ep10.ダウンエッグ
バスを降りたとき、時刻はすでに午後の一時を回っていた。
はじめて訪れるダウンエッグは、実際、川の向こうとはあらゆる点で対照的だった。
高層建築のひしめくアッパーサイトに対して、ダウンエッグではメインストリートに面したビルでも四階か五階建てがせいぜいで、スカイラインがかなり低い。
低い屋根と高い空のコントラストが作り出す風景はウィリアムにとっては雄大ですらあって、その大きな空の下で営まれている生活は,これもまた川向こうとは趣が全然違う。
音が、匂いが、色彩が溢れていた。
おばさんたちはあたり憚らず大声で会話し、携帯ラジオのおじさんはイヤホンを使わずに大音量でFM放送を垂れ流している。
嗅いだことのない香りを漂わせるレストランは埃っぽい路上に向けてドアを開け放ったままにしている。
舗装道路にはあちこちヒビが走り、壁という壁を落書きが席巻している。
そして人々は前向きな活力を漲らせている。
アッパーサイトとは異なる文化、異なる活況がそこにあった。
バス停の近く、最初に目についた露店で昼食を買った。
フードトラックではない手作り感溢れる屋台で販売されていたのはタコスで、店主はゴブリンの中年女性だった。
普段滅多に見かけない同族にぎょっとするウィリアムに、ゴブリンのおばさんはやたらとフレンドリーに接してくる。
「見慣れない制服だね、どこの学校だい? 制服の学校なんてエリートさんだねえ!」
そうまくしたてて、タコスの具をおまけしてくれた。
自分がこの街では少しも浮いていないことを、ウィリアムはそのとき理解した。
街ゆく人々を見渡せば、そこにある顔ぶれはコボルトやオーク、それに自分と同じゴブリンなど、アッパーサイトでは
エルフは一人も見当たらなかった。
「……これがビアンカの暮らす街」
これが彼女の世界、と心の中で付け足す。そしてタコスを一口食べた。
効き過ぎるほどにパンチの効いた、ダウンエッグの味付けだった。
※
スマホのマップアプリを頼りに街を歩く。
グーゴルマップは当然のようにダウンエッグの道順も網羅していた。さすがは世界のグーゴルである。
「……いや、そんな風に感じるのは、間違っているのかもしれない」
少しだけ立ち止まって、ウィリアムはそんな風に呟いた。
もちろん、グーゴルの調査員は疑いの余地無く優秀である。そこは間違いない。
間違っていると感じるのは、必要以上にダウンエッグを特別視することについてだ。
ウィリアムがダウンエッグを訪れてからまだ一時間足らず。
その一時間弱の間に、彼はダウンエッグの実相を多少なりとも自分自身の目で確かめた。
確かに、ブランディッシュ橋のこちら側にあったのは、
クリーンというよりはラスカルで、スマートというよりはひたすらにカオス。
優雅さの対極にある猥雑さと、冷静と双極を成す熱気に満ちた場所。
しかしそれでも、大人たちが語るような暗く荒廃した場所であるとは到底思えなかった。
文明が開かれていないわけでもなければ、それが崩壊しているわけでもない。
混沌の中にも秩序はしっかりと存在して、機能している。
そしてなにより、住民は犯罪者でも人外のモンスターでもなく、自分たちと同じ善良な市民なのだ。
ダウンエッグを特別視するのは、アッパーサイトの思い上がりなのかもしれない。
壁の落書きを見ながら歩いていると、いつのまにかその落書きが自分の足の下にあった。
壁からはみ出した構図がそのままアスファルトの地面にまで広がっていたのだ。
余りにも自由な行動と発想に、ウィリアムは思わず拍手でもしたくなった。
「……この街を『ニューヤンクの暗部』とは、僕は、呼びたくないぞ」
意見表明するかのようにそう呟いて、ウィリアムはスマホの画面に視線を注いだ。
予期せぬ事態の一つ目が起こったのはこの時だった。
「GPSが動いてない……」
というか、スマホのアンテナが一つも立っていなかった。
そういえば橋を渡ってからこっち、妙に電波状況が悪いなと感じていたのだ。
感じてはいたのだがしかし、まさかこんな街中で圏外になるなんて。
「
ある地域では快適に利用できる情報通信が、他の地域ではまったく利用できなくなる。
その社会問題がいま、
とにかく、用をなさないスマホはポケットにしまって、ウィリアムは看板や道路標識に目を光らせる。
そうしてしばらく自力で頑張ってみたあとで、「ダメだ、埒があかない」と結論して、ようやく近くにいた人に
声を掛けて、ものすごく気になることを言われた。
「お、この住所は……ようブラザー! お前、見かけによらずハードコアだな!」
メモを見せた若いゴブリンの配管工はそう言ってウィリアムの肩を抱き(なるほど、これがゴブリン流スキンシップか!)、丁寧に道順を教えてくれた。
ハードコアってどういう意味ですか? とは、怖くて聞けなかった。
ともかく、そのようにしてウィリアムは土地勘のない街を攻略していく。
「……なんだこれ……? なんで道にトイレが……?」
そんな少年の前に、ダウンエッグのハードコアな部分は徐々にその姿を現す。
なぜだか道の真ん中に放置されている真っ白な便器。
交差点でもない場所に設置された古い信号機。
五十年も前の号外が貼られた掲示板。
カラフルなトーテムポールと木でできた真っ赤な門のようなもの。
一つブロックを進むごとに建物が古くなる。一つストリートを曲がるごとに人通りが少なくなる。
教えられた道順に従って先に進むにつれて、目の前に現れる光景はアッパーサイト住民が想像する『ニューヤンクの暗部』めいて来るようだった。
一歩進むごとに、ウィリアムの胸で不安は際限なく膨らんでいく。
そして、その不安と緊張にこれが最後のトドメとばかりに、予期せぬ事態の二つ目は発生したのだった。
「……ん?」
暗く人気の無い裏通りで、ウィリアムは不思議な声を聞いて立ち止まる。
声というか、うなり声を。ひどく不吉な予感に満ちたそれを。
「……ouggg」
やがて廃屋のポーチから、うなり声の主がゆっくりとその姿を現した。
「Uuuuunnnngg……」
いかにも、ゾンビであった。
「Uuuuuuu……」「Ggggaaaa……」「Ooooooo……」
しかも三体。ドワーフとホビットと、それにエルフのゾンビが、一体ずつ。
「……
あまりにもOMGな展開に、引きつった笑いを浮かべたまま硬直する。
言うまでも無いことだが、ゾンビとの遭遇はウィリアムにとって初めての経験であった。
というか、普通に生きていたらまずお目にかかる存在ではないのだ。
いかに多様性の時代とはいえ、世界と
三体のゾンビは実にゾンビらしくノロノロとした動きで、ゾンビのお約束をまっとうするかのように生者に、ウィリアムに迫る。
こんなに鈍いのだから走って逃げれば逃げ切れたはずなのだけれど、残念なが動転しきっている脳髄にその発想は生まれない。
「くわばらくわばら! アブラカタブラ! ヤーレンソーランラッセーラー!」
古今東西の魔除けの呪文を思いつく限り唱え、生真面目にも真っ向からこの不浄の敵を退散させようとするウィリアム。
が、もちろん。そんなものは少しも、これっぽっちも効力を発揮しない。
ゾンビたちはじわじわと距離を詰め、ウィリアムは腰を抜かす。
「……短い人生だった」
そうして、我らが主人公が若き十五歳の命を
「ようウィル、なにやってんだ?」
尻餅をついたウィリアムの頭上に、あまりにも聞き馴染んだ声が降ってきた。
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