第24話 ウルダ(24)

ジャヒールの決定に、ジャンは落胆して、うなずいた。すると、サバッダはジャンを抱きしめた。


「大丈夫だ、ジャン。金曜日に迎えに行くよ」

「はい」

「その時、三日分の服も用意してね」

「はい」


サバッダはジャンの目から出て来た涙を拭いた。


「毎日しっかりと父さんと訓練してね」

「はい」


ジャンはうなずいた。けれど、気持ちを抑えることができなかった。


「兄さん、うわーん!」


ジャンが泣き始めると、サバッダは困って、ジャヒールに助けを求める視線を送った。ジャヒールが動こうとしたけれど、ザイドは先に動いた。


「どうして泣く?」

「・・・」


ジャンは答えないで、泣きながら顔をサバッダの胸に埋めた。


「寂しくなるから」


ジャンが泣きながら言うと、ザイドは微笑んだ。


「私を見て、ジャン」


ザイドが優しい口調で言うと、ジャンは顔を上げて、ザイドを見た。


「はい」

「良い子だ」


ザイドは優しい目で言った。


「きみがしがみつくと、サバッダはアミールたちの元へ戻れなくなるよ」

「・・・」

「それに、先ほどジャヒールさんが言っただろう?きみのことを、どうにかしようという輩が出てくるかもしれないから、こうやって日数を分けることで、彼らがきみの動きを把握しにくくなる」

「はい」

「その意味は分かっている?」

「はい」


ジャンはうなずいた。そしてサバッダを見て、頭を下げた。


「兄さん、ごめんなさい」


ジャンが言うと、サバッダは微笑んだ。


「だが、ジャン、ジャヒールさんたちと一緒に夕飯をしたいなら、今夜だけテントに行っても良いよ?」

「・・いいえ」


ザイドの提案に、ジャンは首を振った。


「アミール兄さんたちは疲れているでしょう。だから、私は金曜日に行きます」

「そう?」

「はい」


ジャンはうなずいた。ザイドは微笑んで、サバッダに合図をした。サバッダはその合図に従って、ジャンを降ろした。


「じゃ、またな」

「はい」


サバッダが言うと、ジャンはうなずいた。彼の目からまた涙が出て来たけれど、ジャヒールは微笑んで、ジャンのほっぺに流れている涙を指で拭いた。


「課題を出す。腕力を上げろ、ジャン」

「はい!」

「今度会うときに、確認する」

「はい!」


ジャンが答えると、ジャヒールは微笑んで、うなずいた。そして、ジャヒールとサバッダがザイドに挨拶してから、そのまま外へ出て行った。


「大丈夫か?」

「・・・」


ザイドが聞くと、ジャンは答えなかった。彼はまた泣いていると、侍従の一人が心配そうに彼を抱きかかえようとしたけれど、ザイドは首を振った。


「今のきみは弱い」


ザイドがそう言いながら、ジャンを抱きかかえて、ジャンの顔をまっすぐに見ている。


「はい」

「これは事実だ。ジャヒールさんは強いかもしれない。サバッダ、アミール、アブ、そしてあの子、・・サマン、・・彼らは弱い」


ザイドは屋敷の中に歩きながら言った。


「例えば、どこかの国の王がきみの噂を聞いて、きみを欲しがるとしたら、サバッダたちだけで、きみを守ることができない」

「・・はい」

「きみは山賊を殺しただろうけど、山賊は弱い敵だ。もし、来たのはザアードのような人、あるいはジャヒールさんのような人が来たら、恐らく、きみ以外の四人は死ぬだろう」

「・・・」


ジャンは瞬きながら、ザイドを見ている。


「いくらジャヒールさんのテントがサバッダたちのテントの近くにあると言っても、暗殺者はいろいろな方法で近づくだろう」

「はい」

「となると、今のきみは暗殺者を防ぐことができない。残念だけど、これは事実だ」

ザイドが大きな扉の前に足を止めると、侍従の一人が扉を開けた。ザイドはうなずきながらその部屋に入った。


「どうしたら勝てますか?」

「訓練するしかない」


ザイドは微笑みながら言った。


「ザアードはとてもまじめに訓練をした。彼はとても努力して、今の地位にいる。ジャヒールさんもだ。若くして、その地位まで上り詰めた人はなかなかいない。だから、彼らはとても良い例だ」

「はい」

「サラムは、そうだね、才能があるし、実力もあるが、結構変わり者でね。正直に言うと、父親である私でも理解できないこともある。だが、家族の一人として、私は彼をありのままに受け入れて、そして彼も家族の皆を受け入れた。サヒムから聞いたが、サラムはきみを大事にしているらしい、と」

「ん?」

「食べかけのパンをくれた、だとか」

「あ、はい」


ジャンはうなずいた。


「サラムは、自分が認めた人以外に、そのような行動をしない人だ。自分が食べたパンは、毒がなく、安全なパンだ。その混乱した状況で、彼はそのパンをきみにあげた。数日間も食事をしなかったサヒムではなく、きみにあげたんだ。それはどう言う意味か、分かる?」

「ん?」


ジャンは首を傾げた。


「私のおなかの方がぐ~ぐ~と鳴いたから?」

「ははは、そうだったのか?」

「覚えていません」


ジャンは正直に言った。


「では、教えよう。それは、サラムにとって、きみは守るべき家族の一人だ、ということだ。サヒムが無事ならそれで良い、とサラムは思っただろう。実際にサヒムは数日間も食べなくても、倒れたりはしない。そういう訓練を受けたからだ」


ザイドは部屋を見渡しながら、そのままベランダへ向かった。ベランダに黄色い花の鉢植木があった。


「あっ!」

「きみの鉢植木だよ」

「はい、でもどうして?」


ジャンは首を傾げた。


「ここはきみの部屋だからだ」

「えっ?」


ジャンはびっくりして、瞬いた。とても広い部屋で、大きくてきれいな寝台があって、その近くに大きな絨毯とソファとテーブルがあった。


サバッダの部屋よりも大きい、とジャンは瞬いた。


「きみの服は、そうだな、この棚に入っている。文字を勉強していると聞いたので、明日から文字を教えてくれる先生が来る。しっかり勉強しなさい」

「はい」

「タックス語は、もう少ししてから教える」


ザイドはそう言いながら、ジャンを降ろした。


「食事は、毎朝ここですれば良い。食事は侍従が届けに来る。きみの専属侍従は向こうにいる人だ。名前はイブラヒム。外に出かけるときに、彼も一緒に行く」


ザイドが言うと、扉の近くで立っている男性が丁寧に頭を下げた。


「ジャンです。よろしくお願いします、イブラヒムさん」


ジャンが言うと、イブラヒムは首を振って、再び頭を下げた。


「イブラヒムに敬語が必要ないよ、ジャン」

「でも、イブラヒムさんは私よりも年上でしょう?」

「ほう」

「お母様は、年上の人に必ず敬意を持って、接触しなさいと仰いました」


ジャンが言うと、ザイドは微笑んだ。興味深い発言だ、とザイドは思った。


「家族なら分かるが、家来にも?」

「はい」

「下男や奴隷にも?」

「はい。私に直接関わって、世話してくれるなら、そうします。悪い人にはしませんけど・・」

「ははは、悪い人は、問答無用、殺しなさい」


ザイドはそう言いながらうなずいた。


「本はその棚にある。他に読みたい本があれば、イブラヒムに言えば良い」

「はい」


ジャンはうなずいた。


「そうだ。タレーク家では、訓練場は何カ所にある。私はいつも三階の部屋を使っている。きみも、明日、朝ご飯の後、イブラヒムと一緒にその部屋に行って下さい」

「はい」


ジャンはうなずいた。


「では、今夜の夕飯は私と一緒に食べよう。イブラヒム、ジャンを頼んだ」

「かしこまりました」


ザイドはイブラヒムに命じて、ジャンを見て微笑んでから、そのまま部屋の外へ出て行った。


「うむ、これから何をすれば良いですか?」


ジャンは困った顔をして、イブラヒムに尋ねた。


「お夕飯の時間まではまだ少しありますが、早めにご支度することも問題ございません」


イブラヒムは丁寧に言った。


「支度の後、少し庭で過ごされてもいかがでしょう?」

「あ、はい」


ジャンの顔が明るくなった。


「じゃ、そうします。改めて、よろしくお願いします、イブラヒムさん」

「かしこまりました、ジャン様」


イブラヒムは頭を下げてから、微笑んで、ジャンの支度を手伝った。





ジャンはタレーク家で生活して、二ヶ月間が経った。ザイドによるジャンの訓練は、他の家族から秘密にされていて、部屋の中にジャンとザイド、二人だけだった。イブラヒムはいつも外で、ザイドの侍従と一緒に待機している。


侍従と言っても、イブラヒムは護衛技術を身につけた人だ。恐らく、彼もザイドの暗殺部隊の隊員だろう、とジャンはたまに思った。


「今日はここまでにしよう」

「はい!」


ジャンが汗びっしょりしながらいうと、ザイドは微笑んで、うなずいた。


まったく弱音を吐かない子だ、とザイドは思った。サフィードの息子であるサマッドならもう泣いてしまうだろう。


「ありがとうございました」


ジャンは丁寧に頭を下げてから、木材でできた武器やタオルを片付けた。ザイドはうなずいて、手を叩いた。すると、扉が開いて、侍従たちが入って来た。


「ジャン、今夜、みんなで一緒に夕飯を食べよう。サバッダも来る」

「はい!」


ジャンが嬉しそうな声で言うと、ザイドは微笑んで、イブラヒムにうなずいてから、外へ出て行った。


ジャンとイブラヒムは部屋に戻って、体をきれいにした。午後の練習は朝の練習よりもとても大変だった。ジャンの体にいくつか訓練による打撲の痕が残っている。イブラヒムは丁寧にそれらの傷を薬で塗って、柔らかい布で包んだ。


「痛いでございますか?」

「あ、大丈夫です」


ジャンは首を振って、返事した。我慢強い子どもだ、とイブラヒムは思って、微笑んだ。


トントン、と扉がノックされた音がした。イブラヒムが扉を開けると、サバッダが微笑んで、部屋の中に入った。


「兄さん!」


ジャンは嬉しそうに走って、サバッダを抱きしめた。けれど、裸のままだ、とイブラヒムが慌ててジャンに服を着せた。


「背中にできた痣はどうした?」


サバッダが聞くと、ジャンは苦笑いした。


「父さんを狙って、後ろから攻撃してみたのですが、見つかって、返り討ちにされてしまいました。あはは」

「・・・」


サバッダは言葉を失った。


「それは危険だ」

「はい」


ジャンはうなずいた。


「父さんは引退したとは言え、数年前ぐらいまでは凄腕の暗殺者だったから」

「そうですか」


ジャンはサバッダを見て、うなずいた。


「それでも、狙って見ます。でも一度も成功したことがありません。やはり難しい」


ジャンが言うと、サバッダは笑っただけだった。そして彼はジャンを抱きかかえて、外へ出て行った。


「今日は人が多いですね」

「そうだね」


ジャンが言うと、サバッダはうなずいた。


「今日はイルシャード家と食事会だ。サマリナが布造りを終わらせたので、結婚の良い日の話し合いがあるんだ」

「はい」


サバッダが言うと、ジャンはうなずいた。やはりサブリナの布作りは終わっていない、とジャンは思った。サブリナが刺繍が嫌いだから、がんばっていると言われても、サマリナと比べると、その出来栄えは天と地のような感じだ。だからタレーク家にいる女性らは、彼女たちを徹底的に教えている。


「サブリナ姉さんが心配です」


ジャンが言うと、サバッダは無言でうなずいた。


「その時に、ジャンは力になってあげて」

「はい。でも、大丈夫でしょうか?」

「大丈夫だ。ジャンならできるよ」

「がんばります」


ジャンはうなずいた。侍従らが彼らに大間に案内すると、そこにはザアードとサフィードがもうすでに座っている。サラムとサヒムがいないので、サバッダとジャンは二人に挨拶してから、サフィードの隣に座った。サキルは仕事で、どうしても来られない、とサフィードは言った。


ウルダでは、基本的に結婚式は女性の家で行われる。男性は女性側に贈り物をしてから、誓いの言葉をして、宴が行われる。数日が経つと、今度は二人が男性の家に行って、向こうでは宴が行われる。女性が男性の家に入ることで、結婚が成立した、とサバッダがジャンに説明すると、サフィードは微笑んだ。


「アルキアでは、結婚式はどんな感じか?」

「うーん、良く分かりません」


サフィードが聞くと、ジャンは素直に答えた。


「ジャンは結婚式を見たことはないのか?」

「ありません」

「そうか、なら仕方がない」


ジャンの答えを聞いたサフィードはうなずいた。その様子を見たザアードも笑って、侍従らが差し出した飲み物を取って、ゆっくりと飲んだ。しばらくすると、ザイドが現れて、入り口から入ってきたイルシャード家の人々を歓迎した。ザアードたちが立って、イルシャード家の人々を歓迎して、和やかな雰囲気で会話した。使用人たちが食事を運んで来ると、彼らは机を囲んで、食事し始めた。ジャンはサバッダの隣に座って、食事を楽しんでいる。


「きみはジャンか?」


ジャンの隣に座っている男性が声をかけると、ザイドとザアードたちの会話が止まって、鋭い目で二人を横目で見ている。彼はイルシャード家の次男で、今回サマリナと結婚する予定の三男の兄だ。


「まず、お名前を伺っても良いですか?」


ジャンはすぐに返事せず、逆にその男性に質問した。


「これは失礼。俺はイスハックだ」


その男性が名乗ると、ジャンはうなずいた。


「はい、私はジャンです。何かご用ですか?」


ジャンが答えると、その男性は笑った。


「いやぁ、知りたいだけだ。噂ではとても強い男の子だと聞いたから、実際にどんな人か知りたくてね」

「そうですか」

「以外と、普通の子どもで、笑っちゃうよね」

「そうですね」


ジャンは再び食事を食べた。サバッダも二人を気にしながら食事している。


会話が続かない、とサバッダは思った。


「実際はおまえはとても小さい。あの噂はでっちあげだ、という人もいるらしいが、実際はどうなんだ?嘘だったのか?」

「ご想像にお任せします」


ジャンが短く答えて、串焼きを楽しんでいる。イスハックはしばらく食事して、紅茶を飲んだ。


「ところで、おまえは何歳なの?」

「4歳です」


ジャンは食事をしながら答えた。会話は続かないけれど、これ以上問題にもならないだろう。ジャンがイスハックを相手にしないことを見たザイドは微笑んだ。ザアードは父親の笑みを見て、うなずいて、再び会話しながら食事している。ジャンがサバッダにサラダを頼むと、サバッダは笑いながらサラダの大皿を取って、サラダをジャンのお皿に盛り上げた。


「おまえが噂通り強いなら、今度俺と戦ってみないか?」

「ん?」


ジャンは振り向いて、首を傾げた。


「どうして?」

「おまえの力を知りたいから。なぁ、俺とおまえはどちらが強いか、確かめたくて仕方がないんだ」


その言葉で、その場が凍り付いた。


「父さんが良いと言うなら、やります」


ジャンが言うと、サバッダは険しい顔でイスハックを見ている。ザイドとザアードも険しい顔で見ている。


「イスハックさん、この和やかな食事の席で、決闘の申し込みはいかがな物かと思うぞ」


ザアードが言うと、イスハックは笑った。


「決闘だなんて、ただ知りたいだけだよ」


イスハックが言うと、イルシャード家の人々が首を振った。まずい、と彼らは思った。


「私の息子に、決闘を申し込んだ、そういう風に聞こえていますが・・?」


ザイドが鋭い声で言うと、イルシャード家の当主は焦って来た。


「・・ただの練習試合だと思います」

「ほう」


イルシャード家の当主がそういうと、ザイドは顔色を変えずに答えた。


「4歳の子どもと大の男が、練習試合?」

「・・私どもがそう聞こえています。あまり真剣に考えないで下さい」

「なるほど」


ザイドは微笑んで、ジャンを見ている。


「ジャン」

「はい」


ジャンは食事をやめて、ザイドを見ている。


「イスハックさんと戦うのは怖いか?」

「いいえ」

「ならば、彼が満足するまで、彼を相手にすれば良い」


ザイドが言うと、サバッダが驚いて、思わず父親を見ている。


「それは良かった」


イスハックは微笑みながら言った。


「ジャンが負けたら、仕方がないと思う。まだ4歳なのでね」

「がんばります、父さん」


ジャンが言うと、ザイドは優しい顔で微笑んだ。


「しかし、この練習試合・・・・で、この縁談はなかったことにするよ」


ザイドの言葉を聞いたイルシャード家の当主の顔が青ざめた。挑発したのはイスハックだから、ザイドの逆鱗に触れたことも分かる、と彼は思った。


ついさっきまで和やかな食事会が一転して、敵対雰囲気になってしまった。イルシャード家当主が謝罪したものの、ザイドの考えは変わらなかった。結局、イルシャード家はイスハックを引きずりながらタレーク家を後にした。


何かいけないなことをしたか分からないジャンは、串焼きを持ちながらただ彼らを見ているだけだった。

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