第8話 ウルダ(8)
その日の夜、ジャヒールたちは結局エフラド家が用意した宿に泊まることになった。アブの親戚、というわけではなく、単純にこの町の影の支配者であるサビルはジャンに興味を示したからだ、とジャヒールは思った。
「これは宿なのか?」
サマンが呆れた声で言うと、アブは笑っただけだった。ここはとても豪華で、壁にきれいなタイルが貼られている。寝台もとても大きく、ふかふかなマトレスに絹で包まれている。アブ自身でさえ、この宿に泊まったことがなかった。
「すげぇ・・」
アミールがシーツを触れるとサバッダも触れた。
「このようななめらかな布、始めて・・」
サバッダが言うと、アミールはうなずいた。アブがジャンを寝台に座らせると、ジャンは寝台を触った。
「絹です」
ジャンが言うと、アミールたちは不思議な目でジャンを見ている。
「絹?」
「はい」
ジャンはうなずいた。
「さなぎの糸で作られた布です」
「なんで知っている?」
「うーん、何ででしょう・・」
ジャンは考え込んだ。
「実家で、侍女たちはこの布で服や刺繍を作っているから、かな」
「ジャンの実家はお金持ちだね」
「うーん・・」
サバッダが言うと、ジャンは首を傾げた。
「分かりません」
ジャンは素直に答えた。アブが笑って、ジャンのほっぺをつまんだ後、窓を開けた。
もうそろそろこの村を村と呼べなくなる、とアブは思った。人口が増えて、このような建物もあるから、町になるだろう、と。
「サマン兄さんは休んで」
ジャンが言うと、サマンは微笑んでうなずいた。
「今夜はジャンと一緒に寝ようか?」
「ダメだよ」
サマンが言うと、アブは即答した。
「ジャンは俺と一緒に寝るんだ」
「そうはいかない」
アブが言うと、今度はアミールは言った。
「ジャンは僕と一緒に寝るんだろう?」
サバッダが言うと、ジャンは笑っただけだった。
「残念だが、ジャンは私と一緒に寝ることにした」
突然扉が開いて、ジャヒールが入った。ジャヒールの後ろには下男たちが来て、暖かい湯を持って来た。そして部屋の奥にある大きな浴槽に湯を入れ始めた。
「サマンは残念ながら、今夜の風呂に入れない。傷がまた開いてしまうからだ。おとなしく休め」
「はい」
ジャヒールが言うと、サマンは落胆した様子で彼らを見ている。
「ジャン、風呂に入ろうか」
「はい」
「ははは、良い子だ」
ジャヒールが服を脱ぎ始めると、サマンはジャンの服を脱がした。
「この傷痕は?」
サマンはジャンの腕にあった複数の傷痕を気づいた。
「うーん、これは、お母様の蛇に噛まれた時の傷でした」
「蛇?!これも、これも?」
「はい」
ジャンが言うと、アミールたちはジャンに近づいて、腕を見ている。言えば、このような明るい場所でなければ、彼らは気づくことはなかった。
「蛇とは、母さんが蛇を飼っているのか?」
「はい」
「どんな蛇だった?」
「うーん、緑色の蛇や、茶色の蛇もいて、黒い蛇もいた・・、頭が丸い蛇がいれば、頭が三角の蛇もいて、頭が大きな蛇もいました。しましまできれいな色をしている蛇もいました」
「毒蛇か?」
「良く分かりません」
ジャンは首を傾げながら言った。
「お祖父様は週に一度ぐらい、蛇を遊ばせてくださいました。私がとてもしつこかったからか、たまに蛇が怒って、噛んだけど、お祖父様は笑って、傷痕を触れて血を出してくださいました」
「・・・」
ジャンが言うと、アミールたちは急に静かになった。
「それは何歳から?」
ジャヒールが聞くと、ジャンはまた首を傾げた。
「ごめんなさい、覚えていません。私がお祖父様と一緒に住んでからだと思います」
ジャンは素直に答えた。
「蛇に噛まれて、痛かった?」
「最初はびっくりして、痛かったかもしれない・・、よく覚えていません。ただ、その後は楽しくて、面白かったです。蛇たちはとてもかわいかったから」
ジャンは懐かしそうにその傷跡を見て、微笑んだ。
「毎回、同じ蛇だったか?」
「いいえ」
ジャンは首を振った。
「毎回組み合わせが違う蛇でした。同じ組み合わせが一回もありませんでした」
「なるほど」
ジャヒールはうなずいた。となると、違う種類の毒がこの小さな子どもの中にぶつかり合うことによって、毒に対する免疫力が高まっている、ということだ。
「具合が良くない時はあったか?」
「うーん・・」
ジャンはまた首を傾げた。
「たまに遊びすぎて、風邪をひいて、熱が出ることがありました。でも、お祖父様が、子どもに良くあることだ、と仰いました。お母様が心配したけど、お祖父様は笑って、私に自分が調合した薬を飲ましたからお母様を帰らせました」
「そうだったのか」
ジャンの答えを聞いたジャヒールは息を呑んで、うなずいた。この子どもの体は、計画的に鍛えられた、ということだ。戦争のためとはいえ、まだ何も分かっていない子どもにこれで良いのか、と彼は戸惑った。
けれど、彼は依頼された仕事をやるしかない。
「さて、風呂に入ろう。ずっと裸だと寒いだろう?」
「はい、寒いです」
「ははは」
ジャヒールはジャンを連れて浴槽に入ると、数人の下男たちは彼らの体を丁寧に洗った。ジャヒールとジャンを洗い終えると、今度はアミールたちの番だ。全員洗い終えると、下男たちは床をきれいにしてから外へ出て行った。
「アブ、感謝するよ。こんな贅沢ができるのは、多分ごれが最初で、最後だろう」
アミールが言うと、アブは苦笑いした。
「礼に言う相手は俺じゃなくて、ジャンだ。俺がまたこの町に行っても、恐らくこのような待遇はないだろう」
アブが言うと、ジャヒールはうなずいた。いくら親戚でも、サビルがここまで身内を甘やかすことはない。
けれど、ジャンはあまりにも気持ち良かったなのか、アミールとアブの会話を聞かずに、すでに眠ってしまった。すると、ジャヒールは彼らの近くで座っているサマンを呼んで、ジャンを浴槽から上げるようにと命じた。
翌朝。
ジャンが目を覚ますと、部屋の中にいるのはサマンだけだった。サマンは熱が出ているから、今日一日に休むことになる。寝台から降りたジャンはサマンの寝台へ向かって、寝ているサマンを見た。
突然部屋の扉がノックされて、ジャンが返事すると、扉が開いて、侍従長と下男数名が現れた。
「おはようございます、ジャン様」
「はい、おはようございます」
「良くお休みなさいましたか?」
「はい」
ジャンが答えると、侍従長は微笑んだ。
「それはよろしいでございます」
侍従長が言って、合図を出すと、下男たちは部屋の中にある机の上に食事を並べ始めた。
「お食事をお持ち致しました」
「先生はいないけど・・?」
「先生方はもうお食事をなさいました。今外で朝の練習をなさっております」
「サマン兄さんはお食事しましたか?」
「サマン様はお熱がございますので、別のメニューになります。これらの食事はジャン様のお食事でございます」
侍従長が言うと、ジャンは首を傾げた。
「分かりました。着替えてきます」
「お手伝い致します」
「あ、はい。お願いします」
ジャンが言うと、侍従長は微笑んで、ジャンの部屋に入った。数人の下男たちは暖かい湯を持って、ジャンの体を拭いてから、真新しい服を着せた。
絹だ、とジャンは思った。けれど、彼は何も言わなかった。着替えが終えると、ジャンは一人で食事を食べた。最後にお茶を飲もうとしたけれど、口に近づくと、いきなり止めて、机に戻した。
「あの・・」
「はい」
ジャンが言うと、侍従長は近づいた。
「どうなさいましたか?」
「えーと、ごめんなさい、このお茶は飲めません。変えてくださいませんか?」
「どうしてでございますか?」
「器に毒が塗られていますから」
ジャンが答えると、侍従長が固まって、そして無言でそのお茶を片付けた。
「他の食事はいかがでございますか?」
「問題ありません。初めての味ばかりですが、とても美味しかったです」
ジャンは正直に答えた。
「新しいお茶をお持ち致しました」
「ありがとうございます」
ジャンはにっこりと微笑んで、お茶の香りを楽しむ仕草を見せてから、ゆっくりと飲んだ。
「どうして毒があることはご存じですか?」
「うーん、どうしてでしょうね」
ジャンは首を傾げた。
「におい?」
「においでございますか?」
「はい」
ジャンはうなずいた。すると、侍従長は微笑んで、食事を終えたジャンを見て、下男たちに片付けるようにと命じた。下男たちが退室すると、ジャンはお茶を飲みながらまだそこに立っている侍従長を見ている。
「あの、すぐ飲み終わりますから・・」
「大丈夫でございます。時間をかけても問題ございません」
「あ、はい」
ジャンはうなずいた。
「ところで、失礼ですが、ジャン様は今何歳でしょうか?」
「4歳です」
「・・4歳」
侍従長は息を呑んだ。
「失礼ですが、なぜ毒についてご存じですか?」
「うーん・・、慣れ、かな?」
「慣れ、でございますか?」
「はい」
ジャンはうなずいた。
「実家では、小さいときから、毒殺されないように、そういう教育を受けていました」
「・・実家と言いますと?ご出身はマグラフ村だと伺っておりますが・・」
「私の実家は、マグラフ村ではありません」
ジャンはにっこりと微笑んだ。
「でも、ごめんなさい、あなたに明かすことができません」
「問題ございません」
「お茶、ありがとうございました」
ジャンは丁寧頭をさげてから、空になった器を侍従長に返した。侍従長は頭を下げてから、お茶の器をすべて片付けて、退室した。
侍従長が外へ出て行くと、ジャンはしばらくその部屋にいる。窓を開けて青々とした中庭を見渡してから、サマンの部屋に行って、容態を確認した。
まだ眠っている、とジャンは思った。そしてまた窓際に行って、その窓の前にある椰子の木のような木を見て、そのままベランダへ出てから、その木に飛び込んだ。ジャンはそのまま木につかまって、上へ登って行く。一番上まで登ると、今まで見えなかった風景が見えた。
アルキアと全く違う国だ、とジャンは改めて思った。周りはほとんど砂漠だ。緑は、オアシスを囲む周辺だけだった。この宿のすぐそばには大きなオアシスがあったから、水が贅沢に使うことができるわけだ。
アルキアとは、違う。自分は今外国にいるのだ、とジャンはそう思いながら、遙か彼方にいる家族を思う。
「ほほほ、また会いましたね」
突然声が聞こえると、ジャンはその声がした方向へ視線を移した。
「あ、サビルおじさんですね。おはようございます」
ジャンが屋根の上にいるサビルににっこりと微笑むと、サビルは微笑んだ。
「おはよう。そんなところにいると、危ないよ」
「大丈夫です」
ジャンはにっこりと微笑んだ。
「周りを見たいだけですから」
「何か面白いものがあったかな?」
「はい」
ジャンはうなずいた。
「この辺りはとても青々しています。葡萄をたくさん作っていますね」
「ほほほ、葡萄が好きか?」
「はい、大好きです」
ジャンはうなずいた。朝の食事にも葡萄が出ていたから、ジャンはたくさん食べた。
「今朝の食事にも葡萄があって、とても美味しかったです。ありがとうございます」
「それは良かった」
サビルは微笑みながらうなずいた。
「おまえはずっとここにいれば、好きな葡萄を、好きなだけ食べても良いぞ。わしの孫にしてやろう」
サビルがいうと、ジャンは首を傾げた。
「ありがとうございます」
ジャンは丁寧に頭を下げた。
「・・でも、できません」
「そうか」
ジャンの答えを聞いたサビルはがっかりした様子に見えた。
「ジャヒール殿から聞いた話だと、おまえはアルキア出身だ。本当か?」
「はい」
「家名を聞いても良いか?」
サビルが聞くと、ジャンはまっすぐに彼を見ている。
「プラヴァ家です。私は、ジャン・プラヴァ、本家の末子です」
「プラヴァか・・。港で米や絹を売っている商人も確かにプラヴァ家の商人だった」
サビルが言うと、ジャンは無言で彼を見ている。
「安心しろ。おまえはプラヴァ家であることを秘密にするよ」
「ありがとうございます」
サビルはジャンの無言を察しているかのように、そう言った。まだ4歳の男の子なのに、しっかりしている、とサビルは思った。
「毒のこと、・・あれはすまんな。おまえの能力を少し試してみたかっただけだ。強い毒ではなかったから、すぐに解毒を用意していたが、使う前にばれた。すまんな」
「問題ありません」
サビルが言うと、ジャンは首を振った。
「おまえは、毒に詳しいか?」
「うーん、正直にいうと、良く分かりません」
ジャンは首を傾げながら答えた。
「ただ、なんとなく、毒のにおいがしたから、多分そうだろうと思います」
「あの毒は無臭無味だが・・」
「いいえ、ほんのりと甘いにおいがします」
「そうか」
サビルは微笑んだ。
「アブの毒も、そうやって見破ったのか?」
「ん?あの瓶のことですか?」
「そうだ」
「はい」
ジャンはうなずいた。どうやら、アブから詳しい話があったようだ、とジャンは思った。
「これからおまえはジャヒールと一緒に修業するのか?」
「はい」
「そうか」
サビルはまた考え込んだ。
「たまに、ここへ遊びに来て下さい」
「ジャヒール先生が良いと言うなら、行きます」
「わしを会いに来る、と言えば良い。ほほほ」
サビルは笑って、ジャンを見ている。
「そろそろ降りないと、下にいるおまえの兄たちが心配になるぞ」
「あ、はい」
「降りられるか?」
「はい、問題ありません」
ジャンはうなずいた。
「あ、おじさん」
「はい?」
「この木の名前はなんていうのですか?」
「ナツメヤシだ。始めてか?」
「はい」
「そこにある実は、そのまま食べても良いが、乾燥させると保存食になる。とても甘くて、美味しいよ。黄色い皮は熟しているので、そちらの方が良い」
「わ!少し頂いても良いですか?」
「たくさん頂いても構わないよ」
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、もらってきます」
ジャンは短剣を抜いて、ナツメヤシの実を切り落とした。
「あと、葉っぱ一枚を切っても良いですか?」
「良いよ」
サビルは興味津々とジャンを見ている。小さな手がコツコツと葉っぱを切り落とした。ジャンは短剣を鞘に入れて、風を確認した。
「では、また」
ジャンは切った葉っぱを跨いで、一番かたい部分を持った。そしてそのまま蹴って、飛び降りた。しかし、そのナツメヤシの葉っぱは開いているため、風の抵抗がないに等しい。いくら4歳児の体重が軽いとはいえ、25メートルの高さから飛び降りると、自殺行為だ。けれど、ジャンは笑いながら風に乗って、自分が乗った葉っぱを操っている。
サビルはそんなジャンを見て、何かを思い出した。
それは、200年ぐらい前、もっとも北にある一族は風を操れることができる、と言う話だった。しかし、東の王との戦いで、その一族が滅ぼされた。後から聞いた話だと、東の王はその一族の姫と養子縁組してから、彼女を遠くへ嫁がせた。
まさか、その姫の子孫だったのか、とサビルは思った。けれど、サビルはすぐさま首を振った。確信がない今、彼はジャンを見守ることしかできない。
ケラケラと子どもの笑い声が聞こえると、サビルは考えをやめて、下を見た。そして自分に向かって手を振ったジャンを見て、微笑みながら手を振った。
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