第46話 カレーと切り傷

 練習を始めると、結局いつもどおりの雫ちゃんだった。

 声も出ているし、ギターの演奏も申し分ない。


 小さな違和感は、やはり私の気のせいだったのだろう。

 一通りの持ち曲を、思うがままの音量で演奏しているうちに、時刻は夕方を迎える。


「やっぱり合宿といえば炊き出しデスよね! カレーを作りましょうカレーを」

 

 来瑠々ちゃんがおもむろにそんなことを言うと、そういえばお腹が空いてきたなと急に私は空腹感を覚えた。

 

「いいねそれ。カレーの気分になってきたし、ちょうどいいかも」

「さすが深雪はわかっていマスネ。部活の合宿の食事はカレーと相場が決まっているのデス」


 来瑠々ちゃんがドヤ顔をすると、「どこの世界の相場なのよ」と呆れ顔の希空ちゃんが返す。

 この二人のやり取りが定番化してきたおかげで、バンド内の雰囲気は明るくなった気がする。


「でも、材料はどうするの? ここからスーパーまで結構な距離があるし、また来瑠々ちゃんのお父さんを呼ぶっていうのも……」

「ふっふっふ、そんなこともあろうかと、既に材料は用意してあるのデス」

「……つまり、ここまでのやり取りは茶番ってこと?」

「まあ、そう堅いことを言わないでほしいデス。せっかくの合宿なのデスから」


 そういうわけで、私達はキッチンへと移動することにした。

 もちろんこの家にも一般のご家庭と同じようなキッチンがあって、普段は来瑠々ちゃんのお父さんが友人を呼んでバーベキューするときにすかったりするらしい。

 

 戸棚にはウイスキーの瓶が何本か並んでいて、久しぶりに一杯飲みたいなという衝動に駆られるが、いかんせん今の私は女子高校生。まだお酒に手を出してはいけない年齢なので、湧き上がる欲求をぐっと堪える。


「それじゃあ雫と来瑠々で野菜を切って。私はお米を炊いて、お肉も切っておくから」


 誰に言われるでもなく、希空ちゃんが指示を出して調理が始まる。


「……あれ? 私は一体何をすれば……?」

「深雪はそうね……、テーブルの掃除でもしておいてちょうだい」

「それって事実上の戦力外通告じゃ……」

「違うわよ深雪、食事を載せるテーブルは衛生的でなければならないって相場が決まっているの。これは大事な仕事よ」

「……どこの世界の相場なんだか。まあでも、テーブルはきれいな方が良いのは確かにそうだね」

「そういうわけでお願いするわ。ついでにお風呂の掃除もしてくれると助かるわね」

「本当はそれが目的なんでしょ」

「さあ、どうでしょう」


 司令塔の希空ちゃんは不敵な笑みを浮かべる。

 人に指示を出す立場になると、急にこの子はイキイキし始めるのだ。

 多分、命令をすることが本能的に好きなタイプで、これはこれで一定層の需要があるのだろうなとアホなことを考えているうちに、私はテーブルを拭き終わる。

 まだ調理は序盤で、早くも手持ち無沙汰になってしまった私は浴室掃除をしようとダイニングキッチンから立ち去ろうとした。


「痛っ……!」


 雫ちゃんの声だった。どうやらピーラーで指を切ってしまったようだった。

 

「大丈夫!? 手当するからこっち来て」


 私は雫ちゃんをダイニングに呼び、椅子に座らせる。

 彼女の左手中指の先端から、赤い血が滲んでいた。


「……ごめんなさい、うっかりして切っちゃいました」

「ううん。大丈夫だよ。とりあえず傷は浅いみたいだし、これならすぐに治るよ」

「でも……、左手の中指だと、ギターが……」

「あっ……、確かにそうだ……」


 雫ちゃんの左手中指に絆創膏を巻いていると、そんな事に気がついてしまう。

 せっかくの合宿だと言うのに、この怪我ではとてもじゃないがギターは弾けない。

 弦を押さえるにあたって、中指を使わないということはまずありえないからだ。


 雫ちゃんは深く落ち込んでいた。


「ご、ごめんなさい、本当に私ったら何してるんでしょうね……。自分でコンテストに出るって言い出して、練習したり曲を作ったり頑張らなきゃいけないのに、こんなことになっちゃって……」

「だ、大丈夫だよ雫ちゃん。このくらいの傷ならすぐに治るって」

「来瑠々さんに場所を提供してもらったり、希空ちゃんになんとか都合をつけてもらったりしてやっと開催できた合宿なのに、私の不注意で台無しにして……、本当にごめんなさい……」


 本格的に自分を責め始めた雫ちゃんは、油断をすると歯止めがかからない。

 関係ないことまで自分のせいだと思ってしまう過去があっただけに、私も皆もフォローに入る。

 

「気にしないでよ雫ちゃん、そういうこともあるって」

「そうよ、確かにタイミングは悪かったかもしれないけれど、軽傷で良かったじゃない。指なんてすぐ治るから、その間に他にできることをやればいいわ」

「希空の言うとおりデス。雫は頑張りすぎで考えすぎなのデスから、たまには立ち止まってもいいと思いマス」

「そう……ですね、ちょっと頭を冷やします……」


 雫ちゃんは浮かない表情のまま、風に当たりたいと言ってキッチンから出ていった。

 私は心配になってあとを追いかけようとしたけれど、希空ちゃんと来瑠々ちゃんがしばらくそっとしてあげたほうがいいというので、掃除の続きをすることになった。

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