第18話 ウルダ(18)
パンを食べ終えたジャンは早速サヒムを連れて、宿へ向かった。途中でジャンは市場に寄って、そこにいる串焼き売り場の老人が複数の子どもたちを抱きしめている姿を見かけた。ジャンはしばらく彼らを見てから、無言で移動して、宿の屋根の上に到着した。
「一応、パンと煮豆があるけど、食べますか?」
「ああ、可能なら、お願いしたい」
「分かりました」
ジャンは真っ暗で誰もいない宿に入って、一階にあるダイニングに連れて行った。部屋の灯りを灯してから、ジャンは肉料理や美味しそうな料理をゴミ箱に捨ててから台所にあったきれいな皿を机に置いた。机に残された料理はあの老婆が買ったパンと煮豆だけだった。紅茶にも毒が入ったから、ジャンはためらいなくその紅茶を捨てた。その代わり、ジャンは外に出て、井戸から水を汲んで、そのままグラスに入れて、再び戻って、グラスを机に置いた。
サヒムはただ無言でジャンの行動を見ている。
「毒に入れられたことを知っているのか?」
「はい」
ジャンはうなずいた。
「どうぞ食べてください。味が美味しいとは言えないけど、毒が入っていないから、安全です」
「ああ、分かった。ありがたく頂くよ」
サヒムはパンと煮豆を食べ始めた。美味しくはないけれど、数日間食事をしなかった彼にとって、天国の味だ。
「これらの料理を用意した人は、今どこに?」
「彼女はもう死にました」
ジャンはそう答えながら、サヒムの前に座った。
「まさか、と思うけど・・」
「私は殺しました」
ジャンは腰にぶら下がった水筒を取り外してそのまま中身をグビグビと飲んだ。サヒムは無言でジャンを見て、また食事をし続けた。
本当の意味で、危険な弟だ、とサヒムは思った。
「このような任務は、始めてか?」
「はい」
ジャンはうなずいた。
「どうだった?」
「正直に言って、難しかったです」
「だろうな」
サヒムはそう言いながらジャンが入れたグラスを見て、考え込んだ。
「兄さん」
「何?」
「タックス語は分かりますか?」
「分かるよ」
サヒムはうなずいた。
「エスカヴェレス・アヌト・ザフィア の意味は何ですか?」
ジャンが聞くと、サヒムは少し考え込んだ。
「女神様万歳、という意味だ」
「ふむ、宗教関係だったんだ。じゃ、覚えなくても良いんですね」
ジャンが言うと、サヒムは微笑んだ。
「誰がその言葉を言ったの?」
「私が殺した老婆です。死ぬ間際に言った言葉は、それでした」
「なるほど」
サヒムは水を飲んで、ジャンを見ている。サヒムは言葉の本当の意味をジャンに教えなかった。その言葉は、罵る言葉だったからだ。
「タックス語は興味ある?」
「はい」
「教えようか?」
「教えてくださるなら嬉しいです」
ジャンは素直に答えた。
「ですが、マグラフ村に帰ってからにします」
「ははは、仕方ない」
サヒムは苦笑いした。この小さな子どもに勝てない、と彼はそう思って、ジャンを見ている。
「おまえの母親はきっと頭が良い人だ」
「ん?」
ジャンは首を傾げた。
「古くから、子どもが母親から頭脳を受け継ぐと言われている。違うのか?」
「うーん、頭が良いという基準は良く分かりません」
ジャンは素直に言った。
「・・ですが、お母さんは、私よりも10カ国以上の言葉を、読み書きできます」
「それはすごい」
サヒムは興味津々とジャンを見ている。
「じゃ、おまえはこれから母さんを超えるぐらい勉強しないとね」
「はい」
ジャンはうなずいた。
「でも私は読み書きができません」
「まぁ、まだ4歳だからね」
「はい」
ジャンはうなずいた。
「少しずつ勉強しよう。文字は難しい物では無いから、すぐに上手になるよ」
サヒムはそう言いながら自分が先ほど使った食器を片付けて台所に置いた。そしてジャンが先ほど放置した皿を含めて、まとめて洗った。ジャンが手伝おうとしたけれど、サヒムは首を振った。
皿洗いが終えると、二人は再び宿の屋根に行った。今回はジャンとサヒムが荷物もまとめて運んで行った。サバッダが戻ったら、すぐにでもマグラフ村に戻る、とジャンは思った。サヒムはサバッダとジャンのカバンを置いて、周囲を見渡した。
「兄さんの鳥さんはマグラフ村にいます」
ジャンが言うと、サヒムは首を傾げた。
「鳥さん?あ、エフスカのことか?」
「はい」
「まぁ、あれは向こうへ帰るようにと命じたから」
「緊迫した様子だったのに、手紙を書く時間がありますね」
ジャンが聞くと、サヒムは苦笑いした。
「参ったなぁ」
サヒムはかゆくない頭を掻いた。この子ども、4歳児なのに、彼の行動を見抜いた。
「俺がちょうどこの辺りに来たんだ。情報を収集して、定期的に向こうへ送ったんだ」
「向こうって、マグラフ村に?」
「そうだ」
サヒムはうなずいた。
「ちょうど報告書を書いたところで、異変に気づいて確認すると、近くで子どもたちが暴行されていたことを見たんだ。だから急いで手紙を終わらせて、最後に応援要請と書いてから、エフスカに付けて、あいつを飛ばしたんだ」
「じゃ、お兄さんの荷物はまだこの辺りに?」
「まぁ、取られなければあるだろう」
「取りに行きましょう」
「良いよ。大した物じゃないんだから、しなくても良い」
「でも、カバンに毒瓶があるんじゃないですか?」
ジャンが聞くと、サヒムは固まった。
「どうしてそのことを?」
「うーん、常識じゃないですか?」
「おまえも、毒使いなのか?」
「はい」
「・・・」
改めて、極めて危険な
「良いか、そのことを他人に言っちゃダメだよ?」
「はい。ごめんなさい、反省します」
ジャンが言うと、サヒムは微笑んだ。
「聞いても良いなら、おまえの毒は何だ?」
「女神の微笑みです」
「危険だね」
サヒムはため息ついて、サバッダのカバンとジャンのカバンを肩にかけた。4歳児の
「父さんからもらったのか?」
「いいえ」
ジャンは首を振った。
「サビルおじい様から頂きました」
「サビルって、サビル・エフラド?!」
「はい」
「なんで?」
「私のおじい様ですから」
「・・・」
サヒムは思わずジャンを凝視した。
「おまえは、あのサビル・エフラドの孫というのか?」
「はい」
サヒムは瞬いた。自分の父親がどれほど危険なことをしたか、一瞬で分かった。タレーク家は長年暗殺家業にしている。エフラド家ももちろん、商業もやっているけれど、本業は用心棒と暗殺の商売だ。両家は互いに邪魔しない、そして干渉もしない。そして同じマグラフ村出身で
「じゃ、荷物を取りに行こうか?」
「はい」
ジャンはうなずいて、立ち上がった。サヒムはジャンを抱きかかえながら、軽やかに移動した。
「大丈夫か?」
「はい」
「すぐそこだから」
「はい」
ジャンはうなずいて、周囲を見ている。
「おまえは本当に小さい」
「4歳児ですから」
「ははは」
サヒムは笑って、ある家の屋根に着地した。ジャンを降ろしてから、サヒムは窓を開けて、中に入った。
「部屋がめちゃくちゃに荒らされていたな」
サヒムが呆れながら自分のカバンを確認した。財布がなかったけれど、服や文房具は無事だった。
「毒瓶は無事ですか?」
「それならここにある」
サヒムは寝台を動かすと、壁の張り紙を剥がした。その張り紙の裏には小さな瓶があった。
「宿の壁に穴を開けても問題ないのですか?」
「ばれなきゃ良い」
「ふむふむ、分かりました」
「・・・」
サヒムは呆れた様子でジャンを見て、その瓶をカバンに入れた。
「聞いても良いなら、なんて言う毒ですか?」
「漆黒の瞳だ」
「きれいな名前ですね」
「毒は大体きれいな名前で付けられるんだ。そうすれば、敵に気づかずに済む」
「ふむふむ」
ジャンはうなずいた。
「兄さん、武器は?」
「ない。敵に奪われたんだ」
サヒムはジャンを抱きかかえながら再び外へ出て行って、再び移動した。村に逃げ出したタックス軍が見えたけれど、ジャンたちは屋根の上からただ彼らを見ているだけだった。
「タックス王国はなぜこの村を襲ったのですか?」
「オアシスがあるからだ」
サヒムは再び移動して、比較的に静かなところに着地した。
「タックス王国に水がなかったのですか?」
「あったと思う。タックス川もあったし、港もある。ただ、最近タックスの東と南辺りに干ばつがすごいらしい」
「ふむふむ」
「だから水が豊富なこの村に来た訳だ」
「戦争になっても?」
「戦争に気にするなら、最初からやらないだろう?」
「あ、そうですね」
ジャンはうなずいた。
「じゃ、これから戦争なんですか?」
「分からん。が、恐らく戦争になるだろう。国王宛に手紙も送ったからだ」
「そうですか」
いつ送ったか、ジャンは分からない。けれど、スパイであるサヒムはそのことについて、話さないだろう、とジャンは思った。
だから、ここに来る前に、ジャンはジャヒールが言った言葉を思い出した。国軍が来るか、来ないか、と。
「だが、サラム兄さんがここに来たとなると、もうこの村を取り戻すことができるだろう」
「敵の援軍が来たら、どうしますか?」
「どうするだろう」
サヒムは考えた。
「おまえはここにサバッダと二人だけで来なかっただろう?」
「はい。ナセーム・アバス隊長の部隊と一緒に来ました」
「彼は今どこに?」
「南にいると聞きました」
「なるほど」
サヒムはジャンの隣に座って、考え込んだ。ナセーム・アバスの部隊は暗殺第一部隊だ。その部隊が出動したとなると、間違いなく、南で敵軍の
「サラム兄さんは先ほど出合ったよね?彼は西?」
「はい」
ジャンはうなずいた。
「他には?」
「ジャヒール先生とマグラフ村の警備隊が北西方面に行きました」
「ジャヒールさんか・・、あの人はサバッダの先生だと聞いた」
「はい」
「まさかと思うけど、おまえもジャヒールさんの弟子か?」
「はい」
「・・・」
早すぎる、とサヒムは思った。けれど、それでジャンの行動に説明が付く。幼い子どもなのに、ここまで暗殺技ができるとなると、やはり凄腕の先生がいる、ということだ。
マグラフ村では、ジャヒールの腕を知らない人はいない。そんな凄腕の暗殺者が村に留まって、弟子を取っている、という話が聞いたことがある。数多くの志願者の中から、彼は三人の弟子を選んだ、とサヒムの記憶の中にあった。サバッダと同じ年齢の子どもが一人、そしてエフラド家の子どもが一人。
「ジャン!」
ジャンは振り向くと、サバッダがいる。返り血で、サバッダの服が赤かった。
けれど、ジャンは怖がるどころか、立ち上がって、大きな笑みを見せた。
「サバッダ兄さん!」
「無事か?」
「はい!」
「良かった」
サバッダは小さなジャンを抱きしめた。
「サバッダ兄さん、怪我は?」
「大丈夫だよ」
サバッダは微笑んで、かわいい
「サヒム兄さんも無事ですね」
「ああ。ジャンのおかげだ。助かったよ」
サヒムが言うと、サバッダは笑って、またジャンを見た。
「そろそろ行こうか?」
「はい」
「ご飯は食べた?」
「はい。サラム兄さんからパンを半分頂きました」
ジャンが言うと、サバッダはうなずいた。
「サバッダ兄さんは?」
「昼間、パンを食べた」
「じゃ、今おなかが空いたでしょう?」
「問題ないよ」
サバッダは立ち上がって、自分のカバンをサヒムから受け取った。サヒムは大きくなったサバッダをしばらく見て、何も言わずにいた。
「サヒム兄さんの武器がない、と言いました」
「そうか」
ジャンが言うと、サバッダは考え込んだ。
「まず馬を取りに行こう。宿の馬舎にいるから」
「はい」
「サヒム兄さんは僕と一緒に移動するよ。父さんのご命令だから」
「分かった」
サヒムはうなずいて、ジャンを抱きかかえているサバッダを見ている。そして彼らが動き出して、宿の馬舎に向かった。宿に到着すると、すでに数人の男らがいる。サバッダが彼らを知っているような仕草を見せると、彼らもうなずいた。サバッダたちが馬舎に入って馬を取り出すと、もうすでに彼らがいない。その代わり、一人の男性が馬二頭を連れてきた。
「私どもはマグラフ村まで護衛致します」
「分かった」
サバッダはジャンのカバンを馬に付けながら言った。そして彼はジャンを馬に乗せてから自分の馬に乗った。サヒムも馬に乗った。
「おじさんのお名前を、伺っても良いですか?」
ジャンが突然聞くと、その男性が驚いて、思わず後ろへ振り向いた。自分だと分かった瞬間、彼は微笑んで、頭を下げた。
「私どもはジャファー・アジズでございます、ジャン様」
「よろしくお願いします」
「役目でございます。ですので、敬語をなさらないで下さい」
「はい」
ジャンが素直に答えると、ジャファーは微笑んだ。サヒムは無言で彼らのやり取りを見て、彼らと一緒に移動し始めた。
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