悪循環の矛盾
森本 晃次
第1話 お見合いパーティ
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。
今年は例年になく、夏が短かった。暑かった時期は八月に入ってからの数週間ほどで、八月も終わりころになると、暑さは和らいでいた。今年就職してから三年目を迎えた高村永遠は、事務の仕事に従事しながら、人知れず婚活をしていた。
お見合いパーティなどにも何度か参加したが、いい結果が出ることもなかった。同じようなパーティに何度も参加していると、男性参加者にも見覚えのある人が増えてきて、
――またこの人か――
と思うとウンザリしてしまう。
相手も同じことを思っていることはその顔を見れば一目瞭然、お互いにため息を漏らしてしまったが、それを恥ずかしいと思わない自分に腹が立つ。
しかも、相手がかすかに笑ったのを見て、こちらも苦笑いを返していたが、それが二人とも同じことを考えていた証拠だと思わせて、そのことの方が恥ずかしかった。
普段参加している結婚パーティというのは、男女がそれぞれ十人程度参加しているもので、いくつかのパートに別れている。
最初は、与えられた番号の席に、男女が対面して座るというもので、時間になると、最初に主催者から進行についての話があり、最初のパートに入る。最初のパートでは、まず三分程度の時間で、目の前にいる相手とのフリートークが始まり、時間になると、男性が隣の席にずれていくというものだ。均等に三分ずつの会話で、相手を観察し、最後までいけば、次のパートではフリータイムということになる。フリータイムは数回に分けられているが、約十分くらいの時間が一回に割り振られる。ここでそれぞれ少し深い話ができるというわけだ。
フリータイムになれば、人気のある人には男性も集中する。だから、数回フリータイムがあるわけだが、女性によっては、誰も近寄ってこない人もいて、気の毒なくらいにも思えた。
だが、それも仕方のないこと。
永遠のように何度も経験していると、小慣れてきてしまい、新鮮さがないことから、男性から敬遠されてしまうのだ。
それも仕方のないことで、お見合いパーティなどというものの会話はたかが知れていて、マニュアル化されているも同然で、話すことなど決まっている。毎回同じことをしていると、新鮮さなどどこにあるというのか、そんなことは分かってはいるが、それでも誰かいい人がいないかという淡い期待を毎回抱いている永遠だった。
パーティの趣旨はいくつかあり、年齢層で分けられているものであったり、真剣に結婚を考えている人のパーティから、まずは知り合うことを前提にしてという入門編的な趣旨のものもあった。
最初は、
「何が何でも結婚」
と意気込んで参加したが、参加してみて分かったことは、
――この世界にも年功序列や、先輩後輩のようなものが存在している――
ということだった。
新人さんは男性からは新鮮に見られるが、そこで目立とうなどとすると、まるで
「出る杭は打たれる」
ということわざにあるように、何度も参加しているベテランの人から疎まれる危険性があった。
最初の頃の永遠は、
――何よ。こんなところで先輩風吹かせていたって、自分が情けないだけじゃないの――
と心の中で反発していたものだが、実際に何度も参加しなければいけない立場に追いやられてしまうと、新人の女の子がまるで目の上のたんこぶのように感じられた。
――この小娘が、出しゃばるんじゃないわよ――
と言わんばかりにいつの間にかなってしまっている自分に愕然としたものだ。
しかし、ここまでくれば後戻りできるはずもなく、パーティへの参加を強行していた。意地というわけではないのだが、どこかでパーティへの期待をしている自分の存在に気づかされる。実際にパーティが始まると、自分が毎度同じことを繰り返して相手に話しているのを感じて虚しくはなるのだが、参加しないという選択肢は永遠にはなかった。
――最初のガツガツしたような態度がいけなかったのかしら?
という反省から、
「何が何でも結婚」
という趣旨のパーティから、今度は、
「異性の友達を求めて」
というタイプのパーティに進路変更してみた。
ここに来ると、年齢も様々だった。
結婚を前提に求めている人は、どうしても三十代が多いようで、女性は二十代もいるにはいるが、まだそこまで切羽詰まっていないと考えたいのか、永遠で女性の中でも若い部類に入っていた。
そのため、最初は男性が永遠に寄ってくる。
「こういうパーティは初めてですか?」
最初の頃はそう言われると、
「ええ、まあ」
と、恥ずかしいという思いと、相手がベテランに思えてくることで頼もしいという思いとから、下を向いているのだが、返事をする時は上目遣いになっていた。
そんな永遠を最初は男性も新鮮に感じていたのだが、毎回同じような態度を示していると、相手にも数回参加しているということが分かるのか、それがあざとく見えてくるようだった。
相手にあざといと思われてしまうと、そこから会話が進むころはなかった。それが、
「何が何でも結婚」
という趣旨のパーティではネックになってしまったのだ。
ただ異性の友達を求めるだけのパーティなら、そんなに切羽詰まった人がいるわけではなく、ギスギスした雰囲気もない。
今までのパーティでの最初のパート、つまり三分間で回っていくシステムでの会話では、内容というと、本当に自己紹介だけで、軽い話しかできない場合が多いが、異性の友達を求めるタイプのパーティでは、年齢であったり仕事などの形式的な話はどうでもよく、そんなことは、PRカードに書かれているのだから、ただそれを読めばいいのだといわんばかりに、誰も聞いてこない。
それよりも、自分が今持っている趣味であったり、聞いてもらいたいことを自分から口にする人が多い。積極的ではあり、熱心に感じるのだけれど、それは決して相手に対して押し付けのようなものではなく、聞いていて、
――もっと、聞いてみたい――
と感じさせるものだったりした。
それは今までやってきた三分間の短い自己紹介が、あまりにも形式的だったということの裏返しであった。
永遠がこのパーティに参加する最初の原因を作ったのは、会社の休憩室で昼休みに他の女性職員たちが、このパーティの噂をしていたことだった。
「お見合いパーティって行ったことがある?」
と聞かれた一人が、
「いいえ、ないわよ。お見合いパーティとかいうと、よほど男に困っているような感じじゃない。意識したこともないわ」
というと、もう一人が、
「あら? そんなことはないわよ。三十歳過ぎくらいまで独身を謳歌してきて、そろそろ身を固めようと思っている人がいるとするでしょう? そんな人にはこのパーティは持って来いなんじゃないかしら?」
というと、今度は最初に話題にした人が、
「そうなのよ。逆に言えば、こういうパーティがあるから、三十歳過ぎまで独身を謳歌しようと思っている人も多いくらいなのよ。そういう意味でいけば、こういうパーティというのは需要も多いというわけなの。それも重宝されているんでしょうね。人気があるところは、結構毎回満員らしいわよ」
「そうなんだ」
と、あとの二人は感動していた。
永遠もお見合いパーティの存在くらいは知っていた。だが、参加する気分になれなかったのは、そんなところに参加して誰かにバレると、自分があたかも結婚を焦っていて、なかなか相手が見つからないように思われるのが嫌だったというのもあった。
だが、この話を聞いてそれまでまったく興味も湧いてこなかったパーティだったのに、一度興味が湧いてくると、それまで毛嫌いしていたこととはまったく違っているのではないかと思うと、次第に気になって仕方がなくなった。
別に結婚を焦っていたわけではないが、実際に参加してみて、結婚に対して真剣に考えていて、ギラギラしたものを感じると、臆してしまう自分を感じたのだ。
――ちょっと怖いわね――
圧倒される感覚に恐怖心を感じたのだが、その恐怖心が、この場所が自分の居場所ではないと感じるところまで行っていなかったことが、さらに永遠を深入りさせてしまうことに気付かせることができなかった。
――最初はただの興味本位だったのに――
実際に参加してみると、会話に入り込めない性格が災いしたのか、なかなか話に乗ることができずに、三分を無駄に過ごしてしまう。当然のごとく、フリータイムになっても、永遠のそばに誰も寄ってくることはなかった。永遠は一人で時間を潰し、まわりの会話を聞いているだけでしかなかった。
会話は多重に聞こえてくる。一組だけの会話を聞き取ろうとするのだが、どうしても他の会話が気になってしまい、一つに集中することができないでいた。
――他人事のように感じているからだわ――
的を得ている考えだと自分でも思った。
――どうしてこういう時だけ、的確な発想ができるのかしらね――
と、自分で自分に呆れていた。
そんな永遠だったが、一人の青年がフリータイムに声を掛けてくれた。見た目は大人しめの青年で、
――他の女性とは不釣り合いだと思ったから私のところに来てくれたのかしら? それとも私なら話ができるとでも思ったのかしら?
というくらいにしか思っていなかったが、それでも来てくれたことは嬉しくて、思わず笑顔になってしまった。
しかし案の定、会話に発展しない。せっかく来てくれたのに会話にならないというのでは、来てくれた意味はないと思うのだが、来てもらった本人からも話題がないのでは、人のことをいう資格はないと永遠は思った。
「あ、あの」
とお互いに同時に声を掛け、
「あっ、いいえ」
とこれも同時にとっさの声を出す。
何とベタな会話なのか、まるでテレビドラマの一シーンのようではないか。自分でもダサいと思いながらも思わず笑ってしまう自分を抑えることができなかった。
相手はいたって真剣な表情をしている。横目に見ていてそれが分かることで余計に笑いを抑えることができなかった。
彼はきょとんとしていたが、心の奥では永遠が笑っているのを見るのは気分のいいものではなかったかも知れない。しかし、それもひっくるめておかしく感じた永遠は、本当に声を出して笑い始めた。
彼の頭にマンガによくある吹き出しのようなものが見えて、そこにはボールペンで丸く書き潰したような描写を感じた。
「面白くない」
と口を尖がらせて、まるで子供がふてくされているかのような雰囲気だった。
またそれが永遠を面白がらせて、本当に笑いが止まらなくなった。
「ごめんなさい」
そう言っている永遠の眼には涙が浮かんでいた。笑いすぎて涙が出てきたのである。
「そんなにおかしいですか?」
彼はまるで子供だった。
「ええ。でも私、こんなに笑ったことって本当はないんです。私がこんなに笑える性格で、しかも笑い始めると止まらなくなる性格だなんて思ってもみませんでした」
というと、
「笑い上戸なんですね」
と彼は微笑んでいた。
その表情に新鮮さを感じた永遠は、本当は笑い上戸ではないと言いたいところだったのだが、
「はい、そうなんですよ」
と素直に答えていた。
最初のパートである三分間の会話では彼への印象はまったくなかった。彼に限ったことではなく、他の誰も印象に残っていない。永遠の心に残った人がいないということは、最初に分かってしまっていたので、その日の後半は、本当に他人事でしかないはずだったのだ。
――今日で何回目の参加になるんだろう?
と、最初の三分間パートが終わってから思った。
すでにその日は終わったことを自覚した永遠が、ふと感じたことだった。
ただ、そもそも会話にならなかった理由は、永遠が悪い。自分から話をすることはおろか、相手から聞かれたことに対しても、ほとんど声にならないような、まるで蚊の鳴くような声でしか答えていない。
「えっ?」
と何度も聞き返され、そのたびに、もう一度同じことを繰り返す。
一度言うだけでも恥ずかしいのに、二度も言わなければならないのはいくら自分が悪いとはいえ、自分でもどうしていいのか迷ってしまう。
そしてその時初めて、その日このパーティに参加したことを後悔する。
――一体私は何を期待していたんだろう?
行動に出せないくせに期待だけしていては、前に進むものも進まないということは分かっているはずなのに、どうしてこんなに後になって後悔してしまうのか、自分でもよく分からなかった。
だが、その日は今までに感じたことのない思いが永遠にはあった。何かくすぐったいような感じがして、
――そうだ、目を瞑っているところで、誰かにくすぐられているような雰囲気なんだわ――
と思った。
本当にそんなことをされたことはなかったが、妄想したことはあった。テレビのバラエティでやっていたのを学生の頃に見た気がする。ただ、その時に何かを感じたわけではなく、漠然とテレビ画面に映っている様子を見ていただけだった。
部屋でテレビをつけている時は、ほとんどまともに見ていることはなかった。好きなドラマは集中してみていたが、それ以外はほとんどテレビをつけていても、上の空で見ているだけだった。
だからテレビ画面のほとんどはバラエティ番組だった。見逃しても後悔することもなく、集中しなければいけない場面もない。何よりも他人事として見ることができるからだった。
バラエティに出演しているアイドルや芸人は、結構無茶なことをしている。それを真剣に見ていると、虚しくなってしまうのは分かっていた。だから、高校生の頃まではバラエティ番組は嫌いだった。
――どうしてあんなことまでしないといけないの?
という思いが強く、やっている方も、やらせている方も、そしてそれを見ている自分たちも情けなくならないのかと思ったほどだった。
だが、一度他人事だと思ってみると、あまり意識することもなく、漠然と見ることができる。ドラマやニュース番組のように嵌ることはないので、漠然と見ることができるのだった。
漠然と見ることと、他人事の境地に至るのはどちらが先だったのか思い出せない。
――同時だったんじゃないかしら?
と思うとしっくりくるので、自分の中で同時だったことにしていた。
しかし、バラエティ番組を見ている時でも、笑ったことはなかった。テレビから聞こえてくる笑い声すら白々しさが感じられ、その白々しさが他人事という感覚に拍車をかけるのだった。
そんな永遠が、急に笑い出したのだ。
しかも、笑い始めると自分で制御することができないのだと知ると、さらにおかしさがこみあげてくる。
――これまでの私の人生って何だったのかしら?
とまで感じ、そう感じることがさらにおかしさを増すことになった。
しばし彼は永遠の笑いを黙って見ていた。そんな彼の横顔を見ていると、やっと冷静になれる自分を取り戻せそうな気がしてきた。
「ごめんなさい。やっと冷静になれそうな気がします」
と言って、永遠はスーッと顔から熱かった蒸気が抜けてくるのを感じた。
「謝ってばかりですね」
という彼に、
「そんなことはありませんよ。元々謝るのは好きじゃないんです」
これは本音だったが、考えてみれば、誰かと会話をすればその時のどこかで必ず、
「ごめんなさい」
と言っていたような気がした。
そう言っていたことが恥ずかしいわけでも後悔しているわけでもないが、思わず口から出た言葉だということを、彼に言うのはやめておいた。
「確か、高村永遠さんですよね?」
「ええ」
この会場で名札はつけていても、それは番号札でしかなかった。名前は三分間パートの時に相手に示す自己紹介カードを見るだけなので、彼は永遠のことを覚えていたということになる。
――二十組近くもいたのに――
と改めて会場を見渡すと、確かに人で賑わっているのが分かった。
やはり声は多重でしか聞こえてこない。それがパーティ会場の中でまだ自分が浮いている証拠だった。
彼の紹介カードを見ると、名前は田島慎吾と言った。
「田島慎吾さん」
「ええ、どこにでもいるような名前で、性格もどこにでもいる平凡な男です」
と自分から話した。
そういうことをいう男はあまり信用できないと思っていた永遠だったので、一瞬引いてしまった。
――本当に平凡な男だわ――
と思うと、さっきまで何がおかしかったのか、分からなくなってきた。
しょせん、お見合いパーティに来る男なんて、皆同じだと思ったが、男性の方も女性に対して同じように思っているのではないかと思うと、感じていることを恥ずかしく思う自分と、恥ずかしく自分は思っているのに、平然と構えている男性を見て幻滅する思いとが交差していた。
平凡な男が嫌いなわけではない。確かに平凡な男というのは余計なことを考えず、打算的ではないことで、癒しを感じさせる男なのだろうと思うが、自分で自分を平凡だという男性は、基本的に自分に自信が持てず、予防線を張っているというのがみえみえな気がして、永遠はそこに引くのだった。
田島は永遠が引いていることに気付いていなかった。引いているのであれば、もっと言葉を選ぶのだろうが、彼にはそんなところはなく、天然と言ってもよかった。
「永遠さんというお名前はいいお名前ですよね。お父さんがつけられたんですか?」
「ええ、父がつけたって、子供の頃に何度も自慢げに言われましたよ」
というと、慎吾は嬉しそうに、
「そうでしょう。僕も好きなお名前です」
と言って、本当に喜んでいるようだった。
だが、永遠の方にとってみれば、
――名前の話題なんか、今までに何度もされていてウンザリだわ。いつも話題はこればっかり、本当に面白くないわ――
とふてくされているつもりだった。
「僕の慎吾という名前も実は父親がつけたらしいんですよ。僕の名前の由来は、当時人気のあったプロ野球選手だったらしいんですが、これもありふれた名前の付け方ですよね」
と、聞いてもいないことを聞いた。
ひょっとすると、永遠が自分の名前について聞かれることをあまり気分のいいものではないと判断したが、かといってここで話題をいきなり変えるというのも不自然だとでも思ったのかと考えてみた。
だが、これはあまりにもポジティブすぎる考えで、初めて出会ったちょっと失礼に思える男性に、ここまで気を遣う必要などないと思った永遠だった。
彼の紹介者カードを見ると、趣味のところに「写真」と書いてあった。
永遠は写真に興味があるわけではないが、絵を描くことが好きなので、どこか共感できるところがあるような気がした。
逆にここ以外に二人の接点はないと思い、話題を写真に向けてみようと思った。
「写真を撮られるんですか?」
と聞いてみると、彼は
――いいところに飛びついてくれた――
とでも思ったのか、少し興奮気味に答えた。
「ええ、写真に興味あるんですか?」
乗り出すように聞いてきたので、
「いいえ」
と淡々と答えた。
「それは残念。でも、僕は写真が好きで、特に風景を撮るのが好きなんです。でもただの風景というだけではなく、動きのある風景ばかりを撮っています」
「動きのある風景ですか?」
「ええ、例えば山間を走る蒸気機関車などいいですよ。煙突から噴き出した煙をカメラに収めると、煙が立体身を帯びるんです」
「いいですね」
永遠は思わず目を瞑って想像してみた。
この言葉は本心から出たもので、無意識に近かったと言ってもいいかも知れない。
「僕はさっきも言ったように、ありふれた何の特徴もない平凡な男なんですよ。でも、カメラのファインダーから先に見える世界を、自分だけの世界にしたいと思っている時というのは、誰にもマネのできない性格になっているということを感じるんです。趣味というのはどんなことであってもその人を平凡にはしない。きっと写真を撮っている時の僕は、普段のありふれた自分ではないんでしょうね」
と言った。
彼はさらに続けた。
「動きのあるものを写真に収める時の快感というのは、何というか、僕には痺れが走るほどの感覚なんです。以前、オールディーズな映画のDVDを借りてきて見たことがあったんですが、それはモノクロだったんです。色がついていないのに、なぜか迫力がある。それに似た感覚なんじゃないでしょうか?」
という話に、永遠も同感だった。
「そうですね。それだけ想像力が膨らむというものなんでしょうね。迫力を感じるというのは想像力が飽和状態になろうとしていることを意味していて、私もその感覚は分かるような気がします」
「そう言っていただけると嬉しいです」
と彼が言うと、最初は話題にしようと思っていなかった永遠だが、自分が絵画を好きだということを言わないわけにはいかないような気がしていた。
「実は紹介カードには書いてなかったんですが、趣味としては絵画なんです」
永遠の趣味の欄には何も書かれておらず、空白だった。
「絵画というのはすごいですね。水彩画ですか? 油絵ですか?」
そう聞かれるということは分かっていた。
「いいえ、デッサンなんです。最初は水彩画を描いていたんですが、挫折したというか、デッサンを描き始めるとそっちの方に嵌ってしまったんですよ」
分かっていた質問に答えるのは、結構ウンザリするものだが、絵画に関してはそこまでウンザリするものでもなかった、やはり趣味というのは、それだけ自分の考え方に幅を与えるものなのかも知れない。
「デッサンは私も学生時代にしたことがあります。もっとも、写真に興味を持ったのは、学生時代にデッサンをしていたことからだったんですけどね」
デッサンから写真というのは、永遠の理解を超えた世界だった。写真からデッサンというのであれば分かる気がしたのだが、そこに別に根拠があったわけではないので、そのことをわざわざ口に出して言おうとも思わなかった。
「一度見てみたいですね」
というと、彼はスマホを取り出して、
「カメラに収めたものを、スマホに転送して保存もしているんですよ。少し小さくなりますが、見てみてください」
そう言って、彼はスマホの中からいくつかの写真を見せてくれた。
どの絵も田舎を走る蒸気機関車の風景で、最初に彼が言った言葉の意味が、その写真からは確かに伝わってきた。
――こんな写真を撮れるんだから、私には平凡でありふれた人というイメージがこの人にはないわ――
と感じた。
「これだけのものが撮れるんだったら、プロになろうという意識はなかったんですか?」
と聞くと、
「プロというよりも、コンテストで入賞したいという思いの方が強かったですね。プロになってしまうと、自分のやりたいことができなくなるような気がしたんですが、自分に才能があるかどうかを考えた時、最初からプロはありえないと思いました」
学生時代までの永遠であれば、
「そんなことないでしょう? やってみないと分からないじゃない」
と、相手の背中を押すようなことを言っただろう。
しかし、相手が自分を冷静に分析していることに対して、他人がとやかく言うことは失礼に当たるという考えを持ってから、余計なことは言わないようになった。
趣味は夢や希望とは違って、
「やりたいことをやりたいようにする」
ということで、その人のセカンドライフである。
人がとやかく言うことではなく、立ち入ることのできない世界だ。同じ趣味を持っているとしても、それぞれに世界を持っていて、侵すことのできない領域は、その人にとって絶対のものに違いない。
「趣味はその人それぞれだけど、夢や希望は必ず持っていないといけない」
と、永遠は中学時代から思っていたが、最近になって逆を感じるようになった。
「趣味はなるべく持つようにしたい。なぜなら趣味から夢や希望って生まれるんだから」
と思うようになったからだ。
永遠は彼の写真を見て、自分がどうしてデッサンを描こうと思ったのか、いろいろと思い出していた。
――確か最初は、油絵を志していたはずだったんだけど、汚れるのがどうしても嫌で、鉛筆画なら汚れることはないと思い、描き始めるようになったんだわ――
それは、他の人に言わせれば、「逃げ」になるだろう。
永遠も自分では逃げのように感じている。しかし、それでも絵画をやめずにデッサンだけでも続けていることを自分ではよかったと思っている。
絵画というものを一生懸命に描こうと最初から思っていたわけではない。永遠の性格的なものが影響しているように思ったからだ。
永遠は人の顔を覚えることが苦手だった。顔を覚えることができないのだから、風景など記憶に残しておきたいものを記憶していることはできないと思うようになっていた。
――どうしてなんだろう?
子供の頃からずっと思ってきたことだったが、最近になって分かってきたような気がしていた。
小学生の五年生のことだったか、友達と駅で待ち合わせをしたことがあったが、その時横顔が似ている人がいたので、
――友達だ――
と思って声を掛けたが、実際には違う人だった。
その時に相手が睨み返してきたわけではなかったが、明らかにキョトンとした表情で、その場にいる自分だけが取り残されたかのような錯覚に陥ったのだった。
――私って、そんなにおかしな顔をしているのかしら?
と感じた。
相手を間違えて、それで相手が気分を害したのであれば、そんなキョトンとしたような表情にはならないはずである。訝しそうに面倒くさいと言った表情をするに違いない。それを思うと、キョトンとされたことは一瞬ホッとすることであったが、よくよく考えてみると、不可思議な感覚を残すことになった。
どうして相手がそんな顔になってしまったのかを少し考えていた。
自分のことだけを考えていたのでは結論が出ない。その時、相手の身になって考えることを思いついたのだが、それは自分が考えることで思いついたわけではなく、ふいに思いついたことだったのだ。
――私って、こんなにも自分に自信がないのかしら?
自分だったら、相手のどんな顔を見た時、キョトンとするだろうかと考えた時、
――自分が想像もしていなかった顔だったり、いかにも不安そうな表情をしている時に感じることだ――
と思った。
それは自分が相手の気持ちを推し量ろうとしても分かるものではないという時に感じることだった。
そう思うと、それがどんな時なのかと思った時、自分が途方に暮れた時だと感じた。普通であれば相手に助けを求めるような顔になるのだろうが、永遠は相手に助けを求めるようなことはしなかった。それは人に頼りたくないという思いではなく、単純に他人が信用できないだけではないだろうか。
他人が信用できないということを自分で認めたくないという思いから、自分のことを信用できなくなるというのは、えてしてあるものではないかと最近では感じているが、その頃には分からなかった。
その思いがあるから、人を信用できないと表では思っていても、実際には内面で自分のことを信用できないと感じていた。
友達に似ていたからと言って、軽はずみに声を掛けてしまい、相手にキョトンとされてしまったことは、
「藪をつついてヘビを出す」
という言葉のごとく、余計なことをしてしまったという意識に繋がっていた。
その時からである、自分に自信がないことには首を突っ込まないようになったのは。
その影響があったからなのか、人の顔を覚えることができなくなった。その時には覚えているという意識はあるのだが、数分してしまうと忘れてしまう。その原因を最初は、
――他の人の顔を見てしまうと、その人の顔と、その前に覚えた顔とがシンクロしてしまって、前に見た人の顔を忘れてしまうんだわ――
と感じた。
確かに残像として残っていたものに違う残像が浮かんでくると、覚えられないのも不思議のないことではない。むしろそっちの方が普通のように思える。
しかし、他の人は覚えていられるのはどういうことなのだろう? 自分だけが覚えられないということは、何か特別な意識が働いているからではないかと思えてきた。
永遠は、決して自分を他の人と比較して見ているつもりはない。むしろ、自分だけは特別な意識で見ているつもりだった。
「他の人と一緒では嫌だわ」
という意識が強く、その思いがあるはずなのに、いつの間にか人と比較していることは、自分に自信が持てないからだという意識に繋がっていた。
「人の顔を覚えられないのは、集中力が足りないからじゃないか? 何かに集中するというのも必要なことなのかも知れないぞ」
と、当時の小学校の先生から言われた。
「集中力ですか? 確かに足りないとは思うんですけど、それと人の顔を覚えられないことでは少し違っているような気がするんですが」
と話した。
永遠は自分が人の顔を覚えられなくなった原因の一つに、待ち合わせの時、違う人に友達だと思って声を掛けたことが関係していると分かっていた。ただ、まだその時は自分に自信がないことからだという気持ちにはなっていなかったので、先生の言うことにも一理あると感じ、ハッキリと否定することはできなかった。
それも自分に自信が持てないからだったのだろうが、そんな永遠を見て先生は急にいら立ちを示した。
「何を言ってるの。あなたは人の顔を覚えられないんでしょう? それは集中できないからなのよ」
とヒステリックになって、自分の意見を押し通そうとしてきた。
永遠はそんな先生に圧倒され、不本意ながら先生の話を聞くことになったが、その時の先生は、では具体的にはどうすればいいという話をしたわけではなかった。
「何か趣味を持って、それを一生懸命にやればいいんじゃないかしら?」
というだけで、趣味を具体的にどうすればいいのかという伝授はなかった。
まずは自分に合った趣味を見つけるのが大切なのだが、そのことも先生の口から出てくることはなかった。
先生とすれば、集中力を持つということを説得するだけで自分の仕事は終わりだとでも思ったのだろうか。すっかり自己満足したようだった。
永遠は先生に見放されたかのような気持ちになったが、却って自分一人で考えることができたことが、自分に自信が持てていないということに気付くきっかけを作ったので、いわゆる怪我の功名のようなものだったと言えなくもない。
その発想から絵画に向かうまでには、そんなに時間が掛からなかった。だが、何かの趣味を持つということは、それまで何も考えていなかった永遠にとっては難しいことで、文章を書いてみようと思ったり、本を読み漁ってみようと思ったりといろいろ考えたが、どうにも自分の中でイメージが湧かなかった。
音楽や絵画などの芸術を考えていたので、音楽、絵画、文芸と細かいところまで考えていくと同じそれぞれのジャンルは芸術を超えて繰り返し考えるようになっていた。そのため、同じ芸術を何度も考えることになり、細かい周期で考えているのに、以前に考えた芸術への意識がかなり遠い過去のように思えてしまう。
――そうだわ。この思いが人の顔を覚えさせないのかも知れないわ――
先生が言った、
「集中力がない」
という発想に近いのは近いが、かなり遠いところでの近さであった。
ただ、思い出そうとすると時間を掛ければ思い出すことができた。顔をまったく思い出せないことと直結しているとは思えない。
そう思うと、思い出すのが友達と間違えて、キョトンとされたあの時であった。
自分に自信がないという思いと、記憶が重なってしまうことで薄らいでくる過去の意識とが融合して、顔を覚えることができないと思っているのだとすると、本当は覚えているのに、記憶の奥から引き出すことができず、覚えていないと思い込んでいるだけなのかも知れないと思った。
ただ思い出せないだけであれば、いずれ思い出すこともできるという発想に至れば、気も楽になってきた。そうこう考えているうちに、趣味として持ちたいものが決まってきた。それがデッサンだったのだ。
趣味を持ちたいという思いと、人の顔を覚えられないことを克服するということは、いつの間にか分離した考えになっていた。
――本当は汚れるのが嫌いでデッサンにしたんだけどな――
という思いは永遠がデッサンを描き始める頃にだけちょっと感じたことだった。
実際にはジャンルが芸術を超えて繰り返すことで、デッサンに辿り着いたという思いは強く持っていて、
――こんな思いをするのは私だけではないんじゃないかしら?
と感じるようになっていった。
デッサンを続けることで、少しは人の顔を覚えることができるようになったと思ったが、それは間違いだった。余計に覚えられないような気がしてきたのは、意識のしすぎであろうか・
人の顔ばかり描写しているので覚えられないのだと思い、絵は風景画に切り替えた。人を描くのは苦手だと思っていたが、人の顔を忘れないようにするために始めたデッサンだったので、人の顔を描かなければ意味がないと思ったのは思い込みだったようだ。
ただ人物描写は難しい。表情に影を持たせたり、何よりも動的なものを描くのが難しいと感じたからだ。
そう思い、風景画に変えてみた。
風景画にすると、動きを捉えなくてもいいが、スケールは大きなものになる。
数か月描いているうちに、永遠は別のことを考えるようになった。
「デッサンというのは、目の前にあるものを忠実に描くものだと思ってきたけど、それが間違いではなかったかと思うようになった。時には不必要だと思えることは大胆に省略することも大切だ」
と思うようになったのだ。
その心は、大きなものを描いていると、どうしても細部までうまく描けない、それは被写体が大きければ大きいほど、バランスが大きく感じられる。そう考えてしまうと、不要な部分が目立ってくるように感じられた。それが、
「不要な部分をカットする」
という考えに結び付いたのだった。
「芸術だったり、勝負事には意味がある」
という将棋のプロの人が話しているのをテレビで見たことがあった。
インタビュアーからインタビューを受けた内容が、
「将棋を打っていて、矛盾を感じる時ってありますか?」
という内容だった。
すると、そのプロの人が言うには、
「将棋での矛盾ですか? 矛盾というには少し違うかも知れませんが、あなたは、将棋の布陣で、どの布陣が一番隙のない布陣だとお思いですか?」
と聞かれて、そのインタビュアーは困ったような表情をした。
その気持ちは分かっている。
――あなたはプロだから分かるんでしょうけど、こっちは素人なので分かるわけはないじゃないか――
と言いたげに訝しい表情になった。
すると、そのプロは少し申し訳なさそうにこう答えた。
「申し訳ありません。実は最初に並べた形なんですよ。一手打つごとにそこに隙が生まれる。つまりは勝負が進むにしたがって、自分も相手もお互いに不利になっていくんですよ。そう考えると勝負なんかしなければいいと思えてくる。それが一種の矛盾のようなものなのかもしれませんね」
と、答えたのが印象的だった。
そう思えば、絵を描くのだって、最初の筆をどこに落とすかによって、すでに完成度が決まってしまうのではないかと思うと、不思議な気持ちになるのだった。
風景画を描くようになって永遠は自分が矛盾の中で生きているのではないかということに気付かされたのだった。
矛盾というと普段から感じていることがあった。絵を描いていて、大きな被写体を描こうとする時、
「絵を描く時は、必ずしも被写体を忠実に描かなければいけないわけではない。時には大胆に省略することも大切だ」
という言葉が頭に浮かんできて、必ず何か省略できるものが目の前にあるという錯覚に陥ってしまう。
ただ、錯覚だと思うのは気のせいであって、見えているもの自体が虚空の世界のものではないかと考えている自分がいるのだ。
被写体から目を離した時に、初めて自分が一人の世界に入り込んでいたことに気付いていた。しかも被写体を集中して見ていると、バランスがおかしくなってきて、中心部に行くほど小さく感じられてしまう。そのうちにまわりが見えなくなってしまい、
――省略できる部分はまわりの視界に入っていない部分ではないか――
と思うようになっていた。
そんな時に、大胆に省略できる部分が自分で見えてきたような気がした。それが矛盾によるものだということを意識していたわけではないのに、実際に出来上がった絵を見ると、そこに見えてくる矛盾の正体が一瞬だけ分かっているような気がするのだった。
デッサンしていると、油絵や水彩画にはないものを発見したような気がした、モノクロだからこそ感じることなのかも知れないが、立体感を感じるのだ。油絵などはキャンバスを小さく感じることで、遠近感を取ることができ、絵の具の厚みが遠近感と結びつくことで、遠くを見ているつもりになるのだ。
色彩が命の油絵と違い、デッサンのようなモノクロームは立体感が命と言ってもいい。光と影が絵の要素を形どっていて、コントラストを描き出しているのだった。
デッサンを描いている永遠に対し、写真が趣味の慎吾は、
「僕は時々モノクロの写真を撮ることがあるんですよ。これもデッサンを描いている永遠さんになら僕の気持ちが分かってもらえるんじゃないかって思うんですよ」
と慎吾がいうと、
「立体感ですか?」
と永遠が言った。
「立体感、そうですね、色がないと濃淡が立体感を醸し出すような気がするんですよ。永遠さんも同じことを感じているんじゃないかって思うんですが、違っていますか?」
「あなたがいう立体感と私が考えている立体感が同じものなのかどうか分からないですが、どこかで接点が見つかれば、そこからお互いに結び付くものがあるはずです」
と慎吾は言った。
慎吾の言った立体感というものが何となく分かった気がしたが、それは漠然としたもので言葉にできるものではなかった。曖昧という言葉で片づけるより、英語で、
「アバウト」
と言った方がいいのかも知れないが、永遠には曖昧という言葉の方がしっくりくる気がしていたのだ。
「写真を撮っているのと、絵を描いているのってどっちが本当のものを描き出しているんでしょうね?」
少しの沈黙があって、最初に口を開いたのは慎吾の方だった。
彼の言葉は、自分が考えている「大胆な省略」という意識を見抜いているようで永遠は少し怖くなったが、彼の言葉は少し違った意味のことを言いたいのではないかと思い、ハッとなった気持ちをなるべく表に出さないようにした。
「どういうことですか?」
と永遠が聞くと、
「僕はですね。ファインファーを覗きながら、時々本当に目の前にあるののを忠実に写せているのかって思うことがあるんですよ。自分の目が信用できないというよりもファインダーという媒体を通すことで、描いているものの本質を描いていないのではないかってですね」
「それは、実際には目の前のものをちゃんと写せているんだけど、自分で納得のいくものを写せていないのではないかという発想ですか?」
「そうですね。でもそれよりも元々僕が、自分の目で見たり触ったりしたもの以外を信用しないという性格だったんですよ。写真に興味を持ったのも、ひょっとするとそういう自分の性格から来ているのではないかって最近になって思うんですが、だから本当に目の前のものを写し出せているのかどうか、疑問なんです」
彼の発想は、自分に似ていると、永遠は思った。
「そのことを誰かに話したりしたことはありましたか?」
「ええ、子供の頃に近所に住んでいた女の人に話したことはありました。僕が小学生の頃に中学生だったので、三つくらい上のお姉さんだったと思います」
女の子の成長は、思春期くらいまでは男の子よりも早いという。ませているといってもいいのだろうが、思春期前後の男女であれば、その差も歴然としているかも知れない。彼が三つ違いだということは、感覚的に五つくらい違っていたと考えてもいいのではないだろうか。
「その女の子は何て言ってました?」
「あまり考えすぎない方がいいって言ってました。慌てなくても大人になれば、その答えは出ると思うからって言われました」
――模範解答だ――
と思った。
もし、永遠がそのお姉さんだったとしても、同じことを答えたに違いない。だが、今の永遠であれば、同じことを自信を持って答えることができるであろうか? 自分でもよく分からない。ただ答えるとすれば同じことしかないだろうという思いはある。その立場になってみないと分からないことであった。
永遠は、慎吾の話に興味があった。もっと話をしてみたいという思いがあったのも事実だったが、お見合いパーティというのは時間が決まっている。フリータイムもそろそろ時間が迫っていた。途中までは時間が気になることはなかったが、ふと時間を気にすると、あと少ししかないことに気が付いた。
永遠が時計を気にしているのに気付いた彼も、
「あっ、もうすぐフリータイムも終わりですね。もし興味をお持ちでしたら、もっとお話ができればいいかなって思ってます。よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ」
と言って、お互いに話を終わらせて、フリータイムの終了時間を待った。
「はい、それではフリータイムはこれくらいで終了といたします。次はいよいよ告白タイムですので、意中の方がおられましたら、カードの下の方にあるお申込みカードに記入されて、上と切り離してお待ちください」
という司会進行役の女性のアナウンスが部屋に響いた。
参加者はそれぞれ各々で行動していて、部屋に用意されたフリードリンクに手を掛けたり、トイレに行ったりと休憩ムードだった。部屋にはBGMが流れていて、すっかりリラックスムードになっていた。
紹介者カードには一番上に自分のプロフィールを書く部分があり、その下には趣味趣向などのPR部分、そして一番下には、気に入った相手を書く申し込みカードになっていた。申し込みカードに書くのは番号だけである。あらかじめ参加者には番号が決められていて、今回の永遠は女性の五番となっていた。ちなみに慎吾は男性の三番となっていて、永遠はしっかりと覚えていた。
お申込みカードに書く希望相手は、第三候補までであった。それぞれの第一希望同士が合致した場合はそのままカップル成立になるが、第一希望に自分が一人もいない場合は、第二希望が候補に挙がる。もちろん相手の第一希望が他の人の第二希望と合致することもあるかも知れないが、その場合は女性の意思が尊重せれるという暗黙のルールがあるらしい。
どちらにしても、カップル成立への選考はまったく参加者には知らされているわけではないのでブラックボックスであった。それを承知での参加となるので、文句のつけようもないだろう。
そもそもこのパーティはお見合いと言っても、紹介だけが目的であり、普通の結婚相談所と違って、参加者側の行動力によって成り立っている見合いである。参加者は行動力がある人たちばかりなので、当然自己主張も強いだろう。それなりのルールをあらかじめ決めておかないとトラブル発生の原因になってしまう。そんなことは許されるわけもなく、参加者にも守るべきルールとして周知されておく必要があるのだ。
シンキングタイムと称する自由時間は刻々と消化されていった。淡々と進む時間を室内の喧騒とした雰囲気に感じながら、すでにシンキングを済ませている永遠は、静かに時が進むのを待っていた。
十分程度のものだったはずなのに、三十分は経過しているかのように感じられた。皆黙々と考えているはずで、喧騒とした雰囲気など起こるはずもないのに、どうしてざわつきを感じたのか永遠には分からなかった。ただその理由を知っているとすれば、
――時間の経過がものすごく遅く感じられる自分の中の時間への錯覚ではないか――
と永遠は考えていた。
自分の名前のように永遠に続きそうな感覚すらあったくらいで、たかがお見合いパーティと言ってしまえばそれまでのシンキングタイムでそこまで感じたのは、それまで一緒だった慎吾との時間が思ったよりも早く経過してしまったことに起因しているのではないかと思うのだった。
「さて、そろそろ告白タイムとなります。カップル成立された方はここで皆さんに告知します。番号で申しますので、例えば男性の何番と女性の何番という風にですね。呼ばれた方はその場でお待ちください。最後まで呼ばれなかった方は本日は残念でした。そのままお帰りになって結構です」
と、進行係の女性がアナウンスした。
椅子に座ったままの男女は、ステージの上の進行係に注目した。皆それぞれの目的を持ってきている。友達ができればいいという程度の人もいれば、あわやくばここで将来の伴侶と出会いたいという目的を持っている人もいるだろう。純粋に恋人を見つけたいという永遠のような人がほとんどだろうと思っていたが、実際に参加してみるとニュアンスが違っていることに気付かされる。
会場の照明が少し落とされて、ステージが明るくなった。賞の受賞発表会場のような臨場感があったが、あくまでもパフォーマンスなので皆がどこまで感じているのかは分からない。
演題には小さなテーブルが用意され、その上に置かれている箱に発表予定の紙が置かれていた。
――いよいよだわ――
パフォーマンスと分かっていても、緊張はするものだ。このために参加したのであって、せっかく用意してくれた臨場感を味合わないという手はないと思ったのだった。
神妙に告白タイムが始まった。
「まずは、一番の男性と二番の女性。呼ばれた方は、そのままお残りください」
と言って、二人に交互に目配せした。
目配せされた二人も暗黙の了解のように目を見合わせたが、それだけだった。
「発表が前後しましたが、本日のカップルは五組が完成しています。いつもよりも多いですね」
と言って微笑んでいたが、何度か参加したことがあった人には今日が多いというのは分かっていたことだろう。
ほとんどの人は自分が選ばれると思っているのではないだろうか。こういうところでは自分に自信がない人でもそれなりに自信を持つことができる。そんな異様な雰囲気を醸し出していることがこの場の臨場感に結び付いている。ギスギスした雰囲気ではないが、濃い空気が異様な匂いを引き出しているのかも知れない。
どんどん発表が続いていく。五組ということはあと四組、その中に自分が含まれる確率がどれほどのものか、それぞれで計算しているだろう。
まるでロシアンルーレットのようではないか。ただし発表が進めば進むほど確率は低くなってくる。それが臨場感をいやがうえにも高めていくに違いなかった。
そんなことを考えているうちにすでに三組の発表が済んでいた。
「いよいよ半分を過ぎてしまいましたね。皆さん、心の準備はよろしいですか?」
さすがに半分過ぎてしまうと、残りの確率を考えてしまい、テンションがガタ落ちになってしまっていた。そんな状況を見たのか、司会進行役の女性は、その場の雰囲気を盛り上げようとしたのであろう。
すると四組目の発表で、
「五番の男性と……」
という答えが聞こえ、慎吾は永遠の方を振り向いた。
どうやら無意識のようで振り向いたときに見詰めたその顔は、ばつの悪そうな表情をしていた。
そんな状況を分かるはずもない司会進行役の女性は、言葉をつづけた。
「三番の女性」
それを聞いた時、
――やはり――
と慎吾は思った。
永遠は満足そうにニッコリと微笑んで慎吾を見ていた。まるで勝ち誇ったかのような表情が少し癪に障ったが、嫌な気はしなかった。
――これも女性ならではの表情だな――
と思ったのだ。
ここから先は緊張が解けたからなのか、それとも相手が決まって安心した気分になったからなのか、慎吾は放心状態になっていた。それを見つめる永遠の眼は安心している目をしていた。母性本能に満ちた目だといってもいいだろう。
発表が終わると、呼ばれなかった人がそそくさと帰っていく。
「俺たちはお呼びでない」
とでも言いたげなのか、残った連中に対して少なからずの一瞥を浴びせる形で部屋を後にしていた。
本当であれば、ばつの悪さを感じるのだろうが、勝ち残ったわけなので、別に悪気を感じる必要などないだろう。
「俺、初めて残ったんですよ」
と残れたことを本当に喜んでいるようだった。
永遠の方は今までにも何度か残ったことはあった。だからその後連絡先を交換し、デートに誘われることは分かっている。
だが、この場の雰囲気が独特なのか、それともあらたまってデートとなると、最初の印象から完全に変わってしまって、しらけムードになってしまうからであろうか、永遠はしらけムードは何度も味わってしまったことで、もういいと思っていた。
今回の慎吾には、今までに知り合った人にはない何かを感じた。どこが違うのか分からないが、少なくとも笑顔にわざとらしさを感じなかったのは、慎吾だけだったと思っている。
――相手を諭すような雰囲気がこの人にはある――
対等をいつも求めているつもりだったが、今回は相手に委ねたいという気持ちを持っているのも事実だった。
最後に残った人の顔を見ていると、ほとんどがワクワクしているようだった。永遠は自分の顔を見ることができなかったが、ひょっとすると自分も同じような顔をしているのではないかと思うと、おかしな気がした。
「この後、ご自由に交際を始めていただいて結構です。せっかくカップル成立となられたわけですから、末永いおつきあいを私どもはお祈りしております」
という係の人から話を受け、今後のことの簡単なアドバイスを受けて、その場を後にした。
初めてカップルになったようなカップルもいて、まるでお見合いの場で、
「あとは若い者同士で」
と言われ、取り残された二人のようだった。
常連とまではいかないが、何度も参加して数回とはいえカップルになったことのある永遠は感動というほどのことはなかったが、それでもやっぱりカップルとなれたことは素直に嬉しかった。自分を認めてくれた人がいるということである。
それぞれのカップルはアドバイスという名の注意事項を受けた後、神妙な顔でそれぞれ会場を後にした。お互いに何かを語るわけでもなく、エレベータから降りてきた時、無言でそれぞれの方向に去っていった。
「あっ、ごめんなさい。私忘れものしちゃたみたい」
と、永遠は忘れものに気が付いた。
そのまま慎吾を下に待たせておいて、再度エレベータに乗って会場のあった階まで戻ったのだが、そこで一人男の人が受付に何かを話しているのが聞こえてきた。永遠は聞くつもりはなかったのだが聞こえてきたものは仕方がない。というよりも、聞こえてきた言葉が気になっていたのだ。
「あのですね」
男はもじもじしているようだった。
「なんでしょう?」
受付の女性はあたかも事務的な話し方だった。
その声を聞いておじけづいたのか、男はなかなか話せないでいた。
それでも痺れを切らされた相手に再度さらにきつい調子で、
「なんでしょう」
と言われたことで、腹が決まったのか、ゆっくりと話し始めた。
「私は七番の男性だったんですが、八番の女性と意気投合して、フリータイムなどもずっとお話していたんで、てっきり私のことを選んでくれるんじゃないかと思っていたんですが、カップルになることはなかったんですよ。私は第一希望に名前を書いたんですが、相手も第三希望まであるんですから、私の名前を書いてくれていると思うんです。でもカップルになることはなかったじゃないですか? それが不思議だったんですよ」
と男は言った。
なるほど、男の言い分も分からなくもない。自分が第一希望であれば、相手が第三希望までに名前を書いていれば名前を呼ばれても不思議はない。彼女が他の男性とカップルになったのでれば、自分以外の誰かを第一か第二に押しているのだから、それは仕方のないことだとあきらめもつく。しかし、そのどれもないということは、彼女が自分の名前を書いていないということである。
――少なくとも三人の中に入っていなかったということか――
と思うと、男としても納得がいかないのも分からなくもない。
それで問いただしてみたのだろうが、女々しいとも見られるだろう。
いや、普通であれば女々しいと思われても仕方がない。この男性がそこまで分かっているとすれば、それでも聞いておきたいと思ったのは、冷静に考えて今後のための材料にしようと思ったのかも知れない。
「それならそれで納得がいく」
と、彼はそう思ったのだろう。
しばらく係の人は迷っているようだった。永遠の方とすれば、
――しょせん終わったこと、そんなことを聞いたからって教えてくれるはずないわ。未練がましいと思われているだけに決まっている――
と思い、係の人が口を開くことはないと思っていた。
だが、意外なことに係の人は申し込みカードを確認に行き、その中から一枚を取り出して、相手に見せないように自分だけが確認し、その目を次に彼に向けた。
見上げるようにした彼女の目が彼を捉えた時、彼は一瞬動揺したかのように思えた。
――言わなければよかった――
と感じたかも知れないが、それは一瞬のことで、すぐに背筋を伸ばして、彼女の方を向き直った。
「このお申込みカードを見れば、誰のお名前も書かれていません」
と形式的な言い方で言い捨てた。
男はきょとんとしたが、その表情をはかり知ることはできなかった。
――ひょっとすると無表情なんじゃないかしら?
と永遠は思ったが、その思い以外にそのあとも感じることはなかった。
「そうですか。よく分かりました」
と、彼はそう言って、頭を下げた。
「お気持ちは分かりますが、再度確認するということは今後おやめください」
と釘を刺された。
「ええ、分かりました」
男は恐縮しながらそう言ったが、今度は恐縮したような様子はなかった。
とりあえず分かったことをよかったと思ったのだろう。
だが、永遠とすれば少し考えてしまった。それは彼の行動というよりも、お申し出カードに誰の名前も書かれていなかったということがである。
確かに無記名も悪いことではない。自分の気に入った人が一人もいない場合、誰の名前を書かないというのも当然であり、敢えて名前を書かないのは、今後の混乱を考えると無難な態度だった。
しかし、永遠はフリータイムの時間帯に彼と彼の正面にいた彼が気に入っていたという相手の様子を見ていた。隣というわけではなかったが、たまにまわりを気にするタイミングがあり、気になったカップルはチェックしていたのだ。
彼の言う通り、カップルになっても不思議のないくらい仲良かったのは分かっていた。これは永遠だけではなく他の人も感じていたことかも知れない。フリータイムの時間帯で一番いい雰囲気だった二人なのは間違いのないことだった。
永遠も今まで無記名だったことがなかったわけではない。だがその時はフリータイムも自分だけが浮いてしまい、会話をする相手がいなかった時だけであって、その時は当然といえば当然だったのだ。
永遠はその男が踵を返してエレベーターに乗り込んだのを見た。その横顔を見た時、
――おや?
と感じた。
最初の三分の自己紹介タイムにも、そのあとのフリータイムで気になっている時にも気づかなかったが、
――前に見たことがあったような気がする――
と感じたのだった。
何度か参加するお見合いパーティで見かけたおは間違いないはずだが、どうして思い出せなかったのか、今の横顔を見た時、明らかに記憶がよみがえってきた。
いや、永遠としてみれば、思い出す方が稀なことだったはずだ。
――私は致命的に人の顔を覚えられない――
と思っていたからだ。
そんな永遠が後になってからハッキリと思い出すということはまずなかった。思い出すとすれば最初に思い出すはずである。本当であれば何度も気にして見ていれば思い出すというのが普通なのだろうが、永遠の場合、最初に思い出さなければ思い出すことはできなかった。
それは最初から分かっていたことで、
――私は最初に思い出せないと、人の顔を思い出すことはできない――
と、そう感じることが、人の顔を覚えられないことに一層の拍車をかけているのだと思った。
ただ今回思い出せたのは横顔からだったというのも一つのミソだった。今まで思い出せなかったのは、いつも正面から人の顔を見ていたからではないかと思ったが、それも分からないわけではない。
「初対面の人とは、正面から相手の顔を見るようにしなさい」
というのは、永遠が成長してくるうえで教えられたことであった。
その教えは親からはもちろんのこと、学校の先生、そして先輩と、いわゆる、
「人生の先輩」
からの教訓だったのだ。
そのため、却って横顔はあまり気にしないようにした。横顔を気にしているということはあたかも相手を気にしているということを相手に知らしめることになり、本当に気にしているわけでもないのに相手にそう思わせるということは失礼に当たり、不愉快な思いをさせるからだ。
そこまで分かっている永遠はあまり人の横顔は気にしないようにした。具悪に横顔を見ちゃいそうになれば、こっちから顔をそむけるくらいになった。条件反射だったはずなのに、今回はさりげなくであったが見てしまった。彼はそのことを意識していないように思えたので、
――相手の顔を思い出せて、しかも相手が気にしていないのであれば、横顔を気にすることも否めないのかも知れないわ――
と感じるようになった。
永遠はその人の顔を穴が開くほどの勢いで見つめたわけではない。しかし結構な時間見つめていたことだろう。彼はうなだれていたが、永遠の視線にまったく気づいていなかったわけでもないような気がした。
――どうしてこっちを見ないんだろう?
そこまで相手の女性を意識していたということだろうか?
永遠は一緒にいた女性を思い出そうとした。彼女は永遠に対面するように座っていたはずなので、見えなかったわけではない。表情も手に取るように分かっていた。
会話は間違いなく弾んでいた。二人が今日初対面だとは思えないほどの雰囲気に、温かいものを感じたのも事実だし、
――こんな二人がカップルになるんだろうな――
と感じたのも事実だった。
――彼女はまわりを分かっていたのだろうか?
永遠はそう思ったが、永遠の意見は決まっていた。
――意識していたようには思えないわ。目の前の彼との会話に集中していて、まわりを意識している素振りなんか、まったくなかった――
と思い、彼女が永遠の顔を覚えているということもないと思うのだった。
それなのに、どうして無記名で出したというのだろう?
彼女にとって夢のような楽しい時間だったとすれば、フリータイムが済んだ瞬間に、その夢から覚めたということか。
もしこれがお見合いパーティでなければそれもあるかも知れない。しかしここは仮にもお見合いパーティと言われる場所である。いくら女性は安いとはいえ、参加するにはお金がいる。お金を払ってまで時間を使ってくるのだから、当然目的は誰もが一緒のはずである。
せっかく意気投合したのだから、この場所で終わりということは普通であればないはずだ。永遠はいろいろと考えてみた。
――待てよ――
永遠が感じたのは、
――彼女、怖くなったんじゃないかしら?
彼女が初めての参加だとすればどうだろう?
初めて参加したところで意気投合した相手、その時は楽しくて夢のような時間だったとしても、終わってしまうと一気に夢から覚めて、現実に引き戻されたとする。そうなると考えることとしては、
――もっともっと経験すれば、もっといい人が現れるかも知れない――
と思ったとしようか。
そんな状態で今回知り合った相手とデートをしてしまうと。相手が舞い上がっているとすれば、勘違いしたまま相手のペースに巻き込まれる可能性は高い。そう思うと、彼女の方とすれば、引き返せないところまで引っ張られることを怖がったとしても無理もないことではないだろうか。
人の欲望には限りがない。しかも積極的にならなければいけない場所であるから、最初にうまくいってしまうと、とんとん拍子で進んでしまうことで見えなくなってしまうところも多いだろう。
永遠はそこまで深くは考えているわけではなかったが、実際にはいずれ通らなければならない関門だとも思えた。彼女がそこまで考えていたのかどうか疑問だが、永遠が考えた結論としては一番妥当な落としどころであった。
永遠はそんなことを考えながらエレベーターに乗っていたが、エレベーターが一階についてから開いた扉のすぐ前に慎吾がいるものだと思い込んでいた。
だが、扉が開くと、すぐそこに慎吾がいることはなかった。少し暗くなって影ができているようなあまり広くないスペースには誰もいなかったのだ。
すでにパーティが終わってから少し時間が経っている。カップルになれなかった人はもちろん、ほとんどが家路についていることだろうが、これだけの時間が経っていれば、もし失意にあった人であっても、すでに平常心を取り戻していることだろうと思うのだった。
永遠はエレベーターから飛び出すように出てきて、後ろを振り向いてみたが、慎吾はいなかった。
――どこに行ったんだろう?
と思っていたが、彼がさっきまで気にしていなかったスペースから出てきた時、一瞬ドキッとしたが、すぐに平常心を取り戻した。
「どうしたの?」
というと、
「少し近所を散策していたんだ」
と平然と言った。
――この人は私の帰りがそんなに早くないということを最初から分かっていたのかしら?
と思ったほどであるが、なぜか彼の考えていることを怖いとは思わなかった。
近所を散策していたという言い訳もわざとらしい。まるでわざとらしさを分かってほしいとでもいうのであろうか。永遠は自分が余計なことを考えていることを不思議に思った。
――私はこんなことをいちいち考えたりすることなんかないはずだったのに――
と感じた。
いい加減といえば聞こえは悪いが、曖昧なところの多い永遠は、あまり余計なことを考えない方がいいと思っているところがあった。実際に理屈っぽくなって友達に嫌われていた時期が過去にはあった。あれは高校時代くらいのことであっただろうか。
「空気を読めない」
という意味で、「KY」などと呼ばれている時代があるほど、まわりが分かっていない人が多かった頃だったのだろう。
社会問題とまでなっていたと思った空気を読めない性格は、
――自分だけではない――
と思うと、普通なら少しは気が楽になるというものだったが、
「空気が読めない」
ということだけは、どんなにたくさん「仲間」がいたとしても、少しも気が楽になるということはなかった。
「恥ずかしいことなんだ」
という意識があった。
高校一年生になった頃、それまであまり異性に興味を持っていなかった永遠だったが、急に気になり始めた。
そのきっかけというのは、自分の友達が彼氏と仲良くしているところを見てしまったからだった。
永遠は同じ中学から入学してきた二人の女の子と仲良くしていた。一人は中学時代から仲が良かったのだが、もう一人は高校に入って初めて意識した女の子だった。
彼女は中学時代には友達が誰もおらず、高校に入学しても最初は一人だったのだが、永遠の友達が、
「あの子も同じ中学からじゃないかしら?」
と最初委気付いて、
「そうみたいね」
と、永遠も言われて初めて気がついたが、意識としては他人事だった。
「せっかく同じ中学から来たんだから、お友達になりたいわね」
と言い出した。
別に賛成も反対もなかった永遠は、この時も他人事のように、
「そうね」
と言っただけだった。
友達はそんな永遠の様子に違和感を感じることもなく、彼女に話しかけていた。
「あなたも同じ中学からよね。中学時代にはなかなかお話したことなかったけど、せっかく高校でも一緒になったんだから、お友達になりましょうよ」
と誘うようにいうと、話しかけられた方もビックリはしたようだが、嫌な雰囲気を持っているわけでもなく、
「ええ、いいわよ」
と、淡々と答えていた。
三人で一緒のことが増えたが、その輪の中心にいるのは、やはり言い出しっぺの女の子だった。彼女が三人グループのリーダーのようになり、後の二人をまとめている。永遠と後から参加したもう一人の女の子は、少しぎこちないと思っていたが、三人一緒の時はリーダーがまとめてくれるので何ら問題はなかった。
だが、三人の関係にヒビが入ることになるのだが、そんな時期は思ったよりも早く訪れた。
そのきっかけになったのは、リーダーの女の子に彼氏ができたことだった。
彼女は品行方正で、しかもリーダー的な存在感を醸し出す女の子だったので、彼氏がいても別に不思議ではない。だが、彼女としては、せっかく三人の「仲良しグループ」を結成したのだから、自分に彼氏ができたことを知られるとその関係がぎこちなくなると思ったのか、彼氏の存在を黙っていた。
後から知ったことでは、彼女に彼氏ができたことを知らなかったのは永遠だけだったようで、後から参加した彼女はウスウス気付いていたようだ。
永遠としては、
――リーダーに彼氏ができたとすれば、きっと私たちに告白してくれるに違いない――
と思っていたし、彼氏との仲よりも、自分たちのグループを一番に考えてくれるものだと思い込んでいた。
実際にリーダーの女の子とすれば、優先順位などつけられるものではなかっただろう。これは誰が同じ立場になっても同じ感覚を持つに違いないことで、
「理屈ではない」
と言える。
後から参加した女の子も同じことを感じていたようだが、分かっていなかったのは永遠だけだったようだ。
彼氏のことをなるべくなら隠しておきたいという思いを抱いている彼女と、その彼氏が歩いているところをたまたま見かけた永遠は、二人に話しかけていた。
「あら? 仲がいいわね」
永遠とすれば、悪意があったわけではない。
だが、隠しておきたいと思っている彼女からすれば、もし自分なら永遠が彼氏と一緒にいるところを見かけても、知らないふりをして、敢えて見つけないようにふるまうに違いないと思っている。
それなのに、無神経に話しかけてくる永遠に対し、彼女は最初どうしていいのか分からず、戸惑いを見せてしまった。
こんな態度は今まで見せたこともない、彼女からすれば、「みっともない」格好だったに違いない。
永遠は彼女にそんな思いをさせてしまったなどということを一切気にせず、
「それじゃあ」
と言って、中途半端なところで二人の前から消えた。
それは、火を起こしておいて、そのまま放っておくかのような振る舞いであり、完全に友達の顔に泥を塗ったまま、放置して帰ってきてしまったかのようになってしまった。
置き去りにされた彼女は、
「ごめんなさい」
と言って、涙を流しながら、彼の前から立ち去ってしまった。
彼は何が起こったのか分からず、こちらも置き去りにされて、どうしていいのか分からなくなっていた。
その場から無神経にも立ち去った永遠は、その後がどうなってしまっているかなどまったく知らずに、二人のことをすぐに忘れてしまっていた。
「私は何も悪いことなんかしていない」
と思っているのだから当然のことであろう。
だが、このことが三人の仲間の中に亀裂を生じさせた。
永遠に無神経な態度を取られた彼女は、後から参加した友達に永遠のことを相談したようだ。
相談された方は、
「あの人がそんな無神経な人だったなんて思ってもみなかったわ」
と、永遠の悪口を並べていた。
これは相談に来た彼女への配慮もあったのであろうが、心の中ではまだ永遠のことを友達だと思っていることで悩みを抱えていた彼女には混乱させるだけの意見であった。
相談された彼女は、高校に入ってからもずっと一人だったのは、実は中学時代に好きな男の子がいて、ずっと告白できないでいた時、ふっと一人の女の子が自分の好きな男の子に告白して付き合うようになったことがあった。
彼女は、
――私に話しかける勇気がなかったんだから私の負け。彼がその子とうまくいくのであれば、それはそれでしょうがない――
と割り切っていた。
一言で割り切っていたといっても、割り切れるまでにはかなりの時間と精神的な苦しみがあったのだが、何とか割り切ることができた。
しかし、割り切ることができたと思ってすぐのことだったのだが、噂が彼女の耳に入ってきた。
「あの二人別れたらしいわよ」
「え、どうして?」
「女性の方がフッたらしい。しかもいとも簡単にね」
「そうなの? でも確か彼女の方から付き合い始める時はアプローチしていたはずよね?」
「ええ、でも彼女、結構尻軽なんだけど、飽きればポイって性格らしいの。ドライというか、小悪魔のような人なのかも知れないわね」
という話だった。
――そんなことってないわ。私が悪いと思う必要なんかなかったんだわ――
と感じたが、後の祭り。
そう思うと彼女は、若干の人間不信に陥ってしまい、男性も女性も信じられなくなっていた。一種のトラウマというべきなのだろうが、高校に入学したのは、ちょうどその頃だったのだ。
だが、その頃から人に声を掛けることを躊躇するようになった。しかも声を掛けるとその人の顔がぼやけていて、まるで逆光に当たったかのようで、顔がまったく分からないようになってしまった。
声を掛けることに勇気が持てず、勇気を持てないことが、人の顔を覚えられないという意識と結びついて、声を掛けなくても、人の顔を覚えることができなくなっていたのだ。
「お時間がおありでしたら、喫茶店にでも行きましょうか?」
と彼は言った。
お見合いパーティに参加するくらいなので、その日のその後の予定などあるはずもなかった。
「予定がある」
といえば、それは相手を避けていることの証拠にもなってしまうと思った永遠は、
「ええ、どこかご存じですか?」
というと慎吾は、
「よかった」
という安堵の表情を浮かべ、ホッとした様子で、
「じゃあ、こちらに」
と言って、永遠をエスコートしてくれた。
彼の半歩後ろに従って歩くこと五分くらいだっただろうか。さっきの場所からそれほど離れているわけではないのに、結構遠くに来たような錯覚を覚えた永遠は、
――やっと着いた――
とホッとした気分になった。
ここまではほぼ一直線だったので、却って遠く感じられたのかも知れない。
扉を開ける時、牧場の牛が首からつけている鐘の音のような音が響いたのは、レトロな雰囲気を思わせた。表からは木造建築っぽいアンティークさだったが、中に入ると違った意味でのアンティークなイメージがあり、永遠とすれば感動に値するように思えた。
中はレンガ造りになっていて、山小屋のマントルピースを思わせた。
「なかなかシックな感じていいでしょう?」
「ええ」
――今の時代に、こんな喫茶店が残っているなんて――
と永遠は思った。
「この喫茶店は、僕が大学時代から使っているところなんですよ」
と言って奥のテーブルに腰かけた。
店とすればそれほど大きなところではなく、テーブル席が三つに、カウンター席も十人も座ることができないほどのこじんまりとした店であった。
その日はカウンターに一人の客がいるくらいで、他には客はいなかった。一人いる客は一度もこちらを振り返ることもなく、背中を丸めてコーヒーを飲んでいる。他の人への関心はないようだった。
「いらっしゃいませ」
アルバイトだろうか、一人の女の子が水を持ってきてくれた。
大学生に見えたが、ひょっとすると主婦のアルバイトかも知れない。
「僕はブレンドだけど、永遠さんは何にします?」
と慎吾が聞いてきた。
慎吾は、
「高村さん」
とは呼ばずに、
「永遠さん」
と呼んだ。
普段であれば、そんな言われ方には慣れていないので、胡散臭さを感じるのだが、その日はなぜか新鮮な気がした。喫茶店の雰囲気が新鮮に感じさせたのかも知れない。
それに彼はリーダーシップには長けているのかも知れない。普通、お見合いパーティに参加する人は引っ込み思案な人が多く、そのくせ、恋人がほしいという思いだったり、結婚したいという思いが人一倍強い人だと思っていた。
だが、よく考えると本当にそうだろうか?
永遠は自分を顧みると、
――私は真剣に結婚したいと本当に思っているんだろうか?
と考えてしまう。
永遠だけではない。実際に結婚願望が他の人よりも強い人で、お見合いパーティでいい人を見つけたいと思っている人でも、果たして積極的になれるだろうか?
そう考えてみると、さっき忘れ物を取りに戻った時に見てしまった男性のことを思い出した。
彼は確かに一人の女の子と仲睦まじく会話をしていた。意識しないようにしていても、二人の雰囲気は独特で、人が割り込めないほどの雰囲気を醸し出していて、それだけに、――二人の間に割って入ろうなんて人、いないに違いない――
と思っていた。
実際に告白タイムにおいて、彼らは最初から決まっていたようなものだと思っていたことで、その日のカップルが五組だと聞かされて、四組目が決まった時、
――五組目はあの二人なんだわ――
と感じたのも確かだった。
しかし、実際に違ったことで、
――私の気のせいだったのかしら?
と感じ、自分がカップルになったのも、何かの間違いのようにも感じられたほどだった。
だが、忘れものを取りに行った時、彼がもじもじしながら、どうしようか迷っていた時、彼がどのような行動をとろうとしていたのか、分かった気がした。
だが、さっきまでの威風堂々とした態度が、ここまで未練がましく感じられるようになるのをあからさまに見せられると、トラウマになってしまうのではないかと思えたほどだ。しかし、彼の気持ちになってみれば、本当に信じられないと思うのは当然であって、確かめなければ気が済まないというのも当たり前のことだろう。それほどさっきの二人は意気投合していたのだ。
実際に永遠も、
――あの二人がうまくいかないのであれば、今日はカップルが一組もいないことになるんじゃないかしら――
とまで思ったほどだった。
しかし実際には普段とあまり変わらない五組がカップルとなった。逆にいつもより多くない方が却って不思議に思うほどで、
「逆も真なり」
を思わせた。
――彼が本当に確かめたかったのは何なんだろうか?
と思った。
カップルになれるはずだったのになれなかったことで、落胆しているのは分かったが、カードにあるはずの自分の名前を確かめたかったということであろうか?
彼女が三つある希望者の中の何番目であるかによって、彼は自分の存在価値を図るつもりだったのだとすれば、まさか自分の名前が載っていないことを想像もしていなかったはずなので、その落胆は想像できなかった。
だが、冷静に考えれば、名前があるはずもなかった。彼女を指名した人がいたのであれば、他の人とカップルになっているはずである。それがないということは彼女が誰の名前も書いていない証拠であろう。
彼を見ていると、落胆しているというよりも、考え込んでいるように思えた。永遠は彼の心境になって考えてみたが、彼女の性格からすれば、誰の名前も書かないというのは、信じられない気がしたのだ。
しかし、誰の名前も書かないというのはルール違反ではない。逆に気のない人の名前を書く方が誠実さに欠けるというものだ。
誰の名前も書かないことを潔さだと思う永遠だったが、彼に納得できることなのかどうか、そこまでは分からなかった。
しかし、永遠の中で、
――彼女の参加目的は、他の人とは違うものだったのかも知れないわ――
と感じた。
求める相手が違っていたというのが一番妥当な目的への理由だろうが、どんな相手を求めていたというのか。
「一緒にいて楽しい人」
永遠の目的とすれば、それが第一だと思っている。
彼女は一緒にいて楽しい相手を見つけたはずなのに、敢えて名前を書かなかった。そう思うと明らかに永遠とは目的が違っていた。
永遠の求める相手が一般的だと思っているが、本当であろうか? 人によって求めるものが違っているのは当たり前のことだが、そう思うと、目の前にいる、カップルになった相手である慎吾はどうなのだろう? あらためて考えさせられる。
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