展望や損得も大事だけれど。

 私は何度も反芻はんすうする。自分に言い聞かせるように。これでよかったのだと。もう丸一日が経つのに、頭の中に明確な結論はない。


 ……彼は、すごく優しい。ふつう、こんな奇妙な人間にここまで世話をしようとするなんてありえない。何年も日本で暮らして、その思いは一層強くなった。


 この国……いや、この世界は数量化の思想に支配されている。高い情報技術ゆえか、溢れる科学の知識によって宇宙の神秘が解き明かされつつあるからか。人々は各々の立場を、能力を、人間としての価値を、数字で表したがる。そして、数字の評価をあがめては曖昧なものを排そうとする。


 それが悪いと言いたいわけではない。実際合理的ではある。けれど、私にとってこの環境はひどく恐ろしいものに見えた。


 だって、性格は数値化できない。人間の善い心は、人を思う気持ちは、数量化できないし、してはならない。


 彼は自分の価値に気がついていないのだ。この世界、この時代にいったいどれだけの人が自分の将来全部賭けてでも、無国籍の出所一切不明な女を守ろうとするのだろうか。


「……ただいま、戻りました」


「あら、おかえりなさい」


 現在身を寄せている家の戸を開け、その旨を知らせると柔らかい返答の声が聞こえてきた。美野みの慶子けいこ——この家の世帯主の配偶者。


 この家は特殊だ。夫妻ともにデザイナーやらイラストレーターやらスタイリストやら……全部は覚えていないが。とにかくそういう感じの職業をいくつも兼業していて、大の可愛い物好き。


 二人によれば私の天然の金髪と宝石のような蒼の瞳が永遠に眺められるとかなんとか。水準の低い暮らしをすることで私の容姿が曇ってしまうのを防ぐために私を匿うという、ちょっとよくわからない人たち。


 とにかく大和から離れることだけを考えて街を彷徨っていたら偶然……えーっと、可愛いもの探し?をしていた二人に保護されたのだ。


「いつも言っているでしょう。そんなに他人行儀にしなくていいって」


「けど……一方的にお世話になっている身ですし……」


「ソニアちゃんのそう言うところは素晴らしいけど、私としては実の娘のように可愛がりたいのよ?血の繋がった娘ができるかわからないから、なおさらね」


 この家には、子供がいない。不妊治療がうまくいっていないと言うことだけは聞いている。私は言いたくないことを言わせてしまったと思いながら、どう返すべきか迷う。


 ここのところ迷うことや考えることが多くて、自分でも知らないうちに混乱していたらしい。一切言う気がなかったのに、それが口をついて出てしまった。


 ……いっぱいいっぱいで誰かに相談したかったのだけなのかも。


「……私、男の子にプロポーズされました」


「え」


 慶子さんはしばし固まる。……少しばかり、話を飛ばしてしまっただろうか?


「……詳しく、聞かせてちょうだい」


 あの、なんでそんなに目を輝かせているんですか。


 そう問い掛けたいところだったが、どうにも圧が強い。仕方なく、半分投げやりな気持ちで全てを話すことにした。


「申し出を断るあたりは、あなたらしいというべきかしら」


「……だって、頼れないですよ。私の頼るの一言で相手の人生めちゃくちゃになるじゃないですか」


「まあ、相手も相手ね。突拍子がないというか、思い切りがいいというか。……でも、彼が半端な気持ちでそう言ったとは思えないけど」


「それは……確かにそうかもしれません。ただ、私では家計をほとんど支えることができないでしょうから。やはり今の日本の経済を考えると……」


「真面目ね。しっかり考える能力は大事だけど、時には勢いで行動しないと何もできないわよ。あなたの感情としては、まんざらでもないんでしょう?」


「……うう」


 そんなことはわかっている、つもりだ。現に自分の中には未だ迷いがある。今なら多分引き返せるし……もしかしたら大和も諦めてないかもしれない。またアプローチされたら、断れるかどうか。


 ……どうすればいいのか、どんどんわからなくなってきた。


「自分でも複雑ってとこ?なら……」


 慶子さんは言葉を途切れさせると、私に向かって手を差し出してくる。


「スマホ、貸しなさい」


「へ?」


 一度呆けてしまったが、元はと言えば買い与えられたスマホである。戸惑いながらも手渡すと、操作をし始めた。


「ソニアちゃん、あなたには行動するきっかけが必要よ。どうすればいいのかわからないなら、まずは自分の感情を整理するところから始めないと」


 そう言ってから見せられたのは大和とのトーク画面。ただし、そこには私の知らないメッセージが一つ。


『今から会えませんか?少し、話したいことがあるんです』



     +  +  +



 平日の夕暮れ。俺は一人で学校近くの道を歩く。その足取りは全くもって早くはないが、内なる鼓動は外面と真反対の様相を呈していた。


 先程までは海斗とゲームセンターで遊んでいたのだが、急遽きゅうきょソニアから連絡が来たために別れた。いくらかやり取りを重ねて付近の公園で落ち合う運びとなっている。


 またもや『悪い、ちょっと……』くらいしか話せていなかったから、意図せず海斗には秘密主義のようになってしまった。


 しかし、話とは一体なんだろうか。すでに一度拒絶された後なわけだし。それだけが解けない疑問となって、俺の頭の大部分を占めている。考えても分からないどころか、思考は俺の気をより重くさせる。


 待ち時間の長い横断歩道で止まると、ポケットが震える。海斗からのメッセージだ。


『あんま人に言いにくいことかもしれんから、強くは言えんけど……無理すんなよ』


 無意識のうちに口角が上がったのを感じた。まだ会って間もないのにこんなことを言ってくるあたり、性格の良さがにじみ出ている。いいやつと仲良くなれて、本当によかった。


 歩きスマホにならないように、急いでフリックで返事を入力していく。


『サンキュ。けど、大丈夫。好きな女の子を振り向かせるために全力を尽くすだけ』


 若干の語弊ごへいがあるかもしれないが、やっと言えたな。隠し事をしてるというほどのものでもないけど、やはりちょっとは気分が悪くなるものだ。


 ……改めて言葉にしてみると、意外にも状況は単純だ。


 そうか、そうだよな。俺は今から好きな女の子に会いにいくだけなんだ。そう思うと、少しは気が楽になった。


 目的地へと辿り着くと、そこには人気のない静かな広場があった。そう大きくなく、遊具もあまりない。ただ、開けた空間にいくつかの木立があり。そこを穏やかな風が通り抜けていく。


 まるで俺一人の世界のようだ。


 そんな妙な感傷は軽々しい足音を携えた一人の少女によって崩される。……否、崩されるというよりは、彩られるという方が正しいか。


 日の入り間近の陽光を浴び、金の髪をたなびかせる彼女は誰よりも美しかった。


「……大和」


 俺の名前を呼んだ彼女は途端に纏っていた儚げな雰囲気を失い、げな表情をつくる。思わず疼痛とうつうに襲われて、けれど彼女の望むところは俺の会話なのだと、気づかないふりをした。


 ソニアは小さく息を吸って、吐いて。それからまた少しだけ息を吸い、口を開く。


「私には、確かめなければならないことがあるんです」


「確かめなければ、ならないこと……?」


 彼女の話の見当はほとんどついていなかったが、いざ切り出された話は俺のふわっとした予想と似ても似つかないものだった。


「はい。慶子さん……私の保護者の方に言われて、気づきました。私はもし大和の提案に乗ったらという想像をしていただけで、お互いの気持ちについては何も勘案できてなかった」


「ああ。俺はそれをソニアに伝える機会を伺ってたんだけど……そうか。保護者か……」


「……それで、私はひとまず、自分がどうしたいのか考えてみようと思ったんです。今まで、私自身に課せられた選択肢というものが少なくて……知らず知らずのうちに損得や結果ばかり考える癖ができていたみたいで。こういうのは、なんていうか……過程や中身が大事、じゃないですか」


「……お、おう」


 いきなり頬を染めるなよ……調子狂うわ。


「だから、話したかったんです。こうやって大和と相対すれば……わかる気がしたから」


「……そうか」


「……はい」


 はにかみながら言葉を紡ぐ彼女の様子は、昔のたどたどしく喋るのそれと全く異なっている。でも、あの時の彼女の自己犠牲じみた優しさ……あるいは自立精神というべきものは、きっと何も変わっていない。


 ……それが何よりも大切なことに思えて、それがあるなら万全な気がして。


 万全、絶対。そんなものはどこにもない。けれど、それは当たり前のように国籍を得て、当たり前のように社会に適応する人々でも同じなんだ。


 そこに差があるのだとしても、やり方次第で埋められると思う。……そうじゃないな。たとえ無理でも、俺はそうしたいのだ。だって、それが俺の夢だから。たぶん、彼女と出会った日からずっと。


「それで、実際わかったのか?」


「そうですね……こういうのは初めてだし、何よりこんな余裕ないって思っていたから、自分でも確証はないですけど」


 そこで言葉を切ると、ソニアは凛々しい瞳に俺を真っ直ぐとらえ、満面の笑みで続ける。


「あなたが好きですよ、大和。できることなら一生共に歩んでいきたいって、そう思います」


「そっか……そっかぁ……」


 ちゃんとした返事を返したい。そう思いながらも、俺の頭は自然と天を仰ぐ。頭なんて動きやしない。ただその言葉を噛み締めるだけ。視界は滲むし、足は震えるし……ああもう、なんか一周回ってダサいなこれ。


 そんなことを思っていたら、正面から愛らしいくすくすという笑い声が聞こえた。

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