夜直の人魚狩り

一野 蕾

鮮やかな夜の訪れに極めつけの発砲を。

【夜を冠する者】

「今月で二人目だ。分かるか? んだ」


 男らしい重く低い声が、静謐な言葉の羅列の中にほんの少しの苛立ちを滲ませている。

 ジュ、と短い煙草を押し付けた灰皿は、既にこの人が今日の間に吸い尽くした二箱分の吸い殻でいっぱいだ。この人が区隊長になってから、この部屋はすっかり禁煙という言葉を排斥してしまった。今じゃ区隊室は喫煙ルームも同然。ヘビースモーカーにも限度があるだろう。

 はあ、と吐かれた心地のいいバリトンのため息を聞き取って、吸い殻の山に落としていた視線を上げる。


「よく聴け、夜直よたた

「……聞いてますよ」


 こちらも負けじと、ため息が出てしまう。


「でも海外、特にヨーロッパは日本の比じゃないですよ。一部地域の一日で五人、十人なんてザラです。充分防いでる方ですよ」

「俺たちの担当区内の一ヶ月だけで二人だ。ここは日本だぞ。本場と同じに考えるのはやめろ、お前の悪い癖だ」

「はあ」


 デスクの上に無造作に広げられた新聞と報告書。その紙面にはどちらにも『行方不明者』の顔写真と名前が載っている。

 トン、と軽く叩く音がした。


「三箱目ですか? 矢車さん今日も癌まっしぐらですね、死にますよ」

「このストレス社会に煙草吸うなって言う方がおかしいんだよ。黙って受動喫煙してろ」

「先に癌になるのは僕でしょうね……」


 三箱目から取り出した一本に火をつけ、矢車さんは苦い味のするそれをいつものように吸い込んだ。やたら長い数秒の間。副流煙を吐きながら、僕ではない、壁の方を見てまた口を開く。


「人魚と人間の戦いの歴史は長い。日本ですら推古天皇の時代まで遡れるくらいだ。だが、大昔は人魚以上にタチの悪い連中がいたし、人魚自体数が少なかった。だが西暦二千年を越えた今になって現状はどうだ。科学が進歩して、夜は明るくなったし、夜空は狭まった。だってのに。行方不明者数も死者数も年々増えてる。夜直。お前だって分かってるだろう」


 この人の鋭い眼差しは雷に似ていると思う。

 空を切り裂く稲光のような苛烈さ。だとしたらその声は雷鳴に例えられるだろうか。


「勿論。理解はしてます。ただ一つ事実なのは、シンプルに人手不足ですよ。それと教育者不足」


 生真面目にもずっと後ろ手に組んでいた腕をほどいて、僕は後頭部の痒みを引っかく。


「僕ら『密漁者』は一応公務員扱いですよね。僕はバイトですけど……圧倒的に担い手が少なすぎるんです。殉職率だって高いし、必要な技術が受け継がれないことも多いし」

「時代は少子高齢化、その割に怪奇生物を知覚できない人口は増える一方だからな。しかし俺たち『領域治安部』の構成隊員は、闇雲に大量採用なんてできないんだ」

「条件はとっくに出揃ってるじゃないですか。矢車さん。そろそろ無茶なんですよ。人間の領域を人魚に侵されないって言うのは──」


 僕の顔はしかめっ面だったのだろうか。苦々しい顔に見えたのかもしれない。半開きの口に突っ込まれた吸いかけの煙草は、僕の口腔内に煙の苦い味を遠慮なく放った。舌に紙の感触が触れて、噛んだまま唇の隙間で煙を吐く。視界の中で紫煙が矢車さんの顔を覆う。その険しい面構えに諦念のような、いや、僕の発言を咎めるような色が浮かんでいた。


「とにかく、気張れ。お前はまだバイトだが、実力は十二分だ。人魚を狩れ。これ以上の犠牲者は増やしちゃならん。そんで早く大学卒業して正隊員になれ。今の倍仕事をしろ」

「……堂々としたパワハラ発言。裁判起こせるレベルのブラック企業ですよ……」

「話は以上だ。行け。明井あけるいを既に現場に向かわせてる」


 矢車さんは言うだけ言って、僕には一瞥もくれず書類と睨み合いを始める。

 ふぅ、と吸い込んだ分の煙を重く吐く。

 大学生なりたてほやほやのバイトが、この筋のベテラン上司に張り合って勝てることはまずない。職式は公務員とは言え、アングラな世界だ。求められているのは指示に従うこと。

「了解」と返事をして、くわえた火種を灰皿に目いっぱい押し付ける。ああ、吸い殻の山に引火してボヤになんないかな。




 ──そもそも人魚、というのは、怪奇生物の代表格だ。

 妖怪、幽霊、神、悪魔天使、その他もろもろの存在をまとめて〝怪奇生物〟と呼ぶ。

 怪奇生物にも種類はある。だけど昨今のように人間を攫ったり、かどわかして捕食したりする密漁対象の怪奇生物はもっぱら人魚に限定される。

 世界の人魚伝説は、人魚は海にいて、人間を誘惑して海に誘うという。しかし実際、人魚は海からはやって来ない。

 人魚は夜空からやってくる。

 太陽が沈み、月が昇って、宇宙と星が地上から見えるようになる夜間。夜空という真っ黒な海を泳いで彼女たちは姿を現す。宵の口に浮かんだ一番星がまたたいているように見えることはないだろうか。飛行機のライトでもないのに、星が動いたり、点滅したりしているように映ることはないだろうか。そういうのは大抵、人魚を意識外で認識している時に起こる脳の補正だ。僕らのような知覚可能の人間には、人魚が空の海を泳いでいる優美な姿に見える。鮮やかなヒレが夜空に波を立てるのには、思わず目を奪われる。

 すっかり夜はけて真っ暗な街中を、誰かの寝息を守るように慎重に、音を立てずに進む。最近は人魚の被害が増えて──巷では誘拐、失踪事件、不審死として表向き報道されているおかげで、都会でも夜は静かだ。さっきからほとんど人とすれ違わない。

 階段を降りて行くと、街灯の下に人影が見えた。


「来た来た。坂本くん。こっちよ」


 彼女はひら、と手を振る。僕は彼女の元へと駆け寄る。


「お待たせしました、明井さん」


 明るい茶髪を高い位置でお団子にした明井さんは、矢車区隊の正隊員だ。気骨のある美人で、歳は僕のちょっと上だというのに余裕も責任感もある人だ。下の名前は照香てるかというらしい。


「疲れた顔してるね。矢車さん、今日はなんて?」


 仕事内容のすり合わせを終えてパトロールを始めると、明井さんは僕の顔を覗き込んでそう問うた。僕は自分で思ってたより顔に出やすいタイプなのかも知れない。気を付けよう、と頬を揉んで、ビル群の向こうに目線を投げる。


「要約すると、〝仕事しろ〟ですかね」

「あはは。うん、分かりやすい。まあしょうがないよ、最近は人魚の出没率も高いし、もう二人も死者が出てる。火力重視の矢車区隊うちが担当の区でね。他の区と合わせたらそれ以上……由々しき事態ってやつよ」

「それですよ。どれだけ僕らが強くても、人手が足りませんって。言ったんです」

「ああ、まーた噛み付いちゃったんだ」

「甘噛みんです」


 しがないバイトでしかない僕の意見は、区隊長という立場と権力にあっという間に押し潰される。あと煙草に。矢車さんは色々考えてるし、責任感もあるけど、未成年に煙草を噛ませるあたりマトモな大人ではない。口の中にあの苦い味が蘇ってくる気がして、頬を噛んだ。

 僕の顔を振り向きざまに見やって、明井さんはおかしそうに笑う。


「ふふ。まあ事実だよね」


 軽やかに跳ねる笑いは、次の瞬間にはため息と混じりあった。


「でもしょうがないよ。本当、今の日本はマイナスの方に振り切ってる感じだもの」

「人口減少とか?」


 不意に遠い目をした。


「物価上昇、とかね」

「あぁ……」

「いや、ごめん物価は、しょうがないよね。私たちにはどうしようもできないし」

「そう、すね。『領域治安部』は怪奇生物あっち人間こっちの境界線を維持するぞ、っていうアレ、なので」

「うん分かってる。だからそう私が言いたいのはね。私たちは可能な限り多く人魚を狩る、それくらいシンプルでいいってことよ」


 渋面で言葉を絞り出していた明井さんの、細やかなラメが乗っかった瞼がパチリと開く。僕や矢車さんよりも明るい色の虹彩が、うっすらとした闇の中でも僕を見る。


「時代は変わるよ。坂本くんがバイトとして公務員してるのだって、ほんと凄いことなんだからね! 本当は、バイト公務員なんてさせちゃダメなんだけど」

「ふふ」

「とにもかくにも耐える時期なんだと私は思うな。少なくとも今はね」

「……、矢車さんより酷いこと言いますね、明井さんって」

「え、傷つく要素あった!? あったかも! ごめんね!?」


 大人然とした落ち着き払った様子がなくなって、両手をぶんぶん振りながら謝る明井さん。それが妙に面白くて、堪え切れずに吹き出す。だって、あえて嫌味な言い方をしたのは僕の方だ。

 大声で笑うのを我慢してるせいで小刻みに震える腹の底を押さえつけながら、ふと夜空の一角に目をやる。小さな星が浮かぶそこが、カーテンが揺れたようにほのかに蠢くのを見た。

 コートの内側に手を入れる。同時に、明井さんも背中に手を這わせた。まだ口許が笑ってる気がするけど、そうも言っていられない。


「ただ、うっかり死ぬのだけはごめんこうむりたいです」

「じゃあ、今日も死なない程度に頑張りましょ。十時の方向、走るよ」

「了解」




 目標地点は歩道橋だった。

 やや錆の目立つ歩道橋の足元に、二人で身を寄せる。橋の下の道路は、有難いことに交通量が少ないようで、車も通りかかることなく静かだった。その静寂に色をつけるように、くすくす、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。上からだ。


「いますね。一人」

「ええ。まったく、何が楽しくて笑ってるんでしょうね」


 囁き声に不快感をまとわせて、明井さんがマガジンの底を叩いた。


人魚あなたたちが来るだけで、こっちはいい迷惑だって言うのに」

「……そうですね。見るだけなら、目の保養なのに」


 同じようにマガジンを押し入れる。カチ、と極めて小さな音がして、僕の弾倉に十七発、明井さんのシングルカラムの拳銃に七発の弾が装填されたことを知る。


「目の保養、……うん。確かに人魚は綺麗だよね。女の私でも、うっかり見惚れるくらい」


 ちら、と歩道橋上の人魚を盗み見る。鮮やかな水色の煌めきを含んだ尾鰭が緩やかに踊っていた。なんて言ったか、特別にヒレの長い金魚のそれに似ていた。

 彼女の笑いながら歌われる鼻歌は、いまだに僕らの鼓膜を揺らしている。明井さんはふと目線を外した。


「でも私ね、あの美しさを目の当たりにするたび思い出すの。〝悪魔は人間を惑わすために、あえて人間に近い姿をとる〟っていうやつ」

「彼女たちが悪魔だって言いたいんですか」

「的を得てるでしょ?」


 ふ、と笑って、次の瞬間には噛み締めるように目を伏せる。親指の腹がグリップを撫ぜる。細いけれど細やかに傷のある彼女の指の爪先に、色は乗っていない。仕事柄しょうがないと、前に話していた。


「人魚と悪魔は、別物では」

「やだな、ものの例えだよ! まぁ悪魔と呼んで差し支えないとも思うけどね。あんな綺麗な顔で人間を頭から食べるんだし。初めて現場で見た時は、ほんと怖くて……坂本くんもそうだったでしょ?」


 記憶が蘇る。

 熟れた果実のような唇から、獰猛な牙がはみ出して。同じ現場に派遣された先輩の腕に噛み付いた。スーツの繊維が裂けて、隙間から血が吹き出した光景を思い出す。叫ぶ先輩の青ざめた顔と、対照的にひどく楽しそうな表情の女の人魚。その光景は、とても、とても……。


「はい。凄く」

「だよね!」

「でも明井さん、今でも怖いと思うんですか? この仕事、辛くありません?」


 僕の質問から数秒、明井さんは唇を結んで、その後小さく首を振った。


「辛くないわけじゃない。でも怖くはないよ。今となっては、怒りの方が大きい。かな」

「怒りですか」

「うん。許せないの。さっきも言ったでしょ、いい迷惑なのよ。勝手に地上に降りてきて、好き勝手して。許せない。なんで私たちが蹂躙されなきゃいけないの、たかだか、人外風情に」

「明井さん、」

「だからやり返すの!」


 ぱ、と顔を上げた彼女は笑っている。


「人魚がやって来るのは私たちにはどうにもできないし、もうしょうがない。だからきっちりお礼するの。殺された人の数だけ殺し返す。絶対に」


 二つの瞳が僕を見る。いまだに口は笑っている。


「『密漁者』の仕事って、そういうものだよ」


 どうして笑うんだろう。どうして笑えるんだろう。その瞳の奥に燃えるような激情を隠しておきながら。

 そう言えば、明井さんの口癖は「しょうがない」だったなあ、なんて頭の片隅で思い出しながら、そんなことを思った。

 その瞬間、足音がした。

 僕らは瞬時に音源の主を振り返る。

 目に付いたのはダークグレーのスーツだった。五十代くらいの中肉中背の男で、ふらふらした覚束無い足取りで歩いている。きっと飲み会帰りの会社員だ。


「しまった、あの人、上にいる人魚に気が付いてない」


 明井さんは拳銃をしまって素早く会社員に近付いた。僕はその場に留まって人魚の方を見やる。人魚も、こっちに気付いていない。

 仕留めるなら、むしろ今かも知れない。

 片目を瞑って、片手でもう片方の腕を支えながら人魚に標準を合わせた。水色がゆらゆら、夜空を背景に揺れる。


「こんばんは」

「あー? んー」

「すみません、ここは通れないんです。迂回してもらえますか」

「迂回ぃ? いやいや、通れるよ、ほら、階段もあるし、ねえ」


 酔っ払っているのか、声が大きい。明井さんは背中側を気にしながら、会社員を確かに後退させていた。でも酔っ払いは強情で、彼女を押し退けて進もうとする。その声は酔いに乗っかって、どんどん大きくなっていく。


「どけ、って!」


 極めつけに怒鳴りつけた声は、人魚の耳にも届いたらしかった。後ろを振り向いた人魚のアクアマリンの瞳に獰猛な光が宿る。僕はインカム越しに明井さんに声をかけた。


「明井さん、気付かれました!」

「!」


 いくつもの鈴が一斉に震えるような、いっそ荘厳な音がした。人魚の鱗がわなないた音だ。腰かけていた欄干を離れて、光る水面のような人魚は下にいる二人の元へと泳ぎ出した。

 その横っ腹を目がけて引き金を引く。

 動く的を狙ったせいで、狙いは外れて、人魚の髪の毛をかすめた。


「坂本くん、もう一発ちょうだい!」


 水色の人魚が両腕を伸ばし、恋人に抱擁をするみたいに明井さんを包み込もうとしたとき、僕の銃弾がもう一度銃口から放たれた。

 次は外さなかった。人魚の真っ白な背中を鉛の弾が貫いた。甲高い悲鳴が上がる。崩れ落ちる背中から、人間と変わらない赤い血と、水色の鱗が剥がれて舞った。すんでのところで二人の足元に、人魚が倒れ伏す。

「ひい」会社員の声だ。尻もちを着いていた。


「酔いは覚めました?」

「あの、これは」

「人を食べる化け物です。さあ、今のうちにあなたを逃がします。立って!」

「ええ……」

「こっちです!」

「ええー……」


 よろよろ歩く会社員を急かして、階段を上らせる。先頭を進みながら後方を確認すると、人魚が体を起こそうとしているのが見えた。淡い色の髪の毛が肩を流れ落ちる。その一房が頬の辺りでちぎれた。明井さんが撃ったもう一発が次は右肩に命中する。


「容赦ないですね」

「お互いにね」


 階段を上りきると、そこはぼんやりと薄暗がりを照らす街灯が何本か並んでいるだけで、無人だった。人魚の影もない。


「じゃあ坂本くんはこの人を避難させて。私は下のを仕留める。もう動かないとは思うけどね」

「分かりました。無茶しないでくださいね」

「それこそお互いさま! さあ行って」


 歩道橋の奥を示す人差し指に従って、明井さんに背を向ける。


「家まで送ります。案内をお願いしま――」

「キャアアーーー!」


 雑に吹いたラッパのような酷い悲鳴が耳をつんざいた。耳を塞いでも、鼓膜に張り付いてビリビリ震える絶叫だ。苦悶の表情を浮かべながら、明井さんが素早く射撃体勢を取った。水色の人魚が欄干の上で身をよじり、空へ叫んでいた。


「ま、まだうごけるのか」

「行きますよ」


 驚きと恐怖で顔面が真っ青になった会社員が呟いた。遮るように先を促しておいてあれだけど、全くその通りだと思う。女性に似た体からは今もなお赤い血が流れていて、柔肌から生える鱗は血に乗ってどんどん剥がれ落ちている。


「しぶとい! さっと絶命した方が身のためよ!」


 至近距離から明井さんが撃った。のに、人魚の体は銃弾の軌道から逸れるように斜めになって、歩道橋の上に崩れ落ちた。血だまりに落っこちて、それでも起き上がった人魚は下半身を引きずりながら、僕と会社員に向かって猛進してくる。


「ひい!」

「慌てないで、走って」


 怯える会社員の背中を押して銃口を構えた。僕は美しいかんばせを狙った。

 ふう、と。

 耳に吐息が吹きかけられて、あとは引き金を引くだけだった指が動きを止める。

 冷たいのに、とっても官能的な吐息に、頬に血がのぼるのを感じた。


「坂本くん!」


 目線の先で明井さんが叫んでいる。彼女の銃口は僕に――僕の上にのしかかる二人目の人魚に向いている。

 再び手に力を入れる。引き金に指を添えた。明井さんの拳銃はやや上方向を向いていて、人魚かのじょの浮かぶ下半身を狙っているのだと分かった。匍匐ほふく前進中の水色の人魚に合わせていた標準を、僕は彼女の拳銃に合わせた。


「うっ!」


 少し手をかすめた。弾かれた拳銃と一緒に、鮮血が散った。


「さ、坂本くん、あぶない」


 彼女の視界には、二人の人魚に囲まれ、絶体絶命の僕が映っているだろう。かたや突然この場に現れた人魚は、僕の肩に手を添えている。首をかじれる距離だ。


「大丈夫です。ね、そうだろ」


 黄金の瞳と目が合う。金色の人魚は笑って、僕の頬に唇を寄せた。

 明井さんが目を見張った。

 水色の人魚は、もう僕の目と鼻の先だったけど、僕には噛みつかず、先に逃がした会社員を追って歩道橋を下りて行った。流血の跡と、ばらまかれた鱗が螺鈿らでん細工のようになって、味気ない地面を綾なすようだった。

 明井さんは驚いて、声も出せないみたいだ。ただじっとこちらを凝視していて。点滅を始めた街灯の光に照らされて、何度もその顔と僕は対峙した。


「……すみません。さっきの当たっちゃいましたよね」

「……どういうこと、なの。どうしてその人魚は、あなたを食べないの」


 ぽた、と血がしたたった。負傷した利き手を押さえる明井さんの元へ、人魚を連れ立って歩み寄る。


「どうして、そんなに落ち着いてるの」

「人魚が大人しいのに越したことないじゃないですか」

「あなたのことを言ってるの! だいじょうぶって、その人魚は他と違うみたいに言ったよね?」

「そうですね」


 数歩手前のところまで迫った時、ナイフが突きつけられた。柄を握る右手からは、まだ血が流れている。手を握ると傷が開いて、歪な音を立てているように思えた。

 点滅が激しくなる。ヂカヂカと、目に悪い人工の光がランダムな間隔で消灯と点灯を繰り返す。


「その人魚は、人に友好的、だとでも言うの?」

「友好的……とは、違うかも知れませんね。知る限りでは、こんな風に触るのは僕にだけです」

「どういうこと」

「僕が彼女の、一部の人魚たちのお気に入りだから」


 明井さんが瞠目した隙に、歩幅を大きくして一気に詰め寄る。ナイフを持った腕を捻り、そのまま欄干に背中ごと押し付け圧迫する。


「ぐ……!」


 ナイフの刃は、内側を向いて首の手前ギリギリで止まっていた。


「おきにいり、お気に入りですって?」


 僕を睨みつけ、抵抗する腕に力を込める間にも、驚愕が脳内を駆け巡っているんだろうなと分かる。

 明井さんが驚くのも分かる。

 怪奇というのは、時たま人間の中に〝お気に入り〟の存在を作る。見初める、といってもいいかも知れない。お気に入りに選ばれた人間は大抵、怪奇に拐われたり、肉体的か精神的か、形を歪められたりする。無事に人生を謳歌して寿命で死ぬことはまずない。

 お気に入りであることを理解して生きれる人間も、まずいない。


「僕の名前、夜直よたたじゃないですか。彼女たちは夜に関する名前が好きみたいで。だから生きたまま可愛がってもらってるんです」

「お気に入りであることを、受け入れてるってこと? そんな、正気!?」

「もちろん。だって僕は、人魚が大好きですから」


 金箔が散らばったような柄のヒレが視界に映り込んだ。欄干に舞い降りた人魚がそこに腰掛けて、頬杖をつきながら僕らを見守っている。


「人魚が好きなんて、洗脳としか、思えない」


 僕の腕を掴む薄い手に、力が篭もる。


「なんで? こんなに綺麗なもの、嫌いでいる方が難しいです。明井さんって変わってますよね。ずっと思ってたんです」

「だって坂本くんは密漁者だよ。人魚を殺すのが仕事……挙動がおかしくなった時なんて、なかった」


 なるほど。

 なるほど。勘違いしてる。


「順序が逆なんですよ。僕が密漁者になったのは、ごく最近の話なんですから」


 これだけ言えば分かるだろうか。

 電光の点滅が早くなって、光は徐々に弱くなる。弱々しく照らされていた明井さんの顔が、少しずつ闇に浸っていく。それなのに人魚の金の鱗は、光を受けるごとに美しく煌めいた。


「人魚って存在が好きなんです。泳いでる姿も、歌声も、捕食する獰猛さも、狩られる時の断末魔も。全部」

「っ……!」

「だから殺すのも苦じゃない。だからスカウトを受けたんです。自分で殺せる機会なんて、そうそうないですから」

「中でも、そのお気に入り登録してくれた人魚たちは特別ってこと!」

「はい。もっとも、彼女たち以外の人魚相手なら、ちゃんと仕事はします。知ってますよね。今まで一緒に仕事をしてきたんだから」


 消えてる時間が長くなってきた。もはや光もあってないようなものだ。


「でも、もう一緒には仕事できないですね」

「私を殺す気……?」

が欲しいって言うので」


 ぐるんと音がつきそうな勢いで、明井さんは彼女を振り返った。満月の瞳を細めて、彼女はにっこり笑い、金色を帯びる指先を明井さんの頬へ滑らせる。つう、と爪が頬をかく。明井さんは顔を真っ青に染め上げて、全身鳥肌が立ったように震えた。


「これが私を欲しいって……!? 人魚に食べられるなんてごめんだよ!」

「これなんて失礼ですよ。相変わらず人魚相手には厳しいんですから」

「イヤ! やめて! 食わないように言ってよ!」

「僕の優先順位第一位は彼女たち人魚です。彼女がそう言うなら、そうするだけ」


 色素の薄い瞳が、その瞳孔が震えているのが見える。はもう待ちきれないとでも言いたげに、体を揺らして鼻歌を歌い始めた。子守唄のような穏やかな音色だ。


「このことは黙っておく! 誰にも、矢車さんにも言わない! だからやめて、食われるのだけはいや……!」

「明井さん」


 体を折りたたむように上体を倒す。焦点の合う最も近い位置で、僕らは見つめあう。羽虫がぶつかる音に似た衝撃音がして、ついに電光が落ちた。僕らの周辺だけが真っ暗になる。か細い息が顔に触れた。明井さんの呼吸が浅い。僕は彼女に自分の息を分けるように、確かに声が届くように口を開いた。


「命乞いしたって、僕は受け入れたりしません」


 鼻歌が歌へと変わる。

 腕を押す。首に突き付けたナイフが、明井さんの喉笛に触れる。


ことってやつですよ。明井さんがもう少し人魚に好意的だったら、僕だってこんなことしなかったのに」


 明井さんが吠えるように大きく口を開く。それが声になる前に、横ばいにしたナイフを彼女の首に押し込んだ。


「残念です」


 肉の抵抗感に逆らって真横に腕を引く。そのまま間を置かずに肩を押した。すでに力の入らない体はほとんど抵抗もなく欄干に乗り上げ、喉から血を噴き出しながら、歩道橋から逆さまに落ちた。


「ああぁああ――――!!」


 突き落とされた断末魔が、一秒、二秒。三秒後には重たいものが地面にぶつかった音がして、悲鳴が途絶えた。

 辺りに血の匂いが残っている。これには今も慣れなくて、風邪ひきみたいに鼻を鳴らして、拳銃をホルダーにしまった。


「? どこ行くの?」


 その場に浮かび上がった人魚が、歩道橋の下へ泳いで行ってしまった。ご機嫌な歌声が海底に沈むように遠のく。かと思えば、すぐに戻ってきた。沈没船のお宝でも見つけたのかと思ったら、その腕には瀕死の明井さんが抱えられている。この高さからでは即死できないから、まだかすかに息があった。

 人魚は嬉しそうに僕を見るだけで、明井さんにかじりつこうとはしない。


「食べないの? もしかして、上に連れて行く?」


 甘えるように喉を鳴らす。肯定の意味だ。


「欲しいってそういう意味だったのか。でもいいの? 頭は少し潰れてるし、首も僕が切っちゃったけど」


 黒髪がなびいた。距離が縮まって、彼女の顔がよく見えるようになる。街灯が一つ消えたせいで辺りは暗いのに、彼女の黄金が敷き詰められた瞳はひとりでに輝いている。

 明井さんの血で汚れた手が僕に伸び、鼻先をつつく。人間の血液特有の鉄臭いかおりが鼻腔をくすぐった。何気なく鼻をむずつかせると、人魚は愉快そうに笑った。仕返しに、空中をたなびく髪の一房を手に取って弄ぶ。


「気にしないならいいよ。まったく、新しい友達が欲しいなら先に言ってくれればいいのに……」


 麗しの黒髪が手から逃げていく。見上げると、金色の下半身は大きくうねりを上げて、空へと上昇をし始めていた。僕はそれ以上何も言わず、その美しい光景を目に焼き付ける。

 都会の夜空は星の明かりが見えない。今日は雲も少なくてよく晴れているのに、空はやや青みを帯びた黒一色だ。夜の海にも、ちょっと似ている。そんな暗いキャンパスの上を、満月の金色と墨の黒で描かれた人魚がぐんぐん昇っていく。全身を包めるくらい長い黒髪の隙間から、時折鱗が金色の光を反射する。地上から見ると、小さな天の川みたいだ。あんな綺麗なものに抱かれてる明井さんが、ここにきて羨ましくなってきた。

 人魚がおもむろに手を伸ばすと、空気が揺れて、夜空に波紋が浮かぶ。黒い波が四方に広がって余韻を残す。肌色が空に溶けた。腕から肩、頭と飲み込んで、夜空は波の隙間に人魚を隠してしまう。力なく垂れる明井さんの手足が夜に消えた。最後に大きく宙をかいたヒレが、夜空の海へ飛び込む。ぱしゃんと水面を打つ音を立てた気がした。




「この間ぶり。元気そうでなによりだ」


 金色の人魚が「きゅるる」と鳴いた。

 明井さんが殉職して三日。あの後一人目の人魚――水色の人魚の足取りを追った僕は、その人魚の遺骸を見つけて回収班に連絡を入れた。会社員は無事逃げ切ったらしい。同時に明井照香区隊員の死を伝えると、すぐに矢車さんのもとへ帰還を命じられた。


「そうか、明井が……。体は持ってかれちまったんだな」

「はい。二人目の人魚が現れたのは、予想外でした」

「だろうな。お前はちゃんと仕事を全うした、明井もな。お前は悪くない。しかし……明井が後れを取るとはな。うちでもりすぐりの火力担当だったんだが」

「また、人が減りましたね」

「その話は、また今度だ。お前は報告書仕上げたら休め。ご苦労だったな」


 バイトは一週間の休みを貰えた。矢車さんなりの気遣いだ。ありがたく受け入れておいた。まさか明井さんを殺したのが僕本人だなんて、矢車さんは知らないんだから。

 持ち帰りのコーヒーを道すがら飲んでいると、彼女がいた。現時刻は午後八時。とっくに宵も過ぎて夜の時間だ。

 つと、背後に気配を感じた。音もなく腰に手が回る。彼女とは違って指は骨ばっていて、腕も太い。適度に筋肉を身にまとった美しい肢体は逞しくもしなやかだ。


「わ、久しぶり。――みんな連れてきたのか」


 男の肉体を模った人魚が僕から離れると、次々に人魚たちが上空からやってきた。僕のことを気に入ってくれている、一部の人魚たちだ。ザクロのような色のヒレがあれば、まさしく螺鈿の模様をした鱗もある。肌は浅黒かったり、雪のごとく白かったり。裂けた皮膚の隙間から鱗があふれ出した、稀有な見た目の人魚もいる。面白みのない夜の風景が、熱帯の海に潜ったみたいに鮮やかな景色に様変わりした。


「明井さんを連れていけたのがそんなに嬉しかった? なら、もっと早くああすればよかったな」


 そこで、コーヒーの容器に口を付ける。真横をすれ違った男はスマホに目を落としていて、人魚たちに気づいてはいない。この極楽のような光景が一般人には見えないなんて、哀れだな。

 そこに風が吹いた。「う」と男の――恐らく今通りすがった人の声がして、人魚たちと一緒に振り向く。誰もいない。今さっきそこを歩いていたはずなのに、誰も。首を傾げると、すぐそばの草むらからなにか飛び出してきた。上着だ。袖の内側に手首がくっついたままの。


「うわっ、あー」


 反射的に驚いてしまって、ごまかしに足踏みをしながらその場でくるくる回る。

 草むらから素早く手が伸びて、手首を回収して引っ込んだ。深緑色の長い爪が印象的だったけど、手は血まみれだった。

 草陰でなにが起きているのか一瞬で予想できてしまって、悩む。矢車さんに通報するべきか……。


「夜直」


 耳元で、金色の彼女がささやいた。

 はっとして意識を取り戻すと、彼女たちが僕を見ている。何人かの人魚は、草むらの方を指さしていた。


「……でも同胞だろ。……え、食べ方が汚いから? あはは! 分かった。じゃあ僕は向こうで待ってるから。綺麗に食べきって。どっちもね」


 踵を返すと、数人の人魚が草むらに飛び込んでいった。残った人魚たちを連れて、近くにベンチはあったかな、と脳裏を探る。後方からうめき声が聞こえた。聞き覚えがない声だから、きっと食べ方が汚い人魚が負けてるんだろう。あの人数で狩りに行ったんだから、まあ当然だ。やっぱり狩りには数が重要なんだ。


「はは。これじゃ休日も仕事してるみたいだ」


 矢車さんに提言したときのことと、全く同じことを考えてた。


「僕って、もしかして誰よりも仕事熱心かも。あははっ」


 僕が笑うと、人魚たちも笑う。人魚がいるおかげで、僕は夜が楽しい。現世での日常はつまらないことばかりだけど、彼女たちが僕を見つけてくれたおかげで、僕は今満ち足りている。だから、欲が出る。僕は〝夜直〟だから可愛がってもらえているだけだ。もし僕が、名前を変えて、夜直じゃなくなったら。ここにいる彼女たちは僕に牙を向くだろうか。僕を食べるだろうか。明井さんみたく、人魚たちと同じ場所に連れ去ってくれるだろうか。僕が突然銃口を向けたら、人魚はどうするだろう。妄想は僕の脳内で勝手に膨れ上がって止まらない。どの瞬間も見てみたいと思ってしまうほど、僕は欲深で、きっと、愚かで。

 そして凄く幸せだ。

 水に溺れて、酸欠の朦朧とする意識の中で、確かに快感を感じ取るような。陶酔感に身をゆだねるような幸せを、僕は生きながら噛み締めてる。





『夜直の人魚狩り』/終

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夜直の人魚狩り 一野 蕾 @ichino__

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