
「まだ幼稚園くらいの頃の幼児だったと記憶しています。小学校に入学する頃には治ったということなんですが、僕も記憶の断片にあるだけで、どんな治療だったのかも覚えていません」
「そうだったんですね」
知り合ったその日に、いきなり過去の病気の話にまで触れるというのはどういうことなのだろう? 普通であれば、隠そうとすることではないか。
性格的に実直な人であれば、誰かと付き合うのに、自分のすべてを知っておいてほしいと思う人もいるだろうが、お見合いパーティでその日に知り合っただけの相手にそこまで話すというのは、永遠には信じがたいことであった。
「実は僕が城の絵を見て、どこかで見たことがあるような気がすると思ったのは、その箱庭療法の時期に見た絵が影響しているんじゃないかって思うんです。もちろん、どんなものを見たのかまでは覚えていませんが、覚えていないことを思い出したということであれば、その頃の記憶だったのではないかと思うのも、自分にとって不思議なことではないと思っています」
慎吾の話を聞いていると、信じがたいと思えることも、不思議と納得がいくことなのではないかと思えてくる。
「絵の中のお話に、まだ続きがあるんですか?」
さっきの話が中途半端だと思った永遠は、その続きが気になって聞いてみた。
「ええ、そうなんです。でも、その前提としてどうしても箱庭療法を受けていたということと、その頃の記憶をたまに思い出すということをどうしても言っておきたかったというのも本音なんですよ」
と慎吾は答えた。
「ええ、僕が絵を見ていて、急に真上からズームアップされて見えるというところまでお話しましたよね」
「ええ」
「そのズームアップした絵の中にいた誰かと僕は目が合ったような気がしたんです。思わず目を逸らしてしまいましたが、その時、思わず僕は瞬きをしてしまったんです。すると、今度は自分の目線は急に上を向いているような気がしたんです」
「ひょっとすると、絵の中に入り込んだような気になって、絵の中を見ている自分と目が合ってしまったという感覚ですか?」
と永遠は言った。
「ええ、その通りなんです。よく分かりましたね」
「お話を聞いていて、何となくですが、そういうお話ではないかと思ったんです」
と永遠は言ったが、実は永遠にも同じような思いをしたことがあった。
そのことを永遠は敢えてここで話そうという思いはなかった。慎吾は自ら聞いてほしいと思って話をしているのであって、それに永遠が合わせる必要はない。逆に冷静になって抑えを利かせるくらいの方が、お互いにいいのではないかと思ったほどだった。
慎吾は永遠の気持ちを知ってか知らずか、それ以上のことを詮索するつもりはなく、自分の話を続けた。
「僕は絵画や写真などの芸術的なことに大いに興味を持っていて、芸術的なことに一度は首を突っ込んでみたいと常々思っていたんですが、音楽だけはどうしてもできないと感じて、最初から首を突っ込むことはしませんでした」
またしても、話が飛躍した。
――この人は一体何を言いたいのだろう?
と、永遠は思った。
永遠が戸惑っている様子を見て、彼が面白がっているかのように見えたのが少し癪に障ったが、その思いを顔に出すことはしなかった。
彼はそれをいいことに、さらに話を続ける。
「どうして音楽ができないと思ったのかというと、音楽というのは、両手で何でもこなさないといけないことって多いじゃないですか。ピアノにしてもギターにしても、両手を使う。しかも、その両手が同じ動きをするのではなく、左右でそれぞれの役割を持っていて、別々の動作をすることで音を奏でることになるんですよ。僕にはそれができなかった。右手で何かをすると、左手も左右対称の同じ動きをしてしまうんです」
左右対称という言葉を聞いて、鏡という世界を想像した。それは閃いたというよりも、咄嗟に思いついたと言った方がよく、その時、慎吾と同じことを考えることができるのではないかと感じたのだ。永遠はその話も慎吾にしようとは思わず、再度自分の心の内に止めておいた。
「絵の中から絵を見ている自分を見たと一瞬感じましたが、また瞬きをしてしまって、すぐにその感覚を錯覚ではないかと感じてしまいました。きっと錯覚だったんでしょうが、時間が経つにつれて、ふとした時に、その時見た一瞬の光景を思い出すようになったんです。しかも鮮明にですね」
それが彼のいう「左右対称」とどういう関係があるのだろう。
永遠はすぐにその発想に行きついたわけではないが、いろいろ思い描いているうちに、最終的にその発想に至ったのだ。
鏡の中の左右対称は、物理的な左右対称であるのに対し、彼のいう鏡の中の左右対称は、いわゆる「心理的な左右対称」と言ってもいいのではないだろうか。それを意識させる一番の表現がさっき彼が言った、
「音楽における左右対称」
というイメージに繋がっていくに違いない。
左右対称というと、絵を描く場合では、
「たやすい部類になるのではないか」
と感じたことがあった。
ただ、左右対称と言いながらも、本当の左右対称がどれほどあるというのだろう。左右対称に見えて、微妙に違っていることも大いにあるのではないだろうかと永遠は思うのだった。
確かにバランスを重視して、どこから描きだせばいいのか考える場合、左右対称のものであれば、真ん中さえキチンと認識できていれば、何とかなるというものだ。最初は分かっていなかったが途中で気付いた時には、
――絵を描くというのもまんざらではないわね――
と感じたものだった。
――彼も同じことを感じたのだろうか?
永遠は、慎吾にも同じような思いがあったのではないかと感じた。
ただ、彼が絵画をやめたのはこの左右対称がどこかで影響しているのではないかと思うと、何か皮肉な感じがしてくるのだった。
「でも、左右対称って、絵を描く上では、却って都合のいいものなんじゃないかしら? 最初の筆の落としどころも迷うことがないような気がするけど?」
と永遠がいうと、
「確かにそうなんだけど、本当に左右対称に見えるものでも、本当に左右対称なのかって考えると、絵を描いていて分からなくなってしまうんだ」
と、彼は永遠が感じたことをそのまま感じているようだった。
「それはどういう意味で?」
「左右対称に見えるものであっても、距離が違っていれば、微妙に見えるものも錯覚になってしまうでしょう? 僕は錯覚から先に考えてしまって。左右対称に見えるものも信じられない気がするんだ」
「鏡に写ったものも?」
「僕は微妙に違っているように思えるんだ。それは視覚に訴えるものではなく、感覚的なもので、いわゆる時間差のようなものではないかと考えているんだ」
「時間差?」
「ええ、自分で見る時は鏡に写っているものは見えても、本当の自分を見ることはできないでしょう? だから他人の目が必要になる。その人は鏡の中の自分と、本当の自分を同時に見ることなんてできないじゃない。どんなに急いで振り向いても、若干の時間差が生まれる」
「それが時間差だというの? もしそうだとしても、そんな一瞬で違うという感覚を感じることなんかできるのかしら?」
「その一瞬が大きいかも知れないよ。鏡の中に見えていたものが実際にはなかったり、実際に見えているものが鏡の中にはなかったりするかも知れない。だって同時に見ることはできないんだからね」
「でも、鏡と被写体の延長線上に自分を置いて、さらに自分の後ろに鏡を置いたら?」
と永遠は言った。
言った後に、
「あっ」
と思ったが、彼がニコリと笑ったことで、彼にも分かったような気がした。
「そんなことをすれば、無限ループに嵌りこんで、左右対称どころの騒ぎではなくなってしまうよ。鏡の中の自分が後ろの鏡に写って、さらにそれが前の鏡に写る。想像してみればいい」
言われるまでもなく、永遠は想像してみたが、
――きっと彼も同じ発想を頭に抱いているんだろうな――
と感じた永遠だった。
「そんな僕が最近になって、二重人格なんじゃないかって思い始めたのも、そういう意識があったからなんだ」
と慎吾は言った。
「二重人格なんですか?」
「僕は、左右の手で別々のことができる性格ではないので、二重人格ではないと思っていたんですよ」
という慎吾に対して、
「えっ、左右で別々のことができることと二重人格って関係があるんですか?」
「さっきも話したように、絵を見た時に、見ている方とみられている方の両方を感じた時、左右の手で別々のことができない自分を意識したんです。そこで自分に対して矛盾を感じたことで、自分が二重人格なんじゃないかって思うようになったんです」
「それで実際に二重人格のような何かがあったんですか?」
「二重人格というわけではないんですが、僕は精神年齢が本当はもっと上なんじゃないかって思ってしまったんです。三十代や四十代ではなく、五十代くらいに感じることがあるんですよ」
「でも、それって今までに歩んできた年齢ではないので、五十代というのがどういう感覚なのかって、ただの想像でしかないですよね。それなのに自分の精神年齢が五十代だって思ったんですか?」
「ええ」
永遠は彼のまっすぐに自分を見つめる目を見て、彼がどうやら嘘や冗談を言っているのではないということは分かっていた。
そして、彼が今まで傾けてきたウンチクは、自分が二重人格でしかも精神年齢が五十代であるということを言いたいがための前提ですかないように思えて、妙な気分にさせられた。
また少し会話が止まってしまったが、それは彼が何を言おうか考えているわけではないようだった。むしろ頭の中を整理できていない永遠が、頭の中の整理を待っているかのようだった。
「実は、僕にはもう一人の自分がいるんですよ」
いい加減ここまで唐突な話に付き合ってきたが、さすがにここに至っては、信じられない気持ちになってきた永遠だったが、なぜか怒る気になならず、落ち着いた口調で返事をした。
「どういうことなんですか?」
永遠の口調が落ち着いているだけに、相手とすれば、言葉の裏には怒りがこみあげてきているのが分かりそうなものだが、慎吾の方も落ち着いていた。
ここまでくればお互いに落ち着きという我慢合戦でもしているかのようだった。
「もう一人の自分という発想は、本当に発想でしかないんですが、それは僕の身体の中にもう一人の性格が潜んでいるということではないんです。本当に僕という人間が、別の人間としてこの世に、同じ時間をどこかで生きているように思うんですよ」
「言っている意味がよく分からないんですが」
と永遠は若干戸惑っていた。
「それはそうでしょうね。僕がずっと考えていることを、いきなり他人である永遠さんに言って、分かるはずもないですよね。でも、逆に僕は聞いてもらうだけでいいんです。実際に考えている僕にも信じられないことなんですからね。そういう意味でも、僕は二重人格なんじゃないかって思うんです」
「それは、信じがたいことを考えている自分と、そんなことを考えている自分を表から冷静に見ている自分ということですか?」
「いいえ、そうじゃないんです。信じられないと思いながら理解しようとしている自分と、最初から理解している自分との二重人格なんです。その二人は他の二重人格と言われる人のように、片方が表に出ていれば、片方が裏に隠れていて、同時に表に出てくることができない二重人格と違って、僕の場合は、両方が表に出ている二重人格なんです」
「ということは、片方は表に出ていながら、黙っているというだけのことなんですか?」
「それも違います。どちらも表に出ているんですが、出ているだけで矛盾が起こってしまっている。両方の手で、別々のことができないのは、それぞれの自分をうまく後ろに隠すことができないからなんじゃないかって思うようになりました。音楽ができないと思っている人でも左右同時に別々のことができない人であっても、練習すればできるようになると僕は思っています。でも僕のようにもう一つの人格を意識できていて、両方表に出ている人には、どうしても左右同時に別々のことはできません。その反動と言ってもいいのかも知れませんが、もう一人の自分がこの世に存在しているということを信じられないと思いながらも信じることができているんでって思います」
という慎吾の話に、さすがの永遠もついていけなくなっていた。
それでも、聞かないと気が済まない。分からないだろうと思いながらも、彼が言いたいことを聞いてしまわないと、絶対に後悔すると思ったのだ。
「ところでそのもう一人の自分というのはどこにいるんですか? あなたは見たことがあるんですか?」
と永遠は二つ質問した。
彼は、落ち着いているが、その質問が連携しての質問であることは分かっているので、最初から周知していたに違いない。
「会ったことはありませんが、見たことはあります。どこにいるのかは実際には僕にも分かりません。僕自身、最初は信じられなかったので、近づくことができませんでした」
「でも、よくそれがもう一人の自分だって分かりましたね。そんなに顔が似ていたんですか?」
「永遠さんも分かっていらっしゃるかと思いますが、自分の顔というのは、写真に写してそれを見るか、鏡に写っている顔を見るくらいしか見る方法はないと思うんですよね。だから自分の顔を毎日のように見ているナルシストの人でもなければ、もし自分に似た人が目の前を歩いているとしても、意識などすることはないと思うんですよ。逆に顔が似ているわけでもなく、無意識にでも引き合う感覚があれば、そっちの方が信憑性が高いと思いませんか?」
「確かにそうですね。じゃあ、あなたはその人とインスピレーションが合致するか何かを感じたんですか?」
「いいえ、そうじゃありません」
さすがに永遠もここまで自分の返答を否定され続ければ、面白くない。
怒りがこみあげてくるのをグッと堪えて、
「じゃあ、どうしてわかったんですか?」
と永遠がいうと、慎吾はにんまりとした表情を浮かべて、一歩間違うと永遠の逆鱗に触れるかのようだった。
「それはね。その人の存在を僕が自分で分かったわけではないんだよ。僕と一緒にいた人が教えてくれたんだ」
「それは誰だったんですか?」
「僕の母親です」
「お母さん?」
「ええ、母は昨年亡くなったんですが、亡くなる半年くらい前のことで、その時病院に入院していたので、病院の庭を車いすの母と散歩している時、『あれ、あなたの子供の頃にソックリだわ』と言われたんです。その時に母が示したその子供は、まだ小学生の低学年くらいの子だったんですが、僕には小さい頃の自分とは似ていないと思ったんですが、母は似ていると言い張ったんです」
「じゃあ、もう一人の自分というのは、子供の頃の自分だというんですか?」
「ええ、そうです」
この期に及んでは、永遠も彼が何を言いたいのか、意地でも知りたくなっていた。
「ただの他人の空似なんじゃないですか?」
わざとまるで相手が冗談でも言っているかのように言い捨てるような言い方をしたが、本心では、彼の思いを推し量っていたのだった。
「僕もそう思ったんですが、じっと見ているうちに相手の子供が友達にこう言ったんです。
『もう一人の僕がいるんだよ』ってですね」
永遠はその言葉を聞いて、背筋に寒気が走った。
まるで電流でも流されたかのような衝撃を感じたが、よくよく考えてみると、永遠は彼の返事を分かっていて聞いているかのようにも感じられた。
あたかも当たり前のような質問に対して、彼はことごとく違うという回答をする。最初はいら立ちを感じたが、それでも話を逸らそうとせず、次第に話の中に引き込まれていく感覚は、最初から答えを予期していたように思わせる何かがあったに違いない。
永遠は黙り込んでしまったが、彼はさらに続けた。
「その子は友達に車いすを押してもらって散歩していたんだけど、そのうちに母親らしき人が現れて、その子たちと一緒に歩き始めたんだ。その母親に見覚えがあり、よく見ると僕の母さんの若かった頃によく似ていたんだよ」
永遠は、
――それこそ、錯覚なんじゃないか――
と思ったが、否定はできなかった。
ひょっとすると否定してほしいのかも知れないと思ったが、慎吾が自分で否定してしまうと、自分が押している車いすに乗った母親が目の前から消えてしまうのではないかと思ったに違いないと感じた。その時の慎吾の心境を思い図ると、永遠には否定する言葉を投げかけることは失礼に当たると感じた。
「それからその二人はどうなったんですか?」
「僕が気にしているというのが分かったのか、母親の方が僕の方を見返して、ニッコリと笑ったんです。僕は金縛りに逢ったかのように動けなくなり、それをいいことに、二人は僕の目の前から離れていきました。角を曲がってからは完全に見えなくなり、結局その二人と二度と会うことはなかったんです」
「じゃあ、その子がもう一人の自分だということは、分からなかったということでもあるんですね」
「ええ、そうです。だからこの話は今まで誰にもしたことがなかったんですが、今日永遠さんと出会って、なぜかこの時のことを思い出したんです」
永遠はその話を聞いて、また黙り込んでしまった。彼も今度は何も言おうとはせず、永遠が話すのを待っているかのようだった。
永遠は慎吾の話を考えていたが、ふと何かに閃いた気がした。
「以前に読んだ小説で、『五分前の女』というのがあったんですが、今のお話を聞いて、その物語を思い出しました」
と永遠は話した。
慎吾は永遠が唐突に小説の話を始めたことに少し驚いているようだったが、その目は興味津々であった。
「それはどんなお話なんですか?」
「一人の女の人が主人公なんですが、彼女はいつも自分が行く先々で、『また来たの?』と言われることが多くなったらしいんです。それもいつもその人が帰った後の五分後に主人公が現れることからタイトルが五分前の女という話になっているんですが、どうやら五分前の女がもう一人の自分という設定になっていました」
「それで?」
「五分前の女は五分後の自分のことを知っているようで、ライバル心をむき出しにしているようなんです。そんな彼女と違って主人公の性格は控えめで、五分前のもう一人の自分の存在も、怖くて認めることができないという設定になっていました」
「なるほど、分かる気がします。五分前の女は自己顕示欲が強くて、五分後の女はまったく正反対の性格だということですね?」
「ええ、そうです。でも主人公とまったく正反対の性格だということは、主人公からすれば、非常に分かりやすい性格でもあるんですよ。自分が絶対に考えないようなことを彼女がするのだと思えば言い訳だからですね。主人公は小説では二十四歳の設定になっているんですが、五分前の女の存在を知ったのは、一年くらい前だということなんです。どうしてそれまで知らなかったのかということをずっと考えていたけど、二十四歳になってやっと分かったと書かれていました」
「どうして分かったんですか?」
「それは、もう一人の自分の性格が自分とは正反対だったからです。二十四歳になった彼女は、自分と正反対の性格の人を想像してみたらしいんですが、そう思うと、急にまわりが、五分前の女の存在を仄めかすようになったんですよ」
「まるで図ったかのようですね」
「そうですね。でもそれが小説の小説たるゆえんだと言えるのではないでしょうか。ストーリーとして描くには帳尻を合わせる必要もあるでしょうからね」
「フィクションというのは、そういうものなんでしょうね」
「でも、その小説を作者は、自分の経験を描いたというようなあとがきを書いていました。経験というのが、意識の中の経験である場合もあるので、一概にはノンフィクションだとは言えないとは思いますが」
永遠はそこまでいうと、再度言葉を途切った。
何かを考えているように見えたのは、ひょっとすると、小説をもう一度思い出しなおしているのかも知れない。
「永遠さん、それ本当に小説なんですか?」
慎吾は何を思ったのか、永遠に聞いた。
「どうしてそう思われるんですか?」
「実は、今永遠さんから小説のお話を聞く以前に、僕も同じような発想をしたことがあったんです。もちろん、似たような小説を見たわけではないんですが、普段から何かを考えることの多い僕なので、人と似たような発想をすることも多いと思っていたのですが、そう思って思い出してみると、似たような話を想像したのを思い出しました。だから、このお話は小説ではなく、永遠さんの創作なんじゃないかって感じたんです」
「どうしてですか?」
「どうしてなんでしょう? ひょっとすると僕の願望なのかも知れません。今のお話は似たような話というよりも、まったく同じ発想をしたというイメージがあったんです。それであれば、小説というより、せっかくであれば、永遠さんと同じ発想であったのなら嬉しいと感じたからだと思います」
永遠は慎吾の話を聞いて、不思議な気分になった。願望というよりも彼の勝手な都合と言った方がいいのに、永遠は彼に指摘されたことに驚愕した。
彼の言っていることは本当で、これは小説の話ではなく、永遠が咄嗟に思いついた発想だった。
それも以前から考えていたものではなく、彼と話をしているうちに思いついた話だったのだ。
――ひょっとすると彼の話もそのほとんどが咄嗟の思い付きなのかも知れないわ――
と感じた。
根拠があるわけではないが、自分の発想を彼が見抜いたことで、彼も同じような思いがあり、それを永遠よりも先に指摘することで自分の発想の根源を抹消しようと考えたのかも知れない。
――何のために?
何か理由がなければ抹消する必要などないだろう。
永遠は彼と話をしているうちに、お互いに腹の探り合いというよりも、自分の中の発想を表に出しながら、それでいて、根本的なことを闇に葬ろうという意識があるように思えてならなかった。
「ところで五分前の女は、結局どうなるんですか?」
これは小説ではないということを看破しおきながら、永遠にその経過を聞くというのは、彼がこの話を小説としてではなく、さらに、永遠が咄嗟に思いついたお話であるということを分かってのことであろうか。
永遠は少し考えてから、我に返ったように話し始めた。
「五分前の女は主人公である五分後の女の考えていることはすべて分かっていたんです。でも五分後の女は、逆に五分前の女のことをまったく分かっていなかった。何を考えているのか想像もつかない。それだけに怖がっているのだし、自分の中だけでも彼女の存在を抹殺しようと思っていたんです」
「二人の性格を考えるとそうなるんでしょうね」
「ええ、五分前の女は五分後の女が自分に決して追いつけないことを知っていた。しかし、実際には怖がっていたんだと思います。もしも彼女が五分後の自分に追いついてくれば、五分後の女が今の自分に乗り移って、自分という存在が抹消されてしまうと考えていたからですね。だから余計に五分後の自分を意識して、追いつかれないようにしようと思っていたんです」
「追われる方が追うよりお何倍もきついと言いますからね」
「ええ、そのうちに疑心暗鬼になってしまい、五分前の女は五分後の女の存在を知りたいと思うようになります。逆に五分後の女は五分前の女の存在を認めたくない。それでも五分前の女が自分を知りたいという疑心暗鬼からの思いが、五分後の主人公に五分前の女の存在を確定させる根拠のようなものwp与えてしまった。つまりは、五分前の女は墓穴を掘ってしまったというわけです」
「じゃあ、永遠さんとすれば、二人はいつかは遭遇することになるんですよね」
「ええ、そうです。遭遇させなければ、物語は進展しませんからね。でも本当に出会うということはありえないと思っています。それこそタイムマシンにおけるパラドックスの発想のようなものだって思うんですよ」
「タイムマシンのパラドックスというと、過去に言って歴史を変えてしまうことで、未来に戻っても戻る場所がなくなってしまっているという発想に似ているんでしょうか?」
「厳密には違います。なぜなら私の発想の中の五分前の女と、五分後の女は、もう一人の自分ではないと考えているからです」
「そうなんですか?」
「ええ、あくまでも鏡に写った自分という発想なんですよ。つまりはもう一人の自分という発想がその言葉のニュアンスと違っているんですよ」
「どういうことですか?」
「もう一人の自分の存在という発想は、あくまでも同じ世界に存在しているからこそ、もう一人の自分だって言えるんですよ。鏡の中の自分は、鏡の中という別の世界に存在しているわけなので、私はもう一人の自分という発想ではないという解釈なんです」
「なるほど、確かにそうかも知れませんね。もう一人の自分という発想が同じ世界に存在していることを大前提だとすれば、鏡の中という別世界では厳密の意味でのもう一人の自分ではないということですね」
「ええ、その通りです」
永遠の話を聞いて、慎吾は納得したのだった。
「僕がもう一人の自分の存在を最初に感じたのは、自分の中にもう一人の自分を感じた時だったんだ。それがいつだったのかは覚えていないんだけど、よく夢にもう一人の自分が出てくるようになって、そのことがもう一人の自分の存在を無視してはいけないと思わせるようになったんだ」
と慎吾がいうと、
「そういえば私ももう一人の自分が出てくる夢を時々見ることがあるわ」
と永遠が返した。
「そうなんだよ。誰もがもう一人の自分が夢に出てくるということを意識はしていると思うんだ。でも誰も何も言わない。言ってはいけないタブーになっているということを無意識のうちに感じているのか、それとも自分だけが感じていることなので、他人に言うと笑われるという意識があるのかなどいろいろ考えてみた」
慎吾は永遠が自分と同じような夢を見ると言ったことで、思った以上に興奮しているようだった。
「それでどう思ったの?」
「僕は、もう一人の自分を夢に見た時というのは、決まって怖い夢を見たと感じて夢から覚めるんだ。だから、怖いという意識があることで、皆、人に喋らないんじゃないかって考えているんだ」
「なるほど、そうかも知れないわね」
「これは僕が思っていることなので、他の人がどう感じているのか分からないんだけど、夢というものについて少し考えてみたいんだ」
「私も夢というものを時々考えることもあるわね。夢というものがどういうものなのかって、実際に言われていることと比較して考えてしまうわ」
「実際に言われていることというと?」
「私が夢に対して感じていたことを言葉にして表現した内容で、しっくりくるものとすれば、『夢というのは、潜在意識が見せるものだ』ということになるのよ。潜在意識というのが自分の中でどのようなものなのかって漠然としていて分からなかったんだけど、それが夢と結びつくことで、潜在意識と夢という二つの漠然としたものを一挙に理解できるものにしてくれるんじゃないかって思ったことがあるわ」
と永遠がいうと、慎吾は何度も
「うんうん」
と頷いて、さらに興奮しているかのようにも感じた。
しかし、少々の興奮も慎吾という人間の元から持っている落ち着いた佇まいに興奮の度合いががハッキリとは分からなかった。
「僕は夢を見ていて、基本的には目が覚める時には忘れるものだっていう意識があるんだ。目が覚めるにしたがってというべきかな? だから目が覚めてから忘れてしまったと意識することもあるし、夢から覚める途中を意識していることで、目が覚めてから忘れる過程を覚えていることもある。でも、夢の内容を覚えていることもあるんだよ。そんな時は決まって怖い夢を見る時なんだ」
と慎吾がいうと、
「それは私も同じことです。でも、私はもう一つその先を感じたことがあります」
「どういうことですか?」
「夢というのは、時々見るものではなく、眠っている時に必ず見ているんじゃないかって考えているんです。だから、目が覚めてから覚えていないのは、夢の内容だけではなく、夢を見たということ自体を覚えていないということなんです」
「なるほど、それも一理ありますね。僕も考えたことがあったけど、なぜかその時はすぐにこの考えを打ち消した気がします。どうしてだったのか覚えていないんだけど、考えてはいけないことのように思ったんでしょうね」
「私は、さっき慎吾さんの話を聞いて考えたんですが、夢を見たということすら忘れているという時、その時夢を見ていたのは、本当は自分の中にいるもう一人の自分なんじゃないかって思ったんです。もう一人の自分の見る夢は決まっていて、別人であるもう一人の自分の存在を意識して見る夢なんじゃないかって思うんです」
「それは突飛な考えですね。でも、今の永遠さんの発想を聞いて、何となく目からうろこが落ちたような気がしましたね。僕が覚えている怖い夢の中で一番怖いと思っている夢は、夢の中でもう一人の自分が現れた時なんですよ。それも夢を見ている自分のことを夢に出てきた自分は気付かない。気付かれてしまうと終わりなんだという意識があって、夢の終わりというのは、その結末で、もう一人の自分に見つかってしまうということなんですよ」
「確かに恐ろしいと思います。サイコホラーを見ているような感覚ですが、もう一人の自分というのは、頭の中で認識しているだけの架空の発想なだけに、余計に恐怖を煽ってしまうんでしょうね」
永遠は、慎吾の話を聞きながら、自分の夢を思い返していた。
夢の中でもう一人の自分が現れた時、慎吾のいうように気付かれてしまった時が終わりだという発想も持っていた。
だが、その夢はいつも肝心なところで終わっている。最後にはどうなってしまったのか夢がそこで終わってしまったのか分かっていない。分かっていないが終わってしまったという意識を持つことで、夢を覚えているのだと考えると、永遠の中では納得がいくのだった。
慎吾は少し考えていたが、
「さっきの永遠さんの話で大いに興味を持ったのが、夢というのは、眠りに就けば必ず見るものだという発想なんです。その発想が夢を見たということすら忘れてしまっているという発想に繋がる。僕がその発想を持たなかったのは、夢を見たことすら忘れてしまっているんであれば、本当に見たということを証明することができないという不可能なことを考えないようにしていたのではないかと思うんです」
「人というのは、えてして自分で納得のいかないことを、わざわざ考えるようなことはしないものです。無駄な労力は使わないということなんでしょうか。でも私はたまにその無駄な労力を無性に使いたくなるんです。どうしてなんでしょうね」
「さっきの永遠さんのお話に繋がるものがあるんじゃないですか? 夢を見たことすら覚えていない夢を見ているのは、自分の中にいるもう一人の自分だっていう発想ですね」
「でも、夢の中にもう一人の自分が出てきた時は、怖い夢だという意識を持ちながら、決して忘れることはないんですよ」
「でも、夢を見たことすら忘れているその夢の内容が、もう一人の自分が本当の自分を見て驚いた時だという発想にどうして至らないんですか? それはもう一人の自分から見た逆転の発想のようなものなんじゃないですか?」
「そうかも知れません。私もあなたにはない発想を持っているようなんですが、肝心なところでいったん考えたことが反転して元に戻ってしまう。人に話すことで自分が納得のいかないことを理解できるということもあるんだって、再認識しました」
「もう一人の自分が見ている夢が、別人のもう一人の自分なのか、肉体を同居している本当の自分なのか、その時々によって違っているのかも知れないけど、実際にはどっちが多いんでしょうね」
「本当の自分を見る方が多いように思うんですが、逆のことを今私は考えています。普段覚えている自分が、もう一人の自分の夢を見るんですよね。ということは夢に出てくるもう一人の自分も、その時同じ夢を見ているんじゃないかって思うんです。つまり私が怖い夢を見ているのを覚えている時だけ確実に同じ夢をもう一人の自分も見ているというですね」
「ということは、一人の人間が人格に応じて別々に夢を見ているということですか?」
「ええ、でも、同じ人が二つの夢を見るというのは、やはり理屈に合わない気がするので、お互いに夢を見ているとすれば、その夢は同じ夢なんじゃないかって思うんです」
「それは夢の共有ということですか?」
「ええ、私は以前読んだ小説で、夢を共有している人の話を見たことがあったんですが、それはあくまでまったく違う人の夢の共有だったんです。それは当然のことで、作者にはもう一人の自分という発想がないと思っていたからなんですね」
「違ったんですか?」
「最初はそう思っていたんですが、その人の別の小説に、もう一人の自分という発想を描いた小説があったんです。そのお話はさっき出てきた五分前の女という小説の発想に似てはいましたが、若干違っていました。そのお話は別人のもう一人の自分を描いた小説だったんです」
「じゃあ、自分の中のもう一人の自分ではないということになるので、主人公がもう一人の自分を意識するに至るまでというのは、結構難しく描かれていたんじゃないですか?」
「ええ、まさしくその通りなんです。描かれているもう一人の自分は主人公とはまったく違った風貌だったんです」
「どういうことですか?」
「その人は二十年後の自分だったんです。どうしてその人が二十年後の自分だと分かったのかというところまでは覚えていませんが、もう一人の自分は過去の自分に、もう一人の自分だということを意識させてはいけないという宿命を持っていました。つまりは彼は知っていて、何も言うことができなかったんです」
「それは、過去の自分に未来を教えてはいけないという発想と、未来の自分が過去を変えてはいけないという発想になぞらえていると考えればいいのかな?」
「その二つは同じ発想に思えますが、微妙に違っているんです。それが小説のオチであり、二人の運命を決めることになったと思います」
永遠と慎吾は、お互いに黙って考えていた。
その中身はどうやらまったく違っていたようだが、どこか相手の気持ちがお互いに分かっているようだった。
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