ep10.グッバイ・シンデレラ

 手紙の差出人が誰なのかは、もちろんわかりきっていた。

 手紙になにが書かれているのかは、しかし見当もつかなかった。


 手紙を手に取って、手紙を開いて、手紙を読んだ。

 手紙は『エルフ寮に移ることになった』と書き出していた。手紙は『夜逃げみたいに出て行くことになっちまってわりぃな』と謝っていた。


 手紙には『あばよ』と書かれていた。『元気でな』と書かれていた。『楽しかったぜ』と書かれていた。

 そして手紙は、『名誉紳士、絶対なれよな!』と締めくくっていた。


「…………」


 その短い手紙を、ウィリアムは二度、三度、四度と繰り返し読んだ。

 何度読んでも理解が追いつかない。

 内容は少しも理解できないまま、読み返した回数だけ新しい混乱に襲われた。


「……ウィル?」


 視界の外で友人に名前を呼ばれて、しかしそれには気付かないまま、紳士は手紙をテーブルの上に置いて、なぜか鍵まで元あったように置き直した。


「……!」


 数秒後か、あるいは数十秒後に、やはり視界の外でココが息を呑んだ。彼女も手紙を読んだのだった。ウィリアムはそれにすら気付かない。


「ウィ、ウィル! これ――!」

「……すまないが」


 そこでようやく、ウィリアムは声を発した。発して、ココに目を向けた。

 落ち着いた声、落ち着いた表情だった。……落ち着きすぎた。


「……すまないが、ヘミングウェイ。今日のところはお引き取り願えるかい?」


 静かに、しかし有無を言わさぬ圧を感じさせる声でウィリアムは言った。


「……わかった」


 それ以上なにも言わずに、ただ小さく手を振ってココは去って行った。



 ココを見送ったあとで、室内に戻ったウィリアムはテレビをつけた。

 朝に合わせたニュースチャンネルから別のチャンネルに回して、音量のボリュームを二つあげた。

 ポケットからスマホを取り出し、ウィーチューブでトップに表示されていた動画を再生した。

 これまで使われていなかったラジオの電源も入れてみた。


 音と映像が過剰に供給されはじめたゴブリン寮で、ウィリアムはさらにナショナル・ネオグラフィック誌のバックナンバーをマガジンラックからひとつかみ分引っ張り出してきた。

 そうして共有スペースのソファーに腰掛けて、テレビを見ながら動画を見ながらラジオを聞きながら雑誌を読んだ。


 ほとんど自動的な行動だった。彼の無意識がそうすることを彼に求めたのだ。

 自発的な思考を遠ざけるために、外部からの情報に溺れようとした。


 ……溺れられなかった。

 映像も音声も文字列も、内側から押し寄せる思考と感情を、少しも抑制してくれなかった。



 すべてが理解不能で、なにもかもが意味不明だった。

 もちろん、明白にわかりきっていることもある。

 たとえばビアンカはみんなが授業を受けている昼間のうちに引っ越しを済ませたのだということ。彼女が教室に現れなかったのはそのためだということ。

 そして彼女がそうしたのは、この自分と顔を合わせたくなかったからだということ。


 ……やはりわけがわからなかった。

 目の前に事実として存在する現実はまるっきり現実感を欠いていて、世界が昨日までとは異なる機序により動いている気さえした。


 考えても答えは出ないのに、考えることをやめられない。

 ウィリアムにできるのは、それらの思考や感情がまとまった形を取らぬよう追っ払い続けることだけだった。


 そのために、彼はさらにテレビと動画とラジオの音量を上げた。



   ※



 翌朝、登校の為に歩いていると、森を抜けた先でココとサンチャゴが待っていた。


「……ウィル、おはよ」とココは言った。

「……おはよう、ヘミングウェイ」とウィリアムも言った。


 それ以外にはなにも言わずに、ゴブリンと吸血鬼は並んで歩きはじめた。

 ココが自分を心配して来てくれたのだということを、ウィリアムはちゃんと理解している。理解していて、しかしそれについて感謝を伝えることはしなかった。

 以前なら非紳士的な振る舞いと感じたかもしれないが、しかしいちいち感謝を口に出すのはかえって『水くさいノット・フランク』と見做される場合もあるのだと、この数ヶ月で彼は学んだのだ。


 ウィリアムにそれを教えてくれた相棒は、いまここにいなかったけれど。


 二人が教室に到着すると、親しい友人たちはすでにその場に揃っていた。

 眼鏡のエルフも二人のドワーフもリンドバーグも、ウィリアムの姿を目に入れるや表情にさっと緊張を走らせた。

 しかしウィリアムはそうした級友の変化に気付くこともなく、相棒の姿を探して教室内に視線を走らせる。


 見つけた。

 昨日授業を休んだ彼女は、今朝はすでに教室内に着席していた。


「ビア……!」


 ビアンカ!

 そう呼びかけようとして、ウィリアムは声と言葉を途切れさせる。


 相棒の隣には、彼女が嫌い抜いているはずの男の姿があったのだ。


「ん? ああ、ウィリアム君じゃないか」


 ビアンカよりも先に、ディミトリがそこにいるウィリアムに気付いた。


 俯いて座っていたビアンカが、弾かれたようにして顔を上げ、こちらを振り返る。


 しかし――ウィリアムと目が合った瞬間、彼女はさっきよりも深く俯いてしまう。

 まるで、彼から隠れるようにして。


「おいおいバルボア君、そういう態度はよくないぞ?」


 ディミトリが、ニヤニヤと笑いながら言った。ビアンカとウィリアムを交互に見て。


「そういう態度は、非プラード的かつ非淑女的、そしてなにより非エルフ的だ。元相棒に対してそういう態度は、エスコート係として見過ごせないなぁ」

「はぁ!? 意味わかんないんですけど!」


 そう叫んだのはウィリアムではなくココだった。どうやらずっと隣にいたらしい。


「あんたがエスコート係って、なによそれ! それに、ウィルが元相棒って……!」


 火のような剣幕で問い質すココと、涼しい顔でそれを受け流すディミトリ。


 いや、涼しげどころか、ディミトリはこの状況を楽しんでいるようだった。

 ココの怒りと、ウィリアムの動揺と――そしてなにより、ビアンカの反応を。


「言葉のままだよ。本日付で私がバルボア君のエスコート係になったんだ」

「な、な、なによ、なによそれ……!」

「教頭のご意向でね。そもそもゴブリンがエルフの飼い主をやっていたこれまでがおかしかったのだ。その歪みを是正する為には最高のエルフが必要だった。つまり、この私のことだ。……ああ、また一つ背負ってしまったなぁ!」


 ディミトリが高笑いし、ココが絶句する。

 そして、ウィリアムは。


「ビアンカ」


 ウィリアムの目に、ディミトリは映っていない。

 紳士はただシンデレラだけを見つめている。


「ビアンカ、いまの話に間違っている部分はないかい?」


 ウィリアムが聞くと、ビアンカは少しだけ言い淀んだあとで、答えた。


「……うん、ほんとだよ。間違ってない」


 そうか、とウィリアムは肯く。

 そしてさらに問いを重ねた。


「では、もう一つだけ聞かせて欲しい。君自身はそれに納得しているのかい?」


 君はそれでいいのかい? と紳士はシンデレラに問う。

 ビアンカの表情が一瞬、複雑に歪んだ。しかしその顔を彼女は慌てて隠した。


 再び俯いて、そのあとで再び顔を上げたとき、ビアンカは笑っていた。


「もちろん、隅から隅まで納得してるぜ?」


 輝くような笑顔をココとウィリアムに向けて、ビアンカは言った。


「教頭直々じきじきのオファーだってレノックスが言ったろ? 要するに取引ってやつでさ、色々とおいしい特典が用意されてるんだ」


 まずミールカードの週間チャージ額が倍にしてもらえることになってる。すげえだろ倍だぜ倍? 週末に家族に持って帰れるおみやげもどんと倍増だ。それに特待生扱いで成績もおまけしてもらえるんだ。いくらウィルに見てもらってもあたしの頭じゃここの勉強についてくのはしんどくてさ。あとまだまだ先だけど卒業後の身の振りも――。


 あたかも浮かれて自慢する口ぶりで『特典』を列挙するビアンカ。

 その最後に、彼女はウィリアムに言った。

 やはり笑顔で言った。


「だから、あんたはあたしのことなんて気にしないで、『名誉紳士』を目指せよ」


 ウィリアムは言葉もない。脳内にすら言葉もない。


 心と頭を白紙と化しているウィリアムの耳を、再びディミトリの高笑いが障った。

 ココがビアンカになにか叫んでいた。ホビットたちが肩を支えてくれた。背後では眼鏡のエルフとリンドバーグがなにか話していた。


 そうしたすべてが、ウィリアムには遠い他人事のようだった。

 彼が正しく認識できたのは、ビアンカがそれ以降なにも言わなかったということだけだった。



   ※



 あれから少しして始業のベルが鳴り、切迫した状況はひとまずお開きとなった。

 十分ほど経ってから教室に入ってきたのは、ティーチ先生ではなかった。

「トラブルがあった為、ティーチ先生は何日かおやすみします」と代理で現れたマギー先生は言った。


 担任教師の身に起きたのがどういう種類のトラブルなのかについて特に説明はなかったけれど、ウィリアムはそれについて質問しようとはしなかった。


 その後の一日を、ウィリアムは可能な限り普通にして過ごした。普通に授業を受け、普通に友人たちと話し、昼休みには大食堂でいつもと同じメニューを買った。

 授業時間が終わった後は友人たちと少しだけ談笑して、それから帰路についた。

 寮への帰り路を一人で歩き、一人でドアを開け、一人で室内に入った。



 そしてそこで限界を迎えた。



 ウィリアムは泣いていた。みっともないと感じることすら忘れて、床に蹲って。


 僕は彼女を失ったのだ、とウィリアムは思った。

 もちろん、彼が彼女を自分の所有物だと見做したことなどこれまで一度もないし、自分と彼女が特別な関係などではないこともわかっている。


 しかしそれでも間違いなく、ウィリアム・ハートフィールドは今日、ビアンカ・バルボアを失ったのだ。


 一人で住むには広すぎるゴブリン寮で、シンデレラを失った紳士は、声と涙を振り絞って泣き続けた。


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