第2話 ウルダ(2)
その日の午後、お昼が終えたころ、ジャヒールはジャンたちを連れて出かけた。目的はとなり町の市場だ。午後に出発したら、その町に着くのは二日後の朝だ。ラクダで移動して、荷物も多く積んでいるため、移動時間がかかってしまう、とジャヒールはジャンに言った。
「ところで、言葉はどうやって習った?アルキアの言葉とウルダの言葉は違うだろう?」
ジャヒールはジャンに尋ねた。小さなジャンは荷物が多く積まれているラクダの上に座って、考え込んだ。
「お祖父様が教えました」
ジャンはしばらく考え込んでから答えた。
「読み書きもか?」
「いいえ、私はまだ読めません。書くこともできません。ただ会話を理解すれば良い、とお祖父様が仰いました」
「なるほど」
ジャヒールはうなずいた。
「他の言葉はできるのか?」
「うーん、少しなら分かります。イルカンディア語、エルガンティ語、トルピア語、スミルキア語、後はミン語、サイキス語は少しできます」
「すごいな」
「ありがとうございます」
ジャンは渋々と頭を下げた。
「やはりじいさんが教えたのか?」
「ウルダ語とスミルキア語はお祖父様が教えて下さいました。他の言葉はお母様と先生方が教えて下さいました」
ジャンの言葉を聞いたジャヒールは考え込んだ。まだ4歳この子どもは、ただ者ではない。そもそも母親が言葉を教えることができるほどの知恵を持つこと自体、ただ者ではない。あの老人の娘だからか、とジャヒールは思った。
アルキアの公爵家に嫁いだ娘が、今はその家の当主になった。やはりただ者ではない、とジャヒールは改めて思った。
「実家から離れて、寂しくないか?」
「それほど寂しくありません」
「なぜ?」
「私がどこにいても、皆が優しくしてくれます」
「ははは、そうか」
まだ4歳の子どもにしては、珍しい答えだ、とジャヒールは思った。
「・・それに、私は小さいころからお祖父様と一緒に住んでいます。週末だけ実家に戻ります」
「母親は?」
「お母様は当主になって、毎日忙しいです。会ったとしても、言葉を習う時だけとお昼だけでした。その他の時間はお祖父様と一緒に遊びました」
遊び・・、ジャヒールはその言葉を引っかかった。まさか、椰子の木から飛び降りたことは遊びの一環というのか、とジャヒールは思わずジャンに視線を送った。
「その短剣も、じいさんからもらった物か?」
「はい」
「葉っぱを切る以外にも使えるのか?」
「少しならできます」
ジャヒールは前に視線を移した。この4歳児の教育を引き受けた彼は、以外とハードな仕事になりそうだ、とジャヒールは思った。
言葉には問題ない。やはり天才なのか、あの老人の言う通り、頭が良い。
「アルキアでは、勉強すること以外、何をしていた?じいさん以外の人と、誰と一緒に過ごしていた?」
ジャヒールは視線を変えずに聞いた。その答えで、どう教育するか、考え直さなければいけないかもしれない、とジャヒールは思った。
「うーん、ほとんど遊びました。週末だけは実家に戻って、侍従と一緒に過ごしました。たまにお兄様と一緒に遊びました。お姉様たちも優しくて、本を読んで下さった」
普通の子どもか、とジャヒールはなぜかホッとした。
「兄さんが3人いると聞いたが、どの兄さん?」
「三番目のお兄様です。ベスタお兄様はとても優しくしてくださいました。トルピア語の勉強が終わると、いつも私をいろいろな所に連れて行ってくださいました」
ジャンは懐かしそうに空を見ている。仲が良い兄弟と別れて、寂しかっただろう、とジャヒールは思った。
「ベスタお兄様はたまに、面白いことを教えてくださいました」
「ほう?どんなこと?」
ジャヒールが聞くと、なぜかジャンは笑った。
「えーと、ある日、私は悪いことをしました。お母様が大事にした壺を割ってしまいました」
「それは怒るだろう」
「はい」
「それで?」
「それで、お母様は罰として私を倉庫に閉じ込めました。暗くて、冷たい場所で、窓も倉庫の上にある小さな窓だけで、逃げることができませんでした」
「ははは、反省したか?」
ジャヒールが笑うと、ジャンは恥ずかしそうに笑った。
「なぜ反省しなければいけないのか、今になっても分かりません。あの壺にはイルカンディアの女王の絵が描かれていて、お祖父様はいつも逆向きにしていました。そんなに醜いなら、割った方が良いと思って、そのまま割りました」
それは問題だ、とジャヒールは思った。イルカンディアの属国であるアルキアは女王の絵を飾る義務がある。
「それで、罰を素直に受けたのか?」
「うーん、最初は怖かったです。暗いし、床も冷たいし、何よりも、一人で閉じ込められたから、心細かったのです。泣いてしまいました」
ジャンは少しうつむいた。けれど、次の瞬間、なぜか彼の顔に大きな笑みが見えた。
「それで?」
「あはは、それで、ベスタお兄様は、扉の向こうから声をかけてくださったのです」
「ほう?」
「泣くな、と仰いました。すっと泣いてしまったから、心配したでしょう」
「優しい兄さんだ」
「はい。そのあと、楽しいことを教えてくださいました」
「どんな楽しいことか?」
ジャヒールが聞くと、ジャンはしばらく笑った。そんなジャンの様子を見たアミールたちは興味津々とジャンを見ている。
「あ、ごめんなさい。笑いすぎました」
「問題ないよ。続けて」
「はい」
ジャンはうなずいた。
「倉庫の中に、麦の粉がたくさんある、とお兄様が仰いました。それで、一袋を開けて、その粉を上にばらまくと、雪のように見える、と仰いました」
「雪?」
「空から柔らかくて冷たい氷か雨のような物だ、とお兄様が仰いました。一番上の兄、テオお兄様が勉強しているイルカンディアでは、毎年の冬に必ず降る、と手紙で書いて下さいました」
「不思議な雨だ」
「はい。私もそう思って、ベスタお兄様の言ったことをやりました。以外と、とても楽しくて、不思議な感覚でした」
ジャンはまた笑った。
「それで、どうなった?」
ジャヒールは気になって、ジャンに尋ねた。
「うーん、さっきまでずっと泣いた私の声が突然聞こえなくなったからか、お母様が気になって、侍従長に様子を見に行くようにと命じられました。すると、侍従長が倉庫の扉を開けてくれました。あはは、真っ白になった私を見て、大きな声で叫びました」
「ははは、驚いただろう」
「はい」
ジャヒールとアミールたちは思わず笑った。
「侍従長は私を倉庫から出して、すぐさまお風呂に入れてくれました。他の使用人から連絡を受けたお母様はお風呂場まで見えて、びっくりされました」
ジャンは恥ずかしそうにまた笑った。
「でも、それでまた怒られました。貴重な麦の粉を、お粗末にしたから、罰としてその日の夕飯はありませんでした。寝室に閉じ込められて、おなかが空いて、また泣いてしまいました。ですが、その日の夜、ベスタお兄様はこっそりと窓から忍び込んで、パンと肉を持って、私に差し出しました」
「良い兄さんだ」
「はい」
ジャンはうなずいた。
「兄さんは今どこに?」
「トルピア王国へ留学しています。5年間トルピアにいる予定だ、と聞いています」
「寂しかっただろう」
ジャヒールが言うと、ジャンは答えなかった。
「だが、おまえの周りに、アミールとアブ、サバッダとサマンもいる。寂しく思う暇はないと思う」
「はい」
ジャヒールが言うと、ジャンはうなずいた。
「改めて、よろしくお願いします」
「ああ。こちらこそ」
ジャンが言うと、ジャヒールはうなずいた。その後、彼らは会話しながら、旅を続けている。
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